襲い来る八鬼
「ハッキ? 何ですかそれは?」
デカラビアは三つの目玉を左右に往復させ、男女を交互に見る。
頭から二本の角を生やした男――若雷。巫女装束の少女――黒雷。改めて確認しても彼らは人間と(ほぼ)同じ容姿を持っていた。アンドラスたちが二人をイブ・ジェセルのメンバーと勘違いするのも無理はない。しかしたとえ外見が酷似していようと、人間と八鬼は全く別の生き物だった。
八鬼は根の国の女王・黄泉津大神から生まれた存在であり、ネビトよりも遥かに高い知能と戦闘力を有する生命体だ。彼らは以前悪魔や天使の儀式を妨害するためネビトを率いて現世に赴いたこともあった。言わば八鬼とは根の国の幹部なのである。
八鬼とは何か? デカラビアの疑問に、若雷と黒雷は答えない。根の国にとって悪魔は敵だ。敵であるデカラビアの質問にわざわざ応じる理由が八鬼の二人には無かった。
「私たちの名を教えやっただけで十分だろう。これ以上悪魔にくれてやる情報は無い」
黒雷が無愛想に言う。
彼女の隣でやにわに殺気が放たれた。確認するまでもなく若雷が放ったものである。彼は口から静かに息を吐き出すと、いきなり前に飛び出した。布越しでも分かるゴツゴツした両腕が見た目とは裏腹にしなやなに伸び、手中の長刀が鋭く宙を滑る。銀色に輝く刃の切っ先がアンドラスの胸元めがけて飛び込んだ。
わっと一声発してアンドラスは後ろに飛び退く。彼の胸に凶刃の先端が微かに触れた。
デカラビアも相手の殺気を感じ取ったのだろう。直接攻撃を向けられたわけではないが、若雷の動きに反応して即座に上空へ逃れた。
「危ねえな。いきなり何するんだよ」
あわや胸に風穴を開けられそうになったアンドラスは相手の不意打ちに憤る。
若雷は何も答えない。悪びれる様子も無く、端正な唇を微かに歪めて光の無い目でアンドラスの顔を見返すだけだった。
そんな男の背中に黒雷が淡々とした口調で声を掛ける。
「些か驚いたぞ。悪魔相手にお前の長刀が空を切ったのは初めてじゃないか?」
「そうだな。この者たちは他の悪魔より多少腕が立つようだ」
「少しは倒し甲斐があるというわけか。帰りがけの暇つぶしには丁度良い相手になるかも知れん」
「私は暇つぶしで戦うつもりは無い。ただ悪魔がそこにいれば始末するだけだ」
八鬼の二人は涼しい顔で物騒な会話をする。これからアンドラスたちと一戦交えるつもりらしい。
「待てよ。オマエらが何者か良く分からないけど、オレたちに戦う気は無いぞ」
アンドラスが不戦の意を伝えるが、八鬼には通じない。
「オマエたちにその気が無くても私にはある」
黒雷が即答した。続いて若雷が言い放つ。
「現世は我が主の庭だ。その中を這い回る悪魔を根絶するのは我らの役目。よってお前たちも駆除する」
「駆除とは何ですか、失敬な」
悪魔を害虫扱いする物言いにデカラビアが目を吊り上げた。
それを無視して若雷は長刀を構える。彼はベタ足を地面に擦りつけてジリジリとアンドラスに迫った。
「どうやら話し合いが通じる相手じゃないみたいだな」
アンドラスは軽く跳躍して相手と距離を取った。壺を脇に抱えると、反対の手を頭上ににかざして虚空から呼び出した剣を掴む。応戦の姿勢を見せた。
若雷は長刀を中段に構え、一拍置いてから、早々に仕掛けた。後ろ足のつま先と膝に溜めた力を爆発させ片足の力だけで低く遠くへ跳躍する。アンドラスとの間合いを瞬時に詰めながら両手に握り締めた長刀の柄を真っ直ぐ突き上げた。鋭い切っ先がアンドラスの喉元を貫こうとする。
およそ最短距離を突っ切って飛んできた攻撃をアンドラスはかろうじて剣で受け止めた。相手の力と迫力に押されて上体が背後に反れる。それに引っ張られて足も後ろに下がった。
