皇帝ベルゼブブ(前編)
ベルゼブブとは一体どういう悪魔なのか? 以前、樹流徒は南方に尋ねた事がある。
――巨大な蝿の姿をした悪魔だよ。“悪魔の皇帝”なんて風に呼ばれててね……
南方はそう言っていた。
あの話通りの外見を持つ悪魔が、今、樹流徒の前に佇んでいる。
体長四メートルを超す巨大な蝿だ。目は赤く、全身の皮膚は緑がかった黒に染まっている。六本の足は後ろの二本だけが異様に長く、その足で重たそうな体をしっかりと支えていた。透明な羽には黒いドクロの模様が二つ描かれている。また、胴体の上部から人間の顔が一つ浮かび上がっていた。若い男の顔だ。それは静かに瞳を閉じて口元に微笑を湛えていた。紫色に染まった肌は、枯れた植物のように生気を感じさせない。
イース・ガリアの最上階で樹流徒を待ち受けていたのは、背筋がぞっとするほど不気味な風貌の悪魔だった。
ただ同時に、この悪魔の佇まいには威厳が満ちている。まさに皇帝と呼ぶに相応しい貫禄が漂っていた。
悪魔の皇帝ベルゼブブ。魔界の実質的な支配者にして、バベル計画を主導していた者。
ひと目見ただけで底知れない実力の持ち主だと分かった。間違いない。この悪魔がベルゼブブだ。運命の宿敵を前にして樹流徒の全身に微弱な電流が走る。
不思議と声は出なかった。相手に聞かなければいけないこと、言いたい事が数え切れないほどあるはずなのに、それが言葉にならない。
ベルゼブブと対峙したとき、自分は理性を失って怒り狂うかもしれない。あらん限りの罵声を敵に浴びせるかもしれない。さっきまで樹流徒はそう思っていた。
意外にも自分が想像していたような興奮は起こらなかった。体は熱くなるどころかむしろ冷たい。心臓が鼓動するたび、血液の代わりに冷水が全身に送られているような感じだった。
未だかつて体がこんな反応を示したことは一度も無かった。こんな気持ちになった事も無い。今自分が感じているのは怒りなのか? 殺意なのか? 分からなかった。あるいは復讐という行為に対して急に虚しさを覚えてしまったのか? 正体不明の、底冷えするような感情が心を満たしてゆく。
数十秒。それとも数分か。樹流徒にとって異常に長く感じられる時間、両者は無言で見詰め合っていた。ベルゼブブはベルゼブブで、樹流徒に対して何か特別な思いがあるのかもしれない。二人は自分の心と相手の表情をじっくりと確かめるように、重い静寂の中で停止していた。
一種異様な沈黙を破って、ようやく口火を切ったのはベルゼブブ。
「首狩りキルト。オマエの強さと執念には敬服する。並み居る魔王を退け、遂にここまで――」
「黙れ」
樹流徒は相手の言葉を遮った。ベルゼブブの声に反応して衝動的に口が動いてしまった。
言い終えてから、はっとする。思わず口をついて出てた己の声が、まるで自分のモノではないように重く冷たく感じられた。それで樹流徒は、自分の心がどういう状態にあるか、ようやく掴めた気がした。
人は怒りや悲しみを通り越すと、呆れたり、おかしくなったり、ときには無関心になる。
今の樹流徒がそれと似たような状態だった。怒りという言葉では足りない怒り。憎悪という言葉では生温い憎悪。感情を超えた先にある感情が、彼を未体験の心理状態にさせたのである。樹流徒は決して復讐という行為が虚しくなってしまったのではない。ベルゼブブに対する怒りが余りにも強過ぎたのだ。
いま自分が置かれている心境をおぼろげながらに理解した樹流徒は、ようやくまともに口が利けるようになった。
「ベルゼブブ。俺はずっとお前に会いたかった。お前の口から真実を聞き出し、皆の仇を討つために俺は……」
が、いざ口を開くと言葉に詰まる。これ以上自分の想いを喋れば様々な感情が胸に込み上げて抑え切れなくなりそうだった。すでに体を巡っていた冷たさが消えて沸沸と熱い血が全身を焦がそうとしている。
一度落ち着かなければいけない。冷静さを失えば、強敵には勝てない。
樹流徒は震える息を吐くと、眼前の悪魔に問う。どうしても聞かなけばいけない事があった。
「ベルゼブブ。お前がバベル計画を指揮してきた悪魔であることは分かっている」
「……」
