皇帝ベルゼブブ(後編)
地面を転がって閃光をかわした樹流徒は、膝を起こしながら足下に手を着いた。
密閉された宇宙の中で強い冷風が吹く。風は白煙を伴って地面を凍らせながらベルゼブブに向かって直進した。
ベルゼブブは障壁を張って攻撃を遮断する。のみならず、障壁の中から手だけを出して暗黒の球体で反撃を行なった。
樹流徒は迷わず魔法壁を展開する。虹色の防壁が暗黒の球体を受け止めた。球体は爆ぜて狭い範囲に禍々しい闇の光をばら撒く。爆発の衝撃に耐え切れず魔法壁は粉々に砕け散った。相殺だ。
ベルゼブブの基本的な戦い方は、単純ながら強力で隙が無い。高い威力と追尾性能を兼ね備えた暗黒の球体で攻め、相手から攻撃や接近を受ければ障壁で防御・反撃をする。たとえ敵に手の内を知られても能力が高性能なので簡単に攻略される心配は無い。致命的な弱点も無く攻守共にほぼ完璧と言えた。
その基本的な戦い方に加えて、ベルゼブブは魔法壁や数種類の飛び道具を駆使する。他にも能力を持っている可能性が高いだろう。ベルゼブブと同化しているもう一人のベルゼブブ――バアル・ゼブルも何をしてくるか予想がつかない。悪魔の皇帝という異名は伊達では無かった。ベルゼブブの実力は魔王級の悪魔を凌駕している。
それでも樹流徒の闘争心は微塵も衰えなかった。たとえ敵がどんなに強大でも勝つ方法は必ずある。そう信じて戦ってきたから、これまで幾度となく死線をさまよいながらも生き延びられた。今回も同じだ。諦めなければきっと活路が開ける。ベルゼブブの攻略法が見付かるはずだ。
ベルゼブブが黒い光を腕に纏い、斜めに振り払う。光は三日月状になって宙へ放たれ、横に大きく伸び広がりながら樹流徒に迫った。
樹流徒は三日月の上を飛び越えて、そのまま飛行能力で敵に接近。自身の周囲に三つの青白い光を浮かべた。
ベルゼブブは回避の挙動を見せない。真正面から攻撃を受け止める気か? あるいは反撃を狙っているのかもしれない。
敵の反応を警戒しつつも樹流徒は積極的に動く。可能な限りベルゼブブに近付くと着地して、攻撃に打って出た。青白い光が弾けて三本の巨大な光の柱となり敵に牙を剥く。
その先に奇怪な光景が待っていた。光の柱がベルゼブブに近付くほど細くなり棒状に変化したのである。先細りした三本の光は軌道を変更し、全てバアル・ゼブルの口に飛び込んでいった。先ほど樹流徒が氷の渦を放ったときと同じ現象だ。
光を飲み込んだバアル・ゼブルは掌を向かい合わせる。両手の間から水の渦が生まれた。水の渦は勢いを増すとバアル・ゼブルの手中から飛び出し、外側へ広がりながら直進する。地表の上を滑って獲物に飛びかかった。
樹流徒は真横に跳ぶ。ベルゼブブとの間合いが近かったためあわや逃げ遅れるところだったが、バアル・ゼブルの腕が動いた瞬間から攻撃を予測していたので、何とか回避が間に合った。
ただし安心するのは早い。ベルゼブブが新しい動きを見せる。六本ある足の内、真ん中の二本がはじめて行動を起こした。両足の先端が裂けて三本の指を持つ手に変わる。その両手が水をすくい上げるような形を取った。
手の上に丸い空洞が生まれる。人間の頭が入るかどうか程度の小さな穴だ。そこから黒い煙のようなものが勢い良く溢れ出した。
樹流徒は目を凝らす。闇の奥から現われた煙の正体を知って背筋に寒気が走った。
それは蠅だった。おびただしい数の蠅が固まって煙のように広がっているのだ。数は五百か。千か。多すぎて目算できない。
空洞から出現した蠅の群れは上下左右に散らばって樹流徒の前方を埋め尽くす。包囲網が完了するや否や、彼の元に殺到した。
