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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
307/359

覚醒



 市内南西部に位置する陸地の突端――霧下岬。

 年中雑草に覆われたその岬が見下ろす海に樹流徒はやって来た。

 この海は樹流徒がメイジの遺体を流した場所。メイジに指定された待ち合わせ場所である。


 更地でメモ用紙を発見したあと、樹流徒は急いで相馬家に戻った。魔人の体と違って空を飛ぶ事もできないので、海までの移動手段が必要だったのだ。

 樹流徒は庭に止めてある自転車を駆って全力疾走で海を目指した。移動にはかなり時間がかかり、目的地に到着した頃にはすでに空が白み始めていた。薄い雲が張り出した明け方の海は、空も水面も露草色(つゆくさいろ)に染まっていた。


 そこに彼はいた。重力に逆らって天を突くように伸びた黒髪。不敵で勝気な顔付き。気だるそうに垂れ下がった両手、そして全身に纏った魔界の黒衣。その風貌は紛れも無く、樹流徒の親友であり、ライバルであり、そして命の恩人でもある青年……メイジだった。


 メイジは波打ち際に一人で佇んでいた。背後から樹流徒が近付くと、彼は振り返ってにやりとする。

「よう、樹流徒」

「メイジ……」

 親友の笑顔を前にして樹流徒は複雑な気分に襲われた。死んだメイジと再会できた喜びはあるが、それ以上に不審の念が強かった。果たして目の前にいるメイジは何者なのか?


 樹流徒がメイジと最後に話をした場所は号刀城(ごうとうじょう)だった。あの場所でメイジは戦闘の流れ弾から樹流徒を庇って死んだのだ。それが夢の中での出来事ならば、今、目の前にいるのは本物のメイジなのだろう。しかし眼前のメイジが現実の存在ならば、何故、彼は夢の内容を知っているのか? 何故、樹流徒がこの場所でメイジの死体を流したことを知っているのか? そして何故、彼は夢の中と同じ格好をしているのか?


 わけも分からないまま樹流徒は問う。

「これは一体どういうことだ? お前は何者なんだ?」

「俺は俺に決まってるだろ。でもオマエが混乱するのは分かるぜ。ベルゼブブに負けたと思ったらこの世界にいたんだろ?」

 黒衣の青年は、樹流徒しか知り得ないはずの事実を言い当てる。

 樹流徒は息を呑んだ。やはりこのメイジは夢の内容を全て知っている。

「どうして俺の夢を知っているんだ?」

「夢? 馬鹿なこと言うなよ。アレが夢なわけ無いだろ」

「え」

「むしろ夢の世界と言うなら、今オレたちがいる世界の方がそれに近い」

「どういう意味だ?」

「ここは現世じゃない。オマエの脳が作り出した偽りの世界だ」

「俺の脳が生んだ世界……」

「そう。オマエはベルゼブブに敗れ、今、死の間際にいる。その結果、オマエの意識がこの世界を作り出したんだ。たぶん魔魂を吸収する能力と同ようにNBW事件でオマエが手に入れた力の一端なんだろう」

 力の一端?

 樹流徒は内心で首を傾げる。NBW事件で手に入れたのは魔魂吸収能力だけではなかったのか?

「細かいことはいい。とにかく、この世界はオマエ自身がオマエの記憶を元に作り出した精神世界なんだ」

「つまり、この世界は俺が見ている走馬灯みたいなものか?」

「言い得て妙だな。まさしくその通りだ」

「ならば、今までの出来事は夢じゃなかったのか……」

「ああ。バベル計画も、俺の死も、全て現実での出来事だ」

「そう……だったのか」

 不思議と樹流徒はメイジの説明をすんなり受け入れられた。中には多少理解できない部分もあったが、少なくともこの世界が現実ではないという点だけは確信が持てる。今の樹流徒にはその一点が最も重要だった。


 それでも無視できない疑問もある。結局、目の前にいるメイジは何者なのか? これまでの出来事が夢で無いとすれば、メイジはもう死んでいるはずだ。

 この世界は樹流徒の意識が作り出した精神世界である。だとすれば、目の前のメイジも樹流徒の脳が生み出した存在なのか?


