馬車がある町
妖精族が暮らす惑わしの森を発って早くも三日が過ぎた。
監視の目を光らせた悪魔がうろつく森の中は樹流徒にとって大自然の牢獄とも言える難所だったが、魔法のローブとピクシーの道案内がただの森に変えた。一度は命を失いかけた戦場だというのに、樹流徒は肩透かしを食った気分になるほどあっさりとそこから抜け出してしまった。
森の外には見渡す限りの草原が広がり、まだ浅い雪を被っていた。樹流徒は引き続きピクシーの道案内を受けながら次の目的地へ向けて全力で走った。森の上空を旋回していた悪魔に見付かることもなく、道中で新たな敵の集団に待ち伏せされることもなく、無事その場所に辿り着いた。
「ここです。この町に馬車乗り場があるんですよ」
樹流徒の耳元でピクシーがはしゃぐ。
二人の正面には石のタイルが敷き詰められた長い道が走っていた。その両脇には四角い家が立ち並び、レンガの白壁が太陽の光を浴びて輝いている。屋根は赤、オレンジ、茶色のどれかを選択する決まりになっているのか、他の色は見当たらない。建物の高さは大体どれも同じで空を隠すほど大きな建築物は一つも見当たらなかった。そのため全体の景色が整然として見える。「魔壕は魔界で最も美しい世界」とガルダの配下が言っていたが、あの言葉が信じられる町並みだった。
魔界では必ずしもそうとは言い切れないが、町の景色があればそこに住む者たちの姿も大体似通ったものになる。辺りを行き交う悪魔たちを見ると上品な衣装や装飾品を身につけた者が多く、他の階層に比べて文化的で垢抜けた感じがした。服装だけでなく、一人ひとりの目つきやさりげない挙動からも知的な雰囲気がにじみ出ている。彼らの姿は町の風景と良く合っていた。
そんな地元住人に紛れて樹流徒は町の中を歩き始める。通行人の数は多いが道幅に余裕があるため窮屈さは感じなかった。欲を言えば空を飛んで移動したかったのだが、ピクシー曰く「この町は景観を大切にしているから空を飛んではいけない決まりになっているんですよ」らしい。要はあの海上都市ムウと同じだ。
周りに着飾っている悪魔が多いせいか、仮面とローブで変装している樹流徒の姿はそれほど目立たずに済んだ。彼が雑踏の中を歩いても、そちらに注意を払う者は誰もいない。むしろ周囲の目を集めたのは樹流徒ではなくピクシーの方だった。しばしば通行人がすれ違いざま彼女に視線を投げたり、立ち止まって見たりする。「この町で妖精を見かけるなんて珍しい」と振り返った者もいたほどである。
「妖精族は静かな場所が好きなので、この町みたく大勢の悪魔がいるところには滅多に行かないんです」
そうピクシーは説明した。彼女が周囲の注目を集めるのも納得だった。
ただ、この町にはピクシーよりもさらに目立っている存在があった。それは物々しい雰囲気の悪魔たちである。武器を携え走り回っている者。しきりに辺りを見回している者。そして通行人に話しかけて何かを尋ねている者が、時折樹流徒の視界に映った。ベルゼブブ一派の悪魔だろうか。だとすれば彼らは樹流徒を探しているのかもしれない。逃げた反ベルゼブブ派の悪魔を追っているとも考えられた。
森を出てから一度も敵を見なかったので、追っ手を振り切ったと樹流徒は安心しかけていた。それほど敵は甘くないようである。
「あまりこの町にも長居出来ないな」
小声で樹流徒が言うとピクシーも「そうですね」と小さな声で返した。
「馬車乗り場はこの町の西端にあります。なるべく混んでいない道を通ってそこまで行きましょう」
彼女の提案で、樹流徒は人通りが少ない道を案内してもらうことにした。
特にこれいといった問題にぶつかる事も無く歩いていると、やがて前方に川が見えてきた。幅は三十メートル以上ある。町の北東から南西へと抜けてゆく大きな川だった。遠くの水面には鏡映しになった対岸の家々が並んでいる。その上を小船が緩やかな速度で横切っていった。観光用の船だろうか。後ろには船頭と思しき悪魔が立ち、一本の櫂を操って舟を漕いでいた。真ん中には日傘を差した異形の貴婦人が座っている。眩しい陽光を浴びてそこだけ春の陽気が漂っているように見えた。
「この町の北側と南側に一本ずつ橋がかかっています。そのどちらかを渡らないと向こう岸には行けないんですよ」