「だが計画を思いついたのは誰だ? もしかしてお前はある天使から計画を立案されたんじゃないか?」
樹流徒の目はいつになく鋭さを増した。
メイジの予想によれば、聖界の情報をベルゼブブに漏らした天使がいる。その天使がベルゼブブにバベル計画の実行を勧めた可能性があるという。仮にその憶測が事実なら、魔都生誕の実行犯はベルゼブブだが、真の黒幕は計画を立案した天使と言って良い。
真の黒幕がいるならば、その者の名を今すぐに問う必要があった。真実を知るのはベルゼブブしかいないのだから。
するとベルゼブブは威厳のある低い声で答える。
「そこまで感付いてるとはな」
樹流徒の言葉を否定しなかった。
「認めるのか? お前にバベル計画の実行方法を教えた天使の存在を……」
「……」
「それは誰だ?」
「名は明かせない。私もあの天使も互いを信用などしていないが、一応協力関係にあるのだからな」
「ふざけるな!」
樹流徒は叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「言え! バベル計画の真の黒幕は誰だ?」
「黙れと言ったり喋れと言ったり、忙しいニンゲンだ」
「話をそらすな。黒幕の名を吐け」
「名は明かせないと言ったはずだ。しかし安心するがいい。万が一にもあり得ない話だが、オマエが私を倒し生き延びるようなことがあれば、いずれお前はその天使と出会うことになるだろう」
「そんな返答で俺が納得すると思うか?」
「納得できなければ、どうする?」
「……」
どうしようもなかった。ベルゼブブに真実を語る気が無いのであれば、それまでだ。たとえ樹流徒が凄んでも、声を枯らしても、意味は無い。
樹流徒は歯噛みする。無念だが、これ以上ベルゼブブを問い詰めても黒幕の名前を吐かせるのは不可能だろう。悔しいが相手の言葉を信じるしかない。ベルゼブブを倒せばいずれ必ず黒幕にたどり着けるという、何の確証も無い敵の言葉を。
樹流徒は拳を硬く握り締める。
「お前たち悪魔がどれだけ聖界に帰還したいのかは分からない。それに俺はバベル計画を止めるつもりは無い。だがお前は計画実行のために多くの人間を生贄に捧げた。それだけは例えどんな理由があろうと許されないことだ」
「ニンゲンとは思えぬ殺気だな。どうやらオマエをこちら側に引き入れるのは難しそうだ。もしオマエにその気があるならば、これまで我々の計画を妨害してきた罪をすべて水に流し、オマエを私の腹心として召し抱えてやっても良い。そのような提案をしようと考えていたのだが、口にする前に無意味だと悟った」
「俺の怒り。死んでいった人たちの無念と、彼らが味わった死の恐怖。全ての痛みを、ここでお前に返す」
「ならば私はオマエを葬り、オマエの中に封じられた悪魔たちの魂を解放しよう」
互いにこれ以上交わす言葉は無い。あとはどちらかが滅びるのみ。
先手を打ったのはベルゼブブだった。垂れ下がっていた異形の腕(前足)が緩やかに上がる。手の先端が深く裂けて三つに枝分かれし、指になった。
広がった指の中心から黒い光の球体が現れる。樹流徒の片手でも掴めるほど小さな光球だ。それはベルゼブブの手から放たれると一瞬で膨張し、樹流徒の全身を包めるほどの大きさになった。
巨大化した暗黒の球体が樹流徒に照準を合わせて直進する。目で追えないほどのスピードではないが、かなりの弾速だった。
樹流徒は魔法壁を展開して暗黒の球体を防御する。球体が弾けて周囲に闇の光を飛散させた。空気が激しく震えてビリビリと音を立てる。魔法壁が粉々に砕け散った。
初っ端から敵の強力な能力を見せ付けられて樹流徒は息を飲む。ベルゼブブが放つ暗黒の球体には魔法壁を相殺するだけの威力がある。まともに食らってはいけない攻撃だ。無論、それを目の当たりにしても樹流徒に恐怖は無かった。ベルゼブブの能力に対する恐ろしさよりも、怒りの方が何百倍も強い。
今日、この場所で、一つの復讐を終わらせる。決意を胸に樹流徒は駆け出した。最初から全力。敵に接近戦を仕掛けていきなり勝負を決めるつもりだった。
迎え撃つベルゼブブは動かない。身構えもせずその場で棒立ちになっている。
