ニンゲンを探せ
樹流徒が馬車に揺られてケプトの町に向かっている最中――
時を同じくして現世の上空を漂う二つの影があった。片方はカラスの頭部と人間の胴体、そして黒い羽を併せ持った鳥人の悪魔。もう片方は五芒星の魔法陣という一風変わった姿をした悪魔。そのような二人組は魔界中を探してもアンドラスとデカラビアしかいないだろう。
アンドラスの両手には樹流徒から託されたアムリタ入りの壷が抱えられていた。それをイブ・ジェセルのメンバーに届けるため、彼らははるばる魔界から現世にやって来たのだ。二つの世界を移動するためには異世界同士を繋ぐ扉を通る必要がある。その扉は愛欲地獄、憤怒地獄、そして魔壕の三ヶ所に存在するが、黄金宮殿にいたアンドラスとデカラビアがこれだけ早く現世に到着しているというとこは、彼らは暴力地獄から最も近い魔壕の扉を使ったのだろう。
現在二人の周囲には紫がかった霧が漂っていた。濃度は五十メートル先の景色が見えるかどうかといった程度。この濃い霧は龍城寺市を囲う結界(バベルの塔の内壁)から放出されているので、市の外側に近付くほど濃くなる。逆に市の中心部には霧が存在しない。つまり今、アンドラスとデカラビアは市の中央からある程度離れた場所にいることになる。
二人は地上に視線をさまよわせ人間の姿を探していた。足下には廃墟同然の町並みが広がっている。立ち並ぶ家々の大半が大なり小なり破壊行為の被害を受けており、原型を留めていない建物も珍しくない。道には自動車やバイクなどの各種車両や、市民の手荷物が散らばっているが、その持ち主である人間の姿はどこにもなかった。改めて見ても奇妙な光景だ。
辺りは割りと静かだが、時折どこで戦闘音らしき音が鳴っていた。かなり近くから聞こえてくる音もあれば、ずっと遠くから微かに聞こえてくる音もある。霧に隠れて目視できないだけで、未だに悪魔、天使、ネビトによる三つ巴の小競り合いがあちこちで勃発しているのだろう。
そんな物騒な市内の雰囲気をアンドラスは気にも留めていない様子だった。
「やっぱり現世は良いな。これでニンゲンがいれば最高なのに」
現世かぶれの彼は再びこの世界を訪れることができて満足そうだ。地上を見渡す目は人間を探すついでに町の景色を楽しんでいるに違いない。くたびれ果てた現在の龍城寺市でもアンドラスにとっては見物する価値があるのだろう。
一方、気分が高揚している彼とは対照的にデカラビアはとても冷めていた。
「私はちっとも嬉しくありませんね。現世には少し前に一度来ましたから大して物珍しさも感じませんし、ハッキリ言って退屈です」
そんな風に毒づいている。ただ、その割には五芒星の中に浮かぶ三つの目玉が時折停止して、魔界には存在しない建物や施設に釘付けになっていた。
口では「退屈」とぼやくデカラビアに向かってアンドラスは陽気に笑いかける。
「まあそう言うなよ。折角現世に来たんだから、キルトに頼まれた用事を済ませたらちょっと遊んでいこうぜ」
「ええ良いですよ。ただこの町には天使や謎の化物がいるって噂です。戦闘も起きているみたいですし、遊ぶにしてもなるべく早く魔界に帰ったほうが賢明でしょう」
「確かにその方が賢明だけど、それじゃつまンないな」
「楽しいとかつまらないとかの問題ではありません」
「そんなに怒鳴らなくても良いだろ。オマエ、よほど天使や化物が怖いみたいだな」
「まさか。馬鹿なことを言わないで下さいよ。最強の悪魔であるこの私が天使や化物ごときを恐れるなど天地がひっくり返ってもあり得ません」
「そうか。じゃあ、もし敵と遭遇してもオマエに任せれば安心だな」
アンドラスが言うと、デカラビアの語勢が急に弱くなる。
「いえ。今日はちょっと体調が悪いので戦闘は無理です。実は降世祭直前に盛られた毒がまだ完全に抜けていないのですよ」
