ミカエルの目的
ルシファーの口から飛び出した物語は、彼自身が前置きした通り、いささか信じがたい内容だった。樹流徒が今まで耳にした物語とは何もかもが正反対だし、初めて聞く事実も多い。
宇宙創造を終えた神が二つの存在に分離したなど知らなかった。その二人による神の座を賭けた争いがあったという話も聞いた覚えがない。悪魔のルーツは天使なのだと思っていたし、聖界が悪魔の故郷だと信じて微塵も疑っていなかった。ルシファーは神に対して反乱を起こし、その罪で他の悪魔ともども魔界に落とされたのだと聞いていた。
それらの記憶は全て偽りだ、とルシファーは告げている。
神は元々唯一の存在だったが、宇宙創造から間もなく光の者と闇の者に分かれた。悪魔は闇の者から生まれた存在であり、天使は元々悪魔だった。そして聖界ではなく魔界こそが悪魔と天使の生まれ故郷だった。また、ルシファーを筆頭とした悪魔たちは、かつて神に反旗を翻したのではなく、自分たちの創造主である闇の者と共に、光の者へ戦いを挑んだのだ。
この話が真実なら、天使たちが現在“主”と仰いでいる神は、言わば二代目の神であり、万物の創造神ではない。それどころか天使の創造主ですらなく、むしろ天使たちの記憶を改ざんして自分を神と崇めさせている者ということになる。
ルシファーの口から語られた衝撃の事実に、サルガタナスは戸惑いの色を隠せなかった。
「サタン……いえ、敢えてルシファーとお呼びします。アナタはなぜ過去の記憶を持っているのです?」
恐縮と困惑が入り混じった口調で疑問を呈する。光の者が悪魔の記憶を操作したならば、ルシファーにも真の創世記に関する記憶は残っていないはずだ。
「私は数年前に記憶を取り戻したのだ」
そうルシファーは答えた。
「光の者に敗れたあと、私の体はコキュートスに封じられ身動きが取れなくなった。だが、意識だけはずっと残っていたのだ。肌を刺す冷たい氷の中で、私はずっと自問自答を続けた。なぜ私は神に反旗を翻したのか? 自分自身のことなのに、何万年考えても分からなかった。しかし数年前のある日、突然答えが降ってきたのだ。何の前触れも無く、頭の中に過去の真実の記憶が蘇った。それまで私の記憶を操っていた神の力が、遥か長き時を経てようやく解けたのかもしれない」
「信じられん……。ルシファーのお言葉とはいえ、私には信じられない」
サルガタナスは震える両手で頭を抱えて「信じられない」を連呼する。
「真の創造主を知らず、真の故郷も知らず、私たち悪魔は今までずっと聖界に帰る日を待ち焦がれていたというの?」
だとすれば私たちは何て滑稽な生き物なのかしら、とルサルカは苦笑を浮かべる。
「私は刻魔殿でルシファーを救出した時に真実を聞いた。しかし改めて話を聞いても御伽噺を覗いているような気分だ」
リリスは淡々と告げるが、彼女の口元も幾分苦い。
この場でただ一人当事者ではない樹流徒は、彼らの気持を察するにも限界があった。悪魔が光の者に敗北してから何十、何百億年という月日が流れている。そのような大昔の話を聞いても、樹流徒にはまるで実感が湧かないのだ。ただ、実感できないくらい長い時ゆえに、そのあいだずっと常識だったものがいきなり覆されれば、悪魔たちが混乱するのも当然という気はした。
それでも中には意外と早く事実を受け入れる者もいる。ルサルカがそうだった。
「たしかに、にわかには信じがたい話ね。でも私はルシファーの言葉を全て信じるわ」
彼女は普段の陽気な笑みを浮かべる。
なぜそう簡単に信じられる? とサルガタナスが目で尋ねた。
「だって魔界血管とか海底神殿とか、魔界の先住民が造ったにしては酷く懐かしい感じがするじゃない。ずっと昔からそれが不思議だったのよ」
彼女は若干興奮気味に語る。
「私も同じ事を考えていた」
リリスが同意した。
彼女たちの言葉を聞いて、樹流徒は、ある悪魔との会話を思い出す。
たしか、あれは降世祭の最中だった。樹流徒は決闘のリングに向かう途中、エレベーターの中でピンク兎とこんなやり取りを交わしたのである。
――もしかすると、これ(降世殿のエレベーター)も魔界血管みたく初めから魔界に存在した物なのか?
――良く知ってるじゃねえか。先住民の遺産ってヤツだな。
――先住民って?
――そんなの知らねぇよ。でも降世殿を造ったのはオレたち悪魔じゃないんだから、これを作った先住民がいたとしか考えられねえだろ。違うか?
――いや。別に違わないと思う。
――あー……。ただ、魔界血管といい降世殿といい、悪魔と無関係な先住民が造ったにしてはどこか懐かしい感じがするンだよな。はじめてこの建物を見たとき、強烈な既視感を覚えたんだ。オレだけじゃないぜ。他の連中も似た様なコトを言うんだ。
――そうなのか。不思議な話だな。
ルシファーの話が事実ならば、ピンク兎やルサルカが魔界のロストテクノロジーに既視感や懐かしさを覚えるのは当然だった。何しろ魔界中の不思議な建造物は全て悪魔自身が造った物なのだから。その記憶を光の者に消され、忘れていただけなのだ。
「そういえば、私も初めて魔晶館を見たときは不思議と懐かしい気分になったものだ……」
狼狽していたサルガタナスが少し落ち着きを取り戻す。
ベルゼブブは終始ひと言も発さず、ひたすらどこか一点を見つめ続けていた。
神の真実と、悪魔と天使の真実。思いがけず色々なことが分かった。光の者が何者かという疑問も解けた。
ただ一方で、まだ肝心の謎が残されている。光の者が二代目の神になったとして、何故その力が樹流徒に宿っているのか?
