サタンとルシファー
「この悪魔がサタン?」
かつて多くの天使を率いて神に反旗を翻した者。永き眠りより目覚めた魔界の王。そして強大な魔力を持つが故にバベル計画の生け贄に選ばれた悪魔。サタンという存在を、樹流徒はそのように理解している。
ただ、いま皆の視線を一身に集めている伝説の悪魔は、樹流徒が知るサタンとは一つだけ大きく異なる点があった。それは外見である。どう見ても彼は美しい天使の姿をしている。樹流徒が南方から聞いたサタン象とはまるで似ても似つかないのだ。南方の話によれば、サタンは七つの頭を持つ巨大な竜の姿をしていたはずだ。
この矛盾点については、意外にもベルゼブブの口から言及があった。彼は皮肉めいた調子で言う。
「まさかそちらの姿で現れるとはな。サタンではなく“ルシファー”とお呼びした方がよろしいか?」
ルシファー。それを聞いて樹流徒の疑問は解けた。以前読んだメイジの手紙に、ルシファーという名前が出てきたのを思い出したのだ。あの手紙によると、サタンは神への反乱を起こすまではルシファーと呼ばれる偉大な天使だったという。もしかすると今、樹流徒たちの前にいるのがそのルシファーなのかもしれない。
神々しい姿で降臨したルシファー(サタン)は、美しい夢から目覚めた者のように穏やかな表情で樹流徒たちを見下ろしている。
彼を前にして、リリスたちの態度は三者三様だった。リリスは平常時と特に変わらず。ルサルカは尊い者を敬う眼差しで頭上の存在を仰ぎ、サルガタナスは全身を若干固くしている。
「御機嫌よう。我らが偉大なる王よ」
ルサルカは両手で衣装の裾をつまんで持ち上げ、ルシファーに向かって軽くお辞儀をした。いつになく慇懃な物腰だ。
「多くの悪魔がこの日を、アナタの復活を、心待ちにしておりました」
サルガタナスも先ほどまでの威圧的な態度とは打って変わって礼儀正しい。彼らの様子から、ルシファーが多くの悪魔にとってどのような存在なのかを樹流徒は垣間見た気がした。
光り輝く翼で風を撫で、ルシファーは皆から少し離れた場所にそっと降り立つ。ブルーダイヤのように煌く瞳が樹流徒と悪魔たちの顔を順に見返し、最後にベルゼブブをまっすぐ見つめた。
「ルシファーよ。アナタがここに現われた理由をお聞かせ願いたいものだ。アナタを生け贄に捧げようとした私を罰するためか? それとも呪われた力とニンゲンに敗れた私を嘲笑うためか?」
満身創痍のベルゼブブは何とか搾り出したようなかすれ声で問う。
彼の物言いにはベルゼブブの複雑な心境がありありと映し出されていた。ルシファーに対する畏怖と敬意。戦いに敗北した悔しさと、バベル計画が失敗に終わった無念。そして自嘲の気持。さまざまな感情が混じり合った名状し難い心境なのである。ベルゼブブの思いなど何一つ知らない樹流徒でさえもそれは漠然と感じ取れた。
そんなベルゼブブの心を鎮め、癒すかのように、ルシファーは穏やかな表情のまま口を開く。
「ここへ来たのは汝に会うためだ。罰を与えるためでも、嘲笑うためでもない。ただ、久しぶりに汝の顔が見たかった。声が聞きたかった。それが一番の目的だ」
王の称号に相応しく、彼の声には威厳と慈愛と気高さが満ち溢れていた。
ベルゼブブは無言になって、急に毒気を抜かれたように物静かな雰囲気になる。
「しかし残念ながら、私の目的は一つではない。これから始まる、悪魔の未来を左右する儀式のために、私は汝を捕えなければいけないのだ……」
言うと、ルシファーは掌を上に向けた。そこから光の粒がさらさらと砂の如く零れ、ふわりと宙を舞ってベルゼブブの元まで届く。緩やかな曲線を描く光の粒はベルゼブブの全身に巻きつくと黄金色の細い鎖へと姿を変えた。悪魔の腕力、ましてベルゼブブの力ならば簡単に千切れてしまいそうな鎖だが、見た目よりずっと頑丈なのだろう。実際どの程度丈夫なのかは確かめようもない。何しろベルゼブブがすっかり観念してしまったように抵抗しないのだから。
ルシファーがベルゼブブを捕えたのは、やはりベルゼブブを真バベル計画の生け贄に使うためだろう。先日まで実質魔界の支配者だった悪魔が、今や鎖に捕縛されて全身で地を舐めている。その様を、ルシファーはしばらくのあいだ憂いを帯びた目で見つめていた。
程経て、王の視線はベルゼブブから樹流徒へと移る。
「私がここに来た目的はもう一つある。ソーマキルト。汝と会うためだ」
「俺に?」
思わぬルシファーの言葉に、樹流徒は心なしか怪訝な表情になる。
「そう。汝については先ほどリリスから聞いた。悪魔の魂を奪う、不思議な力を持つニンゲンの子。最初は耳を疑ったが、汝を一目見たときに全てを納得した」
ルシファーは、ベルゼブブに語りかけたときと同じ声音で樹流徒と話す。そこには樹流徒個人や人間という種族に対する敵対心や憎悪は欠片も感じられない。サタンといえば、悪魔の代名詞でもあり、残虐非道な性格の人間を罵る場合にも使われる言葉だ。そのせいか樹流徒は頭の片隅で、サタンが人間嫌いの凶悪な悪魔という勝手な印象を持っていた。しかし直接本人と会ってみれば、イメージとは正反対の者に感じる。
王に相応しい佇まいを保ったままルシファーは問う。
「キルトよ。汝は、己が持つその力の正体を知っているか?」
「いや……」
樹流徒は小さくかぶりを振った。
彼が持つ力はNBW事件によって偶然入手したものだ。詩織の未来予知能力、メイジの変身能力、渚の千里眼も同様である。その正体は依然として謎に包まれていた。唯一新しいヒントがあるとすれば、ベルゼブブがこの力を「呪われた力」と呼んでいた事くらいである。それだけでは力の正体は分からないし、推測も難しい。
「では、汝はその力の正体を知りたいと望むか?」
引き続きルシファーが問う。
「もちろんだ」
樹流徒が即答すると
「ならば話そう。汝にはそれを知る資格がある」
そのようにルシファーは言う。彼は樹流徒たちが持つ力について何かを知っているらしい。
まずルシファーは結論から述べた。
「キルトが宿すその不思議な力……。それは元々“光の者”が有していた力だ」
「光の者?」
ただの一度も聞いた覚えが無い名前だった。光の者とは誰なのか?