「さっきまであんなに元気だったのに?」
「お黙りなさい。とにかく私は本調子ではないのです。普段の五割、いや三割の力が出せれば良いほうでしょう。にもかかわらず、こうして危険な現世に乗り込んだ私の度胸をですね……」
「分かった、分かった。オレが悪かったよ」
アンドラスは笑い流して、無理矢理この話題を終わらせた。
「それはそうとニンゲンがアムリタなんか手に入れてどうするつもりですかね?」
三つの目玉がアンドラスの手元を見つめる。
アンドラスも自分が抱えている壷に視線を落とした。
「それについてはオレも気になってる。でもキルトがわざわざ届けてくれって頼むくらいだから、よほど重要な使い道があるんだろ」
「分かりませんよ。ただアムリタを飲んでみたいだけかもしれません」
「別にそれでも良いじゃないか」
「でも、そんなに沢山のアムリタを天使の犬にくれてやるのは少し勿体無いですよ。半分くらいあれば十分なんじゃないですか? それに私、ちょっと喉が渇いてきたんですよね」
「オマエ何考えてる?」
「そのアムリタ、私たちで半分飲んでしまいませんか?」
「駄目に決まってるだろ」
アンドラスは両腕で壺をしっかりと抱え込む。
「冗談ですよ。タダの冗談」
そう言いながらデカラビアはどこか物欲しそうな目で壷をジッと見ていた。
北へ南へ。東へ西へ。天使の犬を探し求めて、アンドラスとデカラビアは特にあても無く町の上空をさすらう。目指す場所はおろか行くべき方角も決まっていないので「今度はどっちへ行こうか?」などという言葉がたまに二人の口から漏れた。
「できればもっと高度を上げたいですね。そうすればニンゲンを探すのも楽なのに……」
「そうだな。でも霧が濃いから仕方ない。これ以上高く飛ぶと地上が見えなっちゃうからさ」
「霧が薄い場所はないんですか?」
「町の中央は霧が晴れてるけど、そこは天使たちに占拠されているらしい」
その事実をアンドラスが告げると、デカラビアが急停止した。
「え。じゃあもしそこにニンゲンがいたらどうするんです?」
「そりゃあ……天使の目を盗んで近付くしかないだろ」
「何を言い出すんですか。天使の巣窟に飛び込むなんて冗談じゃないですよ」
「でもそうしないとアムリタを天使の犬に渡せないぞ」
「だからと言って……」
「待った。誰かいる」
デカラビアの声を遮ってアンドラスが言った。
やや真剣な瞳が見つめる先には十字交差点がある。元々は見晴らしが良い場所なのだが、今は濃い霧のせいで若干視界が悪くなっていた。その交差点の隅で一つの影がゆっくりと歩いている。デカラビアも動く影の存在を認めて「確かに誰かいますね」と地上の一点を注視した。
アンドラスが発見した影の正体は、少なくとも人間ではなさそうだった。二本足で歩いているが、身長は軽く三メートルを超えている。頭からは角が生えているように見えた。
「あんなシルエットの天使はいませんから、きっと我々の同胞ですよ」
「そうだな」
デカラビアもアンドラスも、影の正体が悪魔だと判断したらしい。
「丁度良いからアイツに話を聞いてみましょう。もしかしたらニンゲンの居場所を知っているかもしれません」
そう言ってデカラビアは異形の巨人めがけて下降する。アンドラスもすぐに後を追った。
相手に近付くにつれ、アンドラスたちの瞳に映る影の正体が次第に鮮明になってくる。遠目から確認した通り、巨人の頭からは二本の小さな角が生えていた。全身の肌は黒く、腰には獣の皮を巻いている。瞳孔が無い白一色の眼球は小さなビルの入口に向けられており、ガラス戸に映った自身の姿を熟視していた。
「ん? あんな悪魔いたかな?」
下降しながらアンドラスが首を捻る。
「私も知らないヤツですが、どうせ顔も名前も知られていない超低級悪魔ですよ。話を聞くにはうってつけの相手です」
