交換条件
その空間に一歩足を踏み入れた途端、現世よりも少し冷えた空気が二人の間をすり抜けていった。
マモンを討伐し、摩蘇神社を後にした樹流徒と詩織の二人は、早速悪魔倶楽部を訪れていた。
初めてこの店にやって来た詩織は、入り口の前で立ち止まる。両の瞳を緩やかに動かして、独特な雰囲気を放つ店内を見渡した。
「相馬君の話を疑っていたわけではないけれど、本当にこんな場所があるのね」
そう語る彼女の表情は、樹流徒から見て心なしか生き生きしていた。喜んでいるというわけではなく、好奇心を強く刺激されているように見える。
彼女がマモンから解放され自由の身となってからまだ一時間と経っていないが、その余韻もすっかり醒めてしまったようだ。
そんな彼女の様子を見て、樹流徒はマモンから逃げなくて良かったと心から思った。危険を犯して勝負に出た自分の判断が間違っていなかったと実感した。
現在店内に客はいない。人間嫌いの悪魔・パズズも、アンドラスも、既に店を去ってしまった後のようだ。彼らが食事をしていたテーブルの上は綺麗に片付けられていた。客席上で揺らめいていたキャンドルの炎も消え、辺りの明度は少々落ちている。
バルバトスは一人(厳密には一体)カウンターの奥で新たな客の来店を待っていた。腕を組んだまま仁王立ちし、大きな像みたいに固まっている。傍目には完全に暇を持て余している店主だった。
詩織が店内の様子をざっと把握したようなので、樹流徒は彼女に「行こうか」と声をかける。
詩織が黙諾し、二人は店の入り口の前から歩き出した。揃ってバルバトスの元へ向かう。
彼らが客席を横切ると、テーブルの下から小さな影が飛び出した。何かと思って影の姿を追ってみると、その正体は、灰色の毛皮を持った猫、グリマルキンだった。
樹流徒たちの足音に驚いて飛び出したのだろうか。グリマルキンは素早く別の客席の陰に滑り込むと、椅子の上に跳躍する。それから尻尾を垂直に逆立てた。威嚇をしているようだ。
詩織が優しげな笑みをグリマルキンへ向ける。隣にいる樹流徒が見逃すほど一瞬の微笑だった。
二人はカウンターを挟んでバルバトスの前に立つ。
ワイン棚の横にある扉の奥から微かな物音が漏れていた。以前、樹流徒はこれと同じ物音を聞いたことがある。店員が厨房内で忙しく動き回っているのかも知れない。
「キルトか。ようこそアクマクラブへ」
バルバトスは腕組みを解いて樹流徒に声をかけた。退屈が解消されたと見えて心持ち嬉しそうである。
「ああ。また来た。少し話をしてもいいか?」
「もちろん構わないが……それより、後ろのニンゲンは誰だ?」
挨拶も早々、バルバトスは詩織のほうへ視線を送った。
少女は一歩前に出てから
「私は伊佐木詩織。アナタの名前は相馬君から聞いています、バルバトスさん」
落ち着いた口調で名乗った。
「イサキシオリか」
「詩織でいいです」
「そうか。シオリはキルトの仲間なのか?」
「ああ。そんなところだ」
樹流徒は小さく頷く。
仲間という響きには正直なところ違和感を覚えた。つい最近まで詩織とはクラスメートでありながらろくに口も利かなかったし、神社で彼女と再会してからそれほど時間も経っていない。仲間と呼ぶにはまだ浅い関係だった。
ただ、樹流徒としては早く話の本題に入りたいので、詩織との正確な関係をバルバトスに説明する手間を嫌った。
なので曖昧な返事をして、早速例の話を持ちかける。
「それより、実はお前に頼みがあるんだ」
「む。頼みだと?」
バルバトスは微かに瞼を下げ、少し訝るような表情をした。
それでも樹流徒は相手の目を真っ直ぐ見たまま
「無理を承知で頼む。しばらく彼女をこの店で預かって欲しい」
一息で言い切った。
「ほう。何故だ?」
「彼女の安全を確保したい。現世には人間を敵視する悪魔も徘徊しているから危険なんだ」
「なるほど。そういうことか」
バルバトスは樹流徒からの唐突な要求に対して全く驚きを見せず、ただ納得したように答える。それがバルバトス個人の性格によるものなのか、それとも悪魔という種族が持つ気質のためなのかは不明だが、どちらにせよ異様なまでに薄い反応だった。
もっとも、樹流徒としてはそれに期待しているのである。ここが現世だとしたら今回みたいな要求は常識的に考えてまず聞き入れられない。店に来た客から「しばらくのあいだ女の子を一人預かってくれ」と言われて「分かった」と答える店主が果たしてどれだけいるだろうか。しかも昨日今日初めて来店したような客から、である。普通、そのようなお願いは断って当然だし、そもそもそのような依頼をする者もまずいない。
しかし魔界の場合だったらどうだろうか。現世では些か常識外れなお願いも、こちらの世界ならば意外とすんなり受け入れてくれることがあるかも知れない。樹流徒はそれに期待していた。
