裏切り
敵の口から樹流徒の名前が出たことは渚にとって甚だ意外だったらしい。彼女の肩がすっと下がって刀を持つ指の握りが甘くなった。薄く開きっ放しになった口は心の動揺を如実に示している。
対するアンドラスも渚と同じくらい意外だったに違いない。当分訪れないと思われた千載一遇の好機がこんなにも早く再び舞い込んだのだ。しかもこれほどあからさまなチャンスは二度と巡ってこないだろう。いま攻撃を仕掛ければほぼ確実に相手から一撃奪える。手練の戦士なら必ずと言って良いほど勝負に出る場面だ。
ただ、それをみすみす見逃すのがアンドラスという悪魔だった。彼は相手を倒す好機よりも渚の変化が気になったらしい。
「おい、急にボーっとしてどうしたんだよ?」
と怪訝な顔で眼前の少女に尋ねる。
アンドラスの質問に渚は質問を返した。
「ねえ。今、キルトって言わなかった?」
「え」
「キルトって、まさか相馬君のことじゃない?」
「ソーマ君?」
「うん。相馬樹流徒。違うの?」
渚は無防備な状態でずいと前に出る。
戦いそっちのけで詰め寄ってくる相手にアンドラスは当惑の表情を浮かべた。
ただ、渚の言葉に思い当たる節はある。アンドラスはちらと虚空を見て記憶を探る仕草をしてから、おもむろに口を開いた。
「ああ、思い出した。そういや前にシオリがキルトのことをソーマ君って呼んでたな」
「シオリって……伊佐木さんの名前まで知ってるなんて」
渚は重ねて驚く。魔界へ向かった樹流徒はまだしも、天使に連れ去られた詩織のことまで知っている。このカラス頭の悪魔は一体何者なのか? そう彼女は思ったに違いない。
「君、相馬君たちと知り合いなの?」
「知り合いどころか。友達だよ」
悪魔の口から当たり前のように友達という単語が出る。
「オレ、実はキルトに頼まれて現世に来たんだ」
さらにアンドラスが告げると、渚は少しのあいだ言葉を失った。
「そうなんだ……。まさか相馬君に悪魔の友達がいるなんて思わなかったな」
再び口を開いたとき、渚の目は完全に警戒を解いていた。一応刀は握っているが最早戦闘態勢ではない。そんな彼女の様子を見てアンドラスも構えを解いた。
これまでのやり取りから、渚が樹流徒の知り合いであることは想像に容易い。
「もしかしてオマエもキルトの友達なのか?」
アンドラスが尋ねる。
「そうだよ……って言いたいところだけど、立場上、友達と呼ぶのは無理かな」
「ふうん。良く分からないけど複雑な関係みたいだな」
「まあ、ちょっとね」
渚は相槌を打ってから
「私、渚。君は?」
「アンドラス」
「じゃあアンドラス君。不躾ながらもう一つ質問しても良い?」
「何だよ?」
「相馬君に頼まれて現世に来たって言ってたけど、何で?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「単に知りたいと思ったから、じゃ駄目かな?」
「興味本位ってヤツか」
「別に面白がってるわけじゃないよ。むしろ真面目に聞いてるの。私の勘が、君の話を聞くべきだって告げてるんだ」
「勘ねぇ……」
「私、運命って言葉はあまり信じないけど、昔から自分の直感は信じてるんだよ。この場所で偶然君と会って、君の口から相馬君の名前が出たことには何か意味がある気がする。だから話を聞かせて欲しい」
と渚。動機が酷く曖昧な割に彼女は目は真剣だった。
アンドラスは即答しない。相手は命の奪い合いをしている敵だ。幾ら樹流徒を知る者同士だといっても、果たして現世を訪れた理由を喋って良いものかどうか迷っているのだろう。
すると渚は刀を地面に捨てた。自分にこれ以上戦うつもりがないことを訴える。
「どう? これでもまだ教えてもらえない?」
「オマエ、なんだってそうまでして知りたいんだよ」
「それが自分のためになるような気がするから。ただの勘だけど」
「自分のため? ソレ、どういう意味だ?」
「言っても分からないよ。物凄く個人的な話だもん」
「……」
「でも、事情を話してくれれば決してソッチの悪いようにはしない。それだけは約束する」
渚が言うと、アンドラスは今一度迷う。彼女に話すべきか、否か。
短い沈黙の後、アンドラスは口を開いた。