すっかり安心しきった様子でデカラビアは飛行速度を上げた。
二人は黒い巨人の背後に着地する。
「おいオマエ。聞きたいことがあります」
ぶしつけにデカラビアが声を掛けた。相手が低級悪魔だけあっていつにも増して尊大な態度だ。
話しかけられた巨人は二人のほうへ向き直る。ただそれだけで何も言葉は発さなかった。表情の無い顔でアンドラスたちを見下ろす。
「オマエ、この辺りでニンゲンを見かけませんでしたか?」
「実はオレたちニンゲンを探してるんだ。もし何か知ってたら教えてくれよ」
「……」
二人が尋ねても巨人は返事をしない。
「聞いてるんですか? ニンゲンを見かけなかったか聞いているのですよ?」
「別に知らないなら知らないで良いんだぞ」
「……」
「オマエ、この私を無視するつもりですか? 私を誰だと思ってるんです? 実力は魔王級。伝説の悪魔とまで謳われるあの最強悪魔デカラビア様ですよ」
「もし喋れないなら身振り手振りで答えてくれればいいよ」
「……」
二人が交互に喋っても、巨人は無言を貫き通す。ただ高い位置から二人を見下ろすだけだった。
全く取り合おうとしないその態度にデカラビアが業を煮やす。真ん丸だった目玉が吊り上がって逆三角形になった。
「コイツ。いい加減何か言うなり反応するなりしなさい」
空気が抜けた浮き輪のような体が巨人の脚を叩く。ぺちぺちと軽い音が鳴った。
「そこまでしなくてもいいだろ。きっと無口なヤツなんだよ。もう行こうぜ」
諦め顔でアンドラスは止めるが、デカラビアは聞く耳を持たない。
「いいえ。この無礼な低級悪魔に対して私の恐ろしさをみっちり叩き込んでやる必要があります」
そう言って、引き続きぺちぺちと軽い音を立てて巨人の脚を叩き続ける。
ブオンと空を切る鈍い音がした。
巨人が豪腕を振り下ろした音だった。人の顔より大きな拳がデカラビアの頭を叩きつける。五芒星の体が何の抵抗もできずに押し潰されて、コンクリートの地面に倒れた。
その威力を目の当たりにしてアンドラスは唖然とする。すぐ我に返ると目を皿にしてデカラビアと眼前の巨人を交互に見た。デカラビアは一応生きている。巨人の拳とコンクリートに挟まれた体がシールの如く地面に貼りついたまま小刻みに痙攣していた。
ようやくアンドラスは気が付く。
「悪魔じゃない。まさかコイツが現世に現われるっていう化物か?」
彼の言う通り、巨人の正体は悪魔などではなかった。黒い肌のネビト……黒ネビトである。
黒ネビトは地面を突いた腕を引き、もう一撃デカラビアに食らわせようとしている。させまいとアンドラスが高く跳躍して強烈な蹴りを敵の顔面に見舞った。
鼻頭を蹴られたネビトは「グオッ」と初めて声を発して後ずさり、顔を抑えながら地面に片膝を着く。
今の内にアンドラスは地面に貼り付いているデカラビアを救出する。
「おい起きろ。寝てると死ぬぞ」
声を掛けると、デカラビアがよろめきながら起き上がった。
ほぼ同時、黒ネビトも膝を起こす。顔面を蹴られてすっかり立腹している様子だ。鋭利な歯が並ぶ口から雷鳴の如き咆哮を轟かせた。
それに驚いたデカラビアが素早く身を翻す。そのままどこかへ向かって一目散に逃げ出した。
「あっ。オレを置いてくなよ」
アンドラスもすぐ踵を返してデカラビアの後を追う。さらにその後を追って黒ネビトが駆け出した。
道路に散らばった車の隙間を縫って飛ぶデカラビア。車の屋根から屋根へと飛び移りながら逃げるアンドラス。そして障害物を跳ね除け踏み潰しながら前進する黒ネビト。異形の追いかけっこが始まり一帯は急に騒々しくなった。
先に逃げ出したデカラビアにアンドラスが追いつく。
「オレだけ残して逃げやがって。というかオマエ、調子が悪いんじゃなかったのか? いつもより速いじゃないか」
