運命の一撃
羽を失ったベルゼブブはたぶん障壁だけでなく飛行能力も使用できない。防御の要と機動力を同時に無くしたのだ。それによりベルゼブブが受けた心理的なダメージはどの程度のモノか。もし敵が多少でも動揺しているならば、樹流徒にとってはまたとない攻め時だった。
突き出した手の先から樹流徒は電撃を放つ。邪神を討つべく青赤二色の雷光が目まぐるしく絡み合いながら虚空に深い亀裂を走らせた。
ベルゼブブは回避しない。する必要が無かった。バアル・ゼブルが電撃を吸収したからである。樹流徒が放った雷はある場所から急激に勢いを失い敵の口に飲み込まれた。バアル・ゼブルが氷や冷気の攻撃を吸収するのは樹流徒も把握していたが、どうやら邪神と化した後は雷まで無効化できるようになったらしい。
氷も電撃も通じないならば、炎はどうか。樹流徒は口から青い炎の球体を三連射した。炎は宙に放たれると急速に膨らむ。最初はボウリング玉くらいの大きさだったのが、見る間にベルゼブブの半身を包むほどのサイズになった。
縦に連なった巨大な炎の玉は地面に足を擦りつけ尾を引きながら疾走する。たとえ進化したバアル・ゼブルでも火は吸い込めない。その証拠にベルゼブブは電撃の時とは打って変わって素早い反応でひらりと身をかわした。
直進する青い炎はベルゼブブの横をむなしく通り過ぎる。そのまま戦場を飛び出して空の彼方に消えるかと思いきや、予想外の動きを見せた。炎の球体が三つとも形を変え、鳥、蛇、獣の姿を取ったのだ。それはまるでこの能力の本来の持ち主であるマルコシアスの外見を表わしているようだった。マルコシアスは翼と蛇の尾を生やした獣の悪魔である。まさに鳥、蛇、獣だ。
三種の生物に変化した炎は身を翻してベルゼブブに牙を剥く。さすがに虚を突かれたと見えてベルゼブブは咄嗟に防御を固めた。
炎の動物はベルゼブブの頭部、腹部、足首に飛びつく。そして敵と接触するや否や派手な爆発を起こした。青い業火と飛び散る火の粉の中で邪神の巨体が揺れる。
爆発の規模からして直撃を受けたベルゼブブは大なり小なりダメージを負ったように見えた。それが現実には違ったのだから、もしこの場に観戦者がいれば誰もが目を疑っただろう。立ち上る灰煙の下から現われた邪神の皮膚はまったくの無傷だった。ついでに言えば肉体だけでなく精神的なダメージもベルゼブブには認められない。あくまで樹流徒の主観に過ぎないが、ベルゼブブはたとえ羽を失おうと微塵も動揺していないように見えた。
それでも樹流徒に失望感は無い。むしろ希望が湧いた。何しろ敵にダメージこそ与えられなかったものの攻撃は命中したのだ。ベルゼブブは障壁を展開しなかった。
今こそ樹流徒は絶対の確信を持つ。やはりベルゼブブは羽を切り落とされて能力を失っている。あの厄介な障壁が使えないと断定できれば、こちらにも色々と攻めようがあった。
ただし優位に立った気になるのは早い。というのもベルゼブブの体が再生を始めているからだ。根元から切り落としたはずの羽がすでに一割程度再生を終え、その先端がベルゼブブの肩口から微かに覗いている。羽が完治すればベルゼブブは障壁と飛行能力を取り戻すだろう。何としてもその前に、樹流徒はこの勝負にケリを付けたかった。
ベルゼブブが四本の手を横に広げる。それぞれの手から黒い光の玉が浮かび上がった。光は忽然とベルゼブブの手元から消えて、次の瞬間には樹流徒の周囲に現われる。そして音も無く彼へ襲い掛かった。
四方から飛んでくる光の弾丸を、樹流徒は地面を転がって回避する。だが標的を逃した光球はすぐに形を変え光線となって再度樹流徒に襲い掛かった。奇しくもその動きは、先ほど樹流徒が使用したマルコシアスの炎と酷似していた。
球体から直線に姿を変えた四つの黒い光。内一本が樹流徒の腕を擦る。軽く針で突かれた程度の痛みを覚えて樹流徒は目を落とした。被弾した箇所を見ると皮膚が十センチくらいの長さで破れている。傷は浅かった。傷口から流れ出るモノが無いので余計に浅く見える。樹流徒は、自分の体内にもう血の一滴も流れていないことを実感した。