「アムリタをニンゲンに届けて欲しいって、キルトに依頼されたんだ」
「アムリタ?」
「万病に効く霊薬だよ。現世では不老不死の聖水として伝わっている。それが入った壷を天使の犬に届けたいらしい」
「へえ。何のために?」
「聞き忘れた」
「え。忘れたって……そんな肝心な事を?」
「しょうがないだろ。いきなり現世に行ってニンゲンに届け物をして欲しいって頼まれたんだ。そのときはアムリタの用途まで気にしてられなかったンだよ」
「そっか……」
「でもキルトがオレにアムリタを託したのは大切な理由があるからだ。それは間違いない」
「まあ、そうだろうね。友達である君にわざわざお使いを頼むくらいだから」
「それだけじゃないぜ。キルトはアムリタを手に入れるため命がけの決闘に出場したんだ」
「相馬君が決闘? 彼、そういうのに参加する人じゃないと思うんだけど……」
「オレもそう思う。だからこそアイツにとってアムリタは何が何でも手に入れたい物だったんだ」
「なるほど」
渚は納得して
「相馬君の性格からして、誰かを助けるのが目的じゃないかな? というか、それ以外に彼が決闘に参加してまで何かを叶えようとするとは思えない」
「十分あり得る話だな。アイツかなりお人好しみたいだから」
樹流徒がデカラビアのために花を摘んで帰ったのはアンドラスも良く知っている。
渚は渚で千里眼を使ってNBW事件の被害者である樹流徒たちの様子を数年間観察してきた。
二人とも相馬樹流徒という個人の性格をそれなりに把握しているのだ。
「アムリタ……だっけ? きっとそれさえあれば助かる人がいるんだよ」
「オレもそんな気がしてきた。あの時キルトはいつにも増して真剣な顔してたからな。天使の犬の中にどうしてもアムリタを必要としている奴がいるんだ」
絶対にそれで間違いない、という論調で二人は語る。
事実、彼らの多少根拠がある憶測は見事に的中していた。アムリタさえあれば一人の少女を呪いの苦しみと死の恐怖から救えるのである。
「で、アムリタが入った壺は今どこにあるの?」
「アイムって奴が体内に隠し持ってる。あの悪魔だよ」
そう言ってアンドラスは、現在八鬼と交戦中の人型悪魔を指差した。
渚は「そうなんだ」と呟くと、それきり黙りこんで何やら考え始めた。
ほどなくして彼女は意を決したように顔を上げる。
「やっぱり私の勘は間違ってなかった。この件について聞いて良かったよ」
そう前置きしてから、力強く語を継ぐ。
「いま決めた。私、君たちを手伝う」
「はあ?」
唐突な渚の申し出に、アンドラスはすっとんきょうな声を上げた。
唖然とする彼にお構い無しで渚は勝手に話を進める。
「組織の人にアムリタを渡せばいいんでしょ?」
「そうだけど、オマエ、あのハッキとかいう奴らの仲間なんだろ?」
「そうだけど?」
渚はオウム返しで答える。
「だったら何でオレたちを手伝うとか急に言い出すんだ? オマエがキルトの知り合いだから?」
「それも少しはあるけど、私自身のために手伝いたっていうのが一番の理由だよ」
「さっき言ってた個人的な話ってヤツか」
「うん。それにアムリタを届ければ誰かを助けられるでしょ」
「ん? それってつまりオマエはニンゲンを助けたいのか?」
「そうだよ」
「でもオマエ、ニンゲンじゃないんだろ?」
「ニンゲンじゃないけど、実は私、根の国で唯一の元人間だから」
「ネノクニ? 元ニンゲン?」
「そう。私の体はもう人間じゃ無いけど、まだ人としての心は残っている。だから助けられる人間がいるなら助けてあげたいんだ」
「……」
「それにアンドラス君って相馬君や伊佐木さんの友達なんでしょ? じゃあたとえ若雷様の命令でも私にはもう君を殺せないよ。だから、どうせ命令違反を犯すなら君たちを手伝おうって思ったの」
「手伝うって言っても、具体的に何をするつもりだ?」
「さあ? とりあえず若雷様と黒雷様を説得してみるけど、駄目だったら戦うしかないかもね」
「随分簡単に言うけど、そんなことして大丈夫なのか?」
「分からない。運が悪ければ根の国にいられなくなるし、最悪裏切り者として処分されてもおかしくない」
「だったら……」
「でも、やるって決めた以上やる」
