魔晶館
部屋の中には一体の悪魔。すぐ外には追っ手が押し寄せている。ほぼ最悪の状況だった。しかも目の前にいる騾馬の悪魔はかなりの実力者だ。手合わせをしなくても樹流徒にはそれが分かった。全ての強者に当てはまるわけではないが、強者には隠しきれない実力者の雰囲気というものがある。それを樹流徒は眼前の悪魔から感じ取っていた。
どうしてこの部屋に入ってしまったのか?
精神的余力が少ないという理由があったとはいえ、大した用心もせず部屋に飛び込んでしまった己の迂闊さを樹流徒は呪う。しかし今さら何を呪っても遅い。とりあえず今は目の前の相手に注意しなければいけなかった。樹流徒は残された集中力を費やして臨戦態勢に入る。
対する騾馬の悪魔は心なしか穏やかな顔をしていた。
「おや。君は……」
と柔らかい調子で言って、赤い大きな瞳で樹流徒の顔をまじまじと見つめる。いきなりお尋ね者が部屋に飛び込んできたというのにさほど驚いた様子は無かった。ベルゼブブの配下や賞金目当ての賊が見せる反応としては不自然だ。殺気も無い。
このときようやく樹流徒は目の前の悪魔が敵ではない可能性に気付いた。魔壕に到着してから遭遇する者たちがことごとく自分を探し命を狙ってくるので、建物内の悪魔が全員敵だと思い込んでしまっていた。
「勝手に部屋に入ってすまない。俺は……」
今の状況を相手にどう説明したものか樹流徒は迷う。そのあいだにも廊下を駆ける追っ手の足音がすぐそこまで近付いていた。
すると騾馬の悪魔が唐突かつ意外な台詞を口にする。
「私の後ろに隠れたまえ」
「なに?」
「追われているんだろう、首狩り君。さあ早くするんだ」
早くという割に落ち着いた調子で悪魔は言った。彼の背後には孔雀の尻尾が広がっている。その陰に隠れろと言っているのだろう。
首狩りと知りながらどうして助けてくれるのか? 疑問ではあるが詮索している余裕は無かった。樹流徒は言われた通り悪魔の後ろに隠れる。孔雀の尻尾と騾馬の体が樹流徒の姿を完全に隠した。
それから十秒も経たない内、廊下のあちこちから部屋の扉を乱暴に開く音がする。追っ手が樹流徒を探し始めたのだろう。
当然ながら樹流徒がいる部屋も調査の対象になった。いきなりノックも無しに扉が開く。物騒な顔付きを揃えた悪魔たちがどやどやと中に踏み込んできた。
連中は部屋の中にいた騾馬の悪魔を見ると少しだけ雰囲気を和ませる。しかし依然として獲物を追いつめる形相で尋ねた。
「“アドラメレク”。ここに首狩りが来なかったか?」
「いや。知らないね」
アドラメレクと呼ばれた騾馬の悪魔は平然とシラを切る。
彼の反応を見て、部屋になだれ込んできた連中は肩透かしを食らったような顔になった。白けきった視線を互いに投げあったり嘆息じみた軽い吐息を漏らしたりと、脱力する事おびただしい。
ただ、彼らの失望はすぐ怒りに変わった。悪魔の一体が目を尖らせる。
「いいか。もし首狩りを見かけたらすぐ我々に報告しろ。万が一ヤツを庇いだてするようなことがあればベルゼブブに対する反逆行為と見なすぞ」
「私がニンゲンを庇うわけがないだろう」
とアドラメレク。
「当然だ。だから万が一と言っているのだ」
「分かったから少し静かにしてくれないか。折角“魔晶館”まで来たというのに、おちおち読書や睡眠もできないじゃないか」
「静かなひと時を過ごしたいなら気の毒だが諦めるのだな。今この建物内には首狩りが潜んでいる。奴を見つけるまで我々は走り回らなければいけないのだ。落ち着いて本が読みたければ別の場所へ行け」
「そうさせてもらうよ」
