鰐(わに)の騎士
樹流徒が四方八方に飛ばした針で周囲の悪魔は粗方片付いている。残りをルキフゲとアガレスが協力して倒し、敵は誰もいなくなった。
「こっちだ。先の角を曲がれば目の前に階段がある」
ルキフゲが先陣を切って廊下の奥へと駆けてゆく。
その背中を追いながら樹流徒は尋ねた。
「お前は最上階までの道順を知っているのか?」
「知っている。でなければリリスはオレたちに協力など求めなかったハズだ」
ルキフゲは前を向いたまま答えた。
城内は異様な状態だった。無人の廊下におびただしい量の血痕や、持ち主を失った武器が散乱している。樹流徒が城に侵入する前から激しい戦闘が起こっていた証拠である。ベルゼブブ軍の一部が反乱軍に寝返った、と樹流徒は確信した。背信街のあちこちで暴れ回っている悪魔や、いきなり味方に襲い掛かったガーゴイルたちを見た時から、謀反が起きている事はほぼ確信していた。それが城内の様子を見た事で、より絶対的な確信へと変わったのである。
“ベルゼブブ軍(背信街の住人)の二割が反乱軍に寝返った”とリリスは言っていた。この二割は実際の数字よりも遥かに大きな効果を発揮するだろう。人間で例えれば分かりやすい。武装した十人の兵士がいる。その内の二人が突然裏切ったら、果たしてどうなるだろうか。奇襲を受けた八名の内、何人が戦闘不能になるか? たった一人や二人の犠牲で済むのか? 今、背信街ではそういう事態が起こっているのである。
ベルゼブブ軍を襲っているのは、味方が裏切ったという恐怖だけではなかった。恐怖はやがて「誰が裏切り者か分からない」という疑心暗鬼を生む。それが今頃はベルゼブブ軍をさらなる混乱に陥れているはずだ。今、隣にいる仲間が実は反乱軍に寝返っているかもしれない。そんな心理状態に襲われれば、余程神経が太い悪魔でない限りまともに戦えるはずがなかった。
城内の手薄な守りが、謀反工作の絶大な効果をありありと物語っているように見える。もぬけの殻となった廊下を樹流徒たちは突っ切った。
廊下を曲がるとすぐ、視界に階段が飛び込んできた。
間近で見ると視界に収まり切らないほど大きな階段だ。人間が十人くらい並んで歩けるほどの広さがある。それが何度も折り返しながら遥か頭上まで続いていた。上りだけではなく下りの階段もあるが、樹流徒たちが進むべき道は決まっていた。ベルゼブブは最上階にいるのだ。下に降りてもしょうがない。
折り返しの階段を右往左往するように慌ただしく上ってゆくと、途中で一体の悪魔と出くわした。
恰幅の良い牛頭の悪魔だった。赤銅色の胸当てを身につけ、手には返り血にまみれた斧を握り締めている。真っ赤な目が樹流徒たちの姿を発見してパチパチと瞬いた。
「ルキフゲとアガレス。どうしてオマエらがここにいる?」
質問が終わったときにはルキフゲの手から黒い光の弾が放たれていた。
光弾は敵の分厚い腹をいとも容易く貫通する。前のめりに倒れた牛頭悪魔は身動き一つ取らず階段を転げ落ちていった。その様子を振り返る間も惜しんで樹流徒たちは先を目指す。
階段を上りきると、息つく間もなく三人は身構えた。
廊下のずっと先から十数体の敵が一塊になって迫ってくる。彼らの先頭を走る数名の悪魔が電撃や炎の槍などを飛ばしてきた。
ルキフゲが魔法壁を張って樹流徒たちの盾になる。
「二人とも、飛べ」
出し抜けにアガレスが言った。
何を意図しての指示か分からなかったが、樹流徒は言われた通りにする。ルキフゲも素早く離陸した。
次の刹那、アガレスの拳が床を突く。
大地が鳴動した。背信街が、イース・ガリアが……いや、樹流徒たちがいる廊下だけが激しく波打つ。物理的な法則を無視した振動である。アガレスが起こした現象なのは疑いようも無かった。
廊下を駆ける悪魔たちは揺れる足場に全身のバランスを崩す。彼らは壁に手を付いたり互いの体に掴まったりするが、強い震動に抗えず一人残らず転倒した。かたや空中に逃れた樹流徒とルキフゲは揺れの影響を受けない。今が敵を殲滅する好機だった。
