惑わしの森
ヤツはどこだ? 首狩りはどこだ? と騒ぐ声が聞こえる。
ヤツを逃がすな。決して森から出すな。と急ぐ足音が聞こえる。
ヴィヌの加勢を得て何とか命拾いした樹流徒だったが、依然として危険の真っ只中に立たされていた。彼を追って異形の軍勢が森の中を慌ただしく駆け回っている。空からはらはらと舞う粉雪はいつの間にか止んでいたが、代わりに数千の白い息が虚空をさまよっては消えていた。
どこかに雷が落ちる。どこかで竜巻が唸り声を上げる。そしてどこかから火の玉が飛んでくる。
森のあちこちで勃発した戦闘は激化の一途をたどっていた。ヴィヌやペイモンなど反ベルゼブブ派の者たちが相当派手に暴れ回っているようだ。彼らを鎮圧するため森に散っていた悪魔はかなりの人員をそちらに割いているだろう。おかげで樹流徒は若干安全に移動できた。
とはいえベルゼブブ一派の標的はあくまで樹流徒である。反ベルゼブブ派の鎮圧に向かっている者が大勢いたとしても、樹流徒を抹殺すべく動き回っている者の方が多いかもしれない。
どこもかしこも敵だらけで、樹流徒は一瞬たりとも気が抜けなかった。今はまだ悪魔に見付かってないから良いものの、ひとたび発見されればすぐに増援を呼ばれ包囲されてしまう。現在上空で待機している敵もこちらに押し寄せてくるのは目に見えていた。
樹流徒は木陰や樹上に身を隠しながら少しずつ慎重に前進する。先刻まで悪魔と戦っていた場所は割りと平坦な地形だったが、少し森の奥へ進んでみると地面に大きな段差がある場所や緩やかな傾斜になっている場所が多かった。それらの地形も身を隠すのには大変役立った。
そうしてどこかに隠れては、注意深く周囲を見回す。樹流徒は頭上の様子もこまめに確認した。地上の敵だけでなく空を飛び回っている悪魔の存在にも注意しなければいけない。空中の悪魔は樹流徒が空に逃げたところを包囲して攻撃するために待ち構えているが、地上に潜む樹流徒を上空から発見する役割も担っている。現に先ほど、小人型悪魔のチョルトが低空を飛行しながらなぶるような視線で地上を眺め回していた。そのとき樹流徒は偶然相手の死角を歩いていたので難を逃れたが、危うく見付かるところだった。
地上と空中、両方の目かをかいくぐりながら森を抜け出すのは至難の業だ。その上、例え森から抜け出せたとしてもその先に敵が待ち伏せていないとも限らない。樹流徒の逃亡作戦は前途多難だった。
ほどなくして遥か前方から悪魔の一団がやって来る。数は十名程度。皆辺りを見回しながら歩いているところを見ると、ほぼ間違いなく樹流徒を探しているのだろう。反ベルゼブブ派を制圧するための兵ではない。
敵がまだこちらの存在に気付いていない様子だったので、樹流徒は近くの木陰に隠れた。その場で身動きを止めて悪魔たちが通り過ぎるのをジッと待つ。
異形の集団は樹流徒が隠れた場所とは全く違う方角に向かって歩いていた。何も気付かずそのままどこかへ去ってくれそうだ。
そう思ったのも束の間、樹流徒は慌てて動いた。迅速かつなるべく物音を立てないように跳躍して、頭上に生えた木の枝に着地する。身を屈めながらそっと後ろを振り返って葉陰の隙間から遠くを見た。別方向から歩いてくるもう一組の集団を視界に捉える。こちらの数は五名。しきりに辺りを見回しているところを見ると彼らも樹流徒を追っている者たちだろう。
樹流徒を前後から挟む格好で現われた二組の集団は、両者の距離が縮まると互いに相手集団の姿に気付いてどちらからともなく近付いた。彼らは一ヶ所に集まって立ち止まる。そこが丁度樹流徒の真下だった。
運が悪かったとしか言いようがない。木の上で完全に身動きが取れなくなった樹流徒は、悪魔たちが自分の存在に気付かず去ってくれるのを祈るしかなかった。声を上げたら最後。足場の枝を軽く揺らしただけでも葉の音でこちらの存在を気取られるかもしれない。緊張で高まる鼓動の音さえも誰かに聞き取られそうで恐ろしかった。
樹流徒の眼下に固まった悪魔たちはその場で会話を始める。片方の集団がもう片方の集団に話しかけた。
「よう。その様子だとオマエたちはまだ首狩りを発見していないようだな」
「そっちこそ」
「ヤツは逃げ隠れするのが得意らしい。何せ魔晶館から脱出したくらいだからな」
