緑の巨人
芝が焦げ土がくすぶる戦場を、形や大きさが異なる五つの影が縦横無尽に動き回る。いずれも矢のように速かった。中でも特に速いのが若雷である。怒れる鬼人は地を駆けてデカラビアに殴りかかった。
スピードで劣るデカラビアは普通に逃げても捕まってしまう。彼はその場で停止して若雷を十分に引き付けてから横に飛んだ。薄い体が役立って紙一重のところで若雷の拳を避ける。突進の勢いそのままに攻撃を繰り出した若雷はデカラビアがいた場所を大きく通り過ぎた。
何とか攻撃をやり過ごしたデカラビアは敵から距離を取りつつ魔法陣を展開する。六芒星の中心から小さな炎を放った。その炎は握り拳程度の大きさしかなく見るからに威力は低そうだったが、弾速はかなりのもので貫通力がありそうだった。
若雷は避けようとしない。この程度の攻撃なら回避するまでも無いと判断したのだろう。彼はふっと息を吐くと、高速で飛来する炎を拳で払いのけた。当然ダメージは無い。あったとしても微々たるものである。
それでもデカラビアの攻撃は決して無意味ではなかった。敵に傷を負わせるだけが攻撃ではない。時間を稼ぐための攻撃や戦い方というのもある。
デカラビアの炎が若雷の注意を引きつけているあいだに砂原が攻撃の準備を完了させていた。彼の体が六枚の大きな翼に包まれて黄金色に光り輝く。
黄金の蛹と化した砂原は一発の砲弾となって宙から弾き出された。この砲弾は小さな炎と違い簡単に跳ね返せるものではない。若雷は素早い動き出しでその場から離れた。
ただ生憎、黄金の蛹から逃れる術は無い。たとえどのタイミングでどちらの方向にどれだけ速く逃げても、それは必ず追いかけて来る。砂原は引き合う磁石のように標的を追尾して若雷の側面から体当たりを見舞った。
若雷の体が真上に向かって弾け飛ぶ。そこへ狙い済ましたデカラビアの電撃が突き刺さった。
体が痺れた若雷は受身を取れず頭から地面に叩きつけられる。間髪入れず砂原が銀色に輝く光の砲弾を三連発で撃ち込んだ。
電撃の効果が持続していれば命中は必至だったが、大地に激突したとき若雷は早くも体の自由を取り戻していた。彼は地面を転がって砂原の攻撃から逃れると、全身のバネを使って手を使わず跳ね起きる。
「ああ、惜しい」
デカラビアが悔しがった。
立ち上がった若雷は、背中を丸めて頭を垂れる。そして地面に向かって小声でぶつぶつと何かを唱え始めた。潰す、いたぶる、苦痛を与える……そういった類の言葉が彼の口から切れ切れに吐き出される。
デカラビアは戦慄して、そっと砂原の背後に隠れた。
「それにしても……一時的とは言え悪魔と手を組むとは想像していなかった」
ふと、砂原が複雑な表情を浮かべる。イブ・ジェセルと悪魔は反目し合う者同士。普通なら手を組んで戦うなどあり得ない事だった。もしこの場に天使がいれば、砂原たちは反逆者扱いを受けてもおかしくない。
「私だってニンゲン風情と手を組むなんて思ってませんでしたよ」
デカラビアも決して今の状況を快く思っていないはずだ。しかし共通の敵を退けるため、今は協力しなければいけなかった。
呪いの言葉を吐き終えた若雷は憤怒の相で顔を上げる。歯茎を剥き出しにしてキエッと怪鳥のような叫びを発して地面を蹴った。砂原は横に駆け、デカラビアは上昇してそれぞれ逃れる。若雷は空に逃れた獲物に狙いを定めた。真っ青な肌と火傷に覆われた巨体が宙に舞い上がる。
ひっと叫んで、デカラビアは後退しながら炎の玉を放った。それをいとも容易くかわして若雷はデカラビアに飛びかかる。
空中においてもデカラビアより若雷の方が速かった。デカラビアは先ほどと同じ回避方法を取るしかない。相手をギリギリまで引き付けてから、素早く横に逃れた。
回避のタイミングは良かった。ただ、若雷に動きを先読みされた。
