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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
305/359

夢(前編)



 ――樹流徒……


 ――起きて、樹流徒。


 女性の声がする。優しくて落ち着きのある大人の声だ。

 自分の名を呼ぶその声に樹流徒は聞き覚えがあった。とても馴染み深い声だ。なのに酷く懐かしい感じがする。


 ――ほら、早く起きなさい。

 女の声は何度も樹流徒に呼びかける。起きろ、起きろ、と彼を急かす。


 無理だ。もう立てない。

 樹流徒は頭の中で答えた。ベルゼブブとの戦いで傷ついた体に再び起き上がる力は残っていない。


 ――ねえ。聞こえているの? 樹流徒。


 聞こえている。でも何度呼び掛けられても立てないものは立てない。体を起こすどころか指先一本すら動かせない。


 ――早く目を覚まして。


 何故、そんなに俺を起こそうとする?


 ――もう朝よ。早くしないと学校に遅刻するわよ。


 朝? 学校?



 目を開けると、そこは薄暗い部屋の中だった。灯りが消えた蛍光灯が天井にぶら下がっている。窓には暗色のカーテンが閉じられており、外の明かりをほとんど遮断していた。

 室内には本棚や学習机、テレビやゴミ箱などが並んでいる。そしてもう一つ、部屋の一角に木目が美しいベッドが据え置かれていた。

 そのベッドの上で樹流徒は仰向けになっていた。寝ぼけ(まなこ)に白い天井が映る。これと言って特筆すべき点もない普通の天井だが、樹流徒はそれに見覚えがあった。今まで何千回も見てきた天井である。見覚えどころか、愛着が湧くほど見慣れていた。


 またあの声が聞こえる。

「おはよう。やっと目が覚めたみたいね」

 さっきからずっと樹流徒を呼んでいた女性の声だ。


 樹流徒はそちらへ視線を移した。ベッドから少し離れた場所に良く見知った顔が立っている。三十代後半くらいの、お人好しそうな顔をした女性だった。背は少し高めで、どちらかと言えば痩せた体つきをしている。屋内用のカジュアルな服とエプロンを身につけており、いかにも主婦という格好をしていた。


 彼女を一目見た瞬間、樹流徒は心臓が飛び出すかと思った。

 何故なら決して存在しないはずの人物が目の前に現れたからだ。

 樹流徒の眠気は完全に吹き飛んだ。代わりに一種の寒気が彼の全身を襲う。

 ありえない。なぜ、この人がここにいるのか?

「母さん」

 樹流徒は布団を跳ね上げてベッドから起きた。そして正面に立つ女性を凝視する。我が目を疑った。人違いではないかと思った。

 しかし間違いない。この女性はどこからどうみても“相馬裕子(ゆうこ)”――樹流徒の母だった。


 束の間、樹流徒は言葉を失った。相手の顔を何度確認しても信じられない。魔都生誕で死んだはずの母がどうして目の前にいるのか? 嬉しいというより、驚きと違和感しかなかった。

「ちょっと、どうしたの?」

 樹流徒が勢い良くベッドから飛び起きたので、母・裕子はびっくりした顔をする。

 でも樹流徒の方がきっと何倍も驚いていた。

「生きていたのか?」

 彼は母に詰め寄る。

「はあ?」

 裕子はきょとんとした。

「魔都生誕の影響で死んだはずの母さんが、どうして生きてるんだ? いや、生き返ったのか?」

「マトセイタン。なに、それ?」

「説明すると長くなる。それより何で死んだ母さんが生き返ってるんだ?」

「死んだって……。ちょっと変な冗談言わないでよ」

 裕子は若干困惑したような笑みを浮かべる。

「冗談なんかじゃない。母さんだけじゃなく、勇徒も葵も、街の皆だって、ほとんど死んでしまったんだぞ」

 そう。魔都生誕の影響で死んだはずだ。人々の遺体は儀式の生け贄に捧げられ、悪魔に食われ、他にも様々な用途に利用された。人間の遺体はもう一つも残っていない。百歩譲って市内にまだ誰かの死体があったとしても、それはとっくに腐食して骨だけになっているに違いない。

 なのに母が目の前で動き、元気に喋っている。これは一体どういうことなのか?


