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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
308/359

邪神



 すでに決闘再開の幕は切って落とされている。

 暗黒の球体がベルゼブブが手から放たれた。スピードがある上に追尾性能を持つこの球体から逃れるのは困難だ。対抗手段は防御しかない。樹流徒は魔法壁を展開した。

「むっ」

 短い声が漏れる。

 それは多分ベルゼブブが驚いて発した声だったが、樹流徒の心の声でもあった。


 二人が驚いたのは、樹流徒が展開した魔法壁の様子がいつもと違うためである。虹色に輝く球状の防壁が一枚展開されるのが従来の魔法壁だが、その内側にもう一枚、黄金の防壁が張られていた。

 ベルゼブブが放った暗黒の球体は外側の防壁と相殺し、内側にある黄金の防壁までは破壊できない。

「呪われた力め……」

 ベルゼブブは淡々と、しかし心なしか忌々しげに呟く。


 黄金の防壁が自然消滅すると、樹流徒は反撃に転じた。真っ直ぐ伸ばした手から火炎砲を放つ。あくまで牽制のつもりだった。ベルゼブブの連続攻撃を防ぐための一手であり、それ以上の効果は期待していなかった。


 今まで聞いた事が無い、激しく燃え盛る炎の音がする。

 樹流徒の手元から放たれたのは、ベルゼブブの全身を包んでも余りあるほど大きな紅蓮の球体だった。それが目にも留まらぬ速さでベルゼブブめがけて飛んでゆく。火炎砲は弾速が低いという欠点を持っていたが、それが完全に克服されていた。


 高速で迫り来る巨大な炎。ベルゼブブは黒い障壁を張って身を守る。紅蓮の塊が闇ににぶつかって爆ぜ、数本の狂暴な火柱となって四方八方へと伸びた。その一本がベルゼブブに食らいつく。

 障壁では防ぎ切れない。ベルゼブブは咄嗟に障壁の内側から魔法壁を張った。炎の柱を受け止めた壁がビリビリと悲鳴を上げて震える。結果的に魔法壁は壊れなかったが、あと僅かでも力を加えれば砕けていたかもしれない。


 寸秒、樹流徒は自分の手を見つめた。いま放った火炎砲は、見た目の派手さも、破壊力も、これまでのそれとは比べ物にならなかった。ただの牽制攻撃のつもりだったのが、ベルゼブブに魔法壁を使わせた。

 魔法壁と言えば、さきほど樹流徒が使用した魔法壁も従来とは性能が違っていた。まさか全ての能力が進化しているというのか。新たな生物に変貌を遂げた樹流徒は、自分ですら思いもよらない力を手に入れていた。


 これならばベルゼブブと互角に戦えるかもしれない。

 思った途端、胸の内から攻めっ気が湧いてきた。樹流徒は敵に接近戦を挑むべく指先からフラウロスの爪を伸ばす。爪の一本一本が赤紫色の美しい炎を纏っていた。やはり能力の性能が変わっている。

 進化したのは攻撃能力だけではなかった。力強く地面を蹴ると驚くほど体が軽い。自分の全身から重さが全て消えてしまったようだった。瞬きする間もなく、樹流徒の体は遠く離れたベルゼブブの眼前にたどり着く。


 その速さにもベルゼブブは決して動じなかった。懐に潜り込んできた樹流徒に対し、落ち着いて障壁を展開する。ベルゼブブを中心に膨れ上がった闇が樹流徒に強烈な衝撃を与えた。その力には、たとえ今の樹流徒でも抗えない。

 ただし、何も手を打たなければ、の話である。


 一驚を喫したようにベルゼブブの上体が軽く仰け反る。

 広がる闇を全身に浴びながら樹流徒はまだ敵の懐に踏みとどまっていた。体に走る赤い光が、紫色の(まだら)模様に変化している。その変化が起きたとき、樹流徒の肉体はベルゼブブの障壁にも耐える防御力を発揮していた。この力は悪魔から得たものではない。全ての攻撃を跳ね返す鋼の肉体。それは、かつてメイジが使用した能力だった。


 鋼の肉体により障壁を防いだ樹流徒は素早く腕を引く。狙うはベルゼブブと同化したもう一体のベルゼブブ――バアル・ゼブルの額だ。

 ただ、鋼の肉体は絶対的な防御力を誇る代わりに動きが鈍くなるという大きな欠点も併せ持つ。その欠点は樹流徒にも引き継がれていた。通常よりも幾分遅いスピードで突き出された炎の爪は、素早く後ろへ跳んだベルゼブブに難なくかわされた。


