因縁の敵
この悪魔の顔を、声を、そして気配を、樹流徒が忘れるはずもなかった。
フルーレティはベルゼブブの腹心。そしてメイジを悪魔の仲間に誘った者でもある。樹流徒にとっては因縁深い相手だった。
かたやフルーレティも樹流徒の気配や背格好を良く覚えていたのか、仮面で顔を隠した彼の正体を難なく見破った。また、フルーレティの立場から言えば、首狩りキルトはバベル計画を妨害し何人もの仲間を殺してきた仇敵である。因縁の相手と思っているのはお互い様かもしれない。
フルーレティは紫がかった唇に隠微な笑みを湛える。
「よくここまでたどり着いたな。大人しく“アバドン”の餌食になっていれば良かったものを……」
「アバドン? あの沼に潜んでいた生き物か?」
「そうだ。奴の怒りに触れた者は誰一人助からない。オマエも虫けらのように潰されて死んでいただろう。唯一の例外はベルゼブブだ。あの方ならばアバドンと対峙しても命を落とす事は無い」
とフルーレティ。樹流徒よりもベルゼブブの方が格上だと遠回しに言っているようだった。
どこか挑発的な台詞を吐いたフルーレティは、樹流徒の怒りをいなすように話題を変える。
「さて首狩りよ。ここまで来た褒美としてオマエに素晴らしい提案を与えよう」
「提案だと?」
「そう。今からでも良い。大人しく魔壕を去れ。そして二度と我々の前に姿を現すな。そうすれば我々も二度とオマエに手を出さないと約束する」
「……」
「それだけではない。この提案を受ければ、魔壕以外の好きな場所にオマエの城を建ててやる。さらに忠実な部下を千人と、一生遊んでも使い切れない硬貨を進呈しよう。我々の計画により故郷を失ったオマエに対するささやかな侘びの気持ちだ。いかがかな?」
馬鹿にするのも大概にしろ。樹流徒は胸の内で叫んだ。
「そんな提案に乗ると本気で思っているのか?」
「いいや、思っていない。だから私はオマエが憐れでならない。つまらぬ復讐にこだわり、挙句の果てここで命を落とすオマエが、滑稽で、惨めでならない」
フルーレティは饒舌に語る。さっきの遠回しな挑発といい、今回のふざけた提案といい、樹流徒の神経を逆撫でするために言っているのだとしたら、効果はてきめんだった。
樹流徒の瞳に怒りの炎が揺れ、血が沸々と熱くなる。サレオスを倒したときは心の中に嫌なモノが広がったが、今眼前に立っている悪魔を倒しても同じ気持になれる自信がなかった。
高まる興奮と漲る殺気を何とか押さえ込む。できれば今すぐフルーレティに飛び掛りたい気分だった。しかしそれはできない。戦う前にどうしても敵に問うべき事があるからだ。
樹流徒は軽く呼吸を整えてから、やや強い口調で尋ねる。
「答えろ。なぜバベル計画を実行する場所に俺たちの故郷を選んだ?」
「……」
「偶然なのか? それとも特別な理由があったのか?」
フルーレティは微かに鼻をふっと鳴らして微笑する。
「敵であるオマエに教えてやる必要性がない。先ほどの提案を受け入れてオマエが魔壕を去るというならば話は別だがな」
「提案には乗らない。だが回答の拒否もさせない。答えろ」
「何度でも言おう。敵であるオマエに答える必要性がない」
これ以上口で言っても無意味らしい。
かくなる上は実力で吐かせるしかないだろう。それでも吐かなければ倒すまで。
樹流徒が殺気を放つと、共鳴するようにフルーレティからも殺気が放たれる。
戦いの幕が切って落とされた。
樹流徒は腕を振り払う。彼の前に氷の矢がズラリと並んだ。矢は標的に向かって一本ずつ飛ぶ。
フルーレティは避けなかった。掌の中心で氷の矢を全て受け止める。
矢が先端から奥までフルーレティの手に突き刺さった。正しくは吸い込まれた。まるで土が水を吸うように、フルーレティの手が矢を次々と飲み込んでしまったのだ。しかもその手には傷跡が一切残っていない。
どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべてフルーレティは人差し指を頭上に掲げる。