 ここで樹流徒ははっとする。いきなり目の前に母が現れて気が動転してしまったが、おかしいのはそれだけじゃない。今、樹流徒がいる場所は紛れも無く相馬家だった。より正確に言えば、相馬家の二階にある樹流徒の部屋だった。

 イース・ガリアの最上階で戦っていたはずなのに、なぜ自宅の自室にいるのか?

「そうだ! ここは俺の部屋なのか? どうして俺は現世にいる? ベルゼブブは?」

 樹流徒は思わず強い語調で問い詰める。

 裕子は怪訝な表情になった。

「ベルゼ……何?」

「ベルゼブブ。悪魔だよ。俺はさっきまでソイツと戦っていたんだ。この手で」

 事実を訴えながら樹流徒は両手を差し出す。

 直後、彼の目は点になった。

 おかしい。いや、この場合おかしくないと言うべきなのか。数多くの悪魔を葬ってきた魔人の手が、何の変哲も無い人間の手に戻っている。肌の血色は良く爪も伸びていなかった。

 元に戻っているのは手だけではない。やや長く尖った魔人の牙も普通の形状に戻り、全身を駆け巡る電気回路のような線も跡形も無く消えている。完全に人間の体だった。

 ベルゼブブにやられた傷もすっかり消え、今は痛みも無い。ついでに言えば樹流徒が着ている服も魔法のローブや黒衣ではなく、男子高生が着るごく一般的な部屋着だった。


 裕子は小首を傾げる。

「さっきからなにわけの分からない事を言ってるの。もしかして変な夢でも見てた?」

「え……」

 夢? 一体どういうことだ?

 状況が把握できず、樹流徒の頭は軽く混乱した。

 さっきまでイース・ガリアでベルゼブブと戦っていた。そしてベルゼブブに敗北して意識を失った。なのに目を覚ましたらそこは自分の部屋で、死んだはずの母親が生きていた。おまけに自分の体は普通の人間に戻っている。

 もう何がなんだか、わけが分からなかった。


 茫然とする樹流徒を見て、裕子は少し不安げな顔をする。

「ねえ。大丈夫? アナタちょっと様子が変よ」

「……」

「もしかして疲れているんじゃない? 気分が悪いなら今日は学校お休みする?」

「学校?」

「そうよ。今日は平日だし、授業あるんでしょ?」

「何言ってるんだ。学校どころじゃない。さっきも言ったけど市民はほぼ全滅してしまったんだ。街は悪魔やネビトが……化物が暴れ回ったせいで滅茶苦茶なんだ」

 一息で言い切ると、樹流徒は窓に駆け寄ってカーテンを開け放った。


 ガラス越しに差し込む陽光が樹流徒の顔を照らす。水色の不気味な光ではない。本物の太陽が放つ眩い輝きだった。

 窓の向こうには静かで平和な近所の風景が広がっている。壊れた建物など一つも無く、悪魔もネビトもいない。魔都生誕の被害など、どこにも見当たらなかった。


 樹流徒は狐につままれたような気分に陥る。見るも無残な姿に変わり果てた街の景色は一体どこへいってしまったのか。まるでバベル計画実行以前の日にタイムスリップしてしまったかのようだ。


 瞬きも忘れて窓の向こうを眺めていると、はす向かいの家から人が出てくる。玄関の扉が開いてサラリーマン風の中年男性が現れた。これから職場へ向かうのだろう。男は鞄を手に提げ、車のガレージに向かって歩いてゆく。

