妖精王と妖精女王
それは三階建ての立派な邸だった。レンガ造りの外壁は一面セピア色で、夜の闇も相まって落ち着いた印象を受ける。各階に並んだ窓枠は真っ白で、暗色の背景に良く映えていた。建物の中央部分は四角い形をしており三角形の屋根が浅い雪を被っている。一方、建物の両側は円柱に近い丸みを帯びた構造になっており六角すいの屋根を戴いていた。「小さなお城」と形容しても良いくらい芸術性のある建築物である。童話の挿絵にしても違和感が無いくらいだった。
「これが妖精族の王と女王が住む邸か……」
正面に佇む建物を仰ぎ見ながら樹流徒は白い息を吐く。彼の肩でピクシーが「はい」と元気良く答えた。
「追っ手が森からいなくなるまでこのお邸にキルトを匿ってもらうんです」
「だが、そこまでしてもらっても良いのか?」
果たして自分は妖精族に匿ってもらえるのか? という疑問が樹流徒の頭に浮かんだ。悪魔同士の会話を聞いて知ったことだが、妖精は静けさと自然を愛する種族であり、現在森の中で発生している戦闘行為に憤っているという。その戦闘の引き金とも言える樹流徒を、果たして妖精族の王と女王が受け入れてくれるのか?
「大丈夫です。まだ許可は頂いてませんが、事情を話せばきっと“オベロン”様は分かって下さいます」
ピクシーは自信がありそうに言う。
オベロンというのはきっと妖精族の王か女王の名前だろう。樹流徒には聞き覚えの無い名だった。
「とりあえず中に入りましょう。客室までご案内します」
ピクシーに促されて樹流徒は邸の玄関まで足を進めた。
玄関の扉は頑丈そうな木で作られており、表面には長方形の切れ込みが綺麗に九つ並んでいた。ハンドル式の取っ手は黄金色に輝いている。それだけならば何の変哲も無い普通のドアなのだが、注意して見ると一つだけ変わった部分があった。縦横三列で並ぶ四角い切れ込みの内、真ん中にある一つだけ微妙に彫りの深さが違うのだ。
ピクシーが樹流徒の肩から降りてその切れ込み部分の端を両手で押す。ただの模様だと思っていた長方形が裏返しになってパタンと軽い音を立てて閉じた。言ってみれば回転扉である。扉の真ん中に別の扉が隠れていたのだ。
「これは私たち妖精用の扉なんです」
そう言ってピクシーは小さな扉を何度かパタパタとひっくり返してから樹流徒の肩に戻ってきた。
面白い仕掛けだ、と少し感心しながら樹流徒は扉の取っ手を掴む。そっと手を引くと扉は蝶番の音を立てて開いた。
建物の中に一歩踏み込むと明るい光が瞳に射し込んできた。何本ものロウソクを立てたシャンデリアが天井で輝いている。程よく広い開放的な空間が前方と左右に広がっていた。落ち着いた雰囲気の外壁とは対照的に内壁は全て白く塗り固められている。滑らかな木の床には真っ赤な絨毯が敷かれていた。正面には上階へと続く二つの階段が見える。左右には幅のある廊下が走っており、その先の様子は壁に遮られて見えなかった。
辺りは静かで物音一つ聞こえない。ただ、誰かの気配は感じる。建物の中に何名かの悪魔がいるようだ。
「右の廊下へ行って下さい。その先に客室があります」
ピクシーが樹流徒の耳元で囁く。
彼女の言葉に従って樹流徒は右の廊下へ進んだ。
廊下にも赤い絨毯が敷かれており、壁には美しい装飾を施した銀色の蜀台が並んでいた。蜀台の上でロウソクの火が揺らめいている。
誰とも出会うことなく長い廊下の突き当りを曲がると、少し先の壁に木製の扉を見つけた。それが客室の入り口だった。