 逃げる敵を追って樹流徒は電撃を放つ。青と赤、二色の雷光が激しく絡み合いながら敵の胸元めがけて空を切り裂いた。光の後を追って竜の雄叫びのような雷鳴が轟く。

 透明な羽に描かれたドクロの模様が紫色に染まった。黒い障壁がベルゼブブを包んで電撃を受け止める。弾かれた二色の雷光は、膨れ上がった闇を包むように広がって無数の火花を飛び散らせた。


 まだ火花が全て消えない内に、障壁の中からベルゼブブの手が飛び出して暗黒の球体を発射する。

 あらゆる攻撃を弾く鋼の体に変化している樹流徒は自ら球体に突っ込んだ。彼の全身と暗黒の球体が正面衝突して闇が飛散する。樹流徒は全くの無傷で前進を続けた。球体に突っ込んだ勢いそのまま敵に接近する。


 鋼の肉体はベルゼブブの障壁にも耐える。それは先刻すで証明されていた。

 にもかかわらずベルゼブブは後退しない。障壁に頼らなくても樹流徒の攻撃を防ぐ自信があるのか。悪魔の皇帝は巨大なオブジェの如く不動の構えで待っている。

 大胆不敵な敵の態度と張り合うように、樹流徒は恐れず突っ走った。その最中、不意に体がすっと軽くなる。彼の肉体に浮かんでいた紫色の斑模様が赤い光に戻っていた。樹流徒の意思とは無関係に変身が解けてしまったのだ。

 メイジの変身能力には時間制限がある。その欠点もまた樹流徒に引き継がれていたらしい。変身が解けた樹流徒の肉体は最早無敵ではなかった。ベルゼブブの羽に描かれたドクロが妖しい光を放ち、黒い障壁が広がる。樹流徒は咄嗟に防御を固めたが、障壁の力に押されて地に足を引きずったまま数十メートル後退させられた。その隙にベルゼブブは暗黒の球体を射出する。


 樹流徒としては再び鋼の体に変身して球体を防ぎたい場面だが、メイジの変身能力には“同じ姿に連続で変身できない”というもう一つの欠点があった。樹流徒が鋼の体に再変身するには少し時間がかかる。


 だが、別の姿への変身は可能だった。樹流徒の体に走る赤い光が緑色に変わる。彼の背中を突き破って六本の長い触手が飛び出した。その姿はさながら蜘蛛。これもメイジが使用した変身能力の一種である。


 蜘蛛人間と化した樹流徒は伸縮自在な六本の触手の内二本を使って暗黒の球体をガードする。飛び散る闇と共に触手が吹き飛んだが、樹流徒自身には痛みも怪我も無かった。

 残った四本の触手が地と空を滑りベルゼブブに猛然と襲い掛かる。

 ベルゼブブは腕に闇を纏った。腕が振り払われると、闇が三日月を(かたど)って横に広がりながら飛ぶ。黒い三日月は樹流徒の触手を二本切断した。残りの二本はベルゼブブが誇る闇の障壁に吹き飛ばされて消滅する。


 体に宿る光が緑から赤へ。触手を全て失った樹流徒は自分の意思で蜘蛛人間の変身を解いた。

 そのあとやや目付きを鋭くさせる。戦闘能力が飛躍的に向上してようやくベルゼブブと対等に渡り合えるようになったが、依然として攻撃を一発も命中できていない。何とかしてベルゼブブが誇る鉄壁の防御を打ち崩さなければ勝利は無い。


 ベルゼブブの両手が水を(すく)うような形を取った。手の上に小さな空洞が生まれ、そこからおびただしい数の蝿が飛び出す。この虫は相手の体に取り付いて爆発を起こす。樹流徒を全身血まみれにした恐怖の能力だった。


 空洞からあふれ出した数千の蝿は、上下左右に散って樹流徒の前方を取り囲む。

 樹流徒はすぐさま前方に石化の息を吹いて白い煙幕を張った。これで大半の蝿は無効化できるはずだ。残った敵は迎撃するしかない。

 小さな爆弾の群れが耳障りな羽音を立てて獲物に殺到した。樹流徒は身構える。

 が、意外にも彼の元にたどり着いた蝿は一匹もいなかった。

 樹流徒にとっては嬉しい誤算だった。苦肉の策として張った白い煙幕が蝿を一匹残らず石化させたのである。白煙はまるで己の意思を持った生き物のように動き、風の流れにも逆らって広がり、樹流徒に近寄る虫を全て捕らえた。