「うるせェ。ンなこと言ってる場合じゃねェだろうが」
普段は敬語を使うデカラビアだが、興奮の余り地が出ている。それだけ彼が必死で逃げている証拠でもあった。
曲がり角を折れ、建物の中を突っ切り、狭い通路に入り込み、二人は一度も振り返ることなく走る。背後から猛然と迫る激しい足音から逃げ続けた。
怒り狂うネビトの追跡はしぶとい。たとえアンドラスとデカラビアがどこに逃げ込もうと、巨人は障害物を破壊しながら追ってきた。コンクリートの壁を崩し、地面に散らばったガラスを素足で踏み潰し、どこまでもどこまでも追いかけてくる。本能的にそうしているのだろうが、狂気すら感じさせるほど執念のこもった追跡だった。
つかず離れず、逃げる者と追う者の距離はなかなか変わらない。彼らは大通りから小道に入って閑静な住宅地へ侵入した。
若干入り組んだ道を駆け抜け、外れにある広い月極駐車場まで逃れたとき、ふとアンドラスが気付く。
「なあ、空飛べば逃げられるんじゃないか?」
「あっ」
デカラビアの目が大きくなった。「どうしてそれに気付かなかったのか?」と言いたげにアンドラスの横顔を見上げる。
二人は同時に宙を舞った。背後から鬼の形相をしたネビトが追ってくるが、互いの距離に余裕があるため捕まる心配は無い。ネビトに飛行能力は無いので、空に逃げてしまえば安全だった。
ゴトン、と不吉な音が鳴る。アンドラスが嘴をいっぱいに広げて短い叫びを発した。
よほど慌てていたのだろう。羽を広げて空に飛び立つ拍子にアンドラスが手を滑らせてしまったのである。腕に抱えていたアムリタ入りの壺が落下した。幸い壺は割れなかったが、硬い音を鳴らして横に倒れ、地面を転がった。
「しまった」
壺を拾いに戻ればネビトに追いつかれる。取りに行くべきか、逃げるべきか、アンドラスがためらいの挙動を見せる。
一瞬にも満たない迷いの果て、彼は引き返した。「アムリタなんて放っておきなさい」というデカラビアの静止を振り切って壺を拾う。当然ながらネビトはアンドラスに狙いを定めて突進した。
逃げられないならば応戦するしかない。アンドラスは口を広げて喉の奥から超音波を発する。いびつに震動する空気がネビトを襲った。
黒い巨人は立ち止まり、頭を抱えて苦しそうに咆哮する。アンドラスからかなり離れた場所にいるデカラビアも全身を震わせた。その強力な音響兵器は生き物以外にもダメージを与える。駐車場に停めてあった車のガラスやサイドミラーに亀裂が走った。アンドラスが抱えている壺の表面にも氷が欠けるような音と共に小さなヒビが入る。
このまま超音波を発し続けたら壺が割れてアムリタが零れてしまう。アンドラスはすぐに口を閉じた。
超音波から解放されたネビトが苦悶の声を怒号に変えてアンドラスに掴みかかる。体長三メートルを超すネビトの場合だと掴みかかるというより覆いかぶさるように見えた。この圧倒的な巨体に捕まったら一巻の終わりだ。アンドラスはともかく、壺は粉々に砕け散る。
アンドラスは咄嗟に後方へ跳んだ。が、間に合わない。スピードに乗ったネビトの体は逃げた標的との間合いを瞬時に潰した。大きな両腕が伸びて壺もろともアンドラスを押し潰そうとする。
眩い閃光が空を切り裂いた。アンドラスの目がいっぱいに開き。ネビトの腕が止まる。
デカラビアが放った雷光がネビトを貫いたのである。アンドラスの超音波が止むや否や、デカラビアは自身の前方に魔法陣を展開していた。
魔界から召喚された青い雷に胸を刺され、巨人は声も無く停止する。アンドラスも固まっていた。突如眼前で起こった出来事に驚いた顔をしている。彼に向かってデカラビアが叫んだ。
「何をぼさっとしているんですか。今の内に逃げるんですよ」
