偽りの創世記
(ルシファーは穏やかな口調で語り始めた)
まだ命も無く、時の流れも無く、光も存在しない。この世の全てが虚無と静寂に支配されていた頃……
無より生まれし神が忽然と降臨し、無限の宇宙と無限の世界を生み出した。創世の歴史が始まった瞬間である。
ここまではサルガタナスの話と全く同じだ。しかしその後すぐ、汝らの記憶から失われた真実の物語が始まる。大半の悪魔にとっては受け入れがたい話になるだろう。ゆえに、これから私が語る内容を信じるか否かは、汝ら一人一人の心に委ねようと思う。
さて。創世の第一歩を終えた神は、間もなくある奇怪な行動を取った。その行動が、これから起こる様々な出来事の発端と言える。偽りの創世記も、我々悪魔の誕生も、全てはここから始まったのだ。
事の発端となった神の奇怪な行動とは、自己の分離だった。はじめは一つの存在であった神が“聖なる光を宿す者”と“深淵なる闇を纏う者”という二つの存在に分かれたのだ。前者を“光の者”、後者を“闇の者”とそれぞれ私は呼んでいる。彼らの本当の名や、姿については、残念ながら私の記憶には残っていない。
なぜ神が光の者と闇の者に分かれたのか。その原因は定かではない。何らかの理由で分離せざるを得なかったのか。己の意思とは無関係にそうなってしまったのか。あるいは、我々余人には考え及ばない神の深い意図が隠されていたのか。これは永遠の謎である。答えを知ることは、一人の人間が宇宙の秘密を全て解き明かすことよりも遥かに難しい。
光の者と、闇の者。神の半身である二人は、この世に現れるなり互いを表裏一体の存在であると悟った。同時に、彼らは互いを相容れない存在だと認めた。そこに理屈や感情の影響は一切無く、神より生まれし二人だけが持つ直感の力が、その事実を明確に告げたのだという。
二人は交わす言葉も無く別れ別れとなり、それぞれ独りで行動を始めた。どちらも目的や行く当ての無い自由な旅に出たのである。何億、何十億年という永き歳月をかけて、彼らは無限の世界と宇宙を漂流し続けた。
そして遥かなる旅の終わりに、二人は別々の世界で、自分の星を生み出した。光の者は聖界と呼ばれる七つの星を、闇の者は魔界と呼ばれる九つの星を、それぞれ創造した。彼らは聖界と魔界を安住の地とし、そこに住まうこととなった。
それから長い月日が経ち、はじめは不毛の地だった聖界と魔界に、豊かな自然と生命が芽吹いた。
夜空に瞬く美しき星々の下、そびえる山から溶岩が噴き出し、大地が鳴動してひび割れた。風が吹いて雲が流れ、雨が降り、地上の亀裂に川がせせらぎ、大陸と大陸のあいだには海が広がって、野には色とりどりの花が咲き乱れた。やがて大自然の中に動物をはじめとした多種多様な生命が息づき、育まれていった。
しかし、そのようにして誕生した自然と生命は、星の力が生み出した存在であり、光の者と闇の者が直接生み出したものではない。二人が生んだのはあくまで聖界や魔界と呼ばれる星々であり、彼らにとって星に生まれた生命は、言わば孫のような存在だった。
その事実に光の者は何の不満も抱いていなかったが、闇の者は違った。彼はある日、ふと物足りなくなったのだ。星が生み出した生命だけでは世界は不完全。自分自身の手で魔界に住む生命を作り出したい。そう考えて、闇の者は、己の子を欲した。
結果、闇の者は魔界に一つの新たな生命を誕生させる。それこそが悪魔だった。我々は闇の者の手によって、魔界と呼ばれる九つの星に産み落とされた種族だったのだ。
また、悪魔の多くは後に天使と呼ばれる存在になる。そう……天使は元々悪魔だった。