若雷は追いながら第二、第三撃を繰り出す。そっと引いては矢の如く飛び出す長刀の突きがアンドラスの額や胸元を正確に狙った。
アンドラスは今度も剣を使って防御する。脇に壺を抱えているせいもあってか、動きがぎこちない。敵の攻撃を受け止めるたびに彼の足は一歩ずつ後退させられた。
攻勢に回った若雷は手を緩めず何度も長刀を突き続ける。その挙動には余分が一切無く、全ての動作が見惚れるほど美しかった。腕の振りは目が覚めるほど速い。
アンドラスは瞬きする暇も無かった。視線を外した途端に致命傷を浴びてもおかしくないと分かっているのだろう。開きっぱなしになった目が眼前の刃を凝視した。
攻める長刀と守る剣。金属同士がぶつかり合って甲高い音色を奏でる。それはアンドラスの精神力が徐々に削られている音にも聞こえた。
早くもアンドラスが二十歩ほど後退したとき、律動する甲高い音色の中に鼓膜を突く乾いた音が紛れ込む。宙に浮いたデカラビアが若雷の側面に回り込んで電撃を放ったのである。
若雷は軽やかに後方へ跳んで難なく雷を避けた。それにより初めて反撃の機を得たアンドラスは素早く剣を投じる。宙に放たれた剣は雷を纏い、デカラビアが放った雷の残光と十字を切って若雷を襲った。
雷の乾いた音と硬い物同士がぶつかった音が重なる。アンドラスが投じた雷の剣は標的に命中する直前で、間に割り込んできた謎の物体に遮られた。
その物体とは黒い扇子であった。後方へ跳躍した若雷と入れ代わって前に飛び出した黒雷が、いつの間にか手に持っていた黒塗りの扇子でアンドラスの雷剣を受け止めたのである。
「余計なことを……」
味方の援護に対して若雷は幾分興を削がれた顔をした。
「そう言うな。少しは私にも楽しませろ」
黒雷は扇子を広げて口元を隠す。目は笑っているように見えた。
「決して油断するなよ。悪魔の中には妙な術を使う者もいるからな」
「言われなくても分かっている」
あどけない少女の外見には似つかわしくない大人びた口調で答えて、黒雷は扇子を閉じる。
彼女が手首をくるりと回すと、扇子の先が黒い光の線を引いて宙に小さな輪を作った。輪は外側へ広がりながら中心より闇を生む。闇は瞬く間に輪の中を埋め尽くし、空中にぽっかりと浮かぶ空洞と化した。
デカラビアの目玉がぎょっと膨らむ。
黒雷が作り出した闇の空洞から不快な羽音がした。それと共に異形の生物が飛び出してきたのである。 闇から現われたのは目を疑いたくなるほど大きな蜂だった。全長一メートルはあるだろう。頭から尻まで黒と紫で彩られた毒々しい姿をしている。尻から飛び出した太い針だけが銀色に輝いていた。
巨大な蜂は己が召喚された理由を知っているのか、黒雷に命じられるまでもなく、空中のデカラビアめがけて飛翔した。不快な羽音と尻から突き出た針が目にも留まらぬ速さで標的に肉薄する。
「うっ」
悲鳴にも似た短い叫びを発しながらデカラビアは体を捻った。それにより寸でのところで蜂の突進を回避する。もしデカラビア以外の悪魔だったら同じ速さで同じ動きをしても攻撃を受けていただろう。自転車のタイヤよりも薄いデカラビアの体型だからこそ回避が間に合ったのである。
標的を素通りした蜂はすぐに身を翻してデカラビアに再接近する。背後を見返る間も無くデカラビアは逃げ出した。助けを求めてアンドラスの元へ飛んでゆく。
アンドラスは新たな剣を握り締め、上空を睨んだ。
「上手く避けろよ、相棒」
そう言うや否や、デカラビアめがけて剣を投擲した。
空を裂いて飛翔する剣は雷を纏い、回避行動を取ったデカラビアの体をかすめ、彼の背後に迫っていた蜂の胴体に突き刺さる。
巨大蜂は体内に剣を抱えたまま落下。生々しい音を立てて地面に叩きつけられた。しかしまだ死んではいない。地上に体を横たえたまま脚と羽を暴れさせる。