「だが首狩りが姿をくらましてから大して時間は経っていない。ヤツがこの近辺に潜んでいるのは間違いないだろう」
「ああ。だから今の内にヤツを発見しなければいけない。遠くへ逃げられたら厄介だからな」
「ところでさっき良い方法を思いついたんだが、森全体に火を放って首狩りを焼き殺すなり焙り出すなりするというのはどうだ? ついでに反逆者たちも始末できるだろう」
「それは駄目だ」
「どうして?」
「この森には妖精族が住んでいる。静けさと美しい自然を愛する彼らは、ただでさえ今起こっている戦闘に腹を立てているはずだ。その上故意に森を焼かれたと知ったら、我々は確実に妖精族から恨みを買うことになる」
「なるほど。では仕方ないな」
「おい、もう行こうぜ。こんなところで喋ってる場合じゃないだろう」
「そうだな」
「いいか。首狩りを見つけたらまず周囲に知らせろ。間違っても自分たちだけでヤツにトドメを刺そうなんて考えるなよ」
「分かっている。十名程度じゃあの化物は倒せないからな」
そのようなやり取りを交わして、悪魔たちはまた二組に分かれて歩き出した。
視界から敵の姿が完全に消えるのを待って樹流徒は木の枝から飛び降りる。今回は見つからずに済んだが、似た様な状況をこれから何度も味わうかもしれないと想像すると、安心するよりも生きた心地がしなかった。
気を取り直して、引き続き森の出口を目指して先へ進む。
歩きながら樹流徒は考えた。もしこのまま誰にも見付からず森の奥深くまで逃げられれば、敵もこちらの位置を絞りにくくなるはずだ……と。先程会話をしていた悪魔たちも「今の内に首狩りを発見したい」と言っていた。ベルゼブブ一派はヴィヌたちを迎撃するためにかなりの戦力を分散・消耗している。広大な森の全域に捜査網を張り巡らせる余裕はもう残っていないはずだ。たった一人の人間を見つけ出すのは難しいだろう。
となれば、森を脱出できるか、できないか、今が勝負どころと言っても過言ではない。それは敵も十分承知しているだはずだ。今頃多くの悪魔が必死で辺りを捜索しているはずだ。
そんな想像している内に、樹流徒の視界に新たな敵影らしきものが映る。移動を再開してからものの一分も経っていないというのに、足を止めざるを得なかった。前方にゴマ粒ほどの小さな影が固まって動いている。遠すぎて正確な数は分からないが多分三つか四つ。悪魔であることは疑いようも無い。
異形の影はかなり遅い足取りながらも、樹流徒がいる方へ真っ直ぐ向かって来る。
相手の進路に突っ立っているわけにはいかないので、樹流徒は獣のように姿勢を低くして木陰から木陰へと素早く移った。敵が通過するであろう場所からある程度離れた位置に待機して、木の後ろから顔だけ覗かせて追跡者の動向を窺う。
異形の影が徐々に近付いてきた。その正体はやはり悪魔だった。数は三。人型の悪魔が一体。半獣の悪魔が一体。そして亀の甲羅を背負った馬という少し珍しい姿をした悪魔が一体。
甲羅を背負った馬は十歩ほど歩くと立ち止まって地面に鼻をくっつけていた。それから顔を上げて周囲を眺め回し、おもむろに歩き出す。かと思えばまた十歩ほど歩いて立ち止まり同じ動作を繰り返した。移動速度が異様に遅いのはそのせいだ。他二体の悪魔も馬に歩調を合わせている。
まずい。と樹流徒は直感した。相手の移動速度は全く怖くないが、嗅覚が恐ろしい。たぶん甲羅を背負った馬の悪魔は樹流徒の匂いを追って移動していた。それを証明するように三体の悪魔は細かく進路を修正して樹流徒に体の正面を向けて歩いてくる。
それに気付いたとき樹流徒は動けない状況に追い込まれていた。すでに互いの姿がはっきり見える距離である。相手が真っ直ぐこちらを見ている以上、木陰から出れば確実に見つかってしまう。
ならば変身薬を飲むか? 三分間だけ悪魔に変身できる薬がまだ一粒だけ残っている。
しかしそれを使っても相手に正体が気付かれない保障はなかった。魔晶館の検問では怪しまれたし、ケルベロスという悪魔には正体を見破られた。嗅覚に優れた悪魔相手では尚更正体を見抜かれやすいだろう。仮に見抜かれなくても、疑われただけで危ない。疑われて呼び止められている間に三分が経過したら変身が解けてしまう。かといって相手の声を無視すれば余計怪しまれるし、話をしている最中に逃げようものならば正体が知られたも同然だ。ここで変身薬を使うのは余り得策とは思えなかった。