即答して渚は笑う。かなり困難な問題に敢えて自ら首を突っ込もうとしているのに、その表情はどこか憑き物が落ちたようにすっきりしていた。
「本当にやるつもりなのか?」
「もちろん」
「そうか……。そこまで言うなら止めないけど……しかし予想外の展開だな」
よもや渚が危険を冒してまで味方になってくれるなど、アンドラスでなくても想像しなかっただろう。それほど渚の決断は唐突であり、彼女の境遇を知らない他人には理解できないものだった。何が渚の心を駆り立てたのか。それはきっと彼女自身にしか分からない。
「少し前の私だったらこんな決断はしなかった。八鬼から命令されれば無関係な人間の一人や二人は陰人計画の犠牲だと考えて見捨てていたし、相手が悪魔ならたとえ相馬君の友達でも戦っていたと思う」
でも今は違う。渚はそう付け足した。
やはり根の国の秘密を知ってしまったことは、彼女に劇的な心境の変化を与えたようである。自分が使い捨ての操り人形である事実を知らない夜子への同情。火雷や真の黄泉津大神に対する憤り。そして根の国に所属している以上八鬼の命令に従わなければいけないという葛藤。心の中に鬱積していた様々な感情が、今回、こういう形で渚を突き動かしたのだろう。「私は根の国の一員だが、何でもかんでも八鬼の言いなりにはならないし黄泉津大神の思い通りには動かない」そうした覚悟を、渚は根の国に対して暗に主張するつもりに違いない。それは主張であると同時に一種の鬱憤晴らしとも言えた。また、根の国から反逆者と見なされる恐れがある危険な行為でもある。しかしそれを承知の上で、渚は現状を変えずにはいられなかったのだろう。己を取り巻く苦しい状況に牙を剥きたかったのだ。
「陰人計画は成功させる。でも、その要になるのは黄泉津大神じゃない。夜子様だ」
決意を込めるように彼女は独り言を呟いた。
「渚。何を悪魔などと喋っている」
そのとき冷たい声が飛んだ。
渚とアンドラスの戦いが中断されていることに気付いた若雷が訝しげな目で彼女たちを見ていた。
とはいえ今は戦闘中だ。渚の不審をゆっくり問いただしている暇など若雷には無い。彼の怪しむ目はすぐに眼光を鋭くして、上空のデカラビアと地上のアイムを交互に睨んだ。
「あまり悠長にしてられないね」
行動を起こすなら今の内、とばかりに渚は素早く懐に手を忍ばせる。衿の奥から出てきた彼女の手には一本の美しい横笛が握られていた。黄金色の装飾が施された黒い竜笛だ。
「何だ、その笛?」
それ以前にいま笛を取り出す必要があるのか? 不思議そうに見つめるアンドラスの眼前で渚は笛を吹く。音は鳴らなかった。正確に言えば人間の耳では聞き取れない周波数の音色が出ていた。要は犬笛と同じである。アンドラスには笛の音が聞こえているらしい。「綺麗な音色だな」などと悠長なことを言って耳を済ませていた。
やがて笛が発する音なき音に誘われて、霧の奥から黒い物体の群れが飛来する。
「カラス?」
カラス頭のアンドラスが目を凝らす。
彼の言う通り、空からやってきたのは数十羽のカラスだった。どこからともなく現れた黒い鳥の群れは全員渚の周りに集まる。中には彼女の腕や肩に止まる者もいた。
「へえ。その笛、カラスを呼べるのか」
「うん。現世のカラスじゃないけどね」
「でも鳥なんて呼んでどうするんだ?」
「秘密」
言うと、渚は腕に止まったカラスに顔を近付けて、何やら耳打ちをする。
「みんなお願いね」
最後に彼女が言うと、カラスたちはギャアギャアと鳴きながら一斉に飛び立ち、四方八方の空へ散って行った。
漆黒の翼が霧の奥に消えるまで見送ると、渚は顔を引き締める。
「じゃあ、早速若雷様たちを説得してみる」
そう言い残すと、彼女は地面に捨てた刀を拾い、アンドラスを置いて一人で走り出した。
デカラビアとアイム、そして八鬼の二人組は、未だ激しい戦いを繰り広げている。
そこへ渚が近付き、叫んだ。
「若雷様。黒雷様。お願いします。今すぐ戦いを止めて下さい」
突如戦闘に割り込んだ大声に全員の動きが止まる。全ての視線が渚へ向かった。
一体何事か、とデカラビアは不思議そうに渚を注視する。
若雷が顔色を変えず尋ねた。