 蝿を一匹残らず石に変えた白煙は、さらにベルゼブブに牙を剥く。

 ベルゼブブは逃げもしなければ障壁を張りもしなかった。全身に白煙を浴びて平然としている。この悪魔に石化攻撃が効かないらしい。


 とはいえ厄介なハエ爆弾を攻略できたのは大きかった。樹流徒は無傷のまま反撃に転じる。

 彼の体に灯る赤い光が、より濃い赤に染まった。真紅の竜人に変身したメイジの力が樹流徒に宿る。

 樹流徒の背中に拳くらいの大きさがある孔が六つ開いた。そこから次々と火の玉が飛び出す。放出された火球は紫色に点滅しながら磁力線のような軌道を描いてベルゼブブに集中砲火を浴びせにかかった。


 ベルゼブブが魔法壁を再使用するにはまだ時間がかかる。そして持続時間が短い障壁では全ての火球を防げない。となれば、ベルゼブブには回避しか選択肢が残されていないはずだ。そう予測した樹流徒は手を前にかざす。敵が逃げたところへ電撃を浴びせようという狙いだった。


 その思惑はバアル・ゼブルの意外な力によって阻止される。ベルゼブブの腹に浮かぶ男の顔が黄金の瞳を輝かせると、ベルゼブブの全身が巨大な水の玉に包まれた。直径二十メートルはあろうかというその水玉は、樹流徒が放った火球を全て飲み込んで消してしまう。

 ならば、と樹流徒は両手から電撃を繰り出した。しかしそれも水の中で不自然な屈折を見せて敵まで届かない。ベルゼブブを包み込んでいる無色透明の液体が、普通の水でないことは明らかだった。


 闇の障壁、魔法壁、そして水の防壁。ベルゼブブは最低でも三つの防御能力を有している。

 いくらこちらの能力が進化しても単純に遠距離攻撃の応酬をしているだけでは敵の防御を崩せない。そう確信した樹流徒は、ベルゼブブを包む水が忽然と消えたのを確認するとすぐに突進した。

 対するベルゼブブはバッタの如く身軽に跳躍してその場から離れる。以前より格段に素早くなった樹流徒でも、その動きを捉えるのは容易ではなかった。


 敵に追いつくにはもっと速く動くしかない。樹流徒の体に走る光の線が青に変色する。

 メイジは青い獣人に変身したとき通常とは比べものにならないほどの素早さと跳躍力を発揮した。その力を得た樹流徒は、爆発的な加速力で敵を追う。

 途端、逃げ切れないと踏んだか。ベルゼブブは羽を震動させて空に退避しようとする。そのときにはもう樹流徒が先に宙を舞ってベルゼブブの頭上に迫っていた。赤紫色の炎を纏った爪を振りかざし敵の頭頂部に狙いをつける。

 黒い障壁がベルゼブブの中心から膨れ上がり、樹流徒の体を弾き飛ばした。たとえ樹流徒が敵に追いついても、ベルゼブブには豊富な防御能力がある。

 もっとも、そのような事は対戦相手である樹流徒が一番良く承知していた。障壁に吹き飛ばされた彼は空中で素早く体勢を立て直すと火炎砲で反撃する。初めからそれが狙いだったのだ。


 荒荒しい雄叫びと共に紅蓮の大玉がベルゼブブの頭上から降る。ベルゼブブは真横へ跳躍して華麗な回避を見せると、羽を震動させて地面スレスレを飛行した。

 標的を逃した火炎砲は地面で爆ぜて何本もの火柱を周囲に飛び散らせる。ベルゼブブは飛び交う炎と炎の間に体を滑り込ませて安全を得た。火柱は戦場の外へ飛び出して虚空の彼方へと消えてゆく。