客室もロビーと同じように赤い絨毯が敷かれ、ロウソクの火を沢山ともしたシャンデリアが天井で煌々と輝いていた。部屋の真ん中にはアンティーク風の長いテーブルと六脚の木椅子が置かれている。入り口から見て右手には白い暖炉があり、左手には花瓶を飾った棚が置かれていた。花瓶には青く美しい花が活けてある。また正面には白枠の窓があり、薔薇色に染まったセンタークロスのドレープカーテンが垂れ下がっていた。その隙間から外の景色が見える。夜空にはまだ異形の影が飛び回っていた。
「良い部屋だな」
樹流徒が率直な感想を述べると、ピクシーは自分の持ち物を褒められたように嬉しそうな顔をする。
「ではキルトはここで待っていてください。いますぐオベロン様を呼んできますから」
そう言って彼女は軽快な動きで身を翻した。客室の扉にも玄関と同じように妖精用の小さな回転ドアが取り付けられている。そこからピクシーは部屋を出て行った。
わずか数秒後。
――あっ。オベロン様。
樹流徒の耳にピクシーの驚く声が聞こえた。
続いて彼女と一言だけ交わす男の声が聞こえて、足音が客室に近付いてくる。ノックも無しに扉が開き、困惑顔のピクシーと共に一体の悪魔が入ってきた。
人間で言えば年は二十五前後くらいだろうか。肩の辺りまで伸ばした長い金髪と赤紫色の瞳が特徴的な美しい青年だった。緑のジュストコールと白のジレを身に纏い、背中から青紫色の大きな蝶の羽を生やしている。下にはキュロットとタイツを履いていた。背中の羽を除けば貴族という単語を連想させる風貌を持った悪魔だ。
貴族風の男は部屋に入ってくるなり、暖炉の傍に立つ樹流徒に向かって訝しげな視線を投げた。
「誰だお前は? 今日は客を招く予定はなかったはずだが」
堂々とした落ち着きのある声音だった。
「俺は……」
樹流徒が答えようとすると、二人の間にピクシーが素早く割り込む。
「待ってくださいオベロン様。この人は私が招いたんです」
彼女は両手を広げて、必死な気持ちを訴えるように事情を説明した。
「何、オマエが?」
オベロンと呼ばれた貴族風の青年は、樹流徒に向けていた胡乱な目をそのままピクシーに向ける。
「はい。この人は私を助けてくれたニンゲンなんです」
「そうか……。その者が首狩りキルトか。なるほど。言われてみればどこかで見た顔だ」
オベロンは急に納得顔になった。多分ピクシーから貪欲地獄での一件を聞いているのだろう。樹流徒へ向ける目付きも幾分和む。
かたや己の素性を知られたら憎まれるだろうと想像していた樹流徒は、オベロンの態度が軟化したのが少し意外だった。
オベロンは樹流徒とピクシーの顔を交互に見る。
「何やら下階から妙な気配がしたので様子を見に来てみれば、まさかあの首狩りがいるとはな。しかもピクシーが私に何の断りも無くニンゲンを邸に招き入れるとは……二重で意外だった」
「ごめんなさい。でもキルトは命を狙われているから早く邸に匿ってあげたかったんです」
「ベルゼブブの手先に追われているらしいな。お陰で森の中が騒々しくてかなわん」
オベロンは些か不愉快そうな顔をしてから
「だが、ピクシーの言い分は分かった。オマエを責めるつもりは無いからそのような顔をするな」
とあっさり彼女を許した。
直前まで困惑の表情を浮かべていたピクシーはほっと息を吐いてすっかり安心しきった顔になる。
「俺のせいで騒がせて悪かったな」
樹流徒が謝ると、オベロンは「いや……」とだけ答えた。
すると彼が言い終えるよりも早いか、廊下から新たな足音が聞こえてくる。ハイヒールの底で床を叩くような硬い音が非常に落ち着いた歩調で客室に近付いてきた。
足音の主は、部屋の入り口に立つオベロンの背後で立ち止まる。
