イース・ガリア
ケプトの町周辺には見渡す限りの草原が広がっている。町を離れて川辺までやって来た樹流徒だが、彼の視界に映るのは、まだ延々と続く山吹色の大地だった。
その大草原の中を樹流徒と二体のリリムは休まず歩いた。生気の宿らない瞳を持つリリムは、見た目通り大人しく無口で、あまり言葉を発さなかった。口数の少なさという点では樹流徒も似たようなものである。元から必要以上の会話をしない彼だが、いよいよ敵の本拠地に乗り込む前とあって、若干の緊張から普段にも増して無口になっていた。ケプトの町で起こった悲しい出来事が心の中で尾を引いているという理由も重なっている。いま少しのあいだ、樹徒徒は誰とも話す気になれなかった。
後ろを流れる川の姿がすっかり見えなくなった頃、群生する花の横を通りかかった。冬の寒さにも負けず咲き誇る白い花だ。その上をつがいの蝶がひらひらと舞っていた。羽が紫色に光る美しい蝶だった。魔界の虫は寒さに強いのか、蝶の他にもバッタやカマキリなどがいる。
この辺りには悪魔より虫の方が多いかもしれない。
背信街とケプトを行き来する者が少ないせいか、町から遠く離れると、悪魔と遭遇する頻度が極端に減った。視界が開けたこの草原でしばしば誰の姿も見えなくなるほどである。
たまに通り過ぎる悪魔たちは、樹流徒の姿を見ても彼の正体に全く気付かなかった。妖精王オベロンから授かった魔法のローブや仮面のお陰で、樹流徒の変装は完璧だった。ケプトの町ではつい我を失って殺気を放ってしまったが、あのような真似さえしなければ、ただの通行人に変装を見破られる心配は無いだろう。
今のところ敵が待ち受けている気配は無い。風が凪ぐと、樹流徒の耳には自分たちの足音しか聞こえなかった。
夜が明けて空が白んできた頃、ようやく草原の果てにたどり着いた。
目の前を深い谷が横切り、底には急な川が流れている。谷には長い吊橋が架かっていた。ここにも敵の見張りはおらず、ついでに旅人も通らず、樹流徒たち以外には誰の姿も無かった。
吊り橋を渡ると、そこから先は別世界だった。地表は紫色に輝く鉱物に覆われている。指先で触れてみると氷のように滑らかだった。地形はひと言では表現しようがない。平坦な場所や丘になっている場所が二割程度。残り八割は鉱物が岩場のように張り出したり、樹木のように天高くまで伸びたりしており、形にまるで統一性が無かった。それが世にも奇妙な天然の迷宮を作り出している。
樹流徒は木の形をした鉱物によじ登って、一帯の光景を眺め回した。遥か遠くの空にゴマ粒程度の影が三つか四つ浮かんでいる。ゴマ粒たちは同じ場所をずっと旋回していた。ただの通行人とは明らかに様子が違い、辺りを警戒しているようだった。ベルゼブブの手先に違いない。
地上にも見張りや偵察兵が潜んでいるかも知れないが、天然迷宮の歪な地形に視界を遮られて樹流徒の位置からでは敵の姿を視認できなかった。
また、三百六十度どこを見回しても背信街と思しき影は確認できない。白んだ空と異形の迷宮だけがどこまでも続いている。
樹流徒たちは紫色に煌く結晶の大地を進んだ。飛行すれば移動は楽だがベルゼブブの配下にこちらの姿を発見される恐れが強い。変装しているので仮に発見されても正体が見破られるとは限らないが、見付からないに越したことはなかった。
空が青く色付くと、地平の上で太陽が輝いた。ただし昨日まで見ていた太陽ではない。黒い光を放つ不気味な太陽だった。まるでそこだけ夜の闇が置き去りにされたかのように見える。
樹流徒が黒い太陽に目を奪われていると、少年型のリリムが口を開いた。
「原因は不明ですが、この地では太陽があのような色に見えるのです」
「禍々しい光だな。でも不思議と嫌な感じはしない」