天井付近のあちこちに氷の粒が生じた。数は三十くらい。直径一センチにも満たないその粒は、宙に出現すると見る間に大きくなって形を変えた。いずれも箸ほどの長さを持つ氷柱の形をとる。
天井に散らばった氷柱は皆同じ方に顔を向けていた。もし彼らに瞳が付いていれば、そこには魔人の姿が映っていたはずである。
フルーレティが手を振り下ろすと、氷柱は一斉に宙から弾き出されて樹流徒の元に殺到した。
頭上から飛んでくる攻撃を樹流徒はかわす。かわしきれないものは全て爪と空気弾で叩き壊した。そして最後の氷柱を横っ飛びで回避し、フルーレティに手を向ける。火炎砲で反撃した。
フルーレティは余裕の笑みを浮かべたままその場から動こうとしない。彼は向かってくる炎の塊にそっと掌を向けた。氷の矢を受けたときと同じだ。
火炎砲は標的にぶつかると爆発して飛び散るのが特徴だが、今回はそれが起きなかった。
炎の塊は爆発もしなければ飛び散ることもなく、フルーレティの手に吸い込まれてゆく。これも最初に放った氷の矢と同じ現象である。
一瞬の内に起きた出来事だったため、良く注意して観察しなければ、まるでフルーレティが火炎砲をそのまま吸収したように見えた。しかし樹流徒の動体視力はいま目の前で起きた現象を正確に捉えていた。
フルーレティが吸い込んだのは火炎砲ではない。氷の塊だった。フルーレティは手に触れた火炎砲をあっという間に凍らせて氷塊と化し、それを吸い込んだのである。
どうやらフルーレティは特殊な能力を少なくとも二つ持っているらしい。
一つは手で触れたものを凍らせる力。もう一つは氷を吸収する力。それ単体でも便利な能力だが、組み合わせて使うと格段に凶悪性を増す。たった今見せたように炎を凍らせて吸い込んでしまうことも可能なのである。
ならば相手の能力で防げない攻撃をぶつけるまで。樹流徒は両手を前に出した。
乾いた不快音が立て続けに鳴る。左右の手から放たれた青い雷光が標的を射抜こうと空を裂いた。
炎は凍結できても雷は無理だろう。フルーレティも動かざるを得ない。
と言うより、彼は逸早く動いていた。樹流徒の手から雷光が飛び出すよりも早いか、フルーレティは楕円形の薄い氷を自分の前に出現させていたのである。いわば氷の盾だ。
宙で制止する氷の盾はフルーレティの前面をほぼ完全に覆い、雷光を二発とも遮断した。
それだけでは終わらない。フルーレティが人差し指で氷の盾を突くと、盾がバラバラに砕け散った。砕けた氷は数十のナイフに早変わりして前方の広範囲に飛び散る。その内の数本が散弾となって樹流徒を襲った。
回避は間に合わない。樹流徒は魔法壁で氷の散弾を遮断する。
壁が消滅する瞬間を狙ってフルーレティが手の先から氷塊を飛ばした。大の大人が両手で抱えられるかどうかというサイズの氷塊だ。それが高速で樹流徒に突っ込む。
樹流徒は素早く床を転がって回避する。膝を起こしたときには彼の周囲に三つの青白い光が浮かんでいた。
全ての光が同時に爆ぜ、膨張し、巨大な柱となって前方の空間を白く埋め尽くす。
フルーレティは避けなかった。今度は掌を前に出しすらしない。その場で棒立ちになる。
三本連なった光の柱は全てフルーレティの体に吸い込まれてしまった。この悪魔は手だけでなく全身で氷を吸収できるらしい。つまりフルーレティに対しては氷や冷気の能力が一切通用しない。
火炎砲、電撃は防がれた。氷の能力は最初から通じない。となれば、ここはひとつ接近戦を仕掛けてみるか。
そんな風に樹流徒が考えていると、意外にも敵の方がそれを実行してきた。
フルーレティは地面を蹴るとやや前傾姿勢になって地を駆ける。勢いに乗った駿馬の如き速さだった。指先にはいつの間にか氷の爪が生えている。
互いの手が届く位置まで両者が接近した。突進の勢いそのままフルーレティは先手の一打を繰り出す。垂れ下がった腕を鞭のようにしならせて爪を振り上げた。
樹流徒は爪で防御する。予想外の衝撃に驚いた。悪魔の能力が見かけに寄らないのは分かりきっている。スラリとした体型のフルーレティに大型悪魔並の力があったとしても不思議ではない。それを理解した上で、フルーレティの力は樹流徒の予想を大きく上回っていた。