 樹流徒が不思議に思っていると、彼の疑問を察したようにメイジが言う。

「言っておくが俺はこの世界の住人じゃない。死んだ俺の、魂の残りカスだ。言ってしまえば幽霊みたいなモンだな」

「幽霊……」

「そう。オマエも知っての通り俺は号刀城で死んだ。だがそのあとオレの魂はずっとオマエの中にいたんだ。だから俺はオマエが作り出したこの世界にも干渉できたし、この世界の俺と同化することもできた」

 その説明で、樹流徒は大体の事実を理解できた。

 今、目の前にいるメイジは、樹流徒を庇って死んだメイジの霊が、この世界のメイジ(樹流徒の意識が作り出したメイジ)と同化した存在なのだ。

「もっとも同化の影響で一種のバグみたいなものが発生して、この世界からオレの家族や実家は消えてしまったけどな」

「それでメイジの家は更地になっていたのか……」

「俺はずっとオマエの中から、オマエの行動を見てきた。さすが俺の相棒だ。魔界を旅してついにベルゼブブの元までたどり着いたんだからな」

「……」

「あと、新しい一人称も似合ってるぜ。俺が思った通りだ」

「そうか……」

 まさか自分が見た走馬灯の中で死んだメイジと再開できるなんて想像してなかった。そしてメイジが死んだ後も自分の戦いを見守ってくれていたのかと思うと、嬉しさがこみ上げてくる。


 だが樹流徒の表情が緩むと、逆にメイジの顔付きは真面目になった。

 彼は樹流徒に問いかける。

「なあ。オマエ、この後どうするんだ?」

「このあと?」

「そうだ。ベルゼブブと戦うのか? それともこの世界で永遠のような時間を生きていくのか?」

「永遠って、どういう意味だ?」

「さっきも言ったように、この世界は走馬灯のようなものだ。現実世界よりも遥かにゆっくりと時間が流れている。現実世界で一秒が過ぎるあいだに、お前の意識は何百、何千億年という果てしなく長い時間をこの世界で過ごすことになるだろう。現実世界のお前が死ぬまでずっとな」

「それはつまり、この世界から出てベルゼブブと戦うか、俺の肉体がベルゼブブに殺されるまでこの世界で永遠に等しい時間を過ごすか、どちらかを選べという意味か?」

「さすがだな。オマエのそういう物分かりの良いトコは好きだぜ」

「……」

「で? どうすンだ? ベルゼブブと戦うのか? この世界に残るのか?」

「それは……」

 即答できなかった。

 現実世界の樹流徒はベルゼブブにやられて死ぬ寸前だ。この精神世界を出てベルゼブブと戦ったところで勝機は無い。現状を逆転してベルゼブブに勝つのは、広大な砂漠の中からたった一つのゴマ粒を探し出すよりも難しい。待っているのは確実な死だ。


 ならばいっそ、この世界で半永久的に続く平穏な日常を謳歌したほうが良いのではないか? 現実世界の肉体がベルゼブブに滅ぼされるまで、この偽りの世界に浸かっていた方が幸せではないか?

 樹流徒は自分なりに全力を出したつもりだった。魔都生誕の秘密を暴こうと決めた日から今日まで、脇目も振らず必死に駆け抜けてきた。ベルゼブブに敗北したのは無念だが、一方で、やりきった感もあった。


 熟考の末、樹流徒は苦渋の決断を下す。

「メイジ。俺はこの世界に残る」

 この世界を出ても出なくても、ベルゼブブに殺されるのは確定している。ならばこの世界で少しでも長く生きた方が賢明だ。それが樹流徒の出した答えだった。

 メイジの眉が微かに曇る。

「ふーん……。オマエ、ベルゼブブから逃げるのかよ?」

「仕方ないだろう。あの悪魔にはどうやっても勝ち目が無い」

「そんなのまだやってみなきゃ分かンねえだろ。負けず嫌いのお前らしくもねぇ」

「もちろん負けたのは悔しい。でも自分の力を出し尽くした上での敗北なんだ」

 今イース・ガリアで倒れている自分の肉体は、力を使い果たして指一本動かない。ベルゼブブどころか下級悪魔にすら勝てない状態だ。なのにこれ以上、何をしろというのか? わざわざ死の苦しみを味わうためにこの世界を出なければいけないのか? 樹流徒には分からなかった。