 ガレージから車のエンジン音が響く頃には、樹流徒の眼下を自転車に乗った女子高生が通り過ぎていった。少し離れた場所に視線を送れば、腕時計に目をやりながら慌てて駆けてゆく若い男の姿もある。

 ごく普通の通学・通勤風景である。市民たちはまるで何事も無かったかのように日常生活を送っていた。


 何だこれは? どうなっている? 樹流徒は窓際に立ったまま固まる。

 その様子を見て母・裕子はいよいよ心配そうな顔をした。

「ねえ、アナタ本当に大丈夫なの?」

「……」

「やっぱり疲れてるか、余程おかしな夢でも見たのね」

 夢? そんな馬鹿な。樹流徒は眉根を寄せる。

「違う。夢なんかじゃない。あれが夢なんかであってたまるか」

 魔都生誕からベルゼブブと戦うまでの記憶を、樹流徒は全て鮮明に覚えていた。死屍累々たる市内のありさまを目の当たりにして感じた絶望。初めて悪魔と遭遇したときの驚き。変質する己の肉体に恐怖したこと。イブ・ジェセルのメンバーとの出会い。敵の肉を爪で貫いたときの生々しい感触。血のにおい。美しくもおどろおどろしい魔界の風景。全てを覚えている。夢であるはずがない。


 しかし樹流徒が一所懸命説明すればするほど、裕子の表情は困惑の色を深めた。

「良く分からないけど……まあ、今日は大人しく寝ていなさい。学校には私が欠席の連絡を入れておくから」

「違う。俺はおかしくなったわけじゃない。疲れてもいない。本当の事を言っているだけなんだ」

 樹流徒は拳を握り締める。

 今までの出来事全てが夢だったなんて、嘘だ。

「分かった。信じるから、とりあえず落ち着きましょう」

 裕子が樹流徒をなだめる。口では「信じる」と言っているが、目の奥はそう言ってなかった。

 不意に逃げたいような衝動に駆られて樹流徒は走り出す。不可解な現状と母の視線に耐えかねて部屋を飛び出した。

 ――ちょっと。どうしたの?

 背中から裕子の声が聞こえたが、立ち止まれなかった。


 樹流徒は階段を駆け下りる。今、自分の周りで何が起きているのか、確かめなければいけない。

 もしかするとこれは一種のまやかしではないか? ベルゼブブに幻を見せられているのではないか? 本気でそう考えた。


 階段を下りると勢いそのままリビングに駆け込む。

 視線の先に良く見知った顔を見つけて、樹流徒の足は止まった。


 テーブル前の椅子に腰掛けて食事をしている子どもが二人いる。

 片方は十二、三くらいの少年。髪は目にかかる程度の長さに切り揃えられ、利発そうな顔をしている。中学校の制服に身を包んでいた。

 もう片方は十歳くらいの少女だ。肩の少し上まで伸ばした黒髪が特徴的で、プルオーバーのシャツとスカートを着ていた。


 彼らの姿を見た瞬間、樹流徒は軽い立ちくらみのようなものを覚えた。何しろ目の前にいる二人の子供こそ、絶対こんな場所にいるわけがないからだ。彼らは魔界のある町で死体人形として扱われ、樹流徒が自分の手で火葬したはずだった。

「勇徒。葵……」

 死んだはずの弟妹(きょうだい)の名を、樹流徒は呼ぶ。

 食事をしていた勇徒と葵は同時に手を止めて、樹流徒のほうを見た。

「あー。おはよう」

 勇徒が少し気だるそうに答える。

「おはよう」

 葵も若干眠たそうだ。

 その自然な態度や口調は本物の勇徒と葵にしか見えなかった。

 では樹流徒が火葬した二人は何だったのか?