ピクシーの説明を受けながら、樹流徒は川沿いの通りに出る。道の端に寄ってゆっくり顔を振ると、ピクシーが言った通り南北に橋が一本ずつ架かっていた。どちらも白い金属で造られた頑強そうな橋だ。低い手すりの向こう側で異形の影がひっきりなしに往来していた。
南側よりも北側の橋の方が樹流徒の位置から近い。並足で二、三分歩けば着く距離だ。
樹流徒は北に向かって歩き出した。左手には川。右手には建物が並んでいる。どこかの家からピアノを弾く音が聞こえてきた。魔界の曲に違いない。聞き覚えの無い、少し物悲しげな旋律だ。その前を通り過ぎたとき、樹流徒の足は往来の端で急に停止した。
「どうしたんですか?」
不思議そうにピクシーが顔を上げる。
「橋の上に厄介な悪魔がいる」
仮面の下で樹流徒は微かに瞼を下げた。
遠目では気付かなかったが、橋の手すりに腰掛けて辺りを監視している悪魔や、通行人に話しかけている悪魔が何名かいる。誰かを探しているのは明らかだった。他人の服や持ち物を強引に検査する等の露骨な取調べは行われていないが、半ば検問だ。仮面で顔を隠した樹流徒が通れば怪しまれるのは必至だった。
ピクシーは困った顔をする。
「どうしましょう? こうなったら橋を渡らず空を飛んで向こう岸に渡っちゃいますか?」
「それも一つの手だが、飛行禁止のこの町で飛べば目立つし、多分見付かるだろうな」
「でしたら私が囮になって敵を引きつけましょうか? 一度その作戦で上手くいってますからね」
「駄目だ。お前が危険な目に遭う恐れがある」
囮作戦を実行すれば橋の上で混乱が起きるかもしれない。その結果、ピクシーだけでなく無関係な悪魔が怪我をするかもしれなかった。だからその作戦は使えない。
「なら一度町から出て迂回して向こう側に回るのはどうです?」
「時間がかかり過ぎる」
「もうっ。じゃあどうするんですか?」
自分の案がことごとく却下されてピクシーはぷっと頬を膨らませた。
拗ねた彼女をなだめるため、樹流徒は普段よりも若干口調を和らげる。
「必ず成功するとは断言できないが良い手がある。それを実行するために一旦隠れよう」
そう言って歩き出した。
二人はすぐ近くの細い路地裏にやってきた。ここならばまず誰も通らない。
「それで……良い手って何ですか?」
「これを使う」
答えながら樹流徒は懐から親指サイズの小瓶を取り出した。透明な瓶の中にはブルーベリーを赤くしたような果実が一粒だけ入っている。レッドベリーとでも呼べば良いだろうか。
「これはある悪魔から貰った変身薬だ。飲めば三分間だけ悪魔の姿に変身できる」
「へぇ。何だか面白そうです。悪魔に変身しているあいだに橋を渡っちゃうんですね?」
「そうだ」
「あ。どうせだったらベルゼブブに変身して相手を驚かせちゃうっていうのはどうですか?」
「確かに驚くと思うけど、すぐにこちらを怪しむだろうな」
「言われてみればそうですね」
「どの道この薬は変身する悪魔を選べない。飲んでみて初めてどんな悪魔に変わったか分かるんだ」
樹流徒は瓶のコルク栓を開けて中のレッドベリーを取り出した。
「薬を飲んだらすぐ橋へ向かう。ピクシーはなるべく俺から離れていたほうが良い」
共に行動していると、万が一悪魔にこちらの正体に気付かれた場合、ピクシーが戦闘に巻き込まれる恐れがある。たとえ戦闘に巻き込まなくても「首狩りの味方」という烙印を押され、ピクシー個人あるいは妖精族がベルゼブブの敵と見なされる恐れもある。だから念のために橋を渡りきるまでは離れて行動した方が良いだろう。
樹流徒の意図をどこまで理解したかは不明だが、ピクシーは胸の前で両手を固く握って「わかりました」と答えた。
「じゃあ始めるぞ」
樹流徒は周りに悪魔の目がないことを確認すると、素早く変身薬を飲みこんだ。
血が沸沸と熱くなって全身の構造が変わる。ただ今回は余り極端な変化は起こらなかった。体の大きさは余り変わってないし、二本足で地面に立ったままだ。手を見ると皮膚は赤茶色に染まっているが五本の指が生えていた。かなり人間に近い外見の悪魔に変身したらしい。
「わ。すごい。本当に姿が変わっちゃいました」
ピクシーは驚きに目を見張って樹流徒のまわりを一周した。
「目立たない程度の速さで橋まで急ごう」