黒雷は苦しそうにもがく蜂の姿を一瞥すると、そちに向かって腕を振り払った。巫女装束の袖から漆黒の細長い針が数本飛び出す。それは大地で暴れる巨大蜂の頭部に全弾命中した。
羽音がぴたりと止まる。針に頭部を貫かれた蜂は微動だにしなくなると、すぐに全身が溶けて泥のような物体になってしまった。ネビトが死ぬ時に起こる現象と同じである。
味方にトドメを刺した黒雷は、巨大蜂の肉体が崩壊する様を見届けることなくアンドラスたちに視線を移す。
「期待通り、この悪魔たちは暇つぶしの道具になりそうだ」
と感情のこもらない声音で言った。
アンドラスは敵を睨みながら、隣のデカラビアに小さな声で言う。
「これ以上こんな戦いに付き合う必要は無いな」
「同感ですね」
意見を一致させた二人は合図も無く同じタイミングで宙を舞った。そのまま地上に戻ることなく空めがけて上昇を続ける。逃がすまいと黒雷が服の袖から漆黒の針を連射したが、針は全て二人の足下を通過していった。アンドラスとデカラビアは霧の奥に身を隠し、八鬼の瞳からいとも容易く姿を消す。
「さて。どうする?」
誰もいなくなった空を見上げながら若雷が言う。
「分かりきったことを聞くな」
黒雷は扇子を懐に忍ばせて、地面に残された雷の焦げ跡を見つめた。
敵の姿が見えなくなった後もアンドラスとデカラビアは飛び続けた。より高く、より遠くへ逃れる。辺りを漂う霧が若干濃くなり始めたあたりでようやく停止した。
周囲に誰もいないのを確認すると二人は安堵の吐息を漏らす。
「案外簡単に逃げられたな」
「そうですね。しかし悔しいです。体調さえ良ければあんな奴ら私一人でも十分だったのに……」
「うん、そうだな」
「何ですか。その適当な返事は」
「気にするなよ。それにしても、あいつら一体何者だったんだろうな?」
「たしかハッキとか言ってましたよね。ひょっとしてあの化物の仲間なんじゃないですか?」
「ああ。実はオレも同じことを考えてた」
「天使だけでなくあんな連中もいるなんて……やはり現世に長居するのは危険ですね」
早くニンゲンが見付かれば良いのですが、とデカラビアは呟いた。
ここでふと思い出したようにアンドラスが言う。
「ところでオマエに一つ頼みがあるんだけど」
「頼み? なんです?」
「これ、デカラビアの体内に収納しといてくれないか? 持ってると動きにくくてしょうがないんだ」
言いながらアンドラスは脇に抱えていた壺を差し出す。
「無理ですよ。今、私の体は満杯なんですから」
「ああ、そういやガルダから貰った黄金全部オマエに預けてあるんだったな。すっかり忘れてた」
アンドラスは納得顔で言ってから
「じゃあ壷を収納するために黄金を捨てるか」
「ちょっと。何バカなこと言ってるんですか。ニンゲンにやるアムリタの代わりに私たちの黄金を捨てるなんて冗談じゃないですよ」
「別に全部捨てろって言ってるわけじゃないだろ。壷が入る分だけで良いんだよ」
「嫌です。絶対に嫌」
「またさっきみたいに敵に襲われたら困るだろ。壺を持ってると戦いにくいし、戦闘中に割れたらどうするんだよ?」
「心配要りませんよ。敵に襲われたらすぐ逃げれば良いんです。さっきの二人組も私たちを追って来られなかったじゃないですか」
そう言って、デカラビアはつい先ほどまで戦っていた方角を振り返る。
途端、彼の全身が固まった。余裕に満ちていた三つの瞳が瞳孔を全開にする。
デカラビアの異変を見て何事かと振り返ったアンドラスまで、頭からつま先まで石になった。
霧の奥にうっすらと不審な影が浮かんでいる。それは急速に二人の元へ接近していた。
デカラビアが悲鳴を上げる。
「アイツら追いかけてきやがった」
アンドラスの顔がぶるっと震えた。