かつて悪魔は天使だった、というのが汝らの常識だろう。しかしそれは真実とは逆。天使こそが元は悪魔だったのだ。無論、聖界が悪魔の故郷という常識も覆る。実は魔界こそが我々の故郷であり、天使たちの故郷でもあるのだ。
このような話を汝らが信じられなかったとしても無理はない。何故なら、悪魔は自分たちが元は天使であったという確かな記憶を持っているのだから。
では、なぜ汝らの記憶と真実に大きな乖離が生じたのか。それはこのあと順を追って話そう。
我々悪魔は、闇の者の手によって魔界に生を受けた。
誕生したばかりの頃、悪魔は非常に原始的で脆弱な生命だったという。生き残るための力も術も持たず、放っておけば間違いなく魔界の自然界に淘汰され滅んでいたであろう種族だった。
だが、創造主の庇護下で我々は絶滅を免れ、ばかりか成長した。闇の者から段階的に知恵と知識を授かり、悪魔は誕生からわずか百年足らずで狩りを覚え、道具を使うことを知り、言葉を操る生物へと進化した。やがて学問を修めるようになり、歌と踊りと芸術をたしなむようになって、魔力を利用して様々な現象を起こす能力を得た。さらには特定の目的を持った集団を作るようになり、町を形成し、遂には個人の役割や、階級を生むまでに至ったのである。
悪魔が知的生命体として十分な成長を果たすと、闇の者は我々を指揮して、ある物を造らせた。
それは九つの星に分かれた魔界を誰もが自由に行き来できる通路だった。現在では魔界血管と呼ばれている物だ。我々は魔界血管の他にも、忘却の大樹、海底神殿、降世殿、そして魔晶館など不思議な建造物を、闇の者からの指示を受けながら次々と生み出していった。
こうして魔界には高度な文明が芽生え、利便性と豊かな自然が共存する理想郷が誕生した。この素晴らしい世界で我々は遥か悠久の時を過ごした。月日が流れるにつれ、我々の創造主に対する愛と信心は高まる一方だった。美しく平和なこの時間が永遠に続けば良い。それが悪魔たちの願いだった。
だがある日、長く続いた幸せな日々は突然の終わりを迎えた。
光の者と闇の者による、神の座を賭けた争いが勃発したのだ。片方が先に仕掛けた戦いではなかった。何の前触れも無く、何のきっかけも無く、その争いは両者が同時に始めたものだった。まるでそれが最初から定められていた宿命であるかのように、生まれたときに交わし合った誓いであるかのように、二人は武力を以って互いの存在を奪い合った。
我々悪魔は、創造主である闇の者に加勢した。光の者と闇の者の実力は全くの互角だったが、我々の援護を受けた闇の者が戦いを優位に進めた。
神の座を賭けた争いは七十四日に渡って休まず続いた。神の半身である二人の衝突は凄絶を極め、乱れ舞う攻撃の中で数多くの悪魔が命を落とした。戦場と化した地は滅び、幾つもの星々が塵と化していった。勝負が決する前に全ての宇宙が滅びるとさえ思われた。
だが長く激しい戦いの末、勝負を優位に進めていた闇の者が、遂に相手を追い詰めた。渾身の力を込めた彼の一撃が、光の者を捉えたのである。
深手を負った光の者は聖界へと逃れた。彼のあと追って闇の者と悪魔も敵地へ侵入した。
当時の聖界は魔界にも劣らない美しい自然の星だったが、我々は周囲の景色などほとんど見ていなかった。光の者に最後の一撃を与え、この戦いに終止符を打とうと、誰もが我がちに武功を立てようと、そればかりに意識が向いていたからだ。光の者を討てば創造主の寵愛を一身に受けられる、と色めきたつ者もいた。勝利を目前にして悪魔は完全に勢いづいていた。有頂天になって冷静さを欠いていたとも言える。まさか目の前に恐るべき未来が待ち受けているなど、つゆとも知らずに。