樹流徒は路地裏から飛び出した。
橋に向かって足早に歩く。樹流徒から三十メートル以上はなれてピクシーが後を追った。
異形の波を追い越し、すれ違い、建物の窓から漏れるピアノの旋律も通り過ぎて、橋の入口に差し掛かる。
「む。そこの者。少し待ってもらおうか」
早速声を掛けられた。人間と魚を混ぜた姿の悪魔が樹流徒に近付いてくる。
予想通り呼び止められた樹流徒は焦らず相手の指示に従って足を止めた。
魚人の悪魔は樹流徒の正面に立つと、舐めるような視線で彼の全身を見る。やや訝しげな表情で「ううむ」と唸った。
「オマエ、良く見れば少し変わった格好をしているな。一体どこから来た?」
「ケプトの町」
樹流徒は咄嗟に誤魔化す。ケプトの町はこれから目指す場所だ。
「ほう。あんな遠い町から来たのか」
「そうだ。話はもう終わりか?」
「いや。できればその仮面を取って素顔を見せてもらいたい」
「何のために?」
樹流徒は一応それを確認しておく。
「首狩りキルトって知っているだろう? 奴がこの町に現れるかもしれないから、こうして怪しい奴を片っ端から調べているんだ」
「なるほど」
やはりそういうことだったか、と樹流徒は納得する。
その反応を見て、魚人は自分の説明が相手に十分伝わったものと受け取ったらしく
「分かったならその仮面を取ってもらおう」
と指図する。
樹流徒は今度も素直に命令を聞いて仮面を外した。
「あっ」
短い声を発して、強気だった魚人の顔が見る間に歪んでゆく。指先が震え、膝がカクカクと笑い出した。尋常ではない怯えようである。
「大変……大変失礼致しました。どうか命だけはお許しください」
これまでの横柄な態度とは打って変わって低姿勢になった魚人は、素早く踵を返して逃走した。橋での見張り役も放棄してそのままどこかへ去ってしまう。果たして彼は誰の顔を見たのだろうか。
そのあと橋の真ん中と終わりでも樹流徒に声を掛ける悪魔がいたが、彼らも仮面の下を見るなり魚人と同じような反応を示した。片方の悪魔はその場で凍りつき、もう片方は恐怖の余り川に飛び込んでしまった。お陰で樹流徒は難なく橋を渡って向こう岸にたどり着いた。
誰もいない路地に入ると、ここまで来れば一緒にいても大丈夫とばかりにピクシーが樹流徒の肩に止まる。
「やりましたね」
「ああ。だけど俺は一体誰に変身しているんだ?」
悪魔たちの反応から察するによほど大物の悪魔に変身したのだろう。仮面を外してピクシーに顔を見せると、彼女はあっと驚いた。
「その顔は“アーリマン”です。物凄く強くて怒らせるととっても恐い悪魔なんですよ」
「アーリマンか……」
樹流徒はその悪魔に会ったことはないが、名前は聞いたことがあった。黄金宮殿にある太陽の間で、象頭悪魔ガネーシャが確かこんな風に言っていた。
「アーリマンは前々回降世祭に出場したとき審判を半殺しにて反則負けになった。その上『降世祭には二度と出ない』って逆上してた」と。アーリマンという悪魔は相当強くて短気なのだろう。橋の見張り兵が恐怖におののいて逃げ出すのも無理はなかった。
「もし他の悪魔に変身していたら危なかったかもしれないな」
仮面を装着しながら樹流徒が言う。
「どうして? キルトの変身は完璧だったじゃないですか。ベルゼブブとかを除けば他の悪魔に変身しても正体は見破られなかったと思いますよ」
「残念ながらそうでもないんだ」
「え」
「俺と悪魔を見分ける方法は外見だけじゃない。例えばさっきの悪魔が魔界の常識について俺に色々と質問してきたら、俺は答えられなかった。結果、俺の正体は見抜かれていたかも知れない」
実際にこの方法を使って樹流徒の変身を見破ったのがケルベロスという三つ首の犬だった。彼がこの場に居合わせたら万事休すだっただろう。
「だがアーリマンの姿になったお陰で、敵は気が動転して俺に質問する間もなく逃げてしまった。他の悪魔に変身していたらここまで上手くいかなかったはずだ」
「なるほど。外見は偽れても中身は偽れないってことですね」
「そうだ」
「でも、なにはともあれ上手くいって良かったじゃないですか」
ピクシーがにっこり微笑んだとき、樹流徒の変身が解けた。
橋を渡って町の西側に到着した樹流徒たちは、人気のない路地から路地へと移り、辺りを徘徊する敵と思しき悪魔たちの目を上手くかいくぐりながら、何とか町の西端までやってきた。