すると、バルバトスは真紅に燃える虹彩を少女に向ける。
「キルトの話は分かった。だが、シオリ自身はそれを望んでいるのか?」
と、疑問を口にした。
樹流徒はその質問に答えられない。詩織が悪魔倶楽部での滞在を望むかどうかは、彼女自身が店内の様子を見て、バルバトスに会ってから決めることになっていた。
「実は……」
樹流徒が事情を説明しようとすると
「私やるわ。お願いします」
詩織の声が彼の言葉を遮った。
どうやら彼女は、樹流徒とバルバトスが質疑応答をしている短い時間の内に意を決していたようだ。
その余りの潔さに、樹流徒は若干の驚きを覚えた。
「そうか。さて。どうするか……」
詩織の意思を確認したバルバトスは、両目を伏せる。顎に手を添えて一考する構えを見せた。
それを見て、樹流徒は密かに安堵する。今回の話を即座に断られる可能性も当然ながら視野に入れいていたため、こうして検討してもらえるだけでも多少の手応えを感じた。
一方、詩織の表情に変化は無い。当事者でありながら極めて落ち着いた態度を保っていた。とはいえ、実際のところ彼女の胸中がどうなっているかは、本人のみぞ知るところである。
それからバルバトスが二人の視線を受けながら思考を続けること数十秒……
巨人の悪魔は瞼を持ち上げ、顎に添えていた手を腰に移す。そしてすぐに口を開いた。
「いいだろう。それならば“交換条件”をしないか?」
それがバルバトスの回答であった。
「交換条件?」
樹流徒が鸚鵡返しに尋ねる。
「そうだ。オマエたちの望み通り、しばらくのあいだこの店でシオリを預かる。だが、その代わりにシオリにはこの店で働いてもらう」
「私がここで?」
詩織は呟くみたいに驚きの声をあげる。それから樹流徒と視線を合わせた。
「働くといっても、具体的には何を?」
樹流徒が問う。
「酒や料理を運び皿を洗って貰う。他にも色々だ。危険な仕事はさせないから安心しろ」
「そうですか」
詩織は納得した様子で点頭した。
「どうする伊佐木さん? 少し考える時間を貰った方が良くないか?」
樹流徒は詩織の意思を確認し、同時に熟考を促す。
彼女が下す決断に反対する気は全く無いが、早計になってしまうことを懸念した。
対して詩織は短い振幅で首を左右に振る。
「ありがとう。でも私、バルバトスさんの話を受けることにする」
彼女は再び即断した。
それを聞いて、バルバトスは突然口を結んだまま肩を小さく揺らす。笑っていた。
「面白い。シオリもキルトとはまた違った意味で興味深いヤツだ」
そう言って、真っ赤な瞳で今一度詩織の顔を見据える。彼女に対して少なからず好印象を持ったようだ。
「伊佐木さんもバルバトスも本当にいいんだな?」
樹流徒は二人の顔を交互に見て念を押す。最後の確認を取った。
「ええ。もう決めたから」
詩織が首肯する。
「オレも構わない。これで我がアクマクラブは“魔界史上初めてニンゲンが働いた店”として名を刻む事になるだろう」
バルバトスが続いた。
「そうか」
樹流徒も納得する。当事者たちが「良い」と言っているのだ。これ以上口を挟む余地は無かった。
余りにも話がとんとん拍子に進んだため、少々肩透かしを食らったような気分になったが、当面のあいだ詩織の安全が保障さたことを思えば、全く悪い気はしなかった。
更に、今となってはどうでもいい話になってしまったが、樹流徒は、今回の要求をバルバトスに却下された場合、今後は詩織と共に行動しようと、心の中で密かに決めていた。彼女の護衛と魔都生誕の真相解明を両立させるつもりだった。
とはいえ、果たして本当に、自分と詩織、二人分の命を悪魔の手から守り切ることができるだろうか?
それを考えた時、樹流徒は絶対の自信を持つ事が出来なかった。マモンという強敵と戦った後では尚更である。
故に、今回の決定は自分にとっても良かったような気がする。それが樹流徒の紛れも無い本音だった。
「ではシオリよ。この店で働く準備が出来たらオレに声をかけろ」
「はい」
「それからオマエにも後で店の鍵を作ってやる。使い方はキルトにでも教えてもらえ」
「分かったわ。ありがとうバルバトスさん」
詩織とバルバトスは早くも息の合った流暢な会話を見せている。
反りが合うのだろうか? 彼らは既に何年来の知り合いみたいだった。この様子ならば、それほど心配は要らなそうだった。
「じゃあ伊佐木さん。今から一度ここを出ないか?」
頃合を見計らって、樹流徒が彼女に声をかける。現世への一時帰還を提案した。
「それはいいけれど……何故?」
「現世からこっちに持ち運びたい物が色々あるんじゃないかと思って。君さえ良ければ自宅まで護衛するよ」
「そう……。確かにそうね。それじゃあお願いしてもいい?」
「ああ」
樹流徒は快く承知した。