一緒に行動して何時間も経っているのに、会話らしい会話をしたのはこれが初めてかもしれなかった。
少年型リリムは、樹流徒の弟である勇徒と瓜二つで、声も勇徒と良く似ていた。
少女型リリムも樹流徒の妹・葵と顔や声が酷似している。
ただ、二人とも中身は全くの別人だった。勇徒と葵は兄に似ず普段から明るく賑やかな子供だった。リリムとは口調も雰囲気も正反対である。お陰で樹流徒もリリムに対して妙な情を持たずに済んだ。他の悪魔と全く同じ存在として接することができた。
地上に敵が潜んでいる気配は無い。樹流徒たちは空を飛び回る監視の目に注意して、迷宮の奥深くまで進んだ。その間に太陽の位置が高くなり、気が付けば大地の半分が黒い光に照らされていた。
オベロンから聞いた話だとケプトの町から背信街まで歩いて半日ほどで着くという。ならばそろそろ街の影くらい見えても良さそうな頃だ。ちょうど樹流徒がそんな風に考えた時だった。
遥か遠くの空に浮かぶ暗雲が視界に入る。一見して普通の雲ではなかった。大空の中に点在する白雲に紛れてたった一つだけ漂うそのどす黒い物体は、ひっきりなしに雷光を降らせていた。
樹流徒たち三人は周囲に注意を払いつつ辺りで一番高い場所に上った。首を傾けなければ頂上が見えないほど背がある鉱物の山である。その上で身を屈め、こっそりと遠くの景色を眺めた。
ある地点を境に天然の迷宮が急に途切れて、そこから先はずっと平らな大地が続いていた。
雷光を降らせる暗雲の真下を見ると、長方形の赤い物体が何千も密集して山脈のように広がっている。その真ん中には一つだけ黒い大きな物体がそびえていた。また、赤い山脈から少し離れた場所を見ると、地平線がこちらも赤く染まって見えた。
「あれが背信街です」
少女型リリムが言う。
彼女の言葉で、樹流徒は、数千の赤い長方形の正体が、ビルのように高い建造物の群れだと気付いた。
「街の東側には赤い湖が広がっています。地平線が赤く見えるのはそのためです」
少年型リリムが補足する。
「あれが目的地……あそこにベルゼブブがいるのか」
とうとうここまで来た。
決戦の地を視界に捉え樹流徒の魂は震えた。感動や興奮のひと言では片付けられない想いが電流となって全身を駆け巡る。暗雲の下にそびえる赤い山脈から少しのあいだ目が離せなかった。
この場所にたどり着くまでには様々な出会いと別れ、そして戦いがあった。しかし樹流徒は、敢えてこれまでの道程は振り返らなかった。過去を思い出して感慨深い気持ちに浸るのはまだ早い。
バベル計画にはまだ謎の部分が残っていた。計画を主導したのはベルゼブブで間違いない。だが、果たして計画を考えたのもベルゼブブなのか?
メイジが遺した手紙には“ベルゼブブをそそのかしてバベル計画を実行させた天使がいるのではないか?”という憶測が書き記されていた。真の黒幕がベルゼブブとは限らないのだ。
バベルの塔を出現させた場所に龍城寺市が選ばれた理由も明らかになっていない。広い地球上の中で、なぜ龍城寺市が選ばれたのか? ただの偶然だったのか、それとも特別な理由があったのか?
それらの真実をベルゼブブの口から聞き出し、その上でベルゼブブを討伐する。この目的を果たすまで、過去の冒険を振り返るのは早い。背信街を見つめている内、樹流徒は強くそのような気持ちになった。
目的地の姿を確認した三人は、鉱物の山から降りる。
樹流徒が先へ進もうとすると、出し抜けに少年型リリムがひとつ提案をした。
「これから背信街の東側に回り込みましょう」
「東に?」
たしか街の東側といえば湖が広がっていたはずだ。まさか水の中を泳いで背信街に近付く気か? しかし湖と背信街のあいだには少し距離があり、そこにはきっと大勢の敵が待ち構えている。湖を利用しても余り意味は無い気がした。それとも湖は何の関係もないのか?