あからさまに無防備な敵の様子に樹流徒は漠然と嫌な予感を覚えた。だが敢えて足は止めない。ベルゼブブが何を企もうとそれを上回る一撃を浴びせれば良いだけだ。自分にそう言い聞かせて突っ込んだ。
視神経に集中力を注ぐ。樹流徒の視界を流れる景色が急激に緩やかになった。
敵は音無しの構えを取っている。まだ何も仕掛けてこない。
樹流徒は床を強く蹴って宙に舞った。爪を振りかざし、ベルゼブブの頭上から飛びかかる。歯を食いしばりありったけの怒りと力を込めて一撃を放った。
直後、樹流徒は不思議な光景を目にする。あと僅かで自分の爪が敵に届くというとき、ベルゼブブの羽に浮かぶドクロが紫色の光を放った。そのあと樹流徒の視界に映ったのは寸秒の闇と、目まぐるしく回転する世界。そして頭上に浮かぶ無数の星明りだった。
背中に軽い鈍痛が走る。樹流徒はベルゼブブからかなり離れた床に倒れて星空を仰いでいた。
何が起こったのか分からない。ベルゼブブの羽が光ったかと思えば、視界が暗転して、目に映る景色がぐるりと回り、今の状況になっていた。かろうじて理解できるのは自分の攻撃がベルゼブブに命中しなかった事と、敵からカウンター攻撃を浴びて吹き飛ばされた事だけだった。
幸い、床に叩きつけられた背中の痛み以外は特にダメージは無い。樹流徒はすぐに跳ね起きた。きっとベルゼブブを睨み、両手から火炎砲を同時に発射する。
迫り来る二つの炎を前にしてもベルゼブブは微動だにしない。
火炎砲が命中する寸前、透明な羽がドクロの模様を怪しく光らせた。ベルゼブブを中心に黒い光が広がり黒い球状の障壁を生み出す。色は違うが魔法壁と良く似ていた。
それが樹流徒の体を吹き飛ばしたものの正体だった。黒い障壁は火炎砲を二発とも受け止めるとすぐに消滅する。無傷のベルゼブブだけがそこに残った。
このままではいけない。樹流徒は努めて冷静になった。
接近戦を仕掛ければ吹き飛ばされ、火炎砲を放てば防御された。力任せの単純な攻撃を正面から仕掛けてもベルゼブブの防御は破れそうにない。怒りだけで勝てる相手ではないのだ。
ならば別の方向から攻めるまで。樹流徒は足下に円形の光を浮かべる。それを踏むとベルゼブブの真下から岩の針が飛び出した。
針は虚しく空を切る。樹流徒の足下に光が浮かんだ時点で、ベルゼブブは上に跳躍していた。素早く宙に舞った巨体が羽を小刻みに振動させてホバリングする。その状態のままベルゼブブは眼下の樹流徒に手を向けた。三又に広がった指の中心からまた黒い光の球が生まれる。
暗黒の球体はベルゼブブの手を離れると膨張。高速で樹流徒に接近した。
まだ魔法壁は使えない。樹流徒は攻撃を避けるべく真横に駆ける。いつも以上に素早い判断だった。もし暗黒の球体が単に直進するだけの攻撃であれば、樹流徒の回避は確実に間に合っていただろう。
だがベルゼブブの攻撃は追尾性能を持っていた。暗黒の球体はスピードを緩めず樹流徒に狙いを定めて軌道を修正する。引き合う磁石のように獲物へ飛びつくその動きは、イブ・ジェセルの砂原が得意とする突進攻撃と良く似ていた。
避けられないと判断した樹流徒は咄嗟に攻撃から防御へ切り替える。フルーレティが使用した氷の盾を自分の前に出現させた。
暗黒の球体には魔法壁を相殺するだけの破壊力がある。一方、氷の盾には魔法壁ほど耐久力がない。
必然、暗黒の球体が氷の盾を破壊して樹流徒に命中した。禍々しい黒い光が樹流徒を包む。針で突かれたような痛みと鉄の塊を受け止めたような衝撃が彼の全身を襲った。
樹流徒の体は後方へ吹き飛び、床を激しく転がって停止する。
全身を駆け巡る激痛が治まらない。かといって床で寝ていれば攻撃の的にされるだけだ。樹流徒は痛みを堪えて立ち上がった。氷の盾が身代わりになってくれた分だけダメージを軽減できたのだろう。それがなければすぐには起き上がれなかった。
高い位置でホバリングしていたベルゼブブが羽を畳んで着地する。
樹流徒は電撃で牽制しようと動きかけて、思い留まった。ベルゼブブの赤い両目がぼんやりと白い光を放ち始めたからだ。