その正体は見た目二十歳前後の女性型悪魔だった。金色の髪を背中の後ろまで伸ばし、やや青みがかった紫色の瞳は宝石にも負けないほど美しい色彩を放っている。華美な青いドレスを纏い、背中には白と水色が入り混じった透明な蝶の羽を生やしていた。
「一体どうなさったのですか?」
オベロンに続いてやってきた女性型悪魔は、柔らかく品のある口調で尋ねる。
部屋の入り口を塞いでいるオベロンは数歩前に出てから、背後の女を振り返った。
「別に大したことではない。ピクシーの客が来ていたので挨拶をしていたところだ」
「まあ、ピクシーの?」
女は瞳をやや丸くしながら部屋の中に入る。樹流徒と視線が合うと、さらに目が丸くなった。首狩りのことを知っている風な反応である。
「ごめんなさい“ティターニア”様」
ピクシーは女に向かって謝った。
ティターニアと呼ばれた女は「謝らなくてもいいのですよ」とピクシーに向かって微笑み、オベロン同様あっさり彼女を許す。それから再び樹流徒に視線を移して
「それよりこちらのお方、どこかでお見かけした記憶があるのですが……」
と確信めいた口調で言った。
「彼は首狩りキルト。以前ピクシーを助けたニンゲンだ」
「なるほど。そういう事でしたのね」
オベロンの短い言葉で、ティターニアは概ね全ての事情を察したらしい。
「オベロン様。ティターニア様。お願いです。追っ手がいなくなるまでキルトをここに匿ってあげて下さい」
ピクシーが改めてそれをお願いする。
彼女に任せ切りなのは心苦しいが、当の本人である樹流徒は何も言えなかった。妖精族に対して願い事を言えるような立場ではないからだ。森の中で戦闘が勃発したのは樹流徒の責任ではないが、彼の存在が起こした戦いであることは紛れも無い事実である。故に、もしオベロンとティターニアが「ここから去れ」と言えば、樹流徒はピクシーに礼だけ述べてこの邸をすみやかに出てゆくつもりだった。
オベロンとティターニアは互いに目配せをして、共に微笑を浮かべる。
「本来ならベルゼブブに逆らってまでニンゲンを助けるなど有り得ないのだが……ピクシーの命を救ってもらった恩は返しておかなければな」
とオベロン。
「たまには珍しいお客様をお迎えするのも良いでしょう」
ティターニアからも許しが出た。
二人の言葉を聞いて、ピクシーははしゃぐ子供のように樹流徒の周りを飛び回る。
「良かったですね、キルト」
「ありがとう」
樹流徒は彼女に礼を言って
「それからオベロンとティターニアも」
二人にも感謝のこもった眼差しを向けた。
「手配書に書かれていた首狩りの人物像と、本人とでは大分印象が違うな。もっとも、はじめからあの紙に書かれていることなど半分も信じていなかったが……」
「ええ。ベルゼブブがキルトを危険視している事だけは良く伝わってくる手配書でしたけれどね」
オベロンとティターにはそのように言い合った。
邸に滞在する許可が下りて、樹流徒の肩から力が抜ける。随分長い時間張り詰めていた緊張の糸が解れた。
が、それが完全に解ける前に魔人の眼光が鋭くなる。不意に嫌な気配を遠くから感じたのだ。
ピクシーも異変を察知したらしい。彼女は急いで窓まで飛んでいってガラスに額をくっ付ける。
「あっ。見てください。追っ手が来ました」
言って彼女は窓の外を指差した。
人型の悪魔、半人半獣の悪魔、それから複数の陸上生物を混ぜ合わせた悪魔などが、合わせて十体前後固まって邸に向かってくる。全員表情は険しい。一度は発見した樹流徒に逃げられたせいか、業腹でたまらないといった様子だ。足取りも目に見えて荒荒しかった。
樹流徒はその場で素早く片膝を付いて姿を隠す。ピクシーは「どうしよう? どうしよう?」と宙を右往左往してうろたえた。