アンドラスは「おっ」と我に返って、すぐさま羽を広げながら跳躍した。
敵も動く。黒ネビトに電撃は効果が薄いらしい。まともに攻撃を浴びたにもかかわらずネビトは力強く大地を蹴り、空へ逃れようとするアンドラスめがけて跳躍した。
めいいっぱい広がった大きな掌が虚しく空を掴む。そのわずか数十センチ先にあったアンドラスの足は上昇を続けた。ネビトが悔しそうに口元を歪めたとき、アンドラスは安全圏まで逃れていた。
二体の悪魔は天高くまで駆け上り、地上の景色が霧で完全に隠れる高度に到達したところでようやく止まった。彼らの頭上には太陽でもなく月でもなく四六時中空を覆っている水色の光が輝いている。
「危なかった。なんて凶暴なヤツだ」
アンドラスはネビトがいた辺りを見下ろした。
「今のが噂の化物ですね。確かにアレはニンゲンじゃありません」
「一体何者なんだろうな?」
「分かりませんが、絶対に我々の仲間じゃないですよ」
ネビトから強烈な拳をお見舞いされたデカラビアはそう断言した。
己の命とアムリタを死守した二人は、落ち着きを取り戻すと本来の目的を果たすために行動を再開した。地上の景色が目視できる高度まで戻って、辺りを眺め回す。
雑然と並ぶ建造物群と枝分かれした道が二人の瞳に映っては消えた。その中にネビトと思しき異形の影が紛れることはあっても、悪魔や天使の姿が紛れることは一度も無い。目当ての人間も見つからなかった。アンドラスとデカラビアの口数も段々と少なくなって、いつの間にか二人は無言で作業に没頭していた。
沈黙を保ったまましばらく経つと、辺りの霧が少し薄くなってくる。その分だけ二人が市内の中央に近付いた証拠だった。
「あまり霧が薄いほうへ行くと天使に遭遇するかもしれませんから気をつけましょう」
「そうだな。町の中心を調べるのは最後にしよう」
数十分ぶりに二人は口を利いた。
「しかし天使の犬はどこにいるんでしょうね? 奴らを探すのがこんなに大変だとは思いませんでした」
「ただでさえ広い町なのに、この霧だからな。見つけ出すのは楽じゃないよ」
「もしニンゲンたちがずっと建物の中にいたらどうします? 上空から探しても無駄ですよ?」
「じゃあ地上に降りてみるか? またさっきの化物に会うかもしれないけど」
「あまり気乗りはしませんが、そうすべきかもしれないですね」
そのようなやりとりを交わしながら飛行していると……
出し抜けにデカラビアの目玉が膨らんだ。
「あれ? 見てくださいアンドラス君。もしかしてあそこにいるのはニンゲンじゃないですか?」
言って、彼は地上のある一点を注視する。
そちらに目を向けると、緩やかな坂が延々と続く街道を二つの影が下っていた。どちらの影も人の形をしている。ネビトと違って体の大きさも普通の人間と変わらなかった。
「今度こそ天使の犬……かな?」
「いえ。ニンゲンと断定するのは早いですよ。ちょっとずつ接近して確かめましょう」
「そうだな」
悪魔とネビトを間違えて酷い目に遭った後だけに、二人とも慎重になっていた。
デカラビアの提案通り、二人は徐々に高度を下げてゆく。霧でぼやけた影の後姿が次第にはっきりしてきた。
「やっぱりニンゲンみたいですね」
街道を歩いていたのは二人連れの男女だった。男のほうは背が高く、黒い髪を背中まで垂らしている。網目文の布地に蝶や鳳凰や唐草の刺繍が施された派手な着物を纏っており、首にはマフラーを巻いていた。また、足には赤い鼻緒の下駄を履き、手には異様に大きな長刀を握り締めている。
一方、女のほうは肩まで伸ばした黒髪の両側に赤い紐のリボンを付けていた。小柄な体は巫女装束と似た衣装に包まれている。普通、巫女装束といえば白衣に緋袴の組み合わせだが、女が着ているのは藍色の衣と紫黒の袴だった。