樹流徒は咄嗟に口から白煙を吹いて自分の前に煙幕を張る。虹色の孔雀アンドロアルフュスが使用したこの能力には敵を石化させる効果がある。煙幕に突っ込んだ蝿が次々と石の粒になってカラカラと硬い音を鳴らし地面を転がった。
一方で、白煙を避けて樹流徒に接近してくる蝿も五十匹近くいる。
樹流徒は走って逃げながら爪を振り払い、空気弾を放って、近寄る蝿を迎撃した。
それでも尚、十数匹の蝿が樹流徒の体に取り付く。
待っていた、とばかりにベルゼブブの目が紫色の輝きを纏った。
それを合図に樹流徒の全身にまとわりついた蝿が一斉に小さな爆発を起こす。樹流徒の頭、肩、背中、腕、そして脚が、爆発の衝撃で震動した。服と皮膚が弾け飛ぶ。耐え難い激痛が全身を襲った。己の血を浴びて魔人の肌が紫色に染まる。
樹流徒の上体が大きく揺れて膝が折れかけた。それを見て好機と踏んだか、異形の巨体が前に出る。初めてベルゼブブが接近戦を挑んできた。
頭から流れる血で樹流徒の目は片方塞がっている。彼は残った片方で敵を睨みながら迎撃の火炎砲を放った。
ベルゼブブは急停止して障壁を張り火炎砲を受け止める。
小さな炎の塊が飛び散ったとき、樹流徒は跳躍した。爪を振りかざして敵の懐へ飛び込む。それが絶妙のタイミングになった。丁度障壁が消えるタイミングと樹流徒が攻撃する瞬間が重なる。
この好機を逃すわけにはいかない。渾身の一撃をぶつける。樹流徒は直感でそう判断した。彼の意思に呼応して全身に埋め込まれた回路が激しく点滅する。
皮膚を突き破る音がした。爪が相手の肩に深く突き刺さる。
ただし、樹流徒のではない。命中したのはバアル・ゼブルの爪だった。血色が無い指先から直線的な長い爪が伸びている。樹流徒が使用するフラウロスの爪以上の長さだ。それが障壁の内側から飛び出して樹流徒の肩を突き刺したのである。
攻撃を受けた衝撃で動きが一、二秒止まった。その僅かな時間があれば、ベルゼブブは障壁を張れる。
黒い光が膨れ上がりベルゼブブの全身を包んだ。凄まじい力に弾かれて樹流徒は宙を舞う。彼の体は受身も取れず遠く離れた地面に背中から叩きつけられた。
墜落の衝撃で刺された肩の傷口が暴れ出す。焼けるような痛みに樹流徒はその場で悶絶した。敵から見れば絶好の的である。ベルゼブブが見逃すはずも無かった。
蝿の赤い瞳が白い輝きを帯びる。おぼろげな光は鮮明になったとき一筋の閃光となって宙に解き放たれた。
しかし閃光は樹流徒の元まで届かず、明後日の方向へと跳ね返る。危機を察知した樹流徒が倒れたまま地面から氷壁を召喚していたのだ。平らな氷壁はベルゼブブが放った閃光を鏡のように反射した(現世の氷ではそのような現象は起きないだろう)。反射された光は、空間を包む宇宙の片隅にぶつかって炎を上げる。
氷壁が消えた頃、樹流徒は何とか立ち上がる事ができた。
彼は氷の盾を出現させる。防御のためではない。敵に牽制攻撃を仕掛けるためだ。
樹流徒が指先で触れると盾は粉々に砕け散って氷の刃となる。数十枚の透明な刃がベルゼブブの全身を貫こうと宙を疾走した。
直後、樹流徒は身構える。空を裂いて飛んだのは氷の刃だけではなかった。ベルゼブブも四枚の羽で風を切り地面スレスレを飛んでいる。再度、樹流徒に接近戦を挑んできた。
乱れ舞う氷の刃に対してベルゼブブは障壁を張るまでもない。バアル・ゼブルの口が攻撃を全て引き寄せて吸い込んでしまった。
ここに至ってようやく樹流徒は気付く。もしかするとバアル・ゼブルにはフルーレティと同じ能力が備わっているのかもしれない。氷や冷気の能力を全て吸収してしまう力だ。その証拠に、これまでバアル・ゼブルが飲み込んだ攻撃は、氷の渦、冷気の光、そして氷の刃と、全て同じ属性の能力である。