樹流徒は床スレスレまで下降して宙に停止する。メリメリと鈍い音が鳴って彼の腹が上下に開いた。そこから赤い光が浮かび激しい炎となって放たれる。黒衣と魔法のローブを貫通して飛び出した炎は螺旋を描いて廊下を駆け抜けた。
床の震動が止んだときには大半の敵が燃え尽きていた。炎に強い耐性を持つ悪魔が二体ほど生き残ったが、ルキフゲが接近戦を仕掛けてあっという間に仕留めた。
悪魔が倒れていた場所から煙がくすぶり、赤黒い光の粒が火の粉のように踊った。
視界に映る敵は消えた。しかし次の敵がもうすぐそこまで迫ってくる。廊下の反対側――角を曲がった先からバタバタと世話しない足音が聞こえてきた。
三人は走り出す。早く逃げよう、などと言葉を交わすまでもなかった。
長い廊下の突き当りを曲がると、また目の前に階段が現れる。先程よりもさらに幅が広い上りの階段で、折り返し部分には踊り場が設置されていた。踊り場というより広場と呼んでも良いほど大きい。
「この階段は恐ろしく長い。駆け上がるよりも飛んでいった方が確実に速いぞ」
ルキフゲは羽を広げて跳躍する。彼に倣って樹流徒も虚空へ舞った。
二人は横並びになって階段の上を飛行する。
すぐにおかしいと気付いた。背後を振り返ると、アガレスの足が階段の下で止まっている。
「何をしている? 早くしろ」
ルキフゲが急かすと、アガレスの目元が柔らかくなった。
「このままではいずれ敵に挟まれる。私はこの場で追っ手を抑えるから、オマエたちは先へ進め」
彼はそう言って二人に背を向ける。
突然アガレスが殿を買って出たので、樹流徒たちは顔を見合わせた。
階下で佇む老人の痩せた背中は美しいまでに静止している。振り返りそうな気配は微塵も無かった。
「行こう」
樹流徒が決断し、ルキフゲは深く頷く。
アガレスに敵の足止めを任せて、二人は先へ進む。
「死ぬなよ」
去り際、樹流徒はそう言い残したが、アガレスからの返事は無かった。
二人の姿が完全に消えたあと、階下に残った悪魔は独りごちる。
「首狩りキルト。会って間もなければ敵味方でもないのに、不思議と肩入れしたくなるニンゲンだった」
胸の下まで伸びた白髭を細い指がつまんで撫で下ろす。
その手が止まったとき、幾重にも連なる異形の影が曲がり角から押し寄せようとしていた。
髪が逆立ち、向かい風に瞳が乾く。樹流徒の眼下を、階段が猛スピードで通り過ぎていった。
ルキフゲによると、この階段を上れば一気に城の上部まで行けるらしい。それだけに、一体どれだけの長さがあるのか想像もつかなかった。何千。いや、何万という段数があってもおかしくない。もし現世で同じ階段を作ろうと思っても、多分不可能だろう。イース・ガリアの建材が現世には存在しない強固な物質であり、それを加工する能力を悪魔たちが有しているから、こんな滅茶苦茶な内部構造の城が造れるのだ。
ここにも敵はいる。樹流徒たちは行く手を遮る悪魔を倒しながら城の上部を目指した。
小人型悪魔チョルトの群れをなぎ払い、チョルトよりも一回り大きな体躯を持つインキュバスの集団を蹴散らした。三つ首のラミアや、降世祭で登場したラクシャーサ族の戦士(降世祭に出場した個体よりも遥かに弱いが)とも戦った。
踊り場では未知の敵とも遭遇した。体の前半分が獅子、後ろ半分が蟻という一風変わった姿の悪魔だ。全長一メートルほどあるその悪魔は、名を“ミルメコレオ”と呼んだ。
ミルメコレオは異形の身を翻して、飛行する樹流徒の側面から飛び掛ってきた。樹流徒は急上昇して相手の爪をひらりとかわすと、地面に降り立って応戦。再度飛び掛ってきたミルメコレオの牙をかわし、すれ違いざま爪で脇腹を貫いた。ミルメコレオは綺麗に着地を決めて獣の唸り声を上げたが、すでに致命傷を受けており震える足に飛翔する力は残っていなかった。樹流徒は火炎砲で敵を葬った。
勢いに乗った二人を止められる者はいなかった。ミルメコレオ以外にも樹流徒が初遭遇する悪魔は続々と湧いてきたが、ルキフゲの助けがあれば何も問題は無かった。襲い来る敵を二人は難なく攻略していった。