若雷は逃げたデカラビアをぴたりと追跡して鋭い蹴りを放つ。それをまともに浴びたデカラビアはもんどり打ったあと糸が切れた凧のようにフラフラと墜落を始めた。
節くれ立った体を躍動させて若雷は落下した獲物を追う。腕を引いて力を溜め、拳を硬く握った。
あと僅かでその拳が振り下ろされようとした刹那、黄金の蛹と化した砂原が突進してくる。
若雷は攻撃を中断した。胸の前で腕を交差して防御に切り替える。砂原の突進を受け止め、ガードの姿勢そのまま後方へ吹き飛んだ。そして空中で姿勢を立て直し、口から炎を吐いて反撃する。
砂原は重力に身を任せた。落下して炎をかわし、着地するなり反撃の羽根を放つ。それはあえなく全弾外れてしまったが、前述した通り相手にダメージを与えるだけが攻撃の全てではない。砂原が戦っているあいだにデカラビアは空中で体勢を立て直した。
「なるほど。悪魔よりも人間を先に始末したほうが利口か」
若雷は地上に降り立つと、間を置かずに砂原めがけて疾走した。
砂原は右手を顎の前に、左手は目の高さに置いてボクサーの構えを取り接近戦に応じる。若雷の素早さから逃れるのは不可能と踏んで接近戦に応じざるを得なかった、という言い方のほうが事実に即しているかもしれない。
若雷は遠目から拳を振り抜いた。砂原は神懸り的な反応でかわして拳を真っ直ぐ突き返す。
そう来ると読んでいたのか、若雷は砂原のストレートに合わせて外側からフックを被せた。ボクシングにおいてクロスカウンターと呼ばれる技法である。それが綺麗に決まって若雷の拳が砂原の顎を横から揺らした。
クロスカウンターを浴びた砂原の巨体が揺れる。その隙を見逃さず若雷は砂原の腹に拳を叩き込み、続いて前のめりになった砂原の頭を掴んで顔面に膝蹴りを見舞った。
イブ・ジェセルのメンバーは常人よりも多少強い肉体を持っているが、悪魔ほど頑丈ではない。若雷が繰り出す怒涛の連続攻撃を受けて砂原は膝を着いた。さらに若雷の容赦ない蹴りに顎を跳ね上げられる。
だがやられっぱなしの砂原ではなかった。彼は背中から倒れながら手を突き出す。その前方に魔法陣を描き、銀色に輝く砲弾を三連射した。至近距離から放った反撃が若雷の腹に全弾命中する。
若雷の体が派手に吹き飛び、地面を転がった。その隙に砂原は起き上がる。先ほどのクロスカウンターがまだ効いているらしく膝は笑っていた。回復するまで走るのは不可能だろう。ただし彼には六枚の翼があった。砂原は震える足で地面を蹴ると翼を広げて後ろ向きに地面スレスレを飛行する。
若雷は即座に立ち上がり逃げる獲物を追いかけたが、デカラビアの火柱が三本立て続けに襲ってきたため回避行動に切り替えざるを得なかった。
若雷は鬱陶しそうな顔でデカラビアの攻撃を避けてから、改めて砂原を狙う。
そのずだったのに、血走った目は混乱をきたしたように左右を往復した。
「何だ、これは?」
若雷の足が止まる。
驚く彼の眼前で、砂原の姿が三つに分裂していた。
砂原、デカラビアが若雷と互角の勝負を展開しているのに対し、令司は黒雷相手に押され気味だった。ただでさえ一人で八鬼を相手にするのは厳しいのに、令司は本来の実力を発揮できていない。
「人間がここまで楽しませてくれるとは思っていなかったぞ」
黒雷は令司の実力を称えるが、令司の動きは明らかに精彩を欠いていた。きっとアムリタの件が気になって戦いに集中できないのだろう。砂原の一喝も効果は無さそうだった。
そのような状態で戦っていれば、令司が敵に虚を突かれるのは当然だった。
黒雷が蜘蛛の糸を吐き出す。令司は真後ろに跳んでかわした。何の考えも無くそちらに逃れたのだろう。直後に飛び込んできた黒雷の巨体に、彼は驚いた。
