白亜の塔
澄み渡った青空の中に白銀の太陽が浮かんでいた。限りなく円に近い輪郭は常におぼろげで決して同じ形を取らない。水面に映った月が揺れる様と似ているが、太陽はそれよりもずっと細かな揺らめきで絶えず姿を変えていた。とても不安定な存在に見えるのに地上へ注ぐ陽光はまっすぐで力強い。
揺れ動く太陽が見下ろす悠久の大地は、その半分以上を草原らしき地形が占めていた。「草原らしき」という曖昧な言い方なのは、地表に白いもやのような物体が漂っているせいだ。霧でもない。煙でもない。底を這って広がるその不思議なもやは地表の大半を覆っている。もやが薄い部分は下が透けて見えるが、濃い部分になると何も見えない。そのため上空から見下ろしても一帯の地形をひと目で把握するのは難しかった。陽光を反射してキラキラ輝くもやは優しい風に乗って雲のように流れている。その切れ間から鮮やかな緑が見え隠れしていた。
無論、もやの下に隠れているのは草花ばかりではない。大地の半分以上が草原ならば、残りは別の地形である。
ある場所には鬱蒼とした森が広がっていた。そこの地面にも白いもやが這っており、まるで雲の上から木々が生い茂っているように見える。夢にも現われないほど美しく神秘的な森だった。背の高い樹木には瑞々しい若葉が実り、葉と葉の隙間から赤い果実が覗いている。熟れた林檎よりも赤くて小さな果実だった。チチ……チチ……と、鳥のさえずりが辺りから聞こえる。他にも葉を揺らす音や、地面に落ちた枝が踏まれて折れる音も時折聞こえた。この森には鳥だけでなく動物も住んでいるらしい。
森の中央には円形の大きな湖があった。水はどこまでも透き通り一転の濁りも見当たらない。もやの下に隠れた水面は鏡と見紛うほど透き通っていた。
その美しい湖のほとりで立派な体躯の白馬と二頭の鹿が仲良く体を寄せ合って喉を潤している。鹿の背中には木の実を頬張るリスが乗っていた。憩いのひと時を過ごす彼らは、すぐ目の前にある水は夢中で飲むが、その先にそそり立つ物体は気にも留めていない。
湖の真ん中には塔が立っていた。森の木々を遥か頭上から見下ろす白亜の塔である。外壁は陶器に負けないくらい滑らかで一体どのような建材が使われているのか分からない。壁のところどころには長方形の穴が空いていた。通気口か。それとも窓か。人の手がやっと通れるくらいの小さな穴だ。また塔の足下には一ヶ所だけアーチ状の大きな空洞が開いている。こちらは塔の出入り口と断言して良いだろう。
森の中心に広がる湖のさらに真ん中に佇む白亜の塔。果たしてこれは誰が何の目的で造った物なのか。居住するための家なのか。何かの記念に建てられた物なのか……
もしかすると誰かを閉じ込めておくための施設なのかもしれない。その証拠に、今、この塔には一人の少女が軟禁されていた。
塔の頂上に大きな部屋がある。床は人間が何十人も座れるほど広く、天井は梯子を使っても手が届かないほど高い。壁際に木椅子と机、それから白いシーツのベッドがあるだけで他には何も物が置かれていないので余計に広く感じられる一室だった。
この生活感を全く感じさせない部屋に、彼女は閉じ込められていた。白くきめ細やかな肌。艶のある長い黒髪。落ち着きと微かな憂いが同居した表情。純白のドレスに身を包み、格好こそ別人のようになってしまったが、それは紛れも無く伊佐木詩織だった。
詩織は龍城寺タワーで樹流徒と分かれてから行方不明になっていた。
彼女はきっと聖界へ連れて行かれたに違いない。まだ生きているはずだ。そう樹流徒は信じているが、絶対に詩織が聖界にいる証拠や必ず彼女が生きている保障は、実はどこにも無かった。
しかし樹流徒が願っていた通り詩織は無事だった。白亜の塔に閉じ込められながらも彼女は生きていた。
詩織が閉じ込められている部屋には一つだけ窓がある。塔の外壁に点在する長方形の空洞とは違って、ごく普通の窓である。そこから射し込む陽光だけが部屋の中にある唯一の明かりだった。詩織は椅子に腰掛け、微かに形を変え続ける太陽の光を頬に浴びながら抑揚の無い表情で外を見ていた。