樹流徒は軽く歯噛みする。今の場所に止まっていたら見つかる。相手は視覚ではなく嗅覚を使ってこちらを追跡しているので、今度は木に上っても隠れられない。かなり窮地だ。
「こうなったら……」
呟いて、樹流徒は決断した。
彼は素早く跳躍して木の葉陰に潜む。ただしこれは単に相手の目から自分の姿を隠すための行動ではない。相手を奇襲するための準備だった。
樹流徒が選択したのは戦闘。敵が三名なら仲間を呼ばれる前に倒せるかもしれない、と判断したのである。それしか方法が無かったとも言える。幸いと言うべきか、相手はベルゼブブの手先だ。いつもならば無益な殺生は極力避けるのだが、敵がベルゼブブの配下であり、こちらの命を狙っている悪魔ともなれば遠慮はいらなかった。
殺気を抑えつつ樹流徒は可能な限り敵を引き付ける。一方で、周囲を見回して別方向からやって来る敵がいないかどうかを確認した。
可能ならば今すぐ目の前の敵を倒したい。早く敵を倒さなければ、その間に他の敵が来てしまう恐れがあるからだ。しかし敵を十分に引きつけず急いで飛び出せば、その分だけ敵がこちらに気付いてから絶命するまでの時間が長くなる。その隙に増援を呼ばれてしまうかもしれない。今すぐ動くべきか、それとも可能な距離まで敵を引き付けるか、迷いどころだった。
現実には十秒にも満たなかったが樹流徒にとっては気が遠くなるほど長い逡巡。その末に彼は動く。
互いの間合いが十メートルほどまで近付いたとき、人型の悪魔が木を見上げて「あっ」と叫んだ。葉陰から氷の矢が六本立て続けに飛び出す。樹流徒も七本目の矢となって敵に踊りかかった。
人型と半獣の悪魔はそれぞれ氷の矢に胸や額を貫かれてあっけなく命を散らした。馬は背中の甲羅を盾にして矢を防御したが、そのあとに降ってきた樹流徒の爪を急所に受ける。
奇襲を仕掛けたタイミングは完璧だった。樹流徒が葉陰から飛び出して悪魔を仕留めるまでの動きも神がかり的な速さだった。周囲に新たな敵影も無い。
それでも尚、上手くいかない場合もある。悪魔が一矢報いたのだ。甲羅を背負った馬が死の間際に奇態な叫びを張り上げて自分が攻撃されたことを広範囲に知らせた。意図的にそうしたのか、断末魔の叫びだったのかは分からない。それでも付近にいた悪魔の一団がすぐ声に気付いて駆けつけてきた。全員で十名ほどいる。
仲間を呼ばれる前に相手の口を封じようと考えた樹流徒だが、結果は大失敗に終わった。
駆けつけてきた悪魔は遠巻きに樹流徒の姿を発見すると「首狩りが出たぞ」と喚き散らしてさらに味方を呼ぶ。加えて弓矢や氷塊などを飛ばして樹流徒を狙ってきた。
恐れていた事態が起きてしまった。ヴィヌと共闘した場所からさほど離れていないのに敵に見つかってしまった。
かくなる上は無駄だと分かっていても逃げるしかない。樹流徒は急いで木陰に入ると自分の分身を一体作り出してその場に立たせておいた。大した時間稼ぎにもならないだろうが何もしないよりはマシだろう。
悪魔の雄たけびを聞きつけて地上と空中の両方から凄まじい勢いで増援が集まってくる。数分も経たない内に辺り一帯は異形の群れでごった返した。樹流徒が用意したダミーはすぐに消されてしまい、予想通り大した時間稼ぎにはならなかった。
本物の樹流徒は草の中で身を屈めていた。ひとまず心を落ち着かせるためにどこかへ身を隠そうと無我夢中で全力疾走している最中、前方に背の高い雑草が集まっている場所を見つけて迷わず飛び込んだのである。
だが、こんな場所に隠れても発見されるのは時間の問題だった。その短い時間の中で樹流徒は精神を落ち着かせ、覚悟を決める。もし敵に見つかれば空を飛んで森を抜け出して一か八かの強行突破を図るしかない。
――首狩りはこの辺にいるぞ。
――ヤツは絶対どこかに隠れている。くまなく探せ。
悪魔たちの声がする。
樹流徒を探して木の枝を覗き込む音がする。草を掻き分ける音がする。獣の遠吠えがする。怪鳥の鳴き声も聞こえる。足並みを揃えて歩く集団の足音が迫ってくる。