道の端に一軒の大きな家が見える。屋根は赤く、他の建物同様に壁は白かった。ただ周囲の家と比べてとても広い。屋根の高さは変わらないものの、敷地の面積は何倍もあった。玄関の扉や窓の大きさもほかの家より少し大きめだ。きっと巨体の悪魔が住んでいるのだろう。
「見えました。あれが馬車乗り場です」
ピクシーが大きな家を指差す。
彼女が指し示した方向を目で追うと、家の横に一台のキャリッジ(馬車の車)が置かれていた。四つの車輪がついた木製のキャリッジで、車体のあちこちに黄金色の金属で豪華な装飾がされていた。一方、肝心な馬の姿はどこにも無い。馬房らしきものも近くには見当たらなかった。
馬はどこにいるのだろうか? と少し不思議に思いながら、樹流徒は大きな家の玄関に立ち、ドアをノックする。
反応が無いのでさらに何度かノックすると、五回目でようやくドアが開いた。家の中から異形の者がのそりと姿を現す。
出てきたのは二本足で立つ馬だった。身長は三メートル近くある。全身の毛は茶色で鬣は黒。口に太い葉巻をくわえ、鼻から煙を吐いていた。この町の住人にしては珍しく野性的な雰囲気の悪魔だ。
「よ。何の用?」
二本足で立つ馬は軽い調子で樹流徒に挨拶する。まるで普段親しくしている友人の訪問を受けたような態度だ。真っ赤な瞳は気だるそうに半分近くまで閉じられていた。
「馬車に乗せてもらいたい」
樹流徒が端的に用件を伝えると、馬は顎を上げて目線より高い位置に白煙を吐き出した。それから葉巻を地面に捨てて、銀の蹄が装着された足で火を躙り消す。
「良いよ。ただし他の馬は出払ってるから走れる馬はオレしかいないぜ?」
「お前が走るのか?」
「馬が走るのは当たり前だろう。馬車なんだから」
馬の悪魔はどこか得意げな顔でにっと笑う。
どうやら魔界の馬車は現世のそれとは似て非なるものらしい。馬車には違いないが人力車に近かった。
「で、どこまで行くの? 魔壕の中ならどこへでも連れてってやるよ。ただし背信街だけは駄目だけどな。あそこ馬車の通行禁止だから」
「ケプトの町へ向かって欲しい。できれば大急ぎで」
「ふうん。アンタ急いでるのかい? だったら運が良いよ。足ならオレが一番速いからな」
「そうか。なら他の馬がいてもお前に頼みたい」
「お。嬉しいこと言ってくれるじゃないの。よし。じゃあちょっと待ってな」
馬の悪魔は機嫌が良さそうに踵を返す。ドアを開けっ放しにしたまま家の中に引っ込むと、すぐに一体の人型悪魔を引き連れて外へ出てきた。身長二メートルを超える巨人の両手には馬とキャリッジを繋ぐ馬具が抱えられている。
二本足で歩く馬は家の前で立ち止まり四つん這いになった。つまり普通の馬になる。その周りを巨人が慌ただしく動き回り、甲斐甲斐しい手付きで馬に馬具を装着させた。
さっきまで気だるそうに葉巻の煙をくゆらせていた馬が立派な馬車馬に早変わりする。「馬子にも衣装」と言えば失礼になるが、そう言いたくなるほど見た目の様子が変わった。
「ケプトの町まで、紫硬貨三十枚だよ」
巨人の悪魔が樹流徒に向かって手を差し出す。馬車賃の支払いを求めているのだ。
樹流徒はオベロンから貰った白い皮袋の中を覗いた。丁度ぴったりの金額が入っていたので、袋ごと巨人に手渡す。
巨人は硬貨の枚数をきっちり数えてから馬に向かって頷いた。
「よし出発だ。後ろに乗りな」
威勢の良い声で馬が言う。
樹流徒は頷いてから、ピクシーを振り返った。彼女とはここでお別れだ。
「ありがとう。お前がいなければここまでたどり着けなかった」
「いいえ。短い間でしたがキルトと一緒に旅ができて楽しかったです」
「帰りは一人でも大丈夫か?」
「もちろんですよ。私、貪欲地獄から魔壕まで移動できたんですよ」
「そうだったな」
「さようならキルト。また私たちの森に遊びに来てくださいね」
ピクシーは心なしか名残惜しそうな笑顔を見せた。
別れの挨拶を済ませた樹流徒は馬車に乗り込む。
「しっかり座ってろよ。ぼんやりしてると舌を噛むぜ」
そう言って馬は歩き出した。石畳の地面を削る車輪が次第にスピードを上げて草原へ飛び出す。馬車の中から見える町の景色はあっという間に後方へ遠ざかっていった。