窓の下枠には白い小鳥が一羽止まっている。森の中からやって来たのだろう。小鳥はつぶらな瞳で詩織を見上げながら、不思議そうに首を傾げる。
そっと詩織が指を近付けると、小鳥は逃げも怯えもせず彼女の指に乗った。この森に住む鳥や動物たちは人間に襲われた経験が無いのだろう。そのため小鳥が詩織を警戒することも無かった。
詩織は指に乗せた鳥を胸の前まで持ってくる。反対の人差し指を使って白い翼に触れた。
「私にもアナタみたいに羽があったらここから抜け出せるかもしれないわね……」
彼女は外を見る。窓の下は湖だ。しかしこの高さから飛び降りたら命は無いだろう。鳥のように翼でもなければ、人間の少女が窓から脱出するのは不可能だった。部屋には金属製の扉もあるが今は固く閉ざされている。外側から鍵が掛かっているらしい。
「やっぱり無理ね。たとえ空を飛んで逃げてもこの世界から出る方法が分からないもの」
言って、詩織は諦観したような表情をする。
小鳥はもう一度首を傾げるような仕草を見せた。その可愛らしい仕草に詩織の口元が緩みかける。
出し抜けに冷たい音が鳴った。扉の鍵が外れた音である。
重い金属の扉が蝶番の音を軋ませて開く。詩織の指先に止まっていた小鳥が驚いて外へ逃げた。
入れ替わって一人の有翼人が部屋に入ってくる。歳は十七、八歳くらい。金色の髪と瞳を持った眉目秀麗な青年だった。背中には大きな純白の翼が六枚。白と青の二色で織られた衣の上から銀色に輝く甲冑を身につけている。他の天使とは明らかに違うその神々しい佇まいは、紛れも無く龍城寺タワーに現れた天使ミカエルに他ならなかった。
ミカエルは詩織を聖界に連れてきた天使である。当時は二人のお供を引き連れていたが、今回は彼一人しかいなかった。
「以前より顔色が良くなった。ここの暮らしにも多少は慣れたのではないか?」
ミカエルは穏やかな目で詩織に語りかける。
詩織は何も答えなかった。代わりに淡々と質問を返す。
「アナタが直接私に会いに来るのは久しぶりね。今日は何か特別な用事があるの?」
「やはり君は勘が良いニンゲンだ。前回話をしたときからそう思っていた」
と、ミカエル。彼の口ぶりからして詩織の憶測は当たっていたらしい。
「君の言う通り、今日は特別な用事があって来た。これから私と一緒にある場所へ行ってもらう」
「そう……」
詩織はやや瞳を薄くした。来るべきものが来たかと悟ったような、何かを覚悟した目だった。
「どこへ何をしに行くのか聞かないのか?」
「聞けば答えてもらえるの?」
「違いない」
ミカエルは微かに笑った。
二人は連れだって部屋を出る。塔の内壁に沿って螺旋を描く階段を降り始めた。
詩織は逃げる素振りも見せず、黙ってミカエルの後についてゆく。逃げようとしても無駄と分かっているのだろう。ミカエルも後ろからついてくる詩織をいちいち振り返ろうとはしなかった。
しばらくすると階段の先に外明かりが見えてきた。塔の出口である。そこから一歩外に出ると、目の前には湖を跨ぐ細い橋が架かっていた。その橋は塔と同じ建材で造られているらしく、色も塔と同じ白に染まっている。
二人は橋の上を歩いた。真ん中あたりまで来たところで、ふと思い出したようにミカエルが言う。
「そういえば君が聖界に来てどれくらい経つ?」
「分からない。この世界はずっと明るくて夜が無いから、何日経ったのか数えようがないもの」
「そうか……。ニンゲンとは相変わらず不便な生き物だな」
ミカエルは納得したように言う。口調こそ柔らかかったが、彼の言葉には人間の血を卑しむニュアンスが若干含まれているようだった。
ミカエルはもう一つ尋ねる。
「ところで君は……我々が力尽くで君を聖界に連れてきたことを恨んでいるか?」
そのような言葉が天使の口から出たのが意外だったのか、詩織はぱちぱちと目を瞬かせた。そのあと首を横に振る。
「別に恨んでいないわ。だってアナタが何故私をここへ連れてきたか理由が分からないもの。でも……」
「でも?」
「もしアナタが相馬君やほかの人たちまで無理矢理ここに連れてきたら、私はアナタを許せないと思う」