こうなったら見つかるのを待つまでもない。こちらから出てやる。覚悟を決めた樹流徒は、半ばやけになったような気分で頭上を睨んだ。空へ飛び立つために草むらの中で漆黒の翼を広げる。
そのとき一体の悪魔が叫んだ。
「あっ。いたぞ。首狩りはここだ」
野太い声が森の中に響き渡る。辺りをうろついていた悪魔たちが一斉にそちらを振り返った。武器を手にした悪魔たちが身構えて走り出す。数百、数千の悪魔が首狩りを逃がすまいと殺気立った。
これから空へ飛び立とうとしていた樹流徒はそっと翼を閉じる。そして心の中で首を傾げた。
甚だ不思議な現象が起こっていた。遠く離れた場所で「首狩りはここだ」という声がしたかと思ったら、そちらめがけて悪魔が猛然と駆けてゆくのである。樹流徒が潜んでいる草むらを横切って、異形の群れが遠ざかってゆく。気がつけば樹流徒の周囲にはほとんど悪魔がいなくなっていた。
わけが分からず樹流徒が草むらの中で屈んだまま固まっていると……
――キルト……。キルト。
不意に頭上から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。どこか聞き覚えのある少女の声だった。
耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなその小さな声に反応して樹流徒は顔を上げる。
ぼんやりと白く光る小さな物体が宙に浮いていた。
「一緒に逃げましょうキルト。私の仲間が悪魔を引き付けている今の内に……」
光る物体から少女の声がする。
「お前は?」
「私のことなんて後でいいですから早くして下さい。急がないと追っ手が戻ってきてしまいますよ」
少女の声が急かす。
唐突な展開に樹流徒は一瞬迷ったが、相手の声に聞き覚えがあるという理由もあって、少女を信じた。
「だが逃げると言っても、どこへ逃げればいい?」
大勢の悪魔がどこかへ去ったとはいえ、まだ辺りには少数の悪魔がうろついている。どちらへ向かってもすぐに見つかってしまうだろう。
「アナタのすぐ傍に抜け道があります」
そういって光る物体は音も無く浮上して、近くに立つ大樹の頂上付近まで上った。
樹流徒も浮遊能力を使って光の後を追う。すると大樹の幹に大きな穴が開いているのを見つけた。大柄な人間でも何とか入れそうな広さがある。ここを潜れば抜け道に出られるのだろうか。
大樹の額にぽっかりと開いた穴めがけて白い光は飛び込んだ。迷っている場合ではない。樹流徒もすぐ後に続く。
穴を通り抜けた途端、体が落下した。大樹の中が空洞になっていたのである。それは木の中心を貫き、根を貫き、はては土までも貫いて地下まで繋がっていた。
空洞を通り抜けた樹流徒は地下の空間に降り立つ。辺りは真っ暗だった。光る物体だけが弱い輝きを放って闇に浮かんでいる。視界は無に等しかった。
このままではロクに歩く事もできない。樹流徒の瞳の色が赤からもっと濃い赤へと変色した。暗視眼と名付けたこの能力には闇を見通す力がある。暗闇に閉ざされた視界が太陽に照らされたように明るくなった。
その瞳に映し出されたものは狭い地下通路だった。人間ならば立って歩くこともできるが、巨体の悪魔では地面を這っても通れないだろう。壁や地面などは全面岩壁のように硬い土で覆われている。それ以外には何も無いし、誰もいなかった。
ようやく周りに敵がいない場所を得て樹流徒はひと息つく。彼の眼前で、光の物体から徐々に輝きが薄れていった。その中心から一体の悪魔が姿を現す。
「お前は……」
樹流徒は少しだけ目を丸くした。光の中から現われた悪魔を知っていたからである。道理で聞き覚えがある声だと思った。
白い光の正体は、蝶の羽を生やした小人の少女だった。彼女は貪欲地獄の地下空間で蜘蛛の巣に引っかかっていたところを樹流徒に助けられた妖精である。たしか名前は……
「ピクシーか」
名前を言い当てると、小人の少女ピクシーは嬉しそうな顔をする。
「お久しぶりですねキルト。まさかまたアナタと会えるなんて思いませんでした」
「俺もこんな場所で会うとは思っていなかった」
この森に妖精が住んでいる、という件については先ほど悪魔の会話で知ったが、まさか貪欲地獄にいたピクシーと魔壕で再会するとは思っていなかった。