体に走る光のラインが赤から青に変色する。この状態になった樹流徒は通常よりも遥かに素早く動き回れる。余りのスピードに樹流徒でもまだ全速力は扱い切れないほどだった。
そのような力を手に入れた樹流徒が相手では、飛行能力を失ったベルゼブブに逃れる術はない。それはベルゼブブ自身も承知しているだろう。樹流徒の体が青く輝くと、ベルゼブブは即座に暗黒の球体を発射して相手の接近を拒んだ。
樹流徒は可能な限り敵の攻撃を引きつけてから真横に跳ぶ。暗黒の球体は標的を追尾するが、その先に樹流徒の体はもう存在しなかった。
敵の攻撃を置き去りにして、樹流徒はベルゼブブめがけ猛進する。ここで鋼の体に変身すれば安全に敵の懐へ飛び込めるかもしれないが、それではスピードが殺されてしまい、こちらの攻撃が命中しない。多少の危険を冒してでも今回は素早さを重視する必要があった。
樹流徒はあっという間に敵の目前まで滑り込む。襲い掛かってきたバアル・ゼブルの爪を難なくかわしてほぼ真上に跳躍。今度は攻撃のタイミングだけでなくスピードも完璧だった。
突き上げる腕にあらん限りの力を込める。炎を纏った樹流徒の爪は風よりも速く空を裂いてベルゼブブの首を刺した。確かな手応えが指先に伝わってくる。
その先に待っていたのは、思わず茫然としてしまうような展開だった。炎の爪は間違いなく命中したのにベルゼブブの首にはかすり傷一つ付いていない。樹流徒にとって過酷な現実がそこにあった。炎の激しい爆発にも耐え、爪の一撃にも耐え……多彩な防御能力を有するベルゼブブは、彼の肉体そのものも一種の防御能力と呼べるほどの頑丈さを持っていたのである。
皮膚という名の鎧で攻撃を防いだベルゼブブは腕を鞭にして樹流徒の腹に叩きつける。激しい衝撃を受けた体はくの字に折れ曲がって後方へ弾き飛ばされた。そこには先ほどベルゼブブが発射した暗黒の球体が喜々として待ち構えている。
闇の光が獲物を捕えて破裂した。四肢をもぎ取られたような痛みを受けながら樹流徒の体は真上に高々と跳ね飛ばされる。ベルゼブブに追加攻撃の好機が舞い込んだ。
樹流徒は急いで体勢を立て直そうとするが、間に合うはずがない。一歩も二歩も早くベルゼブブの攻撃が飛んでくると直感で分かった。被弾は免れない。
ところが実際にはそれが起こらなかったので樹流徒ははっとした。見ればベルゼブブの体が硬直している。図らずも樹流徒はその瞬間を目撃していた。ベルゼブブは攻撃の態勢に入ろうとしていたが、まるで不意に雷を浴びたみたく突如動きを止めたのだ。それにより彼は追い討ちの好機をむざむざ見送った。
命中必至の攻撃から運良く逃れた樹流徒は、無事に空中で体勢を立て直す。すかさず飛行能力で敵から距離を取って安全な場所に降り立った。
攻撃を受けずに済んだという安堵よりも、疑念が先立つ。なぜベルゼブブは急に動きを止めたのか?
その理由を推してみると、すぐに一つの答えが頭に浮かんだ。もしかすると邪神に変身した事でベルゼブブの体に何らかの異変が起きたのではないか。たとえばベルゼブブの肉体が変身の反動で突然強烈な痛みに襲われたとすれば、いま見せた敵の不自然な挙動にも説明がつく。
そのような憶測が樹流徒の脳内でグルグルと巡っているあいだにもベルゼブブは何事も無かったように動き出していた。邪神は四本の腕に闇を纏う。それを順番に振り払い、黒い三日月を連続で飛ばした。
樹流徒は前方へ大跳躍して回避する。三日月を飛び越えた体は敵の遥か頭上まで届いた。そのまま反撃に移行できる位置である。樹流徒は鋼の体に変身して空中から敵に踊りかった。炎の爪を振り上げる。狙いはベルゼブブの目。敵の皮膚が恐ろしく固いならば、皮膚に覆われていない部分を狙えばいい。
そう意気込んだのも束の間、樹流徒の落下速度が急に落ちた。バアル・ゼブルが水の防壁を張ったのだ。巨大な水玉の中に沈んだ樹流徒の体は落下スピードが遅くなり、ベルゼブブの数メートル頭上で完全に停止してしまった。
ほとんど間を置かずベルゼブブを中心に強烈な衝撃波が発生する。空間が歪み水玉が弾けて樹流徒の体は遠くへ吹き飛ばされた。無論、鋼の肉体に変身している彼にダメージは無い。