敵の怪力に押されて樹流徒の上体が僅かに揺れ動く。
その隙を見逃さずフルーレティの腕がすっと伸びた。樹流徒の手首を掴みにかかる。
やや不安定な態勢ながら樹流徒はとっさに腕を引きながら後ろへ跳んだ。その際、フルーレティの指先がローブの裾に触れる。
着地した樹流徒は腕に小さな重みを感じて視線を落とした。そして驚きに目を見張る。ローブの袖が三分の一ほど凍り付いていた。そういえばフルーレティの手には触れたものを凍りつかせる力があるのだ。魔人の肉体とて例外ではないだろう。絶対、あの手に捕まってはいけない。
何とか危機を逃れた樹流徒をフルーレティが猛然と迫った。顔から余裕の笑みが消えている。ただ、目の奥は依然として冷静なままだった。
樹流徒は接近戦に応じる。
フルーレティの長い腕が大きな弧を描いて樹流徒の側面から食い込むように攻めてくる。
わき腹を狙って飛んできた氷の爪を、樹流徒は悪魔の爪でしっかりと受け止めた。先の攻防でフルーレティの並外れた腕力は把握済みだ。もうその圧力に虚を突かれることもなかった。
敵の攻撃を防いだ樹流徒は爪を斜めに振り下ろして反撃する。フルーレティも負けじと防御した。
一発で駄目なら連続で叩き込むまで。接近戦の第一打を防がれた樹流徒は、体を独楽のように回転させて両手の爪を連続で払った。
が、これもフルーレティに全て防御される。自ら肉弾戦を挑んできただけあってフルーレティの動きは見事なものだった。攻撃の鋭さも、防御の技術も一級品だ。
樹流徒の足が止まると、フルーレティは大胆に前進して樹流徒の首元めがけて手を放り込んできた。こうした意表を突くような動きもかなり上手い。
ただ、樹流徒がフルーレティの腕力を多少読み誤っていたように、フルーレティも樹流徒の実力を侮っていたのかもしれない。
不意を突こうしたフルーレティの動きを魔人の目は冷静に見ていた。
樹流徒は素早く頭を下げて敵の手をすり抜ける。すかさずフルーレティの腹に爪を突き立てた。
十分な手応えが指先に伝わってくる。
十分過ぎる、と言った方が良いかも知れない。妙な感触を覚えて、樹流徒は敵に攻撃が通らなかったと直感した。
事実、樹流徒の爪はフルーレティの皮膚に浮かび上がった物体に受け止められていた。
分厚い氷の板だ。氷の装甲とでも呼べば良いのか。それはフルーレティの皮膚からぬるりと飛び出し、樹流徒が攻撃を当てようとした箇所をピンポイントで防御していた。まるで寄生生物が宿主であるフルーレティを守るため体内から飛び出してきたようだった。
フルーレティの防御方法は甚だ意外だったが、驚いている場合ではない。
反撃を察知した樹流徒はすぐさま飛び退く。彼の鼻先を氷の爪が通り過ぎていった。
フルーレティは端正な唇を片端だけ持ち上げる。
「なるほど。接近戦では少々分が悪いか」
と呟いた。
もしこの場で二人の戦いを眺めている者がいれば、彼の目には決してフルーレティが不利には見えなかっただろう。樹流徒自身も己が接近戦で有利とは感じていなかった。
それでもフルーレティは不利と判断したらしい。
彼は接近戦を捨てた。地面スレスレを飛行して真っ直ぐ後ろへ下がりながら両手を前に出す。
逃げるフルーレティの前方に十数本の氷柱が現われた。大きさは人間の腕ほどある。急所を貫かれたら絶命は必至だ。
虚空に出現した氷柱は二、三本ずつ射出され、樹流徒に飛び掛かった。
樹流徒は視神経に注力する。途端、視界の中で流れる景色が驚くほど緩慢に感じた。降世祭でラーヴァナと戦った時と同じ現象だ。
スローモーションで飛来する氷柱を紙一重でかいくぐり、樹流徒は敵に近付く。
フルーレティは明らかに接近戦を嫌い、大きく横に跳んで樹流徒の突進をいなした。
樹流徒は敵の着地を狙って口から青い炎の球体を三連射する。
二発は命中せず。残り一発は狙い通りに飛んだが、それもフルーレティの指先に触れて氷漬けにされてしまった。氷解と化した炎の球体はフルーレティに吸い込まれる。
「今の炎はマルコシアスの能力だな……」
フルーレティは心なしか不快そうな目付きになった。