蜘蛛の脚が槍となって飛び出す。普段の令司であれば多分かわせない攻撃ではなかった。少なくとも樹流徒やメイジと戦った時の彼ならば避けていた。
黒雷の長い脚が令司の脇腹に突き刺さる。さらに至近距離から放たれた蜘蛛の糸が令司の体を吹き飛ばし彼の体にまとわり付いた。糸はまるで意思を持った生物のように令司の全身を絡め取る。
糸を断ち切ろうと令司はもがくが、動けば動くほど彼の体は強く締め付けられた。圧迫により刺された脇腹から勢い良く血が広がる。令司は歯を食いしばって耐えた。
「いいね。その顔が見たかったんだ」
台詞とは裏腹にノイズ混じりの声は平坦だった。まだまだこんなものでは相手の恐怖や痛みが足りないのか。令司に更なる苦痛を与えるべく、黒雷は口を広げて何かを吐き出そうとする。
そこへ間一髪、援護攻撃が飛んできた。空から飛来した雷の剣が黒雷の顔面めがけて落下する。黒雷は攻撃を中断して後方へ跳ねた。
舞い散る黒い羽と共に、アンドラスが令司の前に降り立つ。戦場に引き返してきた彼の手には渚から借り受けた刀が握り締めれていた。
「大丈夫か? 今まで良く一人で粘ったな」
アンドラスは背中を向けたまま令司に語りかける。
令司は当惑顔になった。よもや自分の人生の中で悪魔に救われるなどという出来事が起こるとは夢にも思っていなかっただろう。
だが今はそれどころではない。早く今の窮地を脱しなければいけなかった。
体を地面に横たえたまま令司は何とか腕を上げて刀を天にかざす。彼の周囲から光の渦が巻き起こり小さな竜巻となった。緑色に輝く光の竜巻は令司を捕縛していた蜘蛛の糸をこま切れにする。
令司が蜘蛛の糸から逃れているその間、アンドラスは黒雷の攻撃を防御していた。渚の刀は、黒雷の巨大な鎌を受け止めてもビクともしない。逆にアンドラスが刀を突き出すと、令司の刀では傷つけられなかった黒雷の脚にいとも容易く穴が開いた。
黒雷は蜘蛛の糸を吐き出す。それよりも一足早くアンドラスは離脱した。横に跳んで蜘蛛の糸から逃れると、次に襲ってきた鎌をバック宙で避けて安全圏に逃れる。
アンドラスに安堵している暇は無かった。彼は黒雷を見て驚く。
「何だあれは?」
刀に斬られた黒雷の脚から蛆虫のようなモノが大量に湧き出していた。それは傷口に集まり固まって、色を変え、質感を変え、黒雷の肉となり皮膚になってゆく。一種の再生能力だ。
怖気が走る敵の能力を目の当たりにしてアンドラスの表情は強張る。
令司はもう少し複雑な顔をしていた。彼の場合は黒雷に対する嫌悪感や恐怖心だけでなく、アンドラスに危機を救われたことへの戸惑いや屈辱も同時に感じているのだろう。
アンドラスが思い切り高く跳躍して果敢に敵の頭上から攻める。頭上に掲げられた刀が黒雷の頭部を真っ二つに割こうと振り下ろされた。
刀の切っ先が黒雷の元に届く前にアンドラスの体は後ろに跳ね飛ばされる。彼を攻撃したのはムカデの尻尾だった。黒雷の尻尾は伸縮自在らしい。先ほどまでは頭上の敵を叩き落とすほどの長さは無かったのに、いつの間にか黒雷の身の丈よりも長くなっている。鞭の如くしなった尻尾に弾き飛ばされたアンドラスは空中で体勢を立て直すと、黒雷の背後に着地した。
うっ、と黒雷が短い声を漏らす。アンドラスがムカデの尻尾に打ち落とされているあいだ、令司の攻撃が黒雷に直撃していた。令司が刀で虚空を斬って×の字を描くと、その軌道に沿って出現した三日月状の光が飛んだ。それが黒雷の腹を深く切り裂いたのである。
黒雷の傷口からまた大量の蛆虫が沸いた。それは黒雷の肉を補い、失った皮膚を繋いでゆく。
「コイツ、全身に再生能力があるのか」
アンドラスは剣を投擲した。青い雷光を纏った剣が黒雷の背中に命中する。