樹流徒は宙で体を捻って華麗に着地を決めると、変身を解除して再びベルゼブブに接近戦を挑んだ。単純に真っ直ぐ突っ込むだけでは返り討ちにあう危険性が高いので、今度はダミーを二体生み出す。従来の分身能力はダミーに単純な動きしかさせられなかったが、性能が上がった事により複雑な動きができるようになっていた。樹流徒と二体のダミーは蛇行して互いの位置を入れ替えながらベルゼブブに接近してゆく。
迎え撃つベルゼブブは全身に黒い光を纏った。光は百の小さな炎と化して辺りに飛び散る。速度は緩やかだが、なにぶん数が多かった。ダミーの一体が攻撃を避けきれずに被弾、消滅する。
残ったもう一体のダミーと樹流徒は、炎の波を泳ぎきって同時にベルゼブブの懐へ飛び込んだ。
バアル・ゼブルは水の防壁を張らない。きっと連続使用できないのだ。それを確認するのも樹流徒が立て続けに接近戦を仕掛けた理由の一つだった。
水の防壁を張れないバアル・ゼブルは代わりに両手の爪を突き出して迎撃する。片方の爪が樹流徒の胸を貫いた。無論、食らったのはダミーである。本物の樹流徒は爪を避け、バアル・ゼブルの額めがけて腕を振り抜いた。
硬いもの同士を叩きつけた音が鳴る。嫌な衝撃が樹流徒の手を伝わって腕と肩まで震わせた。魔界の皇帝にそうそう死角など無いのである。青い結晶に覆われたバアル・ゼブルの肉体はベルゼブブと同等かそれ以上に頑強だった。炎の爪ではまるで歯が立たない。
にもかかわらずベルゼブブの全身が小さく震えた。
樹流徒の手元から激しい火花が飛び散っている。そこから巨大なモーターが回転しているような異音と、ガリガリと金属を削るような音が、間断なく響き、混じり合っていた。
「オ……オオ……」
驚きとも困惑ともつかぬ低い声がベルゼブブの口から漏れる。
結晶に覆われたバアル・ゼブルに爪が通じない展開は樹流徒も想定していた。だから彼は爪ではなく別の能力で攻撃を仕掛けていたのである。
樹流徒の腕から皮膚を破って白い装甲が飛び出していた。装甲の先端は円すいの形をしており樹流徒の手に装着されている。言わばドリルだ。
ドリルと化した樹流徒の手は赤と黒の雷光を放ちながら高速回転し、バアル・ゼブルの額を覆う結晶を凄まじい勢いで砕いてゆく。魔王ラハブが使用したドリルの貫通力を遥かに上回っていた。
ベルゼブブは腕で樹流徒を払いのけようとして、全身を硬直させる。先ほどと同じ現象だ。ベルゼブブの肉体に何らかの異変が起き、その原因が変身の副作用であることは、最早疑いようもなかった。
ベルゼブブが硬直しているあいだに、高速回転を続けるドリルはとうとう分厚い結晶に穴を開け、その下に守られていたバアル・ゼブルの額をも貫いた。傷口から青い血が飛び散り、バアル・ゼブルの口から雄雄しい雄たけびが轟く。
硬直から回復したベルゼブブは腕を振り払って、樹流徒の頬を弾き飛ばした。首が捻じ切れたと錯覚するほど強烈な衝撃を受けながら、樹流徒は地面を転がる。
彼が素早く体を起こした頃には、ベルゼブブの腹から赤黒い光の粒が大量に発生していた。
バアル・ゼブルの魔魂だ。ベルゼブブの体から飛び出た男の顔と両腕が崩壊を始めた。邪神の中からバアル・ゼブルの存在が消滅してゆく。宙に放出された魔魂は一粒残らず樹流徒に吸引された。
両者はジッと目を合わせる。
この状況に際してもベルゼブブは静かだった。痛みに悶えるでもなく、樹流徒に向かって呪いの言葉を吐くでもなく、バアル・ゼブルの喪失に狼狽するでもない。表面上は不気味なほど落ち着いていた。
ただしそれはあくまで表層の様子。樹流徒は、敵の内心で激しい炎がメラメラと燃えているのが手に取るように分かった。抑えきれない憎悪と、今すぐこの戦いに幕を下ろしてやるという決意。二つの炎がベルゼブブの体内で揺れ、殺気となって目に見えない形で外に漏れている。
短期決戦は樹流徒としても望むところだった。バアル・ゼブルを倒した結果自分がさらに優位に立ったように感じるが、ベルゼブブの羽はもう半分以上再生している。羽の再生が完了すれば、ベルゼブブは障壁と飛行能力を取り戻す。そうなれば戦いの流れは大きく変わるだろう。だから樹流徒も敵と同じ決意の炎を燃やしていた。たとえ死の危険があったとしても、ここは断固勝負に出る場面なのだ。