氷の刃を吸収したベルゼブブが迫り来る。樹流徒は回避しようと咄嗟に跳躍したが間に合わなかった。敵の突進こそかわしたものの、すれ違いざまベルゼブブに足を捕まれてしまう。
ベルゼブブは腕を振り回して樹流徒を地面に叩きつけた。さらに彼を真上に放り投げ、落下してきた無防備な背中に至近距離から暗黒の球体をぶつけた。
この攻撃をまともに受けたのは初めてだった。いままでとは比べものにならない衝撃が樹流徒を襲う。
彼は体を仰け反らせた状態で弾き飛ばされ、ゴムボールのように激しく地面を跳ねた。
体中が悲鳴を上げる。それでも樹流徒はまだ何とか立ち上がれた。
ベルゼブブの両手が水を汲む様な形をとって、宙に空洞を生み出す。闇の奥から蝿の大群が現われた。
蝿は樹流徒を取り囲み、一斉に襲い掛かる。
樹流徒は石化の白煙を吹いて煙幕を張った。さらに分身能力でダミーを二体生み出して蝿をかく乱しようと試みる。
その策も虚しく、煙幕を逃れた蝿はダミーを無視して全て樹流徒の元に向かってきた。
樹流徒は爪や炎の弾を連射して可能な限り敵を撃ち落とすが、やはり全滅させるのは不可能だ。十数匹の蝿が樹流徒の全身に取り付く。
ベルゼブブの瞳が紫色に光ると、蝿は一斉に爆発を起こした。
黒衣が弾け飛び、皮膚が破れ、樹流徒の足元に大量の血が広がる。視界がぐらりと揺れた。
このままでは負ける。何かベルゼブブの防御を崩す方法は無いのか?
血をを失いぼんやりとしてきた脳で、樹流徒は必死に思考を巡らせる。知恵を絞る。
答えはすぐに見付かった。むしろ何故今まで気付かなかったのか? 敵が障壁や魔法壁を張ろうと、防御を無視してダメージを与えられる能力があったはずだ。
樹流徒は血まみれの体を走らせた。ベルゼブブは仁王立ちで待ち構えている。防御に絶対の自信があるのだろう。樹流徒にとってはありがたかった。自信は油断に繋がる。ベルゼブブにつけ入る隙になる。
ベルゼブブの真正面から突っ込んだ樹流徒は、敵の数メートル手前で跳躍した。宙で爪を振りかざし、引いた腕に力を溜め、ベルゼブブの頭部めがけて突っ込む。
それは囮だった。樹流徒の狙いは物理攻撃ではない。
樹流徒はすぐ眼下に迫った敵めがけて赤紫色の炎を吹いた。邪霊レギオンが使用した幻の炎だ。この能力は物理攻撃ではない。相手の精神を攻撃して肉体に異変を起こさせる能力である。これならば魔法壁では防御できない。障壁でも防げないはずだ。
悪魔の目が微かに歪んだ。笑っているように見えた。
ベルゼブブの中心から黒い障壁が広がる。幻の炎は障壁に弾かれて消滅した。恐るべきことにベルゼブブの障壁は幻影をも打ち消すらしい。今度こそ、と信じて至近距離から放った樹流徒の一撃は、相手にダメージを負わせるどころか、自ら返り討ちに遭いに行くような結果に終わってしまった。
幻の炎と共に、樹流徒の体も弾かれる。高く舞い上がった彼を追って、ベルゼブブの巨体が躍動した。
樹流徒の体が床を跳ねて止まる。すぐさまベルゼブブは樹流徒の頭を掴んで持ち上げ、宙吊りにした。
バアル・ゼブルの口からシャボン玉のような水の塊が放出される。それは空気に触れると加速度的に大きくなって、樹流徒の全身を飲み込んだ。
樹流徒は四肢を暴れさせるが、水の牢から脱出できない。
ベルゼブブが手を触れると、乾いた音と共に水が弾けて樹流徒の体が後方へ吹き飛んだ。
これで地面を転がるのは何度目か。樹流徒は全身から力が抜けてゆくのを感じた。今まで戦ってきた悪魔の中でもベルゼブブの攻撃力は桁違いに高い。一撃一撃が信じられないほど重く体の芯まで響く。それに血を失い過ぎた。意識が朦朧としてくる。
樹流徒は拳を握り締めた。自分が動ける時間はもう残り少ないと分かる。ベルゼブブに攻撃を仕掛けられるのは、あと一回か二回が限度だろう。