「伊佐木詩織を助けに行かなくてもいいのかよ?」

「……」

 助けに行きたい。助けられるなら、地を這ってでも彼女の元へ行きたい。

「でも俺にそれだけの力は無かった」

 樹流徒はうつむく。ベルゼブブの力は圧倒的だった。あの悪魔には傷一つ付けられなかった。魔界の支配者だけのことはある。樹流徒とベルゼブブでは実力差があり過ぎた。負けず嫌いの樹流徒でも完敗と認めざるを得ない。たとえ万全な体調でもう一度勝負しても百パーセント勝てない相手だ。


 ベルゼブブと戦うのは死と同義である。それでも戦わなければいけないのか? この平和な世界にいてはいけないのか? 樹流徒は苦悩する。

 そんな彼を見てメイジは呆れ顔になった。

「ガッカリだな……。オマエには心底失望したぜ」

「だろうな。俺自身、俺の無力さに失望している」

 樹流徒が認めると、メイジの眉が吊り上がった。

「あ? 勘違いしてンじゃねえぞ。俺が失望してるのはテメーじゃねえ」

「え」

「俺こそ俺自身に失望してるんだよ。どうして俺はテメーのような情けない野郎を庇って死ンだのか、ってな。俺自身のマヌケっぷりに失望してンだ。まさに道化。まさに無駄死にだ」

「……」

「テメーを庇って聖界に連れ去られた伊佐木の行為も無意味ってワケだ。あの女もとんだ愚か者だな」

「なに?」

 カッと樹流徒の頭に血が上った。自分のことはまだしも、詩織を愚者呼ばわりされたのは許せなかった。

 樹流徒は語気を荒らげる。

「ならば俺はまだ戦わなければいけないのか? 決して勝てない相手に立ち向かわなければいけないのか?」

「当たり前だ。どうせ死ぬなら最後の最後まできっちりあがいてから死にやがれ」

「勝手な事を言うな」

 樹流徒は喉を震動させる。自分でも驚くほど大きな声が出た。


 一転、無言――

 静かな波の音だけが何度か繰り返される。


 メイジは少し嬉しそうな顔をした。

「何だよ。まだそんなデカイ声出す元気があるンじゃねぇか」

「メイジ……」

「なあ樹流徒。さっきも言ったけど俺は死んでから今までずっとオマエのことを見てきた。オマエは本当に良くやったよ。そいつは俺だって認めてる」

「……」

「でもな。ここで諦めちまったら、それこそお前、今まで何のために戦ってきたんだ?」

「俺は……」

「ベルゼブブに勝てなんて無茶なコトは言わねェよ。けど、せめてあのハエ野郎にかすり傷の一つくらい負わせてやれよ。それが無理なら思い切り憎まれ口でも叩いてやれ。口すら動かないなら敵を睨みつけろ。何でもいいから最後まで抵抗するんだ。それでオマエは本当に全てをやり切ったコトになるんじゃねェのか?」

 樹流徒ははっとして顔を上げる。

 目から鱗が落ちたような気分だった。重い呪縛が解けたように心が軽くなる。


 そうだ。俺は一体何を考えていたんだ。樹流徒の瞳に強い光が灯る。

「確かにメイジの言う通りだ」

 ベルゼブブには決して勝てない。この世界を出たら、待っているのは確実な死だ。

 だが、それでも最後まで戦い抜かなければいけない。でなければメイジや詩織、今まで自分を助けてくれた全ての人たちに顔向けができない。

 