オベロンとティターニアはまるで動じていない。万が一樹流徒を匿っていることが露見したらベルゼブブに対する反逆行為と見なされてもおかしくないのに、二人は緊張するどころか心なしか楽しそうですらあった。
「あの方々には私が対応致しましょう」
ティターニアが自ら申し出る。
「頼んだ」
とオベロン。
「すまない」
続いて樹流徒が言うと、ティターニアは微笑を返してゆったりとした足取りで部屋を出て行った。
間もなく悪魔の集団が玄関の前に到着する。
「オベロン。オベロンはいるか?」
「ティターニア。出てきてくれ。話がある」
人型の悪魔がドアを激しくノックしながら声を荒らげた。
「些か野蛮な者たちだな」
客室の窓際に立ちながらオベロンは顔をしかめる。
先ほど部屋を出ていったティターニアだが、敢えてすぐに外の悪魔に対応しなかったのだろう。彼女は多少時間をかけて玄関の扉を開いた。
邸の前に集まった悪魔たちは「やっと出てきたか」と言いたげな顔を揃えて
「首狩りキルトを見なかったか」
挨拶も無しにいきなりそれを尋ねる。
ティターニアはあたかも唐突な質問を受けたように小首を傾げなら微笑して
「首狩りキルトとは、あのニンゲンの?」
と質問を返す。
「そうだ。ヤツがこの辺りに潜んでないかどうか聞いているのだ」
「さあ。存じませんけれど」
「まさかとは思うが奴を匿っていないだろうな?」
「匿う? 私たち妖精族がニンゲンを庇う理由が無いのですけれど」
「確かにそうだが……」
「ご理解いただけたようで何よりです」
淀みないティター二アの受け答えに、数名の悪魔たちが互いの顔を見合わせる。
「やっぱりこんなところに首狩りが来ているはずなかったか」
「妖精族は基本的にニンゲン嫌いだからな。ティターニアの言葉通り、首狩りを庇う理由が無い」
「無駄足だったな」
などと言い合う。
「もしここに首狩りが現われたらすぐに教えてくれ。別に我々じゃなくても構わない。ヤツを探している者であれば誰でも結構だ。なるべく大勢に伝えてもらえると助かる」
「わかりましたわ。そう致します」
ティターニアが承諾すると、悪魔たちは踵を返してぞろぞろと去っていった。
彼らの後姿を窓越しに見ながらオベロンが
「どうやら行ったようだ」
と樹流徒に教える。
「ありがとう。助かった」
「礼ならば先ほど言われた一回で十分だ」
オベロンはそう言ってから
「それよりオマエはしばらくこの邸に滞在するのだから、今すぐ邸の裏にある泉へ行ってもらいたい」
「泉?」
「そう。泉で返り血を落としてきて欲しいのだ。そのままの姿では妖精たちが怯えてしまうからな」
オベロンはそう言って樹流徒の頭からつま先までさっと見た。
言われて樹流徒は気付いたが、彼の全身には敵の返り血が大量にこびり付いていた。魔界を旅している内、いつの間にかこんな状態でいることが当たり前になってしまっていたようだ。生き残るのに必死でいちいち気にしている余裕がなかったというのが一番の理由だが、それでも自分自身の変化に樹流徒は軽い衝撃を受けた。
――こういう光景に見慣れるのって、嫌ね。
いつか詩織が言っていた言葉が樹流徒の脳裏をかすめる。
――今までに一体どれだけの悪魔を殺してきたのかしら?
魔王ラハブから言われた言葉が重なった。
「では私がキルトを泉まで案内します」
ピクシーが明るく申し出る。
その厚意を遠慮なく受けることにした樹流徒は、ピクシーと一緒に部屋を出た。
廊下を歩き始めてすぐにティターニアとすれ違う。悪魔を追い払ってくれたお礼を樹流徒が言うと
「お役に立てて何よりです。けれどお礼ならば先ほど頂きましたからもう十分ですわ」
ティターニアの口からオベロンと同じ答えが返ってきた。