魔壕
数々の苦難を乗り越えてようやく魔壕にたどり着いた――そんな風に思っている暇すら与えてもらえなかった。
「首狩りだな? 覚悟しろ」
竜頭人身の悪魔ガーゴイルがサーベルを頭上にかざして襲い掛かってくる。
いきなりのことだった。
光滅の塔を突破して無事魔壕に着いた樹流徒だったが、ここまでの苦しい道のりを振り返っている余裕は無かった。魔界血管を通り抜けた彼を待ち受けていたのは、紫色に光る水晶のような物質で覆われた広大な空間と、殺気を漲らせた十体前後の悪魔だった。ベルゼブブが防衛線を張っていたらしい。悪魔たちは樹流徒が姿を現した途端に襲い掛かってきた。
樹流徒は足を振り上げてガーゴイルの腕を蹴る。骨が折れる鈍い音が鳴ってガーゴイルの手がだらりと垂れ下がった。その指からサーベルがこぼれ落ちるよりも早く、樹流徒は爪をなぎ払って敵の首を落とす。
胴体のみになったガーゴイルが片膝を着いたときにはもう次の敵が迫ってくる。猿の姿をした悪魔が十センチ以上もある長い爪を光らせて樹流徒に飛び掛ってきた。
樹流徒は床を転がって悪魔の襲撃をかわす。攻撃を外した猿の悪魔は着地するや否やもう一度床を蹴り、今度は鋭い牙を剥き出しにして樹流徒に襲い掛かった。樹流徒は膝を起こしながら長い爪で敵の胸元を突き刺す。早々に二体目の悪魔を仕留めた。
続いて人間の姿を持つ三メートル級の悪魔が金属製のハンマーを振り上げて襲いかかかってくる。加えてもう一体、鳥頭人身の悪魔が樹流徒からある程度距離を取りつつ彼の側面に回り込んだ。その悪魔は手に持った杖を前に突き出す。
巨人が力任せにハンマーを振り下ろし、それを樹流徒がバック宙で回避。空を切ったハンマーが物凄い音を立てて地面を叩いたとき、樹流徒の側面に回りこんでいた鳥頭悪魔の杖が青く光った。杖の先端から放たれた青い光は複数の小さな輪に形を変え連なって飛び出す。樹流徒は真上に跳躍してその場から逃れると、着地はせずに浮遊能力を使ってそのまま上昇。彼の眼下を通り過ぎた光の輪は壁にぶつかって消滅した。
何とか事なきを得た樹流徒だが敵は他にもいる。エウリノームが頭から被った獣の皮を翻して宙を舞った。全身に傷を負った老人という姿をしているエウリノームは見た目に反して動きが素早く跳躍力も高い。そのためこの悪魔は飛行能力が無くても頭上の樹流徒に接近戦を挑むことができた。
空中で樹流徒とエウリノームが交差する。エウリノームの爪は樹流徒の脚をかすめ、樹流徒の爪は敵の胴体を引き裂いた。骨ごと腹を切り裂かれたエウリノームはギャッと悲鳴を上げて、腹から地面に落ちる。そのまま二度と立ち上がってこなかった。
エウリノームの体が崩壊を始めたとき、樹流徒に向かって鳥頭悪魔が杖をかざす。さらに樹流徒の背後から人間とコウモリを混ぜ合わせた姿の悪魔が音も無く忍び寄り、真っ赤な口の中で長い牙を尖らせていた。
背後の殺気を感知した樹流徒は素早く振り返って、コウモリ人間の首根っこを掴む。直後、鳥頭悪魔の杖から放たれた光の輪を、樹流徒はコウモリ人間を盾にして防いだ。光の輪を浴びたコウモリ人間は見る間に体が縮んであっという間に一羽のカラスになってしまう。鳥頭の杖から放たれる光の輪には相手の姿鳥に変えてしまう効果があるようだ。
地上からの攻撃を防いだ樹流徒は、次に巨人の悪魔が投擲してきたハンマーを回避する。ついでに手を振り払い空中に氷の矢を六本出現させた。横一列に並んだ氷の矢は端から順に鳥頭悪魔めがけて飛び出す。一本目、二本目を回避した悪魔だが、動きがそれほど早くないため残りの矢を全て食らった。氷の矢は捕らえた獲物を外側と内側の両方から凍らせ死に至らしめる。