アドラメレクは顔色一つ変えずに受け答えする。もし背中に隠れた樹流徒の存在がバレたら反逆者として処刑されるかもしれないのに、この悪魔は微塵も動揺していなかった。
「念のためベッドの下を確認させてもらう」
追っ手の一体がベッドの隙間を覗く。
「誰もいないぞ」
確認して他の連中に教えた。
「もういい。ここに首狩りはいないようだ」
「他の部屋を探そう」
悪魔たちはアドラメレクに対する謝罪の言葉一つ無い。代わりに「首狩りめ」と呪いのように繰り返しながら部屋を出て行った。そのあと彼らが別室で樹流徒を発見できるはずもなかった。
騒々しい追っ手が去って廊下は静かになった。話し声は聞こえず、たまに部屋の前を通りかかる悪魔の足音が聞こえるくらいである。
「もういいよ。出ておいで」
アドラメレクが孔雀の尻尾を閉じる。
その陰に隠れていた樹流徒は相手の正面に回ると、真っ先に礼と疑問を述べた。
「助けてくれてありがとう。しかし何故、俺の正体を知りながら庇った?」
「さあ。ただの気まぐれ……と言ったら信じるかな?」
アドラメレクは真っ白な歯を見せて笑う。
樹流徒は「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。感情としては相手を信じたいが、状況としては完全に信用するのは危険である。ただ一つだけ確信が持てるのは、アドラメレクがベルゼブブの手先ではないという事であった。
「そうだ。少々遅れたが自己紹介をさせてもらおうか」
と悪魔。
「もう知っていると思うけれど私の名はアドラメレク。魔壕の住人だ。よろしく」
「そちらも知っていると思うが、俺は樹流徒。人間だ」
名乗り返すと、アドラメレクは数回頷いた。
「ああ良く知っているとも。先日から魔晶館の中は君の命を狙う連中でいっぱいだからね」
「マショウカンというのは今俺たちがいる建物のことか?」
「うん。君もここまで来る間に見たと思うけど、建物の内壁がどこも紫色の水晶で覆われているだろう? あの水晶は遥か昔、我々悪魔のあいだで魔力の塊だと信じられていたんだ。だから当時この建物は魔晶館と名付けられ、それが今でも変わらないんだ」
「歴史ある名前なんだな」
「まあね……。それはそうと、君はここから脱出したいんじゃないか?」
「ああ。それは勿論」
「なら色々と教えてあげるよ」
そう言ってアドラメレクは頼まれてもいないのに魔晶館について説明し始めた。その内容は次の通り。
魔晶館は十二階建ての建物で、地上九階と地下三階に分かれている。内部は複雑に入り組んで迷路のようになっており、初めてこの館を訪れた者は必ずと言って良いほど建物内で迷子になる。館の出口は一階と最上階の二ヶ所しかなく、窓や抜け穴は存在しない。ちなみに今樹流徒がいるのは三階なので、最上階の出口を目指すよりも一階に向かった方が良いだろう。また二つの出口では現在検問が行なわれており、どちらにも数千の悪魔が集まって樹流徒を逃がすまいと殺気立っているので気をつけなければいけない。
以上だった。
この話を聞いて樹流徒は軽い眩暈を覚えそうだった。出口はたった二つしかない。そのどちらにも数千の悪魔が待ち構えている。いかに樹流徒でもそんな場所に飛び込むのは無謀だった。自殺行為に等しい。
では一体、どうやってこの魔晶館から脱出すればいい? 何か良い手は……
考えるが、樹流徒の頭には強行突破の四文字しか浮かんでこなかった。他にどのような方法があるというのか。
現世に戻って魔壕と繋がる世界を探すか? いま現世と魔界は三つの扉によって繋がっている。その内一つは魔界の第二階層・愛欲地獄、もう一つは憤怒地獄、そして残り一つは魔壕と繋がっている。それを利用して現世から魔壕に乗り込むか?