 メイジはにやりとして肩をすくめる。

「ようやくやる気になったみたいだな」

「すまない。俺はもう少しで、最後の最後で逃げるところだった」

「まったく、テメーは世話が焼けるヤツだ。死んだあともこうして助けてやんなきゃいけねェんだから」

「そうだな……本当にその通りだ」

 樹流徒は笑った。悲惨な状況は何一つ変わっていないのに心から笑えた。


 ここでメイジの口調が少し真面目になる。

「なあ樹流徒。さっきはベルゼブブにかすり傷の一つとか言ったけど、もし奴と対等に渡り合える方法があるとしたら、オマエどうする?」

「そんな方法があるとは思えないが……」

「うるせェ。いいから答えろ」

「もちろん、そんな手段があるなら迷わず使っている」

「本当か?」

「ああ」

「そうか……」

 メイジは腕を組んで少し考える素振りを見せてから、語を継ぐ。

「たとえばベルゼブブと戦う力を得る代わりに、何かを支払う結果になってもか?」

「それでもやる。代償を支払うのが俺一人なら構わない」

「本当にそう言い切れるか? 例えば、お前が人間とは完全に違う生き物になったとしたらどうする?」

「人間とは違う生き物?」

「人間でも、魔人でも、悪魔ですらない。全く別の生き物だ」

「それは……嫌だな」

 できれば人間でいたい。たとえ自分の肉体が悪魔と融合しても、純粋な人間でなくなても、人としての部分を残したかった。それが完全に無くなるのは嫌だった。

 メイジは納得顔で頷く。

「だろうな。それが普通だ。オマエは間違ってない」

「でも」

「ん?」

「もし心が人のままでいられるなら、俺は人間以外の何かになっても良い。それでベルゼブブを倒せるなら。それで伊佐木さんを助けられるなら」

 樹流徒は決意の目で答えた。このまま何も出来ずに終わってしまうくらいなら、人間の体を全部捨ててもいい。だから力が欲しかった。


 メイジは腕組みを解いて殊更嬉しそうに笑う。

「何だよ。ようやくらしく(・・・)なってきたじゃねェか」

「だとしたら、きっとお前のおかげだ」

「樹流徒。今オマエが言った言葉、信じて良いんだな? 心さえ残れば肉体はどうなっても良いんだな?」

「ああ」

「分かった……」

 樹流徒が即答すると、メイジは小さく頷いた。


 そしてメイジはその方法を語り始める。

「実は、俺が号刀城でオマエを庇って死んだとき、オレの力がオマエに乗り移ったんだ」

「メイジの力が、俺に?」

「そう。オマエは気付いてなかったみたいだけどな」

 燃える天守閣の中で、樹流徒はメイジの亡骸を抱えて咆哮した。そのときメイジの体から七色に輝く謎の文字が浮かび上がり、樹流徒の体に乗り移ったのである。それは一瞬の間に起きた出来事であり、樹流徒が気付かなかったのも当然だった。

「あの瞬間、オマエの中に俺の力が宿った。しかしその力をオマエはまだ引き出していない。多分、無意識的に力の使用を拒んでいたんだろうな」

「力を使えば俺の肉体が完全に人間じゃなくなるから?」

「察しが良いな。そういうことだ」

「……」

「くどいようだが最後にもう一度だけ確認させてくれ。もし力を使えばもう二度と後戻りはできない。さすがに俺もそこまでやれとは言えねぇよ。それでもやるんだな?」

「答えはさっき言った通りだ」

 樹流徒は即答する。

「迷いは無し……か。オマエのそういうところはガキの頃から少しも変わってねェな。普段は冷静なのに、絶対こうすると決めたらひたすら突っ走る。周囲が何を言っても聞かねェ。目の前にどんな危険があっても物怖じしねェ。俺がオマエに唯一敵わなかった点だ」

