悪夢の人形劇
ある朝は冷たい太陽が昇り、ある夜は上弦の月が妖しく笑った。またある夕暮れは雨雲が天を遮り、ある明け方は凍てつく風に乗って雪が舞った。
野を駆け、川を渡り、森を抜け、谷を渡り、そして幾つもの町を通り過ぎた。
暴れ狂うように走り続けて五日と半。脇目も振らずひたすら走り続けた馬車がようやく停止する。
馬の脚はすっかり傷と汚れにまみれていた。磨かれたように美しかった銀色の蹄は塗装が剥がれて下の黒い金属があちこちから覗いている。キャリッジに取り付けられた四つの車輪はグラグラと揺れ、今にも車体から外れてどこかへ転がっていってしまいそうだった。
「着いたよ。あれがケプトの町だ」
馬の悪魔は背後の樹流徒を振り返って大声を上げる。つぶらで大きな瞳が一仕事終えた充足感で輝いていた。人間の足で五、六十日かかる距離を、この馬はたったの一週間足らずで走りきってしまったのだ。さすがに町で最速の馬車を自称するだけのことはあった。
激しく馬車に揺られ続けた樹流徒は軽い頭痛を覚えながら大地に降りる。辺り一帯には山吹色の草が生え、夕方の雨粒を浴びてまだ濡れていた。
頭上を仰げばエメラルドのように輝くオーロラが揺らめき、夜空という窓に薄いカーテンを閉じている。正面を見れば遥か遠くで町明かりが満天に輝く星のように燦然ときらめいていた。夜の闇に慣れた目では直視できないほど眩しい光だ。ケプトの町は、樹流徒が知る限り魔界で最も闇と無縁の場所だった。
樹流徒は馬の隣に立って尋ねる。
「背信街に行くにはどちらへ向かえばいい?」
「あっちに向かってずっと歩いていけば良いよ」
馬は前脚を伸ばしてケプトの町より僅かに右寄りの方角を指し示した。
「そうか。ありがとう」
「ところでアンタ、帰りはどうすンの? 数日間くらいならあの町で待っててもいいよ。帰りの馬車賃は半額にまけてやるし、もしカネが無いならツケにしとくって手もある」
馬がそう申し出てくれたが、樹流徒は丁重に断る。
「気持ちだけ受け取っておくよ。背信街のあとに行かなければいけない場所があるから、帰るのは少し先になるんだ」
馬は納得して
「そりゃ残念。じゃ、良い旅を」
行きよりもずっと遅い足取りで帰っていった。
一人になった樹流徒は、特に考えるまでも無く、ケプトの町を素通りしようと決めた。情報収集が必要ない今、大勢の悪魔がいる町にわざわざ立ち寄る理由もないからだ。
ベルゼブブの居城がある背信街に進路を取って彼は歩き出した。周囲を見回すと、空にも地上にも通行人の姿が点在している。その中にベルゼブブの手先らしき者は一つも見当たらなかった。敵の目を盗んで歩く必要は無さそうだ。
長い馬車の旅を終えたばかりということもあって、つい気を抜いてしまいそうな状況だった。それでも樹流徒は警戒を怠らない。敵が決して甘くない事は魔壕に到着して早々、身を以って思い知らされた。このまますんなり背信街にたどり着けるはずがない。必ず厳しい試練が待ち受けているはずだ。
そのように始めから心構えを作っておけば、実際に何かが起きても心乱されず冷静に対処できる。樹流徒は適度な緊張感を保ちつつ非常に落ち着いていた。精神は万全を期した状態と言っても良い。それだけに彼は、まさかこのあと自分が冷静さを失う事になるとは想像できなかった。
町を迂回していると、二人連れの悪魔が前方からやって来た。片方は牛の頭部を持つ巨体の悪魔。もう片方は布の服、マント、ブーツなど旅人風の格好に身を包んだ人型の悪魔だ。
彼らはすぐそばを通りかかった樹流徒の存在を気にも留めず、やたら大声で話しながら歩く。その会話は自然と樹流徒の耳に飛び込んできた。
「ようやくケプトの町に到着だな」
牛頭悪魔が嬉しそうに目を細める。
隣を歩く旅人風の悪魔は「ああ」と相槌を打った。そのあとふと思い出したように
「そういえばあの町に行けば人形劇が見られるかもしれないね」
「人形劇?」
「そう人形劇」
「随分と可愛らしい催し物をやっているんだな」
「噂によると、最近ケプトの町ではその人形劇が結構人気なんだって」
「ほう。そんなに面白いのか?」