樹流徒が着地すると、巨人の悪魔が両手を前に突き出して掴みかかってきた。
この巨人が最後の敵ならば樹流徒は真正面から受けて立っただろう。だが突進してくる巨人の背後には樹流徒の隙を窺って攻撃を仕掛けようとする悪魔が数体待ち構えていた。
ならば、と樹流徒は分身能力を使用する。自分のダミーを一体その場に残し、もう一体別のダミーを右へ移動させ、自分は左へ駆けた。
巨人は正面の樹流徒を襲う。細身の人間くらいなら軽く握り潰してしまいそうな分厚い両手をいっぱいに広げて突進した。しかし彼が狙ったのは樹流徒のダミー。触れた瞬間に消えてしまう幻だ。魔人の幻影に向かって思い切り突っ込んだ巨人は手応えを得られず勢い余って前のめりに倒れた。
樹流徒が右に飛ばしたダミーにも別の悪魔が襲い掛る。サイと良く似た頭部を持ち、しかしサイよりも角が長くて黒い皮膚に全身を覆われた生き物である。その黒いサイも鋭い角を突き出して樹流徒のダミーに突っ込んだが攻撃は虚しく空を突き、数メートル先まで駆けたところで急ブレーキをかけた。
ダミーに釣られた悪魔がいる一方、本物の樹流徒めがけて襲い掛かってくる者もいる。銀の兜と鎧を身に纏い両手に斧を持った骸骨の悪魔だ。目の奥に青白い炎を浮かべた骸骨戦士は、樹流徒に向かって両手の斧を同時に振り下ろした。
樹流徒はバックステップで回避して、即座に火炎砲で反撃する。近距離から火炎砲を浴びた骸骨戦士は爆発の威力で全身バラバラになった。
倒しても、倒しても、一向に敵が減らない。
いま樹流徒がいる空間には魔界血管を除いてたった一つしか出口が無かった。そのたった一つの出口は、ざっと見て樹流徒から三百メートル以上離れた場所にあり、そこから次次と悪魔の増援が送られてくるのだ。そのため樹流徒がいくら戦ってもこの場には悪魔が減るどころか逆に増えていた。
このままではきりが無い。樹流徒は早々にこの空間から脱出しようと決めた。
新たに現われた竜の悪魔が大口を広げて緑色の火柱を吐き出す。その攻撃を横に駆けてかわしてから、樹流徒は出口に向かって走り出した。
させまいと数体の悪魔が固まって彼の行く手を阻む。構わず樹流徒は突っ込んだ。彼は驚く悪魔たちの眼前で前宙を繰り出すと、先頭に立つ敵の肩を跳び箱代わりに利用する。片腕の力だけで自分の体を押してもう一段高く飛び跳ねた。呆然とする悪魔たちの頭上で樹流徒の体は一回転半して敵の背後に着地する。
だがすぐさま別の悪魔たちが樹流徒の前に集まって彼の行く手を塞いた。たった今頭上を飛び越えられた悪魔たちも我に返って武器や爪を構える。樹流徒は前と後ろから挟まれる格好になった。
「よし。囲め」
集団の中から声が上がった。それに従って悪魔の群れは横に広がって輪を作る。あっという間に樹流徒を包囲した。
もっとも、こうなると分かった上で樹流徒は行動していた。たとえ敵に囲まれても、彼には打つ手がある。前後に固まっていた敵が広がってくれたのはむしろ好都合だった。
樹流徒の上半身から数百の針が飛び出す。皮膚を破って現われたその針は一斉に射出され、でたらめな軌道で蛇行しながら周囲の悪魔を襲った。魔王ラハブの能力である。
これは悪魔たちにとって大きな誤算だっただろう。敵を包囲するための円陣だったはずが、一人でも多くの味方が攻撃を受けるための陣形になってしまったのだから。
全方位に乱れ舞う針は樹流徒を囲んでいた悪魔たちをほとんど全員貫く。ついでに円陣の外にいた敵も数体仕留めた。ラハブと戦ったときはこれ以上無く厄介な能力だったが、自分が使うとこれほど便利なものはなかった。