「迂回する理由は何だ?」
尋ねると
「それについてはもう少し先に進んでから説明します」
事務的に答えてリリムはそれ以上の質問を受け付けなかった。
ただ、彼の物言いから察するに迂回する理由はちゃんとあるらしい。樹流徒は黙ってリリムの背中について行くことにした。
東へ東へと回り込みながら少しずつ背信街に近付く。
次第に遠目では確認できなかった物が見えてきた。空に漂う暗雲と背信街との狭間で蠢く異形の群れである。その数は百を超えていた。考えるまでもなく背信街の番人だろう。彼らは街の頭上で美しい輪を描きいつまでも飽くことなく飛び続けている。
背信街の足下に目を落とせば数十万規模の悪魔が街を取り囲むような形で待機していた。中には街を出入りする通行人も大勢含まれているだろうが、それを考慮してもおびただしい数の悪魔が防壁を築いている。
「予想通り、守りが堅いな」
樹流徒が呟くと、少女型リリムが反応する。
「それはそうです。魔晶館でアナタを討ち漏らした事や、反ベルゼブブ派が行動を起こした事は、既にベルゼブブも把握しているでしょうから。バベル計画の最終段階がいよいよ間近に迫っていることもありますし、ベルゼブブが警戒を強めるのは当然です」
バベル計画の最終段階が近いという情報は初耳だった。
リリムは生まれつきリリスの記憶を受け継いでいるだけあって、樹流徒が知らない情報を色々と知っていそうだ。
丁度良いので樹流徒は問う。
「漠然とした質問で悪いが、背信街はどういう街なんだ?」
これから攻める敵地の情報である。たとえどんなに小さなことでも知っておいて損は無いはずだ。
少女型リリムは血色が薄い唇を動かして一息に説明する。
「背信街はベルゼブブに忠誠を誓った悪魔のみが居住を許される街です。それ以外の悪魔は特別な許可を得なければ宿泊はおろか街の出入りすらできません。無断で侵入すれば街の悪魔に捕まり、必要とあれば始末されるでしょう」
「つまり部外者にとっては街全体が敵というわけか」
街の住人全員がよそ者の行動を監視し、捕え、場合によっては命を奪う。悪魔が悪魔に対してそこまで排他的になる場所は、魔界中を探しても背信街を置いて他にないだろう。今、街に出入りしているただの通行人も、樹流徒が背信街に一歩踏み込んだ瞬間、態度を豹変させ襲い掛かってくるのだ。
「恐ろしいですか?」
「いや……」
街の住人全員がベルゼブブ一派なのは厄介といえば厄介だが、好都合な部分もあった。無関係な悪魔を戦闘に巻き込む心配がないため、自由に暴れられるという利点だ。
「ところでベルゼブブの居城はどれだ? ここから見えるか?」
答えは分かっているが、樹流徒は念のために確認しておく。
思った通り、少年型リリムの指は、街の中央にそびえ立つ巨大な建物を指差した。
「“イース・ガリア”は背信街の中心にあります。あの黒い建物がそうです」
イース・ガリア。それが城の名前らしい。
全面黒い鏡のような物質で覆われた、見るからに不吉そうな雰囲気が漂う城だった。かなり縦長の形をしているので塔にも見える。暗雲を突く円すい型の屋根は先端に逆十字のシンボルを頂き、雷光を反射して激しく輝いていた。
樹流徒の目は真剣さを増す。
「ベルゼブブは城のどこにいる?」
「最上階です」
「そこは空から直接乗り込めるのか?」
「無理です。イース・ガリアの上部には小さな通気口を除いて針穴一つありません。小さな虫にでも変身しない限り侵入できる場所がありません。城の下部には窓がいくつもありますので、そこから入るのが良いでしょう」
「壁を破壊して中に入るのも無理なのか?」
「ほぼ不可能と言って間違いありません。イース・ガリアの城壁は恐ろしく硬い上に分厚いですから。破壊するにしてもかなり時間がかかります」
「魔晶館と似たようなものか」
それでも出入り口が沢山あるだけイース・ガリアは魔晶館よりマシと言えるかもしれない。
「城の内部はそれほど複雑な構造ではありません。ですからほとんど迷わず最上階にたどり着けます。ただし城内にはベルゼブブの配下がひしめていますから戦闘は避けられません」
「城の中も外も敵だらけか……」
仮に背信街の周りに集まった敵の目を欺いて城に忍び込めたとしても、城内の悪魔と戦っているあいだに外の悪魔を呼ばれたら意味は無い。何とか誰にも邪魔されずベルゼブブの元にたどり着く方法は無いのか?