「面白いというより珍しいんだろうね。何しろ劇に使われているのはタダの人形じゃない。ニンゲンの死体なんだ」
樹流徒の足が止まった。
今、何て言った? 樹流徒は一瞬己の耳を疑った。
だが、はっきり聞いた。今たしかに悪魔はこう言った。「ニンゲンの死体を使った人形劇」と。
寝耳に水、とはこの事である。
詳しい事情を聞かずにはいられなかった。衝動的に樹流徒は身を翻して悪魔を呼び止める。
「待ってくれ」
「ん?」
二体の悪魔は立ち止まり、一緒に振り返る。
樹流徒は相手に詰め寄った。
「お前たち、今、何の話をしていた?」
「何って……人形劇の話だけど」
旅人風の悪魔がたどたどしく答える。急に迫られて驚いているのだろう。腰が引けていた。
相手を脅すつもりは無いが、樹流徒はもう一歩強く踏み込んだ。そして震えそうな声を抑えて聞く。
「人間の死体が使われていると聞こえたが、本当なのか?」
「ああ。ニンゲンの死体を人形代わりにしているんだ。実際見たわけじゃないけど、かなり噂になっているから多分本当の話だと思うよ」
「一体、誰がそんな事をしている?」
「“ブネ”だよ。アイツはニンゲンの死体を操る能力があるらしいからな」
「ブネ……」
空耳だったらどんなに良かっただろうか。残念ながら気のせいでも聞き間違でもなかった。
「アンタ、死体人形に興味があるのか?」
牛頭悪魔の問いに樹流徒は頷いた。興味どころの話ではない。絶対に黙過できない重大な問題だった。
「そんなにブネの人形劇が見たいなら、今からケプトに寄ってみるといい。劇はいつも夜にやっているらしいから、運が良ければ見物できるかもしれないよ。それともすでに町には寄った後かい?」
「いや、まだだ。それより人形劇は町のどこでやっている?」
「そこまでは知らないけど……多分、中央の広場じゃないかな」
「分かった。ありがとう」
この件を無視して先に進む気にはなれなかった。
樹流徒は急いで振り返る。煌々と光る町明かりに向かって疾風となって駆け出した。
「あんなに慌てて走っていくなんて……よほど人形劇に興味があるんだろうな」
「理解できんな。オレはニンゲンの死体を使った劇などという悪趣味なものは見たくない」
「そうか。私は少し見てみたいけどね」
二体の悪魔はそんな言葉を交わしながら、走り去っていった樹流徒の足取りを辿り始めた。
矢となって飛ぶ魔人の体は迷わず町の中に飛び込む。すれ違った悪魔が驚いて振り返った。
樹流徒は視界に映るケプトの町並みを睨む。石畳の道が緩やかな曲線を引いていた。その両脇には白壁の高い建物が整列している。魔壕にはこれと似た景色が非常に多い。馬車に乗った町もそうだったし、馬車に乗ったあとも樹流徒は何度となく絵に描いたような美しい町並みを見てきた。
ただ、夜のケプトは他の町とまるで雰囲気が違う。遠目から確認した通り、この町は尋常でなく明かりが多い。家々の玄関には必ずランプが吊るされ、窓の両側にロウソクの蜀台が設置されている。それだけでも十分な明るさだが、道のあちこちに外灯が輝いていた。無論、外灯と言っても電気が存在しない魔界ではランプの事を指す。地面に埋まった細長い鉄柱の頭が四方に枝分かれして、それぞれの枝にランプが吊るされているのだ。それが曲がり角や建物同士の間など至る場所に設置されていた。
家々の明かりと、外灯の輝き。町全体が、闇を過度に恐れ、光で全てを埋め尽くそうとしているかのよに狂った明るさを保っている。その中を行き交う悪魔たちは派手な色のドレスや宝石類の数々で着飾り、華やかさを競い合っていた。さしずめ彼らは魔界の貴族といったところだろうか。無数の光に埋もれて異形の貴族たちが歩き回る光景は、どこかそら寒いモノを樹流徒に感じさせた。
もっとも樹流徒には町の異様さをじっくり味わっている余裕など無かった。目がくらむ光の道を彼はひた走る。周りにベルゼブブの配下が潜んでいないか一応注意しているつもりだったが、あって無いような警戒だった。ほとんど前しか見ずに樹流徒は町の中心を目指した。
程経て目的の広場らしき場所に着く。
真ん中に丸い大きな噴水が設置され、そこを中心に四角いタイルが放射状に広がっていた。広場の数ヶ所には長椅子のベンチが置かれている。悪魔の姿と過剰な数の外灯さえなければ、現世のどこかにあっても違和感の無い風景だった。