とはいえこの強力な能力にも欠点はある。連射性能が無いのだ。
次、囲まれたら危ない。強引に突破するならば今が好機だ、と樹流徒は考えた。今の攻撃で悪魔の数が一時的に減ったし、生き残っている悪魔たちも逃げ腰を引いている。行くなら今しかない。逆にこの機を逃したら厳しい。
覚悟を決めた樹流徒は出口めがけて猛然と駆け出す。
対する悪魔たちはそれぞれ雄たけびを上げたり、武器を振り回したりして、樹流徒を食い止めようとする気概を見せるが、それとは裏腹に彼らの体は樹流徒へ近付くのを恐れていた。誰もがその場に固まり、あるいは後退している。完全に恐怖に飲まれていた。
こうなるといくら数が揃っていても意味は無い。烏合の衆と化した悪魔たちの中を樹流徒は突っ切る。このままでは不味いと思ったか、何体かの悪魔が樹流徒に突っ込んだが、ことごとく樹流徒の爪に急所を貫かれてあっさり絶命した。そのことが更にほかの悪魔たちの闘志を削ぐ。
いくつもの異形の瞳が、樹流徒よりも味方の悪魔に視線を巡らせはじめた。「早く首狩りに攻撃をしろ」「オマエが行け」と互いに命令し合っている。
悪魔を超える脚力を持つ魔人にとって出口までの距離――約三百メートルは決して長くなかった。異形の衆が狼狽している隙に樹流徒は凄まじい勢いで加速する。今さら悪魔たちが闘志を取り戻したところで、既にほとんどの者たちが樹流徒の速さに追いつけなかった。銃から放たれた弾を捕まえろと言われても無理なのと同じである。
まさしく一発の弾丸と化した樹流徒は、出口を固める悪魔たちの頭上を軽々と飛び越えて外に飛び出した。
出口の先には一本の廊下が走っていた。大型悪魔が通れるように幅があって天井も高い通路だ。その両側には青く輝く金属製の扉が埋め込まれている。こちらは人間が使う扉よりも少し大きいくらいのサイズだ。
果たして扉の向こう側には何があるのだろうか。それを確かめている暇はなかった。左右から悪魔が五体ずつ、樹流徒を挟み撃ちにしようと迫り来る。もちろん、たった今樹流徒が飛び出してきた空間からも悪魔が追いかけてきた。
樹流徒は両手を横に広げて同時に電撃を放った。青い雷光がほとばしり左右の敵を撃ち貫く。廊下の右側から来た悪魔はたった一体倒れただけだった。かたや左側の悪魔はほぼ全員電撃に弱い体質だったらしく、ばたばたと倒れた。一体だけ持ちこたえている巨体の悪魔もいるが足が痙攣している。
それを確認した樹流徒は左へ走った。残った一体の悪魔が痙攣した足で踏ん張りながら槍を突き出してくる。樹流徒は鋭いスライディングで敵の股をあっさり潜り抜けた。槍を突き出した悪魔はそのまま膝を着く。彼の横を他の悪魔たちが次々と通り過ぎて樹流徒の後を追った。
瞬発力ならば樹流徒のほうが圧倒的に上である。後ろから追ってくる悪魔の影がぐんぐん遠くなった。
しかし樹流徒の前方にまたも障害が立ち塞がる。恰幅の良い悪魔が四体横並びになって待ち構えていた。鉤状に尖った牙と鼻。そして牡鶏の脚が特徴的な異形の巨人……デウムスだ。
廊下を塞いだデウムスはそれぞれ口を広げて火炎弾を発射する。樹流徒は虚空から氷の鎌を呼び出して握り締めながら、正面の景色に全力集中した。敵の攻撃が急にはっきり見える。降世祭でラーヴァナと戦ったときと同じ現象だ。樹流徒は氷の鎌で火炎弾を全て叩き落した。さらに鎌を投擲する。
大きく回転する氷の刃はデウムスの一体に肩に命中した。そのデウムスは片膝を着く。他のデウムスたちが一驚を喫している隙に樹流徒は両手から電撃を放った。雷に飲み込まれた二体のデウムスが行動不能になった。