何か来る、と踏んで樹流徒は横に駆ける。半瞬後、彼が立っていた場所をベルゼブブの瞳から放たれた閃光が走り抜けていった。白い閃光は地面に直線を引いて激しい炎を燃え上がらせる。攻撃を中断しなければ樹流徒が床の代わりに火達磨になっていただろう。
間一髪敵の攻撃をかわした樹流徒は、足を止めてすぐに腕を振り払った。その軌道上に氷の円盤が出現する。人間の胴体を真っ二つにできるほど大きな円盤だ。縁に沿ってノコギリの刃みたく細かなギザギザが入っている。
円盤は出現した位置で高速回転したあと弾き出された。ベルゼブブめがけてまっしぐらに飛んでゆく。
ベルゼブブは円盤を十分に引きつけてから羽のドクロを光らせた。黒い障壁が発生し、氷の円盤を受け止める。円盤は障壁との摩擦で粉々に砕け散った。
難なく防御を成功させたベルゼブブは反撃に出る。樹流徒に向けた手の中心から、またも暗黒の球体を飛ばした。
それを見て樹流徒は二体の分身を生み出す。追尾性能を持つ敵の攻撃を分身にひきつけようという狙いだった。
あえなくその思惑は外れる。ベルゼブブの手から射出された暗黒の球体は、二体のダミーを無視して本物の樹流徒に向かって迷い無く飛んできた。その速さは樹流徒の走行および飛行スピードを幾分上回っている。つまり回避できなかった。
樹流徒が取れる選択は防御しかない。彼は咄嗟に氷の盾を張って、さらに防御を固める。
暗黒の球体は当然のように氷の盾を突き破った。そして樹流徒の体を包んで弾ける。
精神までをも蝕む痛みと激しい衝撃が全身を襲った。気を抜けば意識を失ってもおかしくない。樹流徒は瞼を強く閉じて痛みに耐えながら、何とか足を踏ん張る。
ベルゼブブの瞳から白い閃光が連続で放たれ、樹流徒のダミーを二体とも消滅させた。
そのあいだに痛みから回復した樹流徒は、自身の周囲に青白い光を三つ浮かび上がらせる。三つの輝きは連続で爆ぜ、それぞれ白い光の柱となりベルゼブブを襲った。
ベルゼブブは驚異的な反応速度で真上に跳躍する。最初の光が樹流徒の元から放たれたときにはもう安全圏に逃れていた。
その素早さに一驚を喫した樹流徒だったが、すぐに両手を頭上に向ける。火炎砲と電撃で逃げる敵を追った。
対するベルゼブブは地上だけでなく空中でも驚異的な瞬発力を発揮する。蝿の姿をした悪魔だけに、元より空中で動き回るのは得意なのかもしれない。ベルゼブブはその巨体からは想像もつかないほど鋭い加速で宙返りをして攻撃を避ける。まるでいつも樹流徒が敵に対してやっているような、華麗な回避だった。
すっかりお株を奪われた樹流徒だが、敵の素早さに翻弄されることなく冷静に波状攻撃を仕掛ける。頭上を飛び回るベルゼブブを良く狙って両手から同時に電撃を放った。青い雷光が交差して長いXの文字を虚空に刻む。その輝きがベルゼブブの飛行軌道と見事に重なった。
しかし黒い障壁がベルゼブブの全身を包んで雷光を遮る。
厄介な能力だ。障壁に守られた頭上の敵を樹流徒は厳しい目付きで仰ぐ。
ベルゼブブが使用する黒い障壁は、抜群の強度を誇り、ベルゼブブの全身をくまなく守る。加えて再使用までの時間が非常に短い。魔法壁の強化版とも言える能力だった。
だが付け入る隙はある。ベルゼブブの黒い障壁が、全てにおいて魔法壁の性能を上回っているとは限らない。
黒い障壁には一つだけ弱点があった。それは能力の持続時間だ。
通常の魔法壁は一度展開すると数秒間は効果が維持するが、障壁はすぐに消えてしまう。実際障壁が出現している時間はどれも短かった。
先ほどの攻防で樹流徒が光の柱を放った時、ベルゼブブは障壁で防がず上空へ逃れた。あれも障壁の持続時間が短く光の柱を全て防御するのが不可能だったためだろう。
少し勝機が見えてきた。敵の障壁が消えた瞬間が狙い目だ。たとえベルゼブブが障壁を連続使用できたとしても、その間に僅かな隙が生じれば攻撃を与えられる。
もっとも、敵に攻撃を与える前に、敵からの攻撃をやり過ごさなければいけない。
樹流徒の波状攻撃をしのぎきったベルゼブブが攻撃に移る。異形の腕が黒い光を帯びた。ベルゼブブが腕を大きく振り払うと、黒い光は三日月状になって宙に放たれる。
光は横に大きく広がりながら樹流徒の目線と同じ高さで彼の元に飛来した。