「いきなり何を言い出すかと思えば……戦いを止めろとは、どういう意味だ?」
「そのままの意味です。今すぐ戦いを止めて退却して下さい」
「なぜ?」
「この悪魔たちを殺したくないからです」
「なぜ?」
若雷は同じ質問を繰り返す。
「ここにいる悪魔たちは、人間にある届け物をするために現世に来ました。それによって必ず誰かが救われるはずなんです。もしかすると人一人の命を左右する問題かもしれません」
詳しい説明を受けると、若雷は要領を得た。
「なるほど。それで人間を助けるためにこの悪魔たちを見逃せと?」
「はい」
若雷は軽く首を捻る。渚が訴えている内容は理解できたが気持ちは理解できない、といった反応だ。
「冗談も大概にするのだな。なぜ人間のために我々が戦闘を中止しなければいけない?」
「……」
「疑問は他にもある。たしか渚は人間という存在に嫌気が差して我々の国の一員になったのだろう? それがどうして今さら人間のために動こうとする?」
「確かに私は人間が好きじゃありません。人間は醜く残酷な部分を沢山持ってる生き物です。それを私は嫌というほど見てきました。でも私が根の国の一員になったのは人間を滅ぼすためじゃありません。あくまで陰人計画を成功させ、現世を争いや悲しみがひとつもない楽園にしたいからです。だから、助けられる命は助けたい」
「……」
「それに人間は経験によって心の在り方や物事に対する考え方が変わる生き物です。私はもう人間じゃないですけど……でも、根の国を初めて訪れた頃の私と、今の私は違います」
「その口ぶりだと、お前は何か心変わりするような経験をしたようだな」
「そうです。お二人は知らないでしょうけど……」
渚はそこまで言ってやめた。真の黄泉津大神について暴露しようとしたのだろう。だが、それだけはできなかった。たとえ八鬼相手でも根の国の真実を口外すれば、渚だけではなく夜子の命まで危うい。渚にとって夜子は命の恩人だ。見殺しにはできない。
「何だ? 我々が何を知らないというのだ?」
若雷が続きを促すが、渚は答えられなかった。彼女は奥歯をぐっとかんで、拳を握り締める。
「とにかく、ここにいる悪魔たちを殺さないで下さい」
と代わりの台詞を吐き出した。
若雷は渚に近付くと、長刀の先端をそっと彼女の喉に押し当てる。
「渚よ。いつになく強気だが、お前はいつから我々に意見できる立場になった?」
「立場とかは関係ありません。言いたいことは言います」
半ば睨め上げるような眼差しを渚が向けると、若雷は静かに長刀を下ろした。
「まあいい……。だが、さっきも言ったように、我々が人間のために何かをする理由が無い。戦いを止める理由も、悪魔の命を見逃す理由も無いのだ」
「分かってます。でもお願いします」
渚の指先は震えていた。八鬼に逆らうことが如何にリスクを伴うか。それを想像して恐怖しているのだろう。それでも彼女は引かなかった。
渚が折れる気配が無いので、若雷はもう一人の八鬼に意見を求める。
「こう言っているが、どうする黒雷?」
「決まっている。渚が初めてこんなに必死になってお願いをしているんだ」
黒雷は扇子を広げて口元を隠し
「何が何でもこの場にいる悪魔を皆殺しにしてやりたくなった。できれば渚の目の前で」
冷たい瞳を歪める。
彼女の内側に秘められた得体の掴めない迫力を前に、渚の顔からさっと血の気が引いた。
「残念だったな。私も黒雷と大体同意見だ。奴ほど悪趣味なことは考えていないが……」
と若雷。
「そうですか。わかりました」
渚は握り締めた刀を若雷に向ける。
「これは何の真似だ?」
「もう一度だけお願いします。今回は退いてください。でないと私はお二人と戦わなければいけません」
「正気か? 私に意見をするばかりか刃を向けるとは。我が国を裏切る気か?」
「根の国を裏切るつもりはありません。ですから可能ならばお二人とも戦いたくないんです」
どうしたものか? と若雷は黒雷に目配せする。
「前々から渚には教育が必要だと思っていた。ここで痛い目を見せて己の立場をわきまえさせれば、二度と私たちに歯向かう気など起こさないだろう」
「賛成だ。それで矯正できないようならば、この場で渚を始末するのもやむを得まい」