「心配には及びません。それについてはリリスが手を打ってあります」
と少年型リリス。
「リリスが?」
「はい。策の具体的な内容は明かせませんが、アナタが背信街に突入したのを合図にそれは実行に移されます。上手くいけばアナタはベルゼブブの元までたどりつけるでしょう」
相手の淀みない説明に樹流徒はやや怪訝な目をする。
「リリスが何をするつもりか知らないが、いつそんな策を講じる暇があったんだ?」
リリスは二体のリリムを生んで間もなく飛び去ってしまった。策を練る暇も、その策をリリムに伝える時間も無かったはずだ。もし策を伝えていたら目の前にいた樹流徒が気付かないはずがない。
その疑問にもリリムは淀みなく答える。
「策は前々から用意されていたものです。たとえアナタが私たちとの協力関係を拒んでも、アナタが背信街に突入すればリリスは勝手に手伝うつもりでしたから」
「何が何でも俺をベルゼブブの前に連れて行きたいんだな」
樹流徒の勘では、リリスは間違いなく何かを企んでいた。自分にベルゼブブの相手をさせて時間を稼ぎ、その間に何かを実行しようとしている。それが何かは想像もつかないが、ベルゼブブにとって不都合な事には違いない。そしてリリスの目的が背信街の中にあるのは確実だった。他の場所ならばベルゼブブの足止めをする必要はないのだから。
「俺がベルゼブブと戦っている間、リリスは何をするつもりなんだ?」
樹流徒は二人のリリムに真っ向から尋ねてみた。
「……」
リリムたちは何も答えない。自分たちの思惑を暴露するような悪魔を樹流徒に同伴させるほど、リリスは迂闊ではなかった。
そのあと会話は無くなって、三人はまた歩いた。背信街の頭上を旋回する敵の目に見付からないよう、天然迷宮の地形に身を隠しながら進み、ようやく背信街の東側に到着した。
先刻承知済みの通り、背信街の東側には赤い湖が広がっている。
それが遠く正面に見える丘の上で、リリムたちは足を止めた。
「キルト。あの湖を見てください」
少年型リリムが前方を指差す。
「あの湖は赤い雨により生まれたものです」
「赤い雨?」
「はい。背信街の頭上には常に暗雲が浮かんでいますが、あの雲はしばしば街の東側にも現れるのです。その雲から降る局所的な赤い雨が永い年月をかけて地表を溶かし、大きな穴を作りました」
「その穴が、あの湖というわけか」
「はい。湖は現在も広がり続けています。十年間で指一本分程度の非常にゆるやかな速度ですが」
そう言ってリリムは人差し指を立てる。
「それで……ここからが本題なのですが、実はあの湖には何百年も前にリリスが作った秘密の抜け道があるのです」
「抜け道。そんなものがあるのか?」
「はい。リリスは背信街の住人ですから、時間さえあれば抜け道を作るのはそう難しくありませんでした。当時リリスは退屈な日々を送っていたので、リリムを使って色々と遊んでいたのです。抜け道作りもその内の一つでした」
「なるほど。今回その抜け道を通って俺たちが背信街に忍び込むというわけか。湖がある街の東側に回り込んだのもそのためだな?」
リリムは無言で首肯した。
数百年前に悪戯で作った抜け道をこんな形で利用する事になるとは、よもやリリス自身も想像していなかっただろう。
「抜け道は湖からリリスの邸まで繋がっています。そしてリリスの邸からイース・ガリアまでは目と鼻の先ですから、それほど多くの敵に見付からず城に入れるでしょう」
「そして俺が城に侵入する前にリリスが何か策を打つ、という手筈か」
「そうです」
リリスがどのような策を用意しているのか不明なのは若干不安だが、樹流徒はそれに乗るしかなかった。残念だが、やはりたった一人で背信街を攻略するのはまず不可能だ。
「では、太陽が真上に昇ったとき作戦を決行します。今の内に精神を休めておいて下さい」
その言葉を最後に、二体のリリムは電池が切れた玩具のように微動だにしなくなってしまった。
彼らは会話はおろか瞬きすらしない。意識があるのかさえ疑わしいほどだった。