残るは一体。樹流徒は素早く敵の眼前まで滑り込んで、デウムスが振り上げた腕を切り落とした。片腕を切断されたデウムスは両膝を着いてもう片方の手で傷口を押さえて悶える。トドメは刺さず、樹流徒は先を急いだ。
五十メートルも進まないうち、今度は半人半獣の悪魔が縦に三体並んで襲ってきた。先頭の悪魔は後ろに続く二、三番目の悪魔とやや間合いが離れている。
我先にと駆けてくる一番手の悪魔が姿勢を低くして剣を前に突き出した。樹流徒は相手の剣閃を飛び越え、更に悪魔の頭を踏み台にして前宙を繰り出した。そして遠心力が乗った踵落としを後続の悪魔に食らわせる。顔面に踵を入れられた二番手の悪魔はその場で大の字になって倒れた。
自分の頭を踏み台に利用された悪魔が怒りと屈辱に満ちた表情で振り返る。しかしそのとき既に悪魔の足首には触手に変化した樹流徒の腕が絡みついていた。樹流徒が腕を思い切りひっぱると、悪魔はいとも簡単に転倒する。
先行していた味方二人がやられて最後尾の悪魔は若干逃げ腰を引いていた。その隙を見逃さず、樹流徒はすぐ敵に立ち向かってゆく。
「こいつッ」
恐怖に顔を引きつらせながらも悪魔は鋭い突きと蹴りを繰り出す。樹流徒は頭を振って突きを交わし、続いて跳んできた蹴りを掴む。それにより敵がバランスを崩したと見るや、相手の脚を払って転倒させた。樹流徒の足ばらいで綺麗に転倒した悪魔が目をぱちぱちさせて天井を仰いだときにはもう、樹流徒はその場から走り去っていた。
魔界血管がある部屋を出てから何メートル走っただろうか? 驚くほど広くて長い廊下だったが、ようやく前方に突き当りが見えてくる。
上と下へそれぞれに向かう階段があった。どちらにも見張りの悪魔が二体ずつ配置されている。
樹流徒は何も考えず下へ降りた。見張りたちがあっと驚いている間に片方の悪魔に当て身を食らわせて意識を奪い、更にその悪魔を担ぎ上げてもう片方の悪魔に投げつける。悪魔は味方と壁の間に挟まれて昏倒した。
騒ぎに気づいた上階の見張りが降りてくる。彼らよりも速く樹流徒は下の階に下りた。
階段を下りると、そこはまた長い廊下になっていた。上の階と同じように廊下の両側には金属製の扉が均等な間隔でズラリと並んでいる。また廊下の途中にいくつか曲がり角があった。
ここが一階なのか? それともこの階のどこかにまだ下へ降りる階段があるのか? 考えている暇は無い。この階にも悪魔たちが待ち受けており、樹流徒の姿を見つけた数体の悪魔が固まって猛然と駆けてきた。
樹流徒のほうからも悪魔に向かって突っ込む。その行動が意外だったらしく悪魔の群れが立ち止まった。先頭の悪魔が手を前に突き出して何か攻撃を放とうとしたときにはもう、樹流徒は壁を地面のように駆けて悪魔たちの頭上を走り抜けていた。そして床に着地すると前方の曲がり角を折れる。
角を曲がった先はまた同じ廊下だった。部屋の左右に扉があって、曲がり角がいくつかある。この建物は迷路のような構造になっているのだろう。どれだけの広さがあるのか、想像もつかなかった。
樹流徒にあっさり抜かれた悪魔たちが慌てて踵を返し追いかけてくる。彼らだけならば樹流徒の脚力で振り切れるのだが、前方の曲がり角からもカチャカチャと武装兵の足音が聞こえてきた。しかもかなりの人数だ。多分二十体はいる。
このままでは挟み撃ちにされてしまう。強引に突破するか? それとも……
じっくり考えている場合ではなかった。樹流徒は直感で次の行動を決める。彼はすぐそばにある金属製の扉に手をかけるとドアノブを回した。鍵はかかっておらず大きめの扉は抵抗無く開く。その隙間に樹流徒は自分の体を滑り込ませた。