 樹流徒が着地した頃には、バアル・ゼブルが両手の間から水を生み出していた。虚空から現われた大量の水は激しい回転を始めて奔流となる。

 かたや樹流徒も着地前から攻撃の準備をしていた。彼の腹には大口が開き、その奥で赤赤と力強い光が燃えている。

 樹流徒の体から炎の渦が、バアル・ゼブルの眼前から水の渦が、同時に噴き出した。炎の渦は黒い稲妻を纏いながら以前よりも格段に速く凄まじい勢いで直進する。


 空中で二つの渦が衝突した。

 炎の渦が、水の渦を一気に押し戻す。それ以上はさせまいとベルゼブブの目が強く光った。バアル・ゼブルの瞳も輝きを増す。呼応して水の勢いが倍化した。荒れ狂う水の螺旋が炎を押し返そうとする。

 それでも勢いの優劣は覆らなかった。炎の渦が水の渦を突き破る。

 ベルゼブブは素早い判断で競り合いから防御に切り替えた。闇の障壁が展開して炎の渦を遮断する。それでも全ての炎を受け止め切れない。


 遂に、そのときが訪れた。消滅する闇の中を突っ切って、炎の渦が敵の全身を飲み込む。ベルゼブブの皮膚に火が燃え移り、黒い雷が走った。皇帝の口からむっと微かな声が漏れる。樹流徒が初めて敵の頑強な守りをこじ開けた瞬間だった。


 炎の渦が低い唸り声を残して走り去る。ベルゼブブは四本の腕を交差して防御の構えを取り、全身から白煙を上げながら立っていた。皮膚には傷どころか小さな火傷跡すら無く、どの程度ダメージを負っているか傍目には分からない。

 ただ、樹流徒は正面の敵から強い怒りを感じた。一見ダメージが無さそうに見えて、実は怒りを覚えるほどの痛みを負ったのか。あるいはダメージの深浅とは無関係に、被弾したという事実が皇帝のプライドを傷つけたのか。先ほどから十分強烈だったベルゼブブの殺気が更に凶悪な気配を帯びる。


「致し方あるまい」

 一声呟くと、ベルゼブブは防御の構えを解いた。

 何をするつもりか、と警戒する樹流徒の目の先で、驚くべき現象が起こる。

 ベルゼブブの姿が変化を始めたのである。緑がかった黒い皮膚は紫色に変色し、体のあちこちから細かい棘が生える。赤い瞳の中心に黄金色の炎が揺らめき、透明だった羽は虹色に(きらめ)いた。そしてバアル・ゼブルの顔と腕から皮膚を突き破って青い結晶のような物体が飛び出し、黒い雷光を纏う。

 その姿は元々のおぞましさを十分に残しながらも、どこか神々しさがあった。さしずめ“邪神”とでも呼ぶべきだろうか。


 邪神と化したベルゼブブは、両手を前に伸ばす。手の先に黒い光線が集まり光の粒を生み出した。粒は急速に膨らんで大きな球になったところで弾ける。暗黒の光が前方に広がって瞬時に樹流徒の全身を飲み込んだ


 攻撃に備えていた樹流徒は魔法壁で防御していた。虹色の防壁と黄金の防壁が二枚重なって黒い光を受け止める。

 押し寄せる激しい闇の勢いに耐え切れず、虹色の防壁は深い亀裂が入ったあと粉々に砕け散った。続いて内側に展開する黄金の防壁が攻撃を受け止める。

 それもヒビ割れ、あと一息で破られるというとき、ようやく暗黒の光は消えた。


 邪神の圧倒的な攻撃力。以前までの魔法壁であれば耐えられなかったし、下手をすれば樹流徒の体まで跡形も無く吹き飛んでいただろう。

 樹流徒は、失ったはずの心臓が跳ねたような錯覚を覚えた。それでも恐怖は微塵も無い。一度は絶対の死を覚悟してこの戦いに臨もうとしたのだ。いまさら臆する理由が無かった。


 魔法壁が消えると、樹流徒は即座に火炎砲で反撃する。

 ベルゼブブは障壁を展開して紅蓮の大玉を受け止めた。火炎砲は弾けて周囲に何本もの火柱を走らせる。それも障壁に阻まれてベルゼブブまで届かなかった。持続時間が短かったはずの障壁が消えない。

 火柱を完全に遮断したあと、ようやく障壁は消滅した。まるで樹流徒の進化を真似るように、ベルゼブブの能力も大幅に性能が向上している。ただでさえ比類なき力を持つ魔界の皇帝がますます手の付けられない存在になってしまった。