我々は想像もしていなかったのだ。光の者は単に聖界へ逃れたわけではなかった。聖界には前もって用意周到な罠が仕掛けられていたのである。
その罠とは、光の者が悪魔の意識を操って自分の手駒にするという、我々の存在を逆手に取った恐ろしい一手だった。戦いが始まる前から光の者は悪魔の存在を知っていたのだろう。たとえ知らなくとも闇の者が私兵を引き連れて現れると予想するのは容易かったはずだ。その場合を見越して、光の者は不利な状況を逆転する手段を整えていたのだ。
光の者の策は見事に功を奏し、悪魔は罠にかかった。聖界のある場所に踏み込んだ瞬間、我々の頭上に突如として巨大な魔法陣が浮かび上がり、虹色に明滅する光が降り注いだ。辺り一帯を飲み込んだ光が消えたときには、ミカエルをはじめとした悪魔の三分の二が意識を操られ、光の者の手先と化していたのだ。彼らは姿まで変えられ、皆、白い美しい翼を持つ生物へと変貌を遂げていた。
もう汝らも薄々気付いているだろうが、それこそが天使誕生の瞬間である。光の者の罠により、多くの悪魔が天使という新たな生命に生まれ変わった。唯一、私だけは光の者の力に抵抗して意識を操られずに済んだが、罠にかかった影響で、悪魔サタンと天使ルシファーという二つの姿を持つ異質な存在になってしまった。
悪魔から天使へと生まれ変わったミカエルたちは、光の者に命じられるまま我々に牙を剥いた。
勝利気分に酔っていた我々は一転して混乱に陥った。つい先ほどまで肩を並べていた仲間たちが敵となって襲い掛かってきたのだ。動揺は容易に納まらなかった。結局、我々はろくな抵抗もできないまま、儚くもミカエル率いる光の軍勢に大敗を喫した。またそれが原因で、闇の者も光の者に敗れた。
運命の戦いに勝利した光の者は、闇の者の力を吸収して神となった。前述した通り、光の者と闇の者は神が分離した存在だ。ゆえに、元は一つだったものが本来の姿と力を取り戻したと言える。
ここで先ほどの疑問に答えよう。何故、汝らの記憶と真実が異なるのか、その理由を……
神となった光の者は、悪魔の記憶を改ざんし、我々の中から闇の者の記憶を抹消したのだ。代わりに自分こそが悪魔の創造主であるという、偽りの記憶を植え付けた。天使が元は悪魔だったという記憶や、我々の故郷が魔界であるという記憶も書き換えられ、悪魔は元天使であり、聖界こそが天使と悪魔の生まれ故郷だった、という歪んだ真実も刷り込まれた。他にも話の辻褄が合うように我々の記憶は全て改ざんされていった。無論、ミカエルたちは天使に存在を変えられた時点ですでに記憶は調整済みだった。
真実の捏造を終えた光の者は、続いて我々悪魔に転生の力を与えた。それにより悪魔は、たとえ肉体が滅びようと何度でも魔界に蘇る特殊な存在となった。
光の者がそのような行為に及んだ意図は分からない。転生を繰り返し永遠に魂の安らぎが訪れない罰を悪魔に与えたのか。あるいはそれは罰などではなく神の慈悲だったのか。知る者は誰もいない。もしかするとただの気まぐれや戯れだったのかも知れない。万能の力を得た光の者ならば、生命に転生の力を宿すなど、花に水を与えるほど容易い行為なのだから。
記憶を改ざんされ、転生能力を与えられた我々悪魔は、神の力によって深い眠りを与えられ、魔界に送り返された。闇の者から悪魔の指揮を任されていた私は、コキュートスに送り込まれ氷漬けにされた。
そのあとは汝らも知っての通りだ。長い眠りから目覚めた悪魔たちは、魔界で暮らし始めた。ただし、そこが自分たちの故郷だとは誰も知らない。魔界で生まれ育ったことも、魔界血管を造ったのが自分たちである事も忘れ、偽りの故郷である聖界への帰還を夢見ながら、悪魔たちは今日まで生き続けたのだ。
これが真の創世記である。