地上に置き去りにしたと思われた八鬼が追いかけてきたのだ。若雷は羽も使わずに空を飛んでいる。黒雷は全長二メートルは下らない黒い蝶の背中に乗っていた。
「くそ。敵も空飛べるのかよ」
アンドラスとデカラビアは慌てて身を翻し逃げ出した。
漆黒の羽が激しく上下して空気を叩きつける。三つの目玉が脇目も降らず前方の景色を睨む。その姿を見ればアンドラスとデカラビアが全速力で逃げているのは疑いようも無かった。
にもかかわらず八鬼は徐々に二人との距離を詰めてくる。必死の形相で逃げるアンドラスたちとは対照的に、若雷と黒雷は抑揚の無い表情のまま凄まじい速さで風を切っていた。
アンドラスは一度だけ背後を振り返って敵から逃げ切れないと悟ったようだ。
「こうなったらやるしかないぞ」
言って、彼は飛行しながら辺りを見回す。
素早く動き回る視線は斜め前方に現れた緑の地面にぶつかったところでピタリと停止した。
そこは打ちっぱなしのゴルフ練習場だった。緑色の防球ネットに囲まれた人工芝が広がっている。
そこを戦場にしようと決めたのだろう。アンドラスは高度を下げた。デカラビアも後に続く。
二人はゴルフ練習場の真ん中に降り立った。三十メートルほど離れた場所に八鬼も降り立つ。ここまで黒雷を運んできた巨大な蝶も彼女の隣に着地した。
「敵前逃亡とは見下げた奴らだ」
黒雷が挑発的な目と台詞で二人を煽る。
だがアンドラスは乗らなかったし、普段であれば何か言い返しそうなデカラビアでさえ一言も発さなかった。どちらも口を閉ざし、緊張の面持ちと仇敵を睨むような目で八鬼と対峙する。
冬の冷たい風が向かい合う両者のあいだを吹き抜けた。
戦闘再開の口火を切ったのはデカラビア。彼の周囲に三つの魔法陣が同時展開し、それぞれの魔法陣から巨大な火柱が勢い良く飛び出した。放たれた三つの火柱は直進するかと思いきや、緩やかな曲線を描き標的を追尾する。
若雷は右へ、黒雷は左へ跳んでそれぞれ攻撃を回避。唯一その場から動かなかった巨大な蝶は火柱の直撃を受けた。黒い羽は全て燃え尽き灰となる。残った胴体は、巨大蜂と同じように溶けてドロドロの物体に変わり果てた。
アンドラスは剣を装備して身構える。デカラビアは緩やかな速度で宙に浮いた。地上と空中に分かれた両者を若雷の目が交互に追う。視線は何度か往復したあと地上の獲物に狙いを定めた。
若雷は膝を深く折り曲げると驚異的な脚力を発揮して大跳躍する。遠く離れたアンドラスの元まで一気に迫り、空中から長刀を振り下ろした。
アンドラスは剣を横に寝かせて敵の刃を受け止めると、二回、三回と大きく後ろに跳び退く。相手と十分な間合いを取ったところで武器を投げた。
アンドラスの手から離れた剣は雷光を放ちながら加速する。若雷は長刀を高速回転させて雷剣を跳ね返した。霧で覆われた薄闇の中に火花と雷が飛び散りぱっと花を咲かせる。
アンドラスと若雷が激突しているあいだに、もう片方の戦いも動き出した。
空中のデカラビアが魔法陣を展開する。図形の中にぽつぽつと浮かんだ幾十もの炎が一斉に飛散して、黒雷とその周囲に降り注いだ。
黒雷は頭上から迫る火の雨をかいくぐりながら横に駆ける。傍目には簡単にやっているように見えるが、並外れた動体視力と運動能力がなければ不可能な芸当だった。
乱れ舞う火の中から無傷で抜け出した黒雷は懐から取り出した扇子で空中に円を描き、不気味な空洞を生み出す。先刻巨大な蜂を召喚した闇の穴である。
空洞の中からまたも異形の影が姿を現した。今度は蜂ではない。多くの人間に生理的な嫌悪感を与えるシルエット。紛れも無くその姿形は蜘蛛に違いなかった。全身は黒に染まり、蜘蛛というよりは熊に近い巨躯を持っている。見るもおぞましい大蜘蛛だった。