『おはようございます。十一月二十六日、月曜日。朝の七時です。全国のニュースをお伝えします』

 リビングのテレビから男性アナウンサーの声が流れてくる。


 樹流徒は血色を失った顔で歩き出した。弟妹が食事をしているテーブルの横で立ち止まる。

「どうしたの? ちょっと顔色悪いよ」

 勇徒が不思議そうな顔で樹流徒に尋ねる。

「何かあった?」

 葵は少し心配そうだ。

 彼らの顔を見て、声を聞いて、目を覚ましてから今までずっと混乱していた樹流徒の頭が、今、ようやく少しだけ落ち着てきた。


 彼はやや伏し目がちになって考える。

 まさか全て夢……だったのか?

 魔都生誕も、悪魔も、天使も、組織の人たちも、魔界の冒険も、そして今までの戦いも……。全て一夜限りの夢だったというのか? あんなに長く、これほど鮮明に記憶に残る夢などあるのだろうか?


 信じられないが、ここは紛れも無く自宅で、目の前には死んだはずの弟妹がいる。

 ベルゼブブが見せている幻かもしれない、とさっきは疑ったが、良く考えてみればありえない話だった。ベルゼブブがこのような幻を自分に見せる理由がない。今までの出来事全てが夢だったと考えた方が、まだ説得力があった。


「ねえ。何かあったの?」

 葵がもう一度樹流徒に尋ねる。

「ていうか樹流徒が寝坊って珍しいよね」

 勇徒はそう言いながら、テーブルの上の皿に手を伸ばした。今朝はトースト、ハムエッグ、コンソメスープ、サラダなど、朝食の定番とも言えるメニューが並んでいる。やや焦げてしまったトーストを勇徒は豪快にかじった。


 夢……だったのか……

 樹流徒の肩からすっと力が抜ける。途方も無い脱力感に襲われた。

 何ヶ月もずっと眠っていたような気がする。

 何ヶ月もずっと走り続けて戦い続けていたような気がする。

 全てが夢。幻だったのか……


 廊下から足音が聞こえてきた。二階から下りてきた裕子がリビングに入室する。

「あ。お母さん。なんかお兄ちゃんがおかしい」

 と葵。彼女は樹流徒と喋る時は彼を下の名で呼ぶが、それ以外の場合は彼のことを兄と呼ぶ。

「樹流徒は変な夢を見たのよ。そのせいでちょっと頭の中が混乱しているみたい」

 裕子はそう断じる。夢だと言い切る。

「マジ? 混乱するほどの夢ってどんな内容だったの?」

 好奇心旺盛な勇徒が話に食いついた。

「まあ……ちょっと」

 樹流徒は曖昧な返事で誤魔化す。さっきまで見ていた不思議な夢の話を、誰にも聞かせる気にはなれなかった。


 そうか……。全部夢だったのか。

 樹流徒は無理矢理自分を納得させる。今までの事が全て夢だったなんて未だに信じられないが、状況的に判断して夢だったと思うしかない。

 喜ぶべきなのだろう。魔都生誕も、自分がベルゼブブにやられたことも、全ては自分が寝ている間に脳内で繰り広げられた出来事だったのだから。家族が生きていた事に、故郷が無事だった事に、そして自分が生きている事に、安堵すべきなのだろう。