「こうして地下の空間でアナタと向かい合っていると、あの時助けてもらったことを思い出します」
そう言ってピクシーは樹流徒の周りを一周してから彼の眼前で停止する。
「でも再会を喜ぶのは後にしましょう。この抜け道を知っている悪魔もいますから、まずは移動したほうが良いです」
と言って身を翻して先へ進み始めた。
彼女の後ろを歩きながら樹流徒は尋ねる。
「これからどこへ行くんだ?」
「私たち妖精族が暮らす森です」
ピクシーは前を向いたまま声を弾ませた。
そのあと移動している最中にピクシーは色々と教えてくれた。
ピクシーは元々魔壕の住人で、しばらく貪欲地獄で暮らしていたが、樹流徒に助けられたあとすぐこの森に戻ったのだという。彼女は魔壕に戻ってから樹流徒のことを風の噂で何度か聞いており、魔王ベルフェゴールや魔王ラハブを倒したことも、降世祭に樹流徒が参加したことまで知っていた。そしてつい先日にはベルゼブブ一派が魔晶館と森の中で樹流徒を始末するつもりだという噂を耳に挟んのだという。その話を聞いたピクシーは、貪欲地獄で樹流徒に助けてもらったお礼に、何とか樹流徒を救いたいと考えた。そこで彼女は森に住む友人の悪魔に協力してもらってベルゼブブ一派を引き付けてもらい、その間に樹流徒を逃がそうと考えたのである。
「もし助ける前にキルトが死んでいたらどうしようかと思いましたが、何とか間に合って良かったです」
ピクシーはそう言って満面の笑みを見せた。
少々遅ればせではあるが、樹流徒は彼女に感謝の言葉を伝えた。
やや足早に地下通路を小一時間ほど歩くと、やがて行き止まりにたどり着いた。
壁には見るからに使い古したボロボロの縄梯子がぶら下がっている。それを辿って上を見ると丸い穴が開いており、そこから微かな月明かりが漏れていた。
「あそこから地上に出られますよ」
そう言ってピクシーは上昇し、一足先に頭上の穴から外へ飛び出した。
彼女の後を追って樹流徒は縄梯子を上る。地上に近付くと風で草が揺れる音が聞こえてきた。
出口の穴は浅い茂みの中に隠れていた。そこから樹流徒は顔を出して、すぐに引っ込める。上空に数体の悪魔が旋回していたからだ。これでは穴から出た途端に見付かってしまう。
茂みに顔を隠したまま草の隙間からそっと周りの様子を確認すると、この辺りは小さな茂みと芝生だらけの広場になっており、木々はずっと遠くに見えた。体が小さい妖精ならばともかく、人間が隠れられる場所は近くに無い。頭上に悪魔がいる限り外へ出ようにも出られなかった。
なかなか茂みから出てこない樹流徒の頭上でピクシーが笑う。
「そんなに恐がらなくても大丈夫ですよ。絶対見付かりませんから」
「絶対だなんて随分自信があるんだな」
「だって、この辺りは“惑わしの森”なんて呼ばれているくらいですからね」
「惑わしの森?」
「はい。私たちが暮らすこの土地は上空から覗いても木々が密集している森に見えるんです。ですからキルトがここを歩いても空の敵に見つかる心配はありません」
それに空からここへ侵入しようとする者に対しては恐ろしい幻が襲い掛かりますから、誰も入って来られないんですよ、とピクシーは付け足した。
彼女の説明が本当ならば、ここ一帯が惑わしの森などと呼ばれているのも納得だった。
ピクシーの言葉を信じて樹流徒は茂みの中から出る。頭上を仰ぐと、真上を飛行する悪魔と目が合った気がした。しかし悪魔は何も気付かずに夜空を旋回し続ける。
「ね? 大丈夫でしょう」
そう言ってピクシーは樹流徒の肩に止まった。
樹流徒は芝生と雑草に覆われた緑の広場を歩く。やがて左右の木々が迫ってきて道が狭まり、まっすぐな一本道になった。
「妖精族は戦う力が無い代わりに幻惑の術を操るのが得意なんです。ですから森の姿を偽るくらい簡単なんですよ。光滅の塔の幻だって私たちには通用しないんですから」
どこか自慢げな調子でピクシーは言う。
樹流徒は「そうなのか」と感心して、数歩進んでから尋ねる。
「ところで、この道の先には何があるんだ?」
「私たちの王様と女王様が住んでいるお邸です。もうすぐ見えますよ」
とピクシー。
彼女の説明通り、間もなく前方に建物の影が見えてきた。