噴水の前におびただしい数の悪魔が集まっていた。数百、もしかすると千に届いているかも知れない。彼らは何かを取り囲んで一様に楽しそうな顔をしていた。
まさか、と思い樹流徒は駆け出す。噴水の前に固まった集団の一人に話しかけた。
「今からここで何か始まるのか? もしかして人形劇じゃないか?」
「ああ、そうだよ」
悪魔が淡白な調子で返事をした。
人形劇の噂は本当だった。そうだと分かったら余計に居ても立ってもいられない。
樹流徒は前を塞ぐ悪魔と悪魔の隙間に自分の体をねじ込む。本当に人間の死体が利用されているのか? 人形劇を披露しているブネとはどんな悪魔なのか。それを確かめるべく、異形の垣根をかき分けて前進する。強引に割り込まれた悪魔たちは顔をしかめて「押すな、押すな」とどよめいた。彼らの声は樹流徒の耳に届かない。
樹流徒は前進を続ける。目の前にあるものを力任せにかき分けた。
そして悪魔たちが取り囲んでいるモノが見えたとき、足が止まった。
噴水の前に一体の悪魔が立っている。
人間、犬、そしてグリフォン。三つの顔を持つドラゴンである。人間の顔は長い耳と髭を生やした老人という外形をしていた。服や装飾品は身につけおらず、全身は黒っぽい鱗に覆われている。
人形劇という可愛らしい単語には些か不似合いな恐ろしい姿をした悪魔だ。しかしこの三つ首のドラゴンが噂のブネに違いない。
ブネの足下には二つの棺が置かれていた。丁度人間が綺麗に収まりそうな大きさの棺だ。その中に人形劇用の死体が入っているのだろうか。
神経を尖らせる樹流徒が見つめる先で、ブネがおもむろに口を開く。三つ並んだ顔の内、犬の顔が喋り出した。
「さあ、お集まりの皆様、長らくお待たせ致しました。それでは今宵も楽しい人形劇の始まりでございます」
芝居がかった明るい口調が客の歓声を集め、樹流徒の不快感を刺激する。
「これから始まるのはとあるニンゲンの兄妹が繰り広げる美しくも悲しい物語。どうぞご覧下さい」
ブネが二つの棺に手をかざすと、ガタガタを音を鳴らして蓋がひとりでに開いた。
両方の棺から人間の死体が一体ずつ起き上がる。人形劇を見るのは今日がはじめてと思しき数名の見物客からおおっと声が上がった。
棺の中から起き上がったのは子供の男女だった。少年のほうは十二、三くらい。目にかかる程度の長さに切り揃えられた前髪と怜悧な顔が特徴的な男の子だった。かたや少女のほうはまだ十歳くらいだろう。年相応のあどけなく可愛らしい顔立ちをしているが、血色を失った白い肌にショートボブの黒髪が薄気味悪いほど良く映えている。どちらの子供も中世ヨーロッパの貴族を連想させる華美な衣装を着せられ、いかにも人形と呼ぶに相応しい姿になっていた。
ブネが節くれだった両手の指を繰ると、それに合わせて死体が動く。ドレスアップした二人の子供は生気の宿らない目を開き、見物客らに向かって丁寧なお辞儀をした。
大きな拍手が起こる。賞賛の拍手を送るのは人間特有の行動かと思われたが、どうも違うらしい。悪魔倶楽部で詩織が歌を披露した時も、ある町で魔動機関車の起動実験が行なわれた時も、そして降世祭の決闘でも、雄叫びや喝采を送る者はいたが、拍手をする者は誰もいなかった。その点、この町に住む貴族じみた悪魔たちは特別らしい。けたたましい雄叫びなど一つも無く、上品な拍手の合唱が響き渡る。
手を叩く音が雨音のようにパラパラと広場を埋め尽くす中、樹流徒だけ時間が止まった。呼吸さえも止まるかと思った。
全ての音と景色が物凄い速さで遠ざかる。足の裏が地面から離れたような錯覚に陥った。
それほど樹流徒は驚愕した。何故なら、彼は棺の中から起き上がった子供たちを知っていたからだ。
「嘘だ……」
ただでさえ明るい視界が、真っ白になって何も見えなくなりそうだった。
樹流徒にとっては余りにも過酷な現実。余りにも残酷な再会だった。
棺の中から起き上がった二人の子供。彼らの名前を樹流徒は知っている。
少年の名前は“相馬勇徒”。
少女の名前は“相馬葵”。
樹流徒の弟と妹だった。