 なのに心の底から笑えない。素直に良かったと思えない。この気持ちをどんな言葉で表現すれば良いのか、分からなかった。


 一方で、夢ならば夢と認めなくてはいけないという気持もある。

 現実と向き合うように、樹流徒は母のほうに向き直った。

「さっきは取り乱してごめん。俺、学校に行くよ」

「あらそう? 一日くらい休んでもいいのに」

「別に体の具合が悪いわけじゃないから」

 事実、体調は悪くなかった。強いて言えば異様に腹が減って喉が渇いているくらいである。


「あれ? いま樹流徒、自分のこと俺って言わなかった?」

「言った言った。昨日まで僕だったよね?」

 勇徒の言葉に葵がうんうんと頷く。

「あら。そういえばそうね。道理でちょっと違和感があると思った」

 裕子が今更になって気付く。

 不思議な話だった。樹流徒が自分を俺と呼ぶようになったのは夢の中での出来事だ。たった一夜の夢を見ていたに過ぎないのに、今では僕よりも俺のほうがしっくりくる。

「変かな?」

 誰とはなしに樹流徒が尋ねると

「うん。なんか変。聞き慣れてないから」

 葵の口から歯に衣着せぬ感想が返ってきた。


 勇徒の視線がテレビの隅へと向かう。液晶画面に7:06の文字が映し出されていた。

「じゃ、俺そろそろ行くわ」

 そう言って勇徒は席から立ち上がる。“行く”というのは当然ながら学校へ行くという意味だろう。

「部活か?」

 樹流徒が尋ねる。

 勇徒は小学生のころから地元のサッカークラブに所属しており、中学に入ってもサッカーを続けていた。一年生ながらチームの次期エースストライカーとして期待されているらしい。

「うん。日曜に練習試合があるから今週は毎日朝練だよ」

 勇徒は半分嬉しそうに、半分面倒くさそうに答えた。

「そうか。頑張ってるんだな」

「樹流徒も部活入ったら? 体格も運動神経も悪くないじゃん」

「でも、もう二年生だからな……」

「そっか。来年受験だもんね」

「うん」

「どこの大学受けるの?」

「さあ。まだ理系としか決まってない」

「ふーん」

「ねえ勇徒。時間大丈夫なの?」

 裕子が口を挟む。

「あ、ヤベ。遅刻する。じゃあいってきまーす」

 勇徒は床に置いた学校のバッグを担ぐと、そそくさとリビングを出て行った。

「樹流徒も顔を洗って食事にしなさい」

 母の言葉に、樹流徒は頷いた。


 洗面所で顔を洗ってうがいをする。樹流徒は鏡に映る自分の姿をついまじまじと見つめた。

 やはり、どこからどう見ても魔人の姿ではない。ごく普通の人間の体だ。

 手の先から爪を伸ばそうと思っても、虚空に向かって炎を吐こうとしても、何も起こらない。起こるはずがなかった。


 夢……夢……すべて夢だったんだ。自己暗示でもかけるように樹流徒は頭の中で“夢”という単語を繰り返す。気持を切り替えるためにもう一度顔を洗った。


 少しスッキリした状態で洗面所を出ると、二階の自室で制服に着替えて、リビングに戻ってきた。

 葵はまだのんびりと食事をしている。樹流徒も彼女の隣に座って食事を始めた。

「いただきます」

 皿の上のトーストを一口かじる。異様に美味しかった。「空腹は最高の調味料」とは一体誰が言った言葉か。非常にお腹が空いていた樹流徒の口内は、たまらない美味で満たされる。


 一口食べたらもう止まらない。樹流徒は貪るように皿の上のものを掻き込んだ。

「そんなに急いで食べなくても遅刻しないよ」

 葵はくすくすと笑う。樹流徒が時間を気にして急いで食べていると勘違いしているようだ。

「いや。今朝の食事がすごく美味しく感じるんだ」

 樹流徒は本音を言う。

「そうなの? じゃあ私のトマトあげるよ」

 葵はサラダの隅に置かれた赤い物体をフォークですくって、樹流徒の皿に移す。

 葵はトマトが大の苦手だ。トマトだけじゃない。ピーマンもニンジンもきゅうりも魚も苦手で、かなりの偏食家だった。そのため母は彼女の好き嫌いを少しでも改善させようと、たまに葵の苦手な食べ物を出すようにしている。今朝のトマトもそうだ。