 決して動揺しまいと、樹流徒は冷静に自問自答する。

 ここにきていよいよベルゼブブが本気を出したのか? 違う。そうじゃない。


 今までベルゼブブが力の出し惜しみをしていたとは考えられなかった。ベルゼブブが放った強力な殺気を考れば、これまでずっと本気で戦っていたのは間違いない。第一、手加減して戦う理由が無かった。

 にもかかわらず今になってベルゼブブが変身したのは、そうせざるを得なかったからだろう。変身しなければこの戦いには勝てないと判断したのだ。それはある種苦渋の決断であり、ベルゼブブは可能ならば変身したくなかったはずだ。その理由は考え得る限り一つしかない。恐らくベルゼブブは変身の代償として何らかのリスクを負っている。


 ならば必ずつけ入る隙はある、と樹流徒は確信した。


 バアル・ゼブルが青い結晶に覆われた両手を向かい合わせる。それは水の渦を生み出すときと同じ動作だったが、両手の間から現われたのは水ではなく激しい雷光だった。青い雷光が絶えず乾いた音を立てながら渦を巻く。そして異形の両腕が力強く空を突くと、押し出されるように雷の渦が宙から解き放たれた。

 樹流徒は回避も防御もせず、眩い光をほとばしらせる雷光のトンネルに飛び込む。彼の体は紫色の光を帯びていた。無敵と化した鋼の体が雷の渦をものともせず敵への最短距離を突っ走る。

 ベルゼブブは足を止めて迎え撃った。雷の激流を乗り切って接近してきた樹流徒にバアル・ゼブルの手が伸びる。指先から飛び出した直線的な爪が樹流徒の肩を突いた。それも鋼の肉体には通じない。金属同士をぶつけ合ったような音がしてバアル・ゼブルの爪はあっけなく折れた。


 今だ、と心の中で叫んで樹流徒は跳躍した。バアル・ゼブルの顔を狙ってフラウロスの爪を振り上げる。攻撃のタイミングは完璧だった。ただ、鋼の体は絶対的な防御力の代償として素早さを差し出さなければいけない。樹流徒の攻撃は通常よりも幾分遅かった。

 逆に邪神と化したベルゼブブは変身前よりも素早さが増しており、一歩飛び退いて簡単に樹流徒の爪を避けた。ばかりか素早く腕を伸ばして樹流徒の手首を掴む。今の樹流徒に対して攻撃は一切通じないが、身動きを封じるのは可能だと気付いたのだろう。


 ベルゼブブは樹流徒の手を掴んだまま彼の体を振り回して地面に叩きつける。きっとダメージを与えるためではなく、反撃の隙を与えないための攻撃だ。現に樹流徒は何の痛みも感じなかったが、敵に体を弄ばれて抵抗出来なかった。

 樹流徒を何度か地面に叩きつけたあと、バアル・ゼブルが口から水の泡を吐き出した。水は大きく膨れ上がりながらシャボン玉のように浮かんで樹流徒の全身を飲み込む。丁度そのとき樹流徒の変身が解けた。ほぼ間違いなくベルゼブブは変身能力の弱点を見抜いている。樹流徒が変身を維持できる時間もおおよそ把握したのだろう。ゆえにベルゼブブは樹流徒の体を掴んだまま変身が解けるまで待っていたのだ。


 水の牢に閉じ込められた樹流徒は無理に外へ出ようとばせず、腕を触手に変化させる。触手を伸ばして水中から攻撃を仕掛けようと試みた。

 狙いは悪くなかったが、それが狙い通りにいかなければ意味がない。樹流徒が腕を触手に変化させるよりも早く、ベルゼブブの手が水の牢に触れた。

 シャボン玉という例えの通り、水の牢はベルゼブブの指に突かれると簡単に弾けて消える。破裂の衝撃で樹流徒は後方へ吹き飛ばされた。以前までの彼ならばそのまま地面に叩きつけられていただろう。しかし今の樹流徒は全能力がパワーアップしている。飛行能力も例外ではなかった。樹流徒は飛行能力を使って吹き飛んだ己の体に強力なブレーキをかける。それにより宙で体勢を立て直し、足から綺麗に着地を決めた。

 着地の成功は、続く敵の攻撃への対応を迅速にさせる。

 ベルゼブブの目がぼんやりと白い光を帯びていた。樹流徒はすぐさま氷壁を召喚する。銀色に輝く分厚い氷の壁が緩やかなカーブを描いて樹流徒の前方を囲った。以前の氷壁よりもずっと大きい。強度も増しているはずだ。