尋ねてみると、ルシファーはこう答えた。
「残念ながらそれは私にも分からない。ただ、ひとつ言えることがある」
「それは?」
「キルトが持つ力は、神の力であり命の欠片でもある。それがここに存在するということは、神は既に何らかの理由でこの世を旅立たれたのだろう」
それは一口に言ってしまえば“神は死んだ”という意味だった。ルシファーは敢えて遠回しな表現をしたのだろう。何しろ「神が死んだ」などと端的に言うのは憚られる。余りに畏れ多い事実だ。たとえ神の正体が光の者だったとしても、である。現に、ルシファーの口から飛び出した新たな真実を受けて、ようやく冷静になりつつあったサルガタナスは目を剥いて体を震わせていた。ルサルカも口に手を当てて驚いている。
が、その驚きも冷めやらぬ内、今度はルサルカが一つ重大なことに気付く。彼女は誰ともなしに言った。
「ねえ。私たち、真バベル計画を実行する必要はあるのかしら?」
「む……。言われてみればそうだ」
サルガタナスも気付いた。
バベル計画は、悪魔たちが故郷である聖界へと帰還し、天使に復帰する計画だ。しかし聖界が故郷ではない上に、天使こそが元は悪魔だったならば、バベル計画を実行する動機が無くなってしまう。
「すでに私も同じ意見を述べた。だがルシファーは計画を続行すると言っている。その理由はまだ聞いていないがな」
リリスはそう答えて、今こそその理由を問いたい、と言いたげな目をルシファーへと向けた。
「何故、バベル計画を続けるのです?」
サルガタナスが言葉にして問う。
「それは、光の者の復活を阻止するためだ」
とルシファー。
彼の言葉に三名の悪魔は互いに顔を見合わせた。光の者の復活とは一体どういう意味か?
「先ほど述べた通り、キルトが神の力と命の欠片を有している事実から、神がすでにこの世を旅立たれたことは疑いようも無い。であれば、ミカエルは神を復活させようとするはずだ」
「失礼ですけれど、その発言に根拠はあるのかしら?」
ルサルカが尋ねると、ルシファーは彼女ではなく、キルトのほうに視線を送った。
「リリスから聞いた話によると、汝の仲間が聖界に連れ去れたらしいな?」
仲間というのは確認するまでもなく詩織のことだ。
「そうだ。伊佐木さんはミカエルたちによって聖界へ連れて行かれた。彼女も俺と同じNBW事件の被害者だったから……」
そこまで答えて、樹流徒は、ルシファーが言わんとしている事を理解した。
「まさか、ミカエルが伊佐木さんをさらったのは、神を復活させるためなのか?」
我が意を得たりとばかりにルシファーは深く頷いた。
「そう。汝やシオリに宿っているのは神の力と命。それがあれば神を蘇らせるのも可能とミカエルは考えたのだろう。逆に、それ以外の理由でミカエルがシオリを聖界へ連れ去る理由は無い」
彼は断言する。
「じゃあ、もし神が蘇ったら伊佐木さんはどうなる?」
「分からない。神の復活にミカエルがどのような儀式を用いるか、それを知らない限りは、答えようがない」
「そんな……」
「シオリに宿った力だけでは、神を完全な状態で復活させるのは不可能だろう。しかし、たとえ不完全な復活でもミカエルは儀式を決行するかもしれない。その場合、運が悪ければ……」
ルシファーは最後まで言わなかった。ただ、濁した部分が最悪のシナリオを示唆していた。
「ならばこんな場所で喋っている場合じゃない。すぐに計画を実行して聖界へ乗り込もう」
樹流徒が急かすと、リリスが応じた。
「あいにく今すぐは無理だ。バベルの塔を完成させるにも、天使と戦争を始めるにも、それなりの準備が必要だからな」
「落ち着きなよ。焦っても事態は良い方へ転ばないわよ」
なだめるような口調でルサルカが言う。
「分かっている……」
樹流徒はそう答えたものの、内心では焦れていた。
こうしてバベル計画は、ただちに決行とはいかないまでも、継続される運びとなった。
聖界に戻り天使に復帰するという当初の目的を失ったリリスたちは、代わりに光の者の復活を阻止するという新たな動機を得た。
かたや樹流徒には詩織を救出するという一貫した目的がある。神の復活により彼女が犠牲になるかもしれないと分かった今、尚更計画を実行してもらう必要があった。
背信街では未だ反乱軍とベルゼブブ軍の抗争が続いている。
「では私はルシファーの復活とベルゼブブの敗北を皆に伝えて回ろう。そうすれば戦いは終わるはずだ。これから天使との戦争が始まる。悪魔同士で戦力を削り合っている場合ではないからな」
そう言ってサルガタナスは宙を舞った。
「私も手伝おう」
「私も」
サルガタナスの後を追ってリリスとルサルカも別々の方角へ飛び立っていった。