無理だ。現世に引き返している暇など無いし、たとえ現世に戻ったところで魔壕の入り口がどこにあるか分からない。さらに言えばたとえ現世で魔壕の入り口を探し当てたとしても、その入り口を通った先に待ち構えているのは結局ベルゼブブの手先だろう。どの道、敵の大軍を攻略しなければいけないのだ。
以前、樹流徒は自分たちの手に追えない数の悪魔を突破した事があった。魔女バーバ・ヤーガから借りた魔法の馬で龍城寺市の市民ホールに侵入したときである。魔法の馬は自身と騎乗者の姿を透明にする不可視化の力を持っている。あの馬さえあれば魔晶館を抜け出せるかもしれない。
しかしそれも実践するのは無理そうだった。
「バーバ・ヤーガはどこにいる?」
アドラメレクにそう尋ねてみたところ
「忘却の大樹から近い森の中」
という答えが返ってきた。忘却の大樹まで引き返している時間などない。そもそも大樹がある貪欲地獄から魔壕まで馬を連れてくるのが不可能だった。
他に良い案も見当たらず、結局は正面から強引に突破するしかないという結論に至ってしまう。
強行突破を敢行すれば数千の悪魔を相手にしなければいけない。異形の波に飲まれている自分の姿を想像すると樹流徒は生きた心地がしなかった。自然と表情が険しくなる。
それを見てアドラメレクは
「どうすれば魔晶館から出られるか? と悩んでいるね? 顔にそう書いてある」
簡単に言い当てた。
樹流徒は素直に首肯した。言われた通り、紛れも無く悩んでいる。もっと正直に言えばかなり焦ってもいるし多少苛立ってもいた。樹流徒も聖人ではないので行き詰れば心が乱れる場合もあるし荒れる場合もある。ただ、それをあまり表面に出さないだけだった。
すると、内心焦る樹流徒に向かってアドラメレクはいきなりこんな事を言う。
「ならば私がちょっとだけ力を貸してあげよう」
「え。力?」
思いも寄らない言葉に樹流徒は顔を上げた。
アドラメレクは頷く。
「そう。君が無事この館を脱出できる手助けをしようじゃないか」
「何故?」
「何故……とは?」
「俺を助けてくれるのは嬉しい。だが、それがお前にとって何になる?」
樹流徒の口から当然の疑問が出る。つい先ほど出会ったばかりのアドラメレクから「力を貸す」と言われても、突拍子が無くてあっさり受け入れられなかった。それに樹流徒を助けてアドラメレクにどのような利があるのか? 下手をすれば利どころか己の身を焼く結果になるかもしれないのに。
“俺を助けて何になる?”という樹流徒の疑問にアドラメレクは即答する。
「別に何にもならないよ。強いて言えばちょっとした仕返しかな」
「仕返しって……」
「だって昨日からベルゼブブの手先が魔晶館を実質占拠しているんだよ。おかげで久しぶりにこの場所でのんびり過ごそうとしていた私の計画は全部台無しだ。ちょっとしたイタズラで仕返しのひとつもしたくなるというものだろう」
「ただそれだけの理由で俺を逃がすのか?」
「信じるかどうかは君に任せよう」
「しかし俺は人間だ。ベルゼブブや大勢の悪魔より人間の味方をしても良いのか?」
「良いんじゃないかな? 私はニンゲンが嫌いじゃないし。むしろ好きだね」
「俺に力を貸した事が知れ渡ったらベルゼブブ一派に何をされるか分からないぞ」
「でも君が口外しなければその心配は無い」
「俺が喋らない保障なんてないのに……」
「君が喋る保障もない。いや、君はきっと喋らないよ」
「どうしてそう思う? まだ俺たちは会ったばかりで互いのことを良く知らないのに」
「悪魔の勘だよ。これが結構良く当たるのさ」
「……」
信じても良いのか?
樹流徒は考える。できれば相手を信じたかった。その理由は至って単純明快で、疑うよりも信じたほうが気持ちが良いから。
ただ、少し冷静になってみると、今回に限って、相手を信じるか否かの問題は度外視しても良いと気付いた。何故なら熟考して分かった通り、自力ではどうやっても魔晶館を抜け出せないからだ。たとえアドラメレクが何を考えていようと、ここは彼の力を借りるしか選択肢が無いのである。それに気付いたとき、樹流徒の心は決まった。折角力を借りるなら、相手を疑うよりも信じた方が良い。
「分かった。お前を信じる。力を貸してくれ」
樹流徒は力強い目でアドラメレクを見た。
「決して後悔はさせないよ。ベルゼブブに対する腹いせのためにも君をこの建物から逃がしてみせようじゃないか」
アドラメレクは悪戯好きの子供みたいに目を輝かせた。
「では早速君に脱出の手段を与える」