両者とも少し変わった服を着ているが、髪型や肌の色、背格好などから判断すれば、どう見ても人間だった。男のほうは武器を持っているが、天使の犬ならば武装していても不思議ではない。現にイブ・ジェセルのメンバーはほぼ全員刀や銃で武装している。
「よし。今度こそ天使の犬だ」
アンドラスとデカラビアは確信したらしい。途中まで慎重に行動していた二人だったが、相手が人間と分かると急にスピードを上げる。勢いそのまま男女のすぐ背後に着地した。
「おい、そこのニンゲン風情たち」
早々にデカラビアが声を駆ける。台詞とは裏腹に声は明るく弾んでいた。
呼び止められた男女は同時に立ち止まり、振り返る。
男は二十歳くらいの見目麗しい顔をしていた。切れ長の目から黒い瞳が覗いている。
女の方は、女性というよりまだ少女だった。歳は十五に届いていないだろう。それにしては琥珀色の大きな瞳の奥に他者を威圧する異様な光を持っている。およそ普通の子供がする目ではなかった。
彼らは、突然現れたアンドラスとデカラビアを見ても特に驚きもしなければ身構えもしない。どちらも不自然なほど落ち着き払い、隙だらけの姿勢で立っている。
「あれ?」
アンドラスの視線が真っ先に男の頭部へと向かった。そこには二本の短い角が生えている。作り物ではない。明らかに本物の角だった。
デカラビアも同じところに注意が向かったらしく、アンドラスにそっと耳打ちをする。
「最近のニンゲンは頭から角が生えてるんですか?」
「そんな話、聞いたことないけどな。でもこいつら悪魔じゃないし、天使でもないし、さっきの化物とも全然違う。ニンゲンとしか考えられないだろ」
「そうですね。女のほうには角が生えてないですし、完全にニンゲンに見えます」
アンドラスとデカラビアは二人でひそひそと話し合って勝手に納得した。
そんな二人をさもつまらないモノを見るような目で見下ろしながら男が口を開く。
「お前たちは誰だ? 見たところ悪魔のようだが……」
「おっと。先に言っておくがこっちに戦う意思はないぞ。お前たちに用があって来たんだ」
アンドラスが説明すると、男女は互いに目配せをした。
「悪魔が我々に何の用だ?」
「オマエたち、アムリタを必要としているのではありませんか? 私たちはそれを届けに来たのです」
デカラビアが言うと、少女がはじめて口を開く。
「アムリタ? 何だソレは?」
声色は年相応だったが、言葉遣いや口調はこの上なく無愛想で大人びていた。
「アムリタを知らない? そんなはずは無いでしょう」
「知らないモノは知らない」
「ではワタライという人物はどうです? オマエたちの仲間にいるはずです」
「それも知らん。仮に知っていたとしても悪魔ごときに話してやる理由は無いがな」
そう答えて少女はデカラビアを睥睨する。
アムリタを届けるためわざわざ魔界からやってきた二人としては面白くない反応だった。アンドラスはやや憮然とした面持ちになり、デカラビアはあからさまにむっとする。
「今、悪魔ごときと言いましたね? ニンゲン風情があまり調子に乗らない方が良いですよ」
バチバチと音を立てて五芒星の体に電撃が走った。
それを目の当たりにしても男女は驚きもしなければ臆した素振りも見せない。
「事情は良く分からないが、どうやら我々を人間と勘違いしているようだな」
男の口元が嘲笑気味に歪む。
「我々を二度も人間呼ばわりするとは不快な連中だ」
少女は言葉通り不快そうな顔つきになった。
彼らの態度と言葉で、アンドラスとデカラビアはやっと気付いたらしい。またしても自分たちがとんだ勘違いを犯してしまったことに。
「まさか、オマエらニンゲンじゃないのか?」
一歩後退しながらアンドラスが尋ねる。
「私は八鬼の一人、若雷」
先に男が名乗り、続いて少女が名乗った。
「同じく八鬼の一人“黒雷”だ」