「そうか。ではいずれ私は君から憎まれることになるだろう」
「……」
詩織とミカエルはどちらも表情を変えなかった。
橋を渡った二人は湖を離れて神秘的な森の中を歩く。この森の動物たちはやはり人間を恐れていない。詩織が近付いても逃げる者はいなかった。逆に小鹿が一頭、詩織に近寄ってくる。小鹿は少女の腕に頭を押し付けて甘えるような仕草をした。詩織は足を止めて小鹿の首や背中を優しく撫でる。それで満足したのか小鹿は身を翻してゆっくりと歩き去った。
かたやミカエルの周りには美しい蝶が集まっている。青、白、黄色、色とりどりの羽がひらひらと舞い、まるでミカエルを歓迎しているような動きをしていた。
二人は木々に囲まれた森を歩き続ける。白いもやの影響で足元の視界を制限された上、あちこちから木の根が張り出している悪路を、ミカエルは平坦な道を歩くのと変わらない足取りで進む。歩幅の差もあって詩織は前の背中についてゆくのが精一杯の様子だった。
そんな彼女を気遣ってか、ミカエルは極力安全な道を正確に選んで歩く。にもかかわらず彼には会話をする余裕もあった。
「シオリ。またひとつ尋ねてもいいか?」
「なに?」
「君は悪魔についてどれだけ知っている?」
「どれだけと言われても……」
「彼らが現世に現われた理由については?」
「魔王サタンが閉じ込められているコキュートスを破壊するために現世で儀式を行なっていたのは知っているわ。けれどその先は何も……」
「彼らは聖界に乗り込んでくるつもりだ。サタンの力を借りるか、あるいはサタンを利用してな」
詩織の足がピタリと止まった。
「つまりこの世界で天使と悪魔の戦いが始まるというの?」
ミカエルも足を止めて初めて後ろを振り返る。
「そう。悪魔は我々に戦いを挑んでくる。果てしなく長き時を経て再び我らの主に牙を剥こうとしている。その計画のために君の故郷は犠牲となったのだ」
「……」
「残念ながら戦争は止められないだろう。もし悪魔たちが全ての真実を知った上でこの世界にやって来るのだとしたら、私は……」
そこまで言うとミカエルは今まで崩さなかった表情をにわかに暗くして端正な唇を結んだ。神々しく輝く黄金色の虹彩が揺れる。
「なぜ私にこんな話を教えてくれるの?」
「君にはこの話を知る権利があると私が判断したからだ。ただし断っておくが君に対する詫びの気持ちは含まれていない。なぜなら我々の行動は全てが万事正しいからだ。君を聖界に連れてきたこともまた正しい行いだった」
ミカエルは踵を返して歩き出す。
彼の背中を追いかけながら今度は詩織から声を掛けた。
「もしアナタが言った通り悪魔が攻めてきたら、アナタたちは勝てるの?」
「どうしてそのような疑問を持つ?」
「ここへ連れてこられる途中、私は荒廃した聖界の様子を見たわ。まるで長期的か相当大規模な内戦があったかのような荒れようだった。とても悪魔と戦争をする余裕があるようには見えなかったけれど」
詩織は知らない情報だが、聖界では少し前にウリエルという天使による反乱が起きていた。今、聖界は内戦が終わって間もないのである。そのような状態で悪魔と戦えるのか? たとえ実情を知らなくても詩織が疑問に感じるのは当然だった。
彼女の言葉をミカエルは否定しない。
「そう。確かに君の推察通り、いま聖界は内戦の影響で未曾有の危機にある。このまま悪魔との闘争に突入すれば我々とてどうなるか分からない。そのような言葉、同胞らの前では口が裂けても言えないがな」
「けれど未曾有の危機と言う割には落ち着いているのね。“このまま悪魔との闘争に突入すれば”と言ったけれど、もしかして事前に打つ手でもあるの? それは私が聖界に連れてこられたことと何か関係があるのかしら?」
「やはり君は恐ろしく勘の働くニンゲンだ。元々そういう力を持っていたのか、それとも数年前に君が手に入れた力のお陰なのか。どちらなのだろうな?」
そう語るミカエルは一見穏やかな表情だったが、目の奥は先ほどまで無かった憎悪とも悲しみともつかない感情で揺れていた。