「マルコシアス。バフォメット。フラウロス。レオナール。ブエル。そしてアミー。同志である彼らの魂は全てオマエの中に封じ込められている。オマエが生きている限り、彼らは魔界に転生できない」
「……」
「首狩りキルトよ。我々悪魔にとって、オマエは存在そのものが罪だ」
言い終わるや否やフルーレティは手を振り払った。
その軌道上に氷の円盤が現れる。良く見ると周りがノコギリの刃みたく細かいギザギザになっていた。
円盤は出現場所に数秒間留まって高速回転したあと、樹流徒めがけて真っ直ぐに飛ぶ。
樹流徒は横に駆けて氷の円盤から逃れた。
余裕でかわしたかと思いきや、円盤の軌道が急に変わって追跡してくる。
戦闘経験が少ない者であれば避けられなかっただろう。その点、ここまで幾多の敵と戦ってきた樹流徒は落ち着いて対処できた。
彼はとっさに虚空から氷の鎌を取り出して氷の円盤を受け止める。激しく小刻みな音を立てて鎌と円盤が互いの身を削りあった。
防御で身動きが取れない樹流徒を狙ってフルーレティが大きな氷塊を飛ばす。
危険を察知した樹流徒は魔法壁を展開した。フルーレティが飛ばした氷塊と円盤はどちらも己の推進力や回転力を魔法壁にぶつけて粉々に砕け散った。
魔法壁が消えると、樹流徒とフルーレティが同時に攻撃を放つ。
樹流徒の周囲に十近くもの岩塊が出現した。憤怒地獄の鉱山内部で遭遇した牛頭悪魔モロクの能力だ。いずれも先端を尖らせた岩塊が、敵めがけて一つまた一つと宙から弾き出された。
それに対抗してフルーレティは十数本の氷柱を呼び出して射出する。
両者の攻撃が空中で交差し、ぶつかり合った。
衝突した岩塊と氷柱は互いに砕け散り、あさっての方向へ跳ね返り、軌道が逸れて標的から外れてゆく。
樹流徒の元まで飛んできた氷柱はたったの三本だけだった。追尾性能も無いので難なくかわす。
一方、フルーレティめがけて飛んだ岩塊も同じ三発。それらは標的のすぐ手前でバラバラに砕け散った。フルーレティが長方形の氷壁を地面から出現させて岩塊を全て防いだのである。手を伸ばしても届かないほど高く、腕を回せないほど分厚い氷壁だった。岩塊三つだけでは表面に浅い凹凸を生むのがやっとだった。
役目を終えた氷壁は自然と消滅する。そのときにはもう樹流徒が地面を疾走してフルーレティに迫っていた。
フルーレティの手前には砕けた岩塊の破片が転がっている。樹流徒は低い跳躍でそれを飛び越えて敵に踊りかかった。
フルーレティは横に跳んで地面を転がる。可能な限り肉弾戦は避けたいのだろう。
樹流徒は着地すると即、身を翻して逃げた敵を追った。
足の速さは樹流徒が上と踏んだか、フルーレティは逃げるのを諦める。床を転がった体を素早く起こし、その場で身構えた。
樹流徒は指先からフラウロスの長い爪を伸ばす。この爪ならばフルーレティが使う氷の爪よりもリーチが長い。相手よりも先に手を出すことが出来る。
ところが先に腕を伸ばしたのはフルーレティだった。まっすぐ突き出した彼の手に、突如武器が出現する。それは氷のレイピアだった。長細く美しい刃は、樹流徒の爪よりもリーチで勝っている。
フルーレティの手中に忽然と出現したレイピアが標的の額を貫いた。
確かな手応えを感じたのだろう。フルーレティの唇が笑みと思しき微動を見せる。
次の刹那、その表情が固まった。
フルーレティのレイピアが貫いたのは樹流徒の額ではない。樹流徒が装備していた仮面だった。
間一髪レイピアを避けた樹流徒は、フラウロスの爪を解除しながら相手の懐に入り込む。潰れるほど拳を握り締めて力の限り腕を振った。
普通ならば通る攻撃だった。しかしフルーレティには氷の装甲がある。樹流徒が狙いを定めた場所にピンポイントで分厚い氷の板が出現。フルーレティを守った。
樹流徒の目がかっと見開く。彼は腕の力を一切緩めなかった。魔人の皮膚に埋め込まれた電気回路のような線が激しく明滅する。
そして衝突。ゴキンと嫌な音が鳴った。樹流徒の拳が氷の装甲に砕かれた音に聞こえた。
現実は真逆だった。樹流徒の拳が氷の装甲を粉々に打ち砕き、その下にあるフルーレティの肉体に鮮烈な一撃を叩き込んでいた。