知らないのは樹流徒だけではないらしい。ルサルカとサルガタナスも不思議そうな目付き顔付きをルシファーに向けている。
かたやリリスには心当たりがあるのか、彼女は全くの無反応だ。すでにルシファーから光の者について話を聞いたのかもしれない。また、ベルゼブブは地に伏したまま遠くの床を見つめていた。
ルシファーは話を続ける。
「光の者について説明するには、真の創世記と、失われた悪魔の歴史について、先に語る必要がある」
「真の創世記? 失われた歴史? どういう意味です?」
問わずにはいられなかったのだろう。答えを急かすようにサルガタナスが口を挟む。
ブルーダイヤの瞳がそちらを見やった。
「逆に一つ聞かせて欲しい。我々悪魔がどこから来て、どのようにして魔界に住まうことになったか、汝は覚えているか?」
「知らぬ悪魔などいません」
サルガタナスは即座に返す。証拠とばかりに、彼は創世記と悪魔の歴史について滔々と語り始めた。
かつて全知全能の神は無限の宇宙と無限の異なる世界を生み出した。そして無限の星々の中から聖界を安住の地と定め、そこに天使を生み出した。天使は神の意思を実行する者として、神の手足となり、あらゆる世界と宇宙の秩序を守ってきた。
ところがある日、偉大なる天使ルシファーが天使の三分の一を率いて神に反旗を翻した。その原因は諸説あるが、不思議なことに我々の記憶には残っていない。
ルシファーたち反逆者はミカエル率いる神の軍勢と苛烈極まる戦いを繰り広げた末に敗れた。戦いに敗れた反逆者たちは聖界を追放され、魔界に落とされた。その際、彼らは天使から悪魔になった。反乱の首謀者であるルシファーは、サタンと呼ばれる悪魔へと姿を変えられ魔界の最下層であるコキュートスの永久凍土に閉じ込められた。こうして悪魔たちは魔界を自分たちの棲み処とし、いつか故郷である聖界に帰る日を夢見ながら今日まで果てしなく永い時を生きてきた。
「これが創世の歴史であり、我ら悪魔の歴史であり、そしてアナタの歴史でもあります。かなり概略的に話しましたが、より詳細を語れと仰るならば、三日三晩を費やしても全てを語り尽くせません。私だけでなく、おおよそ全ての悪魔が同じ台詞を口にするでしょう」
そう言ってサルガタナスは話を締めくくる。
彼が綴った物語には一語半句間違いが無いらしく、ルサルカは終始うんうんと頷きながらそれを聞いていた。
すると彼らに向かって、ルシファーは予想外の言葉を口にする。
「では、今サルガタナスが話した過去が、全て偽りの記憶だとしたら?」
「偽り?」
「そう。汝らが良く知る創世記と悪魔の歴史が、実は紛い物だとしたら……」
「考えられない話です。我々の記憶が紛い物など、どうしてそのようなことがあり得ましょうか」
サルガタナスは力強く断言する。
だがルシファーの真剣な瞳に見つめられている内、彼の自信に脆い層が生まれたらしい。
「我々の記憶には誤りがある。そうアナタはのたまうのですか?」
心なしか不安そうにサルガタナスは尋ねた。いきなり過去の重要な記憶を「偽り」と呼ばれ、自分たちのルーツを否定されたのだから無理もない。
「ねえ。あくまで仮にの話だけれど、もし私たちの知る歴史が偽りだったとして、それと光の者と呼ばれる存在に、どういう関係があるのかしら? それも気になるわ」
ルサルカは少なくとも表面上は冷静だ。ただ彼女もルシファーに対して色々と問いたださずにはいられないはずである。樹流徒の目にはそう映った。
ルシファーは改めて全員の顔を見回してから、また端正な唇を動かす。
「光の者は、キルトが宿す力だけでなく、我々悪魔の歴史とも極めて深い関係を持つ存在だ。私は今から全ての真実を告白しよう。光の者と“闇の者”。そして汝らの記憶から失われた真実について……」
そう前口上を述べてから、ルシファーは語り始めた。
果たして彼の口から飛び出した物語は、樹流徒のみならず、おそらく全ての悪魔や天使たちにとっても、あまりにも突飛な内容だった。