八鬼が概ね意見を一致させる。渚による彼らの説得は失敗に終わった。
即、戦闘に突入する。若雷は素早く身構えると微塵も躊躇う素振りを見せず長刀を突いた。
渚は咄嗟に刀で防御するが、相手の力に押されて一歩下がる。
「くそ」
遠くから成り行きを見守っていたアンドラスが渚に加勢すべく走り出す。それを黒雷が妨害した。アンドラスの進路に飛び込んできた黒い針が彼を足止めする。直後にはデカラビアが空から電撃を落として黒雷に回避行動を取らせた。
渚は若雷を睨んで刀を正眼に構える。もう後戻りは出来なかった。八鬼と戦うしかない。
が、いざ反撃というタイミングで思わぬ横槍が入った。
「あっ、ちょっと……」
渚は目を丸くする。
彼女を襲ったのは敵ではなく味方の横槍だった。アイムが渚の側面から接近してハイキックを繰り出す。その攻撃にも何ひとつ戸惑いが無かった。若雷と同様、本気で渚に一撃見舞おうとしている。
渚は身を屈めてアイムの鋭い蹴りを避けると、続いて大蛇の手から吐き出された毒霧もバックステップでやりすごした。そして幾分困惑気味の表情でアイムに抗議する。
「ねえ。私、一応味方なんだけど」
「悪いけど、僕、悪魔以外は信用しないことにしているんだ。さっきまでアンドラスと戦っていた君に味方と言われても納得はできない」
悪びれる様子も無くアイムは言った。彼は魔法陣を展開して次の攻撃を放とうとする。
そこへアンドラスが慌てて仲裁に入った。
「やめろ。ソイツはオレたちの敵じゃない」
彼の声に、アイムの動きが止まる。
「敵じゃない? どうしてそう言い切れる?」
「細かい理由は良いんだよ。とにかくソイツを攻撃するな」
「分かったよ。君が言うならそうしよう」
悪魔以外は信用しない、という前言通り、渚の言葉をまるで聞こうとしなかったアイムがアンドラスの言葉はあっさり受け入れた。彼は標的を渚から黒雷に変更する。
アンドラスがほっと一息つくと同時、アイムの魔法陣から炎の塊が三発立て続けに発射された。それらは全ていとも容易く黒雷に避けられる。若雷ほどではないにせよ黒雷もかなり身軽な体の持ち主だった。
渚の反逆により、戦士の数では四対二とアンドラスたちが優位に立った。それでも戦力の上ではまだ優勢と言い切れない。八鬼二人組の実力は未だ底が見えないからだ。樹流徒と戦った八鬼の一人・柝雷は強力な能力を備え、複数の切り札を隠し持っていた。その事実から他の八鬼もそれぞれに厄介な力を持っていると判断したほうが自然だろう。
「油断するなよ。ヤツらにはまだ余裕がある」
アンドラスも味方に注意を喚起する。
それは単なる杞憂で済まず、すぐに現実のものとなって彼らを襲った。
若雷がアイムに迫り長刀で上段突きを放ってくる。アイムは首を横に倒して切っ先を避けると、次に飛んできた下段払いを飛び越えて前に出た。鋭い爪が生えた手を突き出して若雷の顔を狙う。
素早い反応で若雷は飛び退いた。攻撃を行なった直後には大なり小なり必ず隙が生じるが、それを感じさせない機敏な動き出しだった。余裕を持っての回避に見えた。
ところがアイムの爪が逃げた若雷の後を追って伸びる。手を下ろせば地面に着くであろう長さまで一瞬にして成長した爪が標的の顔に触れた。シュッと刃物で布を裂いたような音が鳴る。
若雷は着地すると信じられない物を見た顔になった。そっと頬に触れてみると、指先に微かな血が付着した。遅れてじわじわと頬に四本の赤い線が浮かび上がる。
アイムに笑みは無かった。彼だけではない。アンドラスも渚も、そしてデカラビアも。敵に傷を負わせたというのに、喜ぶどころか皆一様に真剣な表情になった。
彼らはこれから起こる出来事を予感したのかもしれない。
初めて血を流した若雷の体が小刻みに震え始めた。
「許さない……許さない……」
彼は傷口を押さえてぶつぶつと唱え始める。
何か様子がおかしい。これまでほとんど感情を露わにしなかった若雷が怒りの形相を露わにしている。
いつのまにか顔付きだけなでなく、彼の外見そのものが変わり始めた。独り言を呟く若雷の全身がじわじわと変色する。人間と同じ色をしていた肌が、最終的に頭から大量の塗料を被ったみたく真っ青に染まった。