 ただあいにく、能力が上がったのは樹流徒だけではなかった。敵も進化している。

 ベルゼブブの目から白い閃光が放たれた。閃光はこれまでよりずっと力強い輝きを放って氷壁にぶつかる。先の攻防では氷壁で閃光を反射できたのに、今回は同じ現象が起こらなかった。白い光は凄まじい熱で銀色の氷壁を溶かしてゆく。大量の蒸気が発生して樹流徒の視界を完全に塞いだ。


 結果的に氷壁はかろうじて閃光を防いだ。あと数センチで穴を開けられるところまで身を削られながらも、背後の樹流徒を守り切った。

 それならそれで構わない、と言わんばかりに、ベルゼブブは早くも次の攻撃に移っている。彼の精神状態を表したような冷たく黒い光が四本の腕にまとわりついていた。


 ベルゼブブは四本の腕を連続で振り払う。それぞれの手から離れた黒い光が三日月の形を取って横に広がりながら飛翔した。その大きさやスピードは以前までの比ではない。

 立ち込める水蒸気に視界を遮られた樹流徒は、正面から高速で迫り来る光に全く反応できなかった。

 すでに紙切れ同然の強度しか持たない氷壁を破壊して、白煙の中から三日月が四連続で飛び出す。それらは樹流徒の体を続けざまに切りつけた。


 ピクリ、とベルゼブブの頭部が微動する。意外なモノを目の当たりにしたような反応だった。

 彼が虚を突かれたとしても無理はない。三日月に切り裂かれた樹流徒の体が、周囲の水蒸気に溶けて幻のように消えてしまったのだから。

「分身か」

 ベルゼブブは鋭い洞察力を発揮する。三日月が切り裂いたのは樹流徒のダミーだったとすぐに看破した。

 ならば本物の樹流徒はどこへ行ったのか? 黄金の炎を中心に宿した真っ赤な目がしきりに動く。しかし、邪神の双眸に樹流徒の姿は映らない。


 相手の姿を見失ったベルゼブブは即座に動き出した。危険を感じて障壁を張ろうとしたのだろう。たとえ樹流徒がどこから攻めてこようと障壁さえ張れば問題ない、と直感的に判断したのかも知れない。


 バサッ、と。なんとも無機質な音が鳴った。

 自分のすぐ背後から聞こえたその音に、ベルゼブブは素早く振り返る。

 ドクロ模様が入った虹色の羽が炎に包まれていた。根元から綺麗に切られた羽が一枚、チリチリと音を立てながら床で燃えている。それは紛れも無くベルゼブブの背中から落ちたものだった。

 その光景にベルゼブブが目を奪われていたのは半瞬にも満たない。ベルゼブブは脚をバネにしてあっという間に飛び退いた。彼の眼前でヒュンと鋭い風切り音が鳴る。


 ベルゼブブが着地すると、直前まで彼が立っていた場所に樹流徒の姿が現われた。

 かつてメイジは自分の姿を透明にする能力を使用した。その力を樹流徒は利用したのである。

 ベルゼブブの瞳から放たれた閃光と氷壁が反応して大量の水蒸気が発生したとき、樹流徒は咄嗟に思いついた。今、自分の姿は氷壁と水蒸気に隠れて敵の目には映っていないかもしれない。ならばこの場にダミーを残し、メイジが使用した透明化の能力でベルゼブブに接近できないか……と。


 その策は想像通りに功を奏した。ベルゼブブが三日月状の光を放っているあいだ、透明化した本物の樹流徒は宙を飛んで敵の背後に回り込んでいた。ダミーに気付き危険を察したベルゼブブはすぐに障壁を張ろうとしたが、一歩遅かった。樹流徒は炎の爪を使ってベルゼブブの羽を切り落としたのである。


 ベルゼブブが障壁を張る前は必ず羽のドクロが光ることに、樹流徒は気付いていた。だから彼はこう考えたのだ。ドクロの羽さえ切り落とせばベルゼブブは障壁を張れなくなるのではないか。

 その予想はほぼ間違いなく正しかった。ベルゼブブは危険を感じて障壁を張ろうとしたが、何も起こらなかったのだから。障壁を展開する前に羽を切り落とされて、能力が不発に終わったのだ。




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