やはり傷口から蛆が溢れて黒雷の傷口を塞ぎ始めた。かなり早い再生速度だ。こうなると、よほど深い傷を与えるか短時間の内に多くのダメージを与えない限り黒雷は倒せない。例外として黒雷の肉体が現世の毒に侵されるのを待つという戦法はあるが、何かキッカケでもない限りアンドラスたちがそれに気付くのは無理だった。
令司が振り払った刀から発生した緑の閃光が刃となって地を這う。その先に立つ黒雷は蜘蛛の足をバネにして身軽に飛び跳ねた。宙に舞った巨体は蝶の羽をはばたかせ空中で停止する。異形の口が開き、そこから大量の赤い蚊が飛び出した。
「気をつけろ。その虫に刺されたら毒を受けるぞ。一匹でも討ち漏らしたらダメだ」
渚はこの虫にやられて戦闘不能になった。同じ轍を踏まないようにアンドラスが令司に注意を促す。
悪魔からの助言に令司の眉ははっきりと曇った。それでも言われた通り虫への対処はする。彼は刀を頭上に掲げ足下から光の渦を生み出した。令司を中心に小さな竜巻が起こり、光り輝く無数の刃が迫り来る赤い蚊を全て切り刻む。
アンドラスは両手を重ねて前に出し魔法陣を展開した。魔法陣の中から飛び出した炎の玉が黒雷の背中に命中する。どれだけダメージがあったかは分からないが黒雷の体が微かに揺れた。
黒雷はアンドラスに背を向けたまま、ムカデの尻尾が吐き出す針で即座に反撃する。アンドラスは軽やかに跳んで敵と敵の攻撃から離れた。
そのあいだに令司は空を舞っていた。落下する体の重さを乗せて、天に掲げた刀を黒雷の頭頂部めがけて振り下ろす。
黒雷は鎌で防御すると、圧倒的な力で令司の体を押し返した。腕力の差がありすぎて鍔迫り合いにならない。
後方へ押し退けられて若干体勢を崩した令司に、黒雷の口から吐き出された炎が襲いかかる。令司は手を前に出して「ハッ」と気合の入った発声をした。掛け声と共に彼の掌から爆風が巻き起こり炎を退ける。
直後、がら空きになった黒雷の後頭部めがけてアンドラスが雷剣を投擲した。それは惜しくもムカデの尾に弾かれる。
黒雷は蝶の羽で浮上しながら蜘蛛の糸を吐き出した。それを令司の刀が切り裂く。
今だ、とばかりにアンドラスの目が輝いた。彼は黒雷の真下に潜り込んで雷剣を投じる。死角から放たれた一撃だった。真上に投擲された雷剣は黒雷の腹に突き刺さる。
黒雷は悲鳴も上げなければ、身じろぎもしなかった。腹に刺さった剣を吐き出すと、彼女の傷口からは血の代わりに蛆虫が湧いてくる。蛆虫は傷口の修復を始める。
黒雷は蝶のはばたきを止めて、真下にいるアンドラスめがけて落下した。アンドラスは慌ててその場から横っ飛びして、芝の上を滑る。半瞬前まで彼がいた場所に異形の巨体が着地した。
令司は剣で十字を切って三日月状の閃光を連続で放つ。黒雷は難なく鎌で防御すると、口から炎と針を立て続けに吐き出して連続攻撃のお返しをした。
令司は最初に吐き出された炎は回避したが、その後に飛んできた針を一発太ももに受ける。これも普段の彼ならば食らう攻撃ではなかった。
黒雷が八本の脚で地面を押して令司に踊りかかる。
令司は後ろに跳んで逃れた。着地すると歯を食いしばりながら脚に刺さった針を抜く。
「うっ……」
よほどの痛みだったのだろう。口から声が漏れる。
「種族の差というのは残酷だな。人間も悪魔も我々からすれば等しく脆い」
黒雷の体はほぼ無傷だった。今まで令司とアンドラスが二人がかりで与えてきたダメージは全て再生能力により完治しつつある。
対するアンドラスは巨大カマキリから受けた深い傷が未だ塞がっていなかった。人間の令司が負った傷は言うまでも無い。再生能力の優劣は比べようもなかった。
「このままじゃジリ貧だぞ」
理不尽なまでに強力な敵の能力にアンドラスは焦りを滲ませる。イブ・ジェセルのメンバーと悪魔が手を組んでも、たった二人では八鬼を倒せないのか? このままジワジワとなぶり殺しにされてしまうのか?