そう言ってアドラメレクは指を弾く。パキッという軽快な音が鳴って空中から親指ほどの大きさしかない透明な瓶が現われた。その小瓶は木のコルクで蓋がされており、中には三粒の果実が入っていた。ブルーベリーを少し赤くした感じの果実だ。
アドラメレクは小瓶を樹流徒に手渡してから、中の果実について説明する。
「それは変身薬だよ」
「変身薬?」
「そう。読んで字の如くその薬を一粒飲めば悪魔の姿に変身できる。どの悪魔になるかは飲んでみるまで分からないけどね」
そんな便利な薬があるのか、と樹流徒は興味深い目で瓶の中を見た。もし本当に悪魔に変身できるならば魔晶館の出口に敷かれた検問を突破するのも容易いだろう。
「ただし先に二つだけ注意しておきたい事がある」
「何だ?」
「まずその薬は一粒につき三分しか変身できない。時間が切れると勝手に元の姿に戻ってしまう。だから使用のタイミングを誤らないようにね」
「分かった……。で、もう一つの注意点は」
「その薬は一度効き目が切れてからでないと次の薬を飲んでも何の効果も発揮しない。必ず一度元の姿に戻ってから次の薬を使用するように。そうしないと薬が無駄になってしまうからね」
自分の命を左右しかねない情報だけに、樹流徒はしっかり脳に刻み込んだ。
「薬の説明は以上だ。次にこの部屋から一階までの道順を教えよう」
魔晶館の内部は迷路のように複雑な構造になっている。アドラメレクに言わせると、樹流徒が魔界血管から今いる三階に到着するまで一度も行き止まりにぶつからなかったのはちょっとした幸運だという。
「でも三階から一階に下りるまでには必ず行き止まりに捕まる。だから脱走経路はしっかり覚えておいた方が良い」
そう言ってアドラメレクは一階までの最短ルートを教えてくれた。万全を期すため樹流徒は五回も繰り返し話を聞いて道順を完璧に暗記した。
「道順を一度も間違わず全力疾走すれば、この部屋から一階まで三分で移動できるかもしれない」
アドラメレクのその言葉を樹流徒は信じた。
変身薬と、脱出経路の情報。この二つさえあれば何とかなりそうな気がする。玉砕覚悟の強行突破を視野に入れていた樹流徒は一気に目の前が明るくなった気がした。それでも次の瞬間には気を引き締め直す。今はまだ突破口が見えただけに過ぎないのだ。浮かれている場合ではない。
「では早速行くかい?」
アドラメレクの言葉に、樹流徒は無言で頷いた。またいつベルゼブブの手先がこの部屋に踏み込んでこないとも限らない。アドラメレクに余計な迷惑をかけないためにも、樹流徒は一刻も早くこの部屋を離れたかった。それにアドラメレクと会話をしているあいだに精神の休息も取れた。これでしばらくのあいだ集中力が途切れる心配も無い。準備は万端だ。
樹流徒は変身薬を一粒だけ取り出して小瓶を懐にしまった。
「色々とありがとう。それじゃあ……」
改めてアドラメレクに礼を述べ、別れの挨拶を告げる。
「君の脱出劇を楽しみにしているよ」
騾馬の悪魔は背中の後ろで手を組んで答えた。
樹流徒はドアの傍で立ち止まると変身薬を飲む。
すぐに体の異変が起こった。全身の血が熱くなる。かと思えば皮膚の色と質感が急激に変わり始めた。骨格が、筋肉が、激しく膨張あるいは収縮して、捻じ曲がる。痛みは全く無かった。
最終敵に樹流徒の姿は異形の獣へと変わった。グリフォンの翼を持つ黒い犬である。あのマルコシアスと姿が似ているが、彼よりも体がふた回り大きい。体長は二メートルを超えていた。
「その姿は“グラシャラボラス”だよ。見た目どおり足が速い悪魔だから走れば一階まですぐ到着できるはずだ」
アドラメレクが言う。彼の言葉から推察するに、薬を飲むと変身した悪魔の身体能力が得られるらしい。
変身時間はたったの三分。魔犬グラシャラボラスに変身した樹流徒は後ろ足で立ち上がってドアノブにしがみついた。ノブが回ってドアが開くと、一度だけアドラメレクを振り返って、廊下に飛び出す。
目指すは一階。樹流徒は駆ける。グラシャラボラスの走力は変身前の樹流徒より上かもしれなかった。魔犬は黒い疾風となって悪魔が往来する廊下の真ん中を吹き抜ける。そして数百メートル先の曲がり角をあっという間に曲がってしまった。
部屋から樹流徒が去ると、アドラメレクはそっとドアを閉めた。その瞳に今まで無かった影が浮かぶ。
「流石にフルカスの占いは良く当たる。この部屋で待っていれば首狩りに会えた」
先ほどまでより一段低い声でそう言って、アドラメレクは部屋の奥まで歩く。壁際で立ち止まると、背中の後ろで手を組んで扉を振り返った。そして独り言を呟く。
――すまないね首狩り。我々の計画のために君を利用させてもらうよ。でも君だって助かったんだからお互い様だ。