 メイジは複雑そうな顔をした。


「散々オマエのやる気を煽っといて今更だが、正直、この話をオマエにすべきかどうか迷った。話せばオマエが何て答えるか分かってたからな」

「……」

「それ以前に、もしオマエがこの場所に現われなければ、俺はそれでも良いと思っていた」

「だからこんな回りくどいやり方をしたのか?」

 樹流徒は更地から発見したメモ用紙を見せる。

 メイジは頷いた。

「俺は一つの賭けをした。もし樹流徒がそのメッセージに気付かなければ、俺は黙ってこの世界を去る。だがもしオマエがメッセージに気付いてここに現われたら、俺はオマエに全てを話す。ベルゼブブと戦う方法も伝える。そう決めていたんだ」

「そうだったのか……」

「結果、オマエはここに現われた」

「ああ……」

「恨むなよ樹流徒。俺は全てを話したことで、オマエを死ぬよりも辛い目に遭わせようとしてるのかもしれねェ」

「自分で選んだ答えだ。恨むわけがないだろう」

「なるほど……。いかにもオマエらしい答えだ。ソイツを聞いて安心した」

 メイジは今までに無く安らかな笑顔で深く頷いた。


 次の刹那、樹流徒は目を丸くした。

 メイジの体が二重に見える。メイジの頭上にもう一人のメイジが半透明の姿で浮かび上がったのだ。まるで幽体離脱のイメージ映像を見ているようだった。

 この不思議な現象を樹流徒は憶測で理解した。今目の前にいるメイジは、本物のメイジの霊と、この世界のメイジが同化した姿だ。それが今、分離しようとしているのだ。


 半透明のメイジ――本物のメイジが微笑する。

「さて。どうやらオレの魂の残りカスが消えるようだ。これで俺はオマエの中から完全にいなくなる。今度こそ本当にお別れだな、相棒」

「待ってくれ、メイジ!」

 急な別れに樹流徒は顔を歪めた。

「俺はずっと謝りたかった。お前は俺を庇って死んでしまった」

「……」

「あの日の事、後悔しているか?」

「さあな。ソイツはこれからのオマエ次第だろ」

「そうか……」

「ま、せいぜいガッカリさせないでくれよ」

 その言葉に、樹流徒は力強く頷いた。

 メイジの体が徐々に薄くなってゆく。もう膝から下は完全に消えていた。

「樹流徒。強く祈れ。この世界から出たいと。そしてベルゼブブと戦う力が欲しいと。どちらもオマエ自身に秘められた力が可能にすることだ。オマエが強く願えばそれは叶う」

「分かった。必ずこの世界を出てベルゼブブに勝ってみせる」

「こうしてもう一度、オマエに会えて良かった……」

「俺もだ」

「また、いつかどこかで……」

 その言葉を最後に、メイジは風に溶けた。

「メイジ……今度こそ本当にさよならだ」

 樹流徒は親友と二度目の永別をした。


 その場に残ったのは、この世界のメイジだけ。樹流徒の意識が作り出した偽りのメイジだ。

 メイジは急にはっとして、怪訝そうな目で樹流徒の顔をジッと見つめる。それから自分の服装に気付いて少し驚いた顔をした。はては眉根を寄せて辺りを眺め回す。

「おい。ここはどこだ? 何で俺は樹流徒と二人きりで海にいる? つーかこの黒い衣装は何だよ?」

「夢だよ」

 微笑して樹流徒は答えた。

 この世界は夢。目の前のメイジも、空も、海も、大地も。家族も、クラスメートも、街の景色も、人々も、全ては樹流徒の意識が生み出した幻。

「よォ、夢ってどういうことだ?」

 幻のメイジが語りかけてくる。

 彼の声を振り切って、樹流徒はそっと瞳を閉じた。意識を集中して強く願う。この世界を出て、魔界に戻りたいと。ベルゼブブと戦うための力が欲しいと。


 今度こそ、最後の最後まで戦い抜いてみせる――




 その頃、イース・ガリア最上階。

 樹流徒の全身はベルゼブブが放った黒い炎に包まれて燃えている最中だった。