そんな絶望の闇に突として一筋の光が差したのは、令司が次の攻撃を放ったときだった。
「くたばれ化物」
傷の痛みを堪えるために吐き出されたであろう言葉と共に、令司の刀から三日月状の光が放たれる。
黒雷は腕の鎌を盾にしてあっさり防御した。外傷は無し。痛くもかゆくもないはずだった。
ところが反撃に備える令司とアンドラスが見つめる先で、黒雷の動きが急に止まった。
異形の顔が小刻みに震え、内側からの圧力に耐えかねた口が広がる。せき止められていた赤い液体が塊となって吐き出された。水を一杯に吸い込んだ雑巾を床に落としたような音が鳴る。黒雷の足下に赤い水溜りが生まれた。
吐血だ。しかも尋常な量ではない。
「何だ?」
令司が驚きに目を見張る。攻撃を当ててもいないのに敵がいきなり吐血した。
この不可解な現象を説明できるのは夜子と八鬼だけだろう。ついに現世の空気が黒雷の体を蝕み始めたのだ。
アンドラスははっとする。
「そういえば、さっきハッキの奴らが何か言ってたな。たしか……」
――これ以上戦いを長引かせても良いことは一つもねえンだ。
「とか言ってたはずだ。もしかするとあの言葉には何か重要な意味があったンじゃないか?」
漠然とではあるがアンドラスは八鬼の致命的な欠点に気付きつつあった。
黒雷は身を翻してアンドラスに体の正面を向ける。口、下半身、そしてムカデの尾から、炎と蜘蛛の糸と黒い針を一斉発射した
アンドラスは横っ飛び一発、地面を転がって危険を回避する。そこを狙って黒雷の鎌が文字通り飛んだ。真ん中で分離した腕が縄のように伸びて鎖鎌と化したのである。
アンドラスは明らかに不意を突かれたものの咄嗟に刀を使って巨大な鎌を防いだ。それにより体を真っ二つにされずに済んだが、鎌の重さとスピードに押されて上体が仰け反る。黒雷にとっては畳みかける好機だった。
その好機を黒雷自身の体が邪魔をする。また黒雷の動きが急に止まって、口から大量の血が吐き出された。異形の虫が脚を折り曲げ、身を捩じらせて苦痛を訴える。到底芝居には見えなかった。
「まさかコイツ長時間戦闘に耐えられないのか?」
さらに一歩深く、アンドラスは八鬼の弱点に近付く。
彼と同じ事を考えたのか、令司の瞳にはさっきまで無かった光が微かに浮かび始めていた。時間の経過により心が落ち着き、幾分戦いに集中できるようになったのかもしれない。
黒雷が体に変調をきたし始めた頃、若雷は三人に分身した砂原に圧倒されていた。
三人の砂原のうち二人が時間を稼ぎ、残り一人が黄金の蛹になる。完成した黄金の蛹は標的に強烈な突進攻撃を見舞う。それを敵が力尽きるまで延々と繰り返すのだ。一度は樹流徒を戦闘不能にまでおいやったこの戦法が若雷をも苦しめていた。砂原の一方的な攻撃が続く。デカラビアはすっかり手持ち無沙汰になっていた。
「私の出番はもう無さそうですね」
デカラビアは鷹揚に構えるが、内心では必死に願っているのだろう。何としても砂原に若雷を倒してもらわなければ困るのだ。
往往にして、そういう都合の良い期待や願望は裏切られる。
すっかり傍観者と化していたデカラビアが、若雷を見てある異変に気付いた。
「ん? アイツ、体が大きくなってませんか?」
勘違いや目の錯覚では無さそうだった。
たしかに若雷の体が今までよりもひと回り以上大きくなっている。それはデカラビアが疑問を口にしている間にも急速に肥大化し、見る間に十メートル超の大巨人になった。
巨人と化した若雷は黄金の蛹を胸で受け止めると、若干体をよろめかせながらも反撃する。無造作に手を振り下ろして虫でも潰すように砂原を地面に押し付けた。幸いその砂原は分身体に過ぎなかったが、即死だった。
「なんという化物だ」
残った二人の砂原は相手から距離を取る。
巨大化した若雷はさらに風貌を変化させた。皮膚から苔のようなものが生えて全身が緑一色に染まる。目玉は破裂しそうなほど膨らんであさっての方角を眺め出した。口が大きく開かれて紫がかった涎がとめどなく流れ始める。
自分の出番は終わった、と考えていたデカラビアは慌てて三つの魔法陣を展開した。それぞれの魔法陣から火柱を発射する。
顔に、肩に、そして背中に、若雷はまともに三つの火柱を浴びた。しかし痛みを感じている様子はまるでない。肩を揺らして多少嫌がっている素振りは見せたが、せいぜい人間が飛んできた羽虫を嫌う程度の反応だった。
あー、あー、と、若雷は喉の奥から野太い声を発する。それはどこか物悲しげで、誰かに助けを求めているようにも聞こえた。