ただそんな中、たった一体だけ強力な悪魔も混ざっていた。フードつきの真っ黒な衣に頭から足下まで全てを覆い隠し、手には黒塗りの鎌を持った、黒い骸骨という、全身から武器に至るまですべて闇に染まった悪魔である。
誰もが「死神」という単語を連想するであろう姿をしたその悪魔は、闇の虚空から忽然と姿を現して樹流徒たちを急襲した。死神が振り下ろした漆黒の鎌は樹流徒の前髪をかすめて通り過ぎた。樹流徒が咄嗟にかわしていなければ、彼の頭頂部に鎌の先が深々と突き刺さっていただろう。
樹流徒が攻撃を回避した直後、ルキフゲが黒い光弾を命中させ死神の体勢を崩した。その隙を見逃さず樹流徒が火炎砲を見舞った。死神の体は後方へ吹き飛んだ。
大なり小なり確実にダメージは与えた。その証拠に死神の体は悶えるように震えた。
それでも死神は絶命しなかった。二対一では勝ち目がないと踏んだか、彼は頭蓋骨をカタカタと鳴らして笑うと、闇に消えた。
「今の敵は“チェルノボグ”だ。一対一で戦っていたら苦戦していただろうな」
至極真面目な口調でルキフゲが言った。
黒い死神チェルノボグの襲撃が、樹流徒たちが遭遇した唯一の危機らしい危機だった。その先にも敵は散々待ち受けていたが、苦戦する要素は何も無かった。反乱軍に寝返った悪魔に助けられて労せず切り抜けた場面もあった。一旦はチェルノボグに止められた勢いを取り戻して、二人はひたすら上を目指した。
アガレスと別れてからかなり経った気がする。終わりが無いのでは、と錯覚しそうなほど長い道のりだった。城の建設者は何を考えてこれを造ったのか? と誰もが一度は首を捻りそうなほど、延々と続く階段だった。しかし二人はそれをついに上りきる。
やっとの思いでたどり着いたのは円形の広間だった。床の四隅にはそれぞれ階段が設置され、内二つは上り、残り二つは下りの階段となっている。その一つは今樹流徒たちが通過してきた階段である。
また、広間の中央には大きな魔法陣が浮かんでいた。円に内接する六芒星と羅列する謎の文字が、黒紫色の微弱な光をゆっくりと明滅させている。
この広場に一歩踏み込むと樹流徒たちは立ち止まった。魔法陣の中心に一体の悪魔が佇んでいたからだ。
巨大な鰐の背に乗った騎士だった。人間で言えば顔は四十歳前後。眉は太く、鼻の下に黒い立派な髭を生やしている。黄金の冠を被り、全身は銀色の重たそうな鎧に包まれていた。手には鎧と同じ色に輝く大振りのランスが握られている。
「サレオスか。少々厄介な相手が出てきたな」
ルキフゲが少し煙たそうな顔をする。
サレオス。それが鰐に跨った騎士の名前らしい。
樹流徒はその名前に聞き覚えがあった。メイジの口から一度だけ聞いたことがある。
以前メイジはベルゼブブの仲間になるための試練として、イブ・ジェセルのメンバーを攻撃するように命じられていた。その試練の結果を見届けるため、メイジと一緒に行動していた悪魔が、たしかサレオスという名前だったはずである。
鰐に跨った騎士サレオスは樹流徒の顔をジッと見つめる。
「オマエ、首狩りか?」
仮面の下に隠れた正体をいとも簡単に言い当てた。
「そうだ」
「やはりそうか。オマエの話はメイジから良く聞かされた。アイツの相棒なんだってな」
「ああ」
「メイジは良い奴だった。俺は元々ニンゲンという生き物がそれほど嫌いではない。だがメイジのことは特に気に入っていた。オレとアイツは馬が合った。オマエの代わりに俺がメイジの相棒になろうと思っていたくらいだ。だからメイジの死を知った時は少なからず残念だったよ」
「……」
樹流徒とサレオスは初対面だが、メイジという共通点で繋がっていた。
そのせいか、樹流徒は眼前の悪魔に妙な親しみを覚えた。悪い悪魔には見えない。サレオスの目は優しく力強い。口元には今にも明るい笑みが上ってきそうだった。きっと普段は気さくな性格をしているのだろう。