 ベルゼブブは至極冷静だ。勝利に酔うでも無く、手応えの無い相手に拍子抜けするでもなく、ただ、じっと魔人の最期を見届けようとしている。

「このあと刻魔殿に向かうか。結界を張ってあるとはいえ万が一という恐れもある」

 魔界の皇帝は独りごちる。

 刻魔殿にはサタンが幽閉されている。反乱軍がサタンを救出しないよう、ベルゼブブ自ら防衛に回るつもりだろう。


 樹流徒の全身を包む黒い炎が燃える。いつまでも、いつまでも、燃え続ける……


 やがてベルゼブブは何かの違和感を察知したようだ。

「おかしい。もう肉体は燃え尽きても良いはずなのに」

 地面に倒れた樹流徒の肉体は髪の毛一本すら燃えていなかった。今まで燃えた部分が再生していると言った方が良いかもしれない。

 嫌な予感がしたのか。ベルゼブブは初めて慌てた様子で動いた。三つに枝分かれした手の中心から暗黒の球体を生み出す。


 ほぼ同時、異変が起きた。

 樹流徒の体が倒れた状態のまま宙に浮き、ゆっくりと回転して起き上がる。その動きに呼応するように激しい地鳴りが轟いて背信街が小刻みに揺れた。

 黒い炎を纏ったまま起き上がった魔人の足下から黄金の魔法陣が出現する。続いて樹流徒の左肩と腹からそれれぞれ謎の痣が浮かび上がり、魔法陣と同じ黄金色の輝きを放った。光は黒炎を払って樹流徒の全身を優しく包み込む。

 ベルゼブブは暗黒の球体を発射した。しかし球体は黄金の光に触れた先からかき消される。

「この力は……」

 皇帝の手が微かに震えた。


 樹流徒を包む黄金の光が稲妻となって四方八方へ飛び散る。眩い閃光がイース・ガリアの強固な壁と天井を叩き木っ端微塵に吹き飛ばした。宇宙が崩壊する。その向こうに背信街周辺の景色と暗雲が現れた。丸裸になった最上階に強い風が吹き抜けてゆく。


 黄金の光が消え、その中から新たな存在に生まれ変わった樹流徒の姿が現われた。

 髪は灰銀色に染まり、瞳の色はより鮮やかな赤に輝いている。瞳に描かれた黄金の輪の外側に沿って白銀の輪が走りゆっくりと明滅していた。青白かった肌は少しだけ人間の色を取り戻している。全身に刻まれていた極少文字の回路は数本の線となって、樹流徒の胸、背中、腕などに太陽や翼や腕輪のような模様を描いていた。線の中には真っ赤な光が走っているがその色も瞳と同じように、より鮮やに輝いている。


 外見の雰囲気は人間、悪魔、天使を全て混ぜ合わせたようだった。それでも樹流徒は自分の肉体が最早人間としての機能を完全に失っていることに気付いた。心臓の音が聞こえない。体内を駆け巡る脈動が存在しない。呼吸をしなくても息が苦しくなかった。もはや樹流徒の体には内臓も血液も呼吸器官すらも存在しないのである。

 唯一、痛覚だけは残っていたが、メイジの言葉通り、樹流徒の肉体は最早人間でもなければ魔人ですらない。人間の部分を完全に捨て去ってしまった何かだった。


 最後に樹流徒の全身を、再生した衣類が包む。妖精王オベロンから賜った仮面、魔法のローブ、他の衣類、そしてメイジが遺してくれた黒衣も、全て傷一つ無い状態に復元されて、樹流徒に装着された。


 ベルゼブブは怒っているように見えた。少なくとも樹流徒の変貌に対して困惑や驚き、そして焦りは感じていないように見える。ただ、何かに対して静かに怒っているようだった。

 皇帝の口が重々しく開かれる。

また(・・)か……またその力が我々の前に立ちはだかるのか」

 呪いの言葉を唱えるようにそう呟くと、ベルゼブブは今までと比較にならないほど強烈な殺気を放つ。


「本当の決着をつけるぞ、ベルゼブブ」

 樹流徒は仮面を投げ捨てて敵を睨んだ。




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