互いの命。樹流徒の復讐。そしてベルゼブブが抱く野望の行方。次の攻防で何もかもが決まる。
ベルゼブブは両手を突き出した。手の先に黒い光線が集中して粒を生み出す。粒は膨らんで球体になり、紫色の炎と青い雷光を帯びた。
樹流徒の体を走る線が濃い赤を浮かび上がらせる。彼の手に黒い光の粒がいくつも集まった。光の粒は重なり合ってひとつの球体となり、破裂しそうな勢いで膨張する。これは真紅の竜人に変身したメイジが使用した能力。現在樹流徒が所持している能力の中では最高威力を誇る一撃だった。
両者の間で緊張感と攻撃エネルギーが際限なく高まる。それがいよいよ限界を突破したとき、予め示し合わせたように二人の手から同時に黒い閃光が放たれた。
光は互いに干渉せず透過し合うかと思われたが、両者の丁度真ん中でぶつかり合い、激しくせめぎ合う。力はほぼ互角。はじめはベルゼブブの力が僅かに勝っていた。だがドクロの羽を失った影響か、はたまたバアル・ゼブルが消滅したためか、ベルゼブブの攻撃がハッキリとは分からないほどずつ弱体化してゆく。樹流徒の閃光が敵の攻撃をジリジリと押し戻した。
全身全霊を乗せた一撃同士の衝突。生と死を分ける攻防。ベルゼブブの口からム、ム……と呻きにも似た声が漏れる。樹流徒は我知らず奥歯を強く噛んでいた。
衝突する閃光が戦場を狂ったように明滅させる。樹流徒の手から伸びる光が次第に伸び、その分だけベルゼブブの手から伸びる光は短くなった。
「私は負けぬ。滅びぬ。オマエが持つその穢れた力にだけは決して屈さぬ」
そうベルゼブブは言い放つが、彼の言葉や想いとは裏腹に、樹流徒が放つ閃光は前進を続ける。
そして衝突する閃光が目前まで迫ったとき、遂にベルゼブブは攻撃を中断して魔法壁を張った。無意味に等しい行為である。黒い閃光が魔法壁を粉々に打ち砕き邪神の全身を飲み込んだ。
暗雲に轟く雷鳴が、ベルゼブブの断末魔に聞こえた。
この長い戦いにようやく決着がついた。そう樹流徒は確信した。光の中でベルゼブブの肉体が跡形も無く消し飛ぶとさえ思った。それだけ圧倒的な破壊力を持つ一撃を直撃させたのだ。これを食らって生き延びられる者などこの世にいるはずがない。
だから閃光が晴れてベルゼブブがまだ生きていると分かったとき、樹流徒は背筋が冷たくなるのを感じた。
全身の皮膚が破れてあちこちから青い血が吹き出しながらも、ベルゼブブは生きている。さすがにかなりのダメージを負っているらしく、その場でうつ伏せに倒れたまま動けない様子だが、しかし死んではいなかった。もはや生命力が強いだとか、防御が硬いだとか、そういう次元の話ではなかった。樹流徒は今ほどベルゼブブという悪魔から得体の知れない強さを感じた瞬間は無かった。ベルゼブブに殺されかけたときでさえ、ここまで相手の存在を脅威には思わなかった。
奇跡とも奇怪とも呼べる生存を果たしたベルゼブブの姿に、樹流徒は束の間、目を奪われていた。
しかしすぐ我に返る。敵の姿に見入っている場合ではない。今度こそ決着をつけなければいけない。
彼は駆け出した。皮膚が破れて肉が露出したベルゼブブは鎧を剥ぎ取られた戦士も同然。次こそ正真正銘最後の一撃になるはずだ。
ベルゼブブは倒れたまま手を伸ばして暗黒の球体を発射する。樹流徒は鋼の体で闇の中を突き抜けた。
ベルゼブブは逃げない。逃げようにもダメージが深くて動けないのだろう。いま生きていることが不思議なくらいなのだ。攻撃を放っただけでも十分驚異的なのに、その上、回避行動など取れるはずがなかった。
いつか味わった、目の奥がチリチリする感覚が、蘇ってくる。
いまこそ因縁の決着をつけるとき。樹流徒の脳裏にこれまでの長い旅の記憶と、旅の中で感じた様々な感情が溢れ、巴の如く渦巻いて折り重なった。
ようやく皆の仇が討てる。一つの復讐が、ここに幕を閉じる――
が、樹流徒が炎の爪を振りかざそうとしたとき、信じられないことが起こった。
外から飛び込んできた影が樹流徒とベルゼブブの間に割って入り、魔法壁を張ったのである。