もしサレオスがベルゼブブの一味でなければ、もし今とは違う形で出会っていれば、親しい仲になれたのかもしれない。ふと、樹流徒はそんな風に考えた。
「これ以上敵と喋っている暇は無いぞ」
ルキフゲが横槍を入れる。
「分かっている」
樹流徒はサレオスと戦わなければいけなかった。この悪魔はバベル計画参加者の中でも主だったメンバーの一人に違いない。樹流徒にとっては私怨もあるし、たとえ私怨を抜きにしても、公憤を燃やして倒さなければいけない敵だった。
立場上どうしても戦わなければいけないのは、相手も同じである。
サレオスの腕がすっと持ち上がった。ランスの先端が樹流徒を指す。
「キルト。オマエに一対一の決闘を申し込む」
真剣で、どこか悲しい眼だった。
ルキフゲは言葉を発さない。ただ、横目を使って「どうするつもりだ?」と樹流徒に尋ねてくる。「サレオスの挑戦を受けるつもりか?」と。
樹流徒は仮面を外して、それをルキフゲに手渡した。
「預かっていてくれ」
それはサレオスの挑戦を受けるという意思表示に他ならなかった。
全身を鎧に包まれたサレオスは、見た目に反して軽い動きで鰐から飛び降りる。
ルキフゲは決闘の行方を見守るべく広間の隅に移動した。
戦場の真ん中で魔人と騎士が向かい合う。
サレオスが微笑んだ。間近で見ると一層優しい顔だった。
「オマエ、なかなか良い目をしているな。そして構えに隙が無い。実際に手合わせをしなくても、強敵だと分かる」
「……」
樹流徒も対峙しただけで相手の実力があらまし分かった。
サレオスは強い悪魔だ。強者独特の雰囲気がある。ルキフゲが「厄介な敵」と評したのも頷けた。
ただ、魔王級には及ばない。樹流徒が魔界を訪れる前ならばいざ知らず、今では勝負にならなかった。
手合わせをしなくても、樹流徒にはそれが分かってしまった。
サレオスがバベル計画の実行メンバーでなければ、樹流徒はこんな勝負など決して受けなかった。
無益な殺生は嫌いだし、絶対に勝てると分かっている相手と勝負するのは趣味ではない。たとえ相手に「逃げる気か?」と罵られても、臆病者のそしりを受けても、己の命が危険に晒されない限り、相手の命を優先しただろう。
ただし唯一の例外が、相手がバベル計画の参加者だった場合である。相手が家族や故郷の仇だと分かったとき、樹流徒の心には復讐の炎が燃える。全てを失った怒りと悲しみが「仇を討て」と強烈に命じてくる。絶対に相手の命を奪うことになると分かっていても、戦わずにはいられない。
樹流徒とサレオスが同時に駆けた。
サレオスが構えたランスの周りを緑色の輝きが渦巻く。光は小さな竜巻となってランスの大きさを一回り大きく見せた。その先端が、樹流徒の腹に狙いをつけて鋭く空を抉る。
サレオスの目が細くなった。ランスの先端が樹流徒の体内を突き破ったように見えたのだろう。
彼が勝利の幻影を見ている内に、樹流徒の体は紙一重で敵の攻撃を避け、反撃の態勢に入っていた。何かに気付いてサレオスが目を見開こうとした時、彼の喉を樹流徒の爪が貫通していた。
おっと声を発して、サレオスの体が後ろに揺れた。
頭から黄金の冠が滑り落ちて床を跳ねる。直後、握り締めていたランスも手中を離れて地面で硬い音を鳴らした。
敵の喉から爪を引き抜いて、樹流徒は歯噛みした。
勝ったのに、家族や故郷の人々の仇をまた一人討ったはずなのに、心に嫌なものが広がった。
サレオスは口をパクパクと開閉して何かを言おうとした。
しかし声の端さえも発せないまま、彼は静かに事切れた。
サレオスが乗っていた鰐は、勝負の結果を見届けると静かに踵を返す。のしのしと重たい足音を残して去っていった。次の主を求めてさまよい歩くつもりだろうか。下りの階段を器用に降りる鰐の背中は、すぐに広場から見えなくなった。
「さすがだなキルト」
ルキフゲは樹流徒に仮面を返す。
樹流徒は冷静を装った表情で仮面を装着したあと、密かに毒を仰いだような顔になった。
後味の悪い戦いだった。
――良い勝負だった。
サレオスは最期にそう言っていたような気がした。