こうなったら“あの方法”しかない。苦戦の中、彼は覚悟を決めた。
できればこんな方法は二度と使いたくなかったが、それ以外にベルゼブブを倒す方法が思いつかない。 一か八かの賭けに出る。魔王ベルフェゴールを倒したときと同じ戦法を使う。
そう……自爆だ。自爆の威力ならば魔法壁や障壁を貫通して敵に致命傷を与えられるかも知れない。
キーンと耳鳴りがした。視界に映る景色が左右に揺れる。ベルゼブブが三体に見え、四体に見え、また三体に見え。それを交互に繰り返した。
樹流徒は目を細くして視界の焦点を絞る。ベルゼブブの姿が一つに重なると、最後の力を振り絞って走り出した。敵への最短距離を突っ走る。
互いの間合いが近付くとバアル・ゼブルの両腕が伸びた。長い爪が容赦なく樹流徒の肩を突き刺す。
うっと声を漏らして樹流徒はその場で停止した。膝が笑う。またベルゼブブの姿が何重にも見えた。
ここで勝利を確信したか、ベルゼブブが口を開く。
「首狩りキルトよ。オマエは良く戦った。私との勝負だけではない。たった一人のニンゲンが我々悪魔を相手によくぞここまで戦い抜いた。単身魔界に乗り込んできた勇気も賞賛に値する」
「……」
「その勇気と力に敬意を表し、先ほど問わずにおいた事を敢えて問おう。私の配下にならんか?」
「……」
「私と共に歩めば、オマエは富、名声、権力、望むモノを何でも手にできるだろう。ただし、私の命だけは例外だが……」
「ならば意味は無い」
樹流徒は自分の両腕を触手に変えると、バアル・ゼブルの手首に巻きつけた。バアルゼブルの爪は樹流徒の両肩に深く食い込んだままだ。互いに互いを固定した状態である。これならば障壁の威力にも吹き飛ばされず済むかもしれない。もし今の密着状態が破られれば一巻の終わりだ。
樹流徒は最後の攻撃に出る。彼の体内から光と熱が放たれた。
自爆攻撃。これで敵にトドメを刺せなければ負け。トドメを刺せたとしても自分が助かる保障は無い。
それでも樹流徒はこの一撃に全てを賭けるしかなかった。
ベルゼブブは、樹流徒を無理に引き剥がそうとしなかった。これから自爆しようとする魔人の姿をただジッと見下ろしている。その時点で勝負は決まっているようなものだった。
ベルゼブブの手が、樹流徒の頭を掴む。途端、彼の全身から光と熱が急激に奪われていった。膨らんだ風船から空気が抜けるように体内のエネルギーが消滅してゆく。敵を倒すどころか自爆すらさせてもらえない。
一縷の望みを託した攻撃が失敗に終わった。
それでも樹流徒は最後の最後まで諦めない。自爆が不可能と見るや、バアル・ゼブルの手首に巻きつけた触手を外して、そのままベルゼブブの目を突き刺そうとする。
無情にも障壁が展開した。その衝撃で樹流徒の両肩から爪が抜け、彼の体は遠くまで吹き飛ばされる。
再び立ち上がる力は残っていなかった。手足を動かそうと思っても、指先一本動かない。
ここはイース・ガリアの最上階。今回ばかりは誰かが助けに現れる気配も無かった。自力でも、他力でも、もうどうしようもない。
ベルゼブブは四つの手を胸の前で重ねると、その前方に黒い炎の塊を生み出した。人間の胴体を丸々飲み込めるほどの大きさがある。それは音も無く前方へ飛び出して、身動きが取れない樹流徒の体に着弾した。
黒い炎が一気に燃え広がり、樹流徒の体だけでなくその周囲までをも包み込む。
全身がひりつく。自分の肉が焦げる臭いがする。
薄れゆく意識の中、樹流徒は詩織の顔を思い出した。
――さようなら。
彼女が最後に言った言葉が、脳裏を過ぎる。
すまない伊佐木さん……君を助けに行けなかった。
その言葉を思い浮かべたのを最後に、樹流徒の意識はぷつりと途絶えた。