 苦手な食べ物が食卓に登場すると、葵は樹流徒か勇徒にその食べ物を押し付けようとする。

「たまには我慢して食べたほうがいいよ」

 樹流徒は自分の前に置かれたトマトを葵の皿に戻す。

「いいじゃんケチ」

 葵はまたトマトを樹流徒の皿に移す。

「じゃあ、半分だけ」

 樹流徒はフォークでトマトを半分に割って、その片割れを自分の口に運んだ。

 残った片割れを葵が渋々食べた。


 先に葵が朝食を終え、その五分後くらいに樹流徒も食べ終わった。

 空になった皿を下げるために裕子がキッチンから出てくる。

「そういえば、父さんは仕事だよね?」

 樹流徒が尋ねると

「ええ。もちろん。いつも通りの時間に言ったわよ」

 と裕子。

 樹流徒の父はごく普通の会社員で、毎日電車に乗って自宅と会社を往復している。大体毎朝六時半には家を出ていた。


 そうか。父さんも生きているのか……それはそうだよな。

 樹流徒は妙な気分に陥る。父が生きているのは当たり前のことなのに、どうしても違和感が拭えない。家族が皆生きていて、自分が平和な日常生活を送っている。その現状が不思議でならなかった。


 樹流徒は再び洗面所に入って歯を磨き、学校のバッグを持って玄関で靴を履く。

 これから登校だ。

「本当に大丈夫なの? 皆勤賞狙ってるのかもしれないけど、無理したら駄目よ」

 背中から母が声を掛けてきたので、樹流徒は「もう大丈夫」と答えておいた。


 家を出ると、太陽の光がまた(まぶた)の奥に差し込んでくる。

 樹流徒は通い慣れた通学路を歩き出した。


 自宅から数十メートル離れた場所で近所の人とすれ違う。二十代後半くらいのスーツ姿の女性だ。名前は知らないが、たまに顔を合わせることがあった。

「おはようございます」

「おはようございます」

 互いに軽い会釈をして挨拶を交わす。別段変わった事はしていないのに、樹流徒にとってはその行為が新鮮であり懐かしく感じられた。

 他のモノも全てが新鮮だった。行き交う大勢の人々。ひっきりなしに道路を走り抜けてゆく車。点滅する信号機。空を舞う鳥……出会う景色の一つ一つが樹流徒の興味を引く。どれもこれもすっかり見慣れたもののはずなのに、つい目が行ってしまう。


 やがて樹流徒はある横断歩道までやってきた。信号が赤なので立ち止まる。

 樹流徒の他にも二十名近くの人が信号待ちをしていた。ここの信号は待ち時間が長いので朝の交通量が多い時間だとこのように横断歩道の前に人が溜まってしまう。

 メイジの計測によれば、この信号は二分五十三秒も待つという。もっとも、それも夢の中で聞いた話に過ぎないのだが……

 そういえば、この場所は魔都生誕発生時に樹流徒が気絶した場所だった。そのときはメイジも一緒にいて、次に目を覚ましたとき、彼はいなくなっていたのだ。

 しかしそれもまた夢の出来事。頭上を仰いでも巨大魔法陣など存在しない。あるのは清々しい青空と白い雲だった。

 樹流徒はぼんやりと空を眺めたあと、それとなく近くに立つ人に視線を送る。


 そこに見覚えのある顔があった。

 眼鏡を掛けた、利発そうな顔をした二十代半ばの男だ。真っ直ぐ綺麗に伸びた背中にスーツ姿が良く似合っている。

 その風貌はイブ・ジェセルのメンバー仁万と瓜二つだった。寸分違わず同じと言っても良い。

「仁万さん」

 樹流徒は思わず声を発した。

 仁万と全く同じ外見を持つ男は、少し驚いた顔で樹流徒を見返す。

「仁万さん……ですよね?」

 樹流徒がもう一度声を駆けると。

「いえ。違いますけど」

 男は少し困ったような笑顔でかぶりを振った。

 それはそうだ。イブ・ジェセルという組織も、仁万という人間も、樹流徒の夢に登場した架空の組織および人物に過ぎないのだから。

「すみません。人違いでした」

 樹流徒は軽く頭を下げる。そのとき信号が青に変わった。




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