その後は両者とも一言も発さずひたすら歩き続けた。ようやく森を抜けると、前方に草原らしき地形が現れる。遠くには一本の広い川が横切っていた。それも白いもやに水面を覆い隠されており遠目ではほとんど見えない。
二人は草原を歩いて川のほとりまで歩いた。川の水は美しく透き通っているが、深さがあって底が見えない。流れはかなり急で迂闊に踏み込めば危ないだろう。
川にはアーチ状の太い橋が一本架かっていた。白く滑らかな石と銀色の金属を組み合わせて作られた頑丈そうな橋だ。人間がどれだけ飛び跳ねても壊れそうに無い。
二人は橋を渡った。向こう岸に着くと川沿いを下流に向かって歩く。
それからしばらく水の流れを追っていると、ずっと遠からドドド……と雄雄しい音が聞こえてきた。絶えず鳴り続けるその音がするほうへミカエルは向かった。詩織も黙って後ろをついてゆく。
ある地点から先に進むにつれて足元のもやが薄くなってきた。それが完全に晴れたとき、雄雄しい音の正体が姿を現す。
それは途方もない大きさの滝だった。七本もの川が合流して生まれた大河の中に世界の窪みがあり、そこをめがけて水が万物を押し流す勢いで飛び込んでいる。滝の中には大きな虹が架かっていた。絵に描いたような七色の光が並んでいる。
「この辺りは少しも荒廃していないのね」
もう一時間ぶりくらいになるだろうか。詩織が口を開く。
「内戦の被害を受けなかったからな」
と、ミカエル。そういえばこの世界には天使の姿がない。二人が塔を出てからまだ誰ともすれ違っていなかった。この地は普段から天使があまり近付かない場所なのかもしれない。
大河を背に先へ進むと、滝の音が徐々に薄くなってゆき、逆にもやが濃くなってくる。
水の音が完全に消えた頃、詩織たちの前に花畑らしき地形が現われた。散在するもやの切れ間から菜の花と似た植物が黄色い花びらを覗かせている。花に紛れて蝶も舞っていた。
遥か先を遠望すれば地平の彼方に白い山々が連なっており、まるで雪のカーテンに見える。その山々を源とした川が蛇行しながら花畑の中を走り、先ほどの大河まで繋がっていた。
二人は花畑の中を行く。延々と進む。瞳に映る地平の山々が少しずつ大きくなって、ついに山頂を仰ぐほどまでの大きさになった時。ミカエルが立ち止まり振り返った。
「そろそろ歩き疲れたのではないか?」
「いいえ。平気よ……」
詩織は無表情で答える。しかし彼女は塔を出てから数時間歩きっぱなしだ。何日ものあいだ塔の狭い部屋に閉じ込められていた少女の脚には少し辛そうだった。
「ここからは空を飛んで行く。私につかまりなさい」
ミカエルは手を差しのべる。詩織は首を横に振った。
「どの道、この先は人間の足では無理だ。さあ」
「……」
どうやら選択の余地は無さそうだった。詩織はミカエルの手を取る。
ミカエルは微笑すると少女を軽く引き寄せ、彼女を横抱きに抱きかかえた。そしてつま先で地面を押しながら六枚の翼を広げて大空へと羽ばたく。雲の下を悠々と泳ぐ鳥のような速度で山脈に向かって飛んでいった。
上空の緩やかな風が少女の髪を揺らす。詩織は心なしか不安そうな目で虚空を見つめた。彼女の長いまつ毛は白銀の陽光を浴びて透き通っていた。
空を飛ぶミカエルは険しい山々の頭上を次々と追い越す。そのまま山脈の向こうまで行ってしまうのかと思いきや、彼はある谷間に差し掛かったところで徐々に速度を落して、静かに停止した。続いて真下に目を落とすとそちらに向かって下降を始める。
地上に近付くミカエルの瞳は暗い谷底に潜む物体を映し出した。
それは円形の大きな台座だった。高さは一メートルにも満たないが面積が異様に広い。白い金属で作られた土台の内側に直径二十メートル以上もある透明なレンズがはめ込まれていた。レンズ以外の部分には電気回路と似た細い線が無数に走り、回路の中を銀色の光が駆け巡っている。その機械じみた物体は幻想的な自然の中にただ一つだけ存在し、この上なく異文明感を漂わせていた。
ミカエルが地上に降り立つ。
台座の前には二体の異形がいた。どちらも寸分違わず同じ姿をしている。顔は人間、体は獅子、背中から一対の大きな白い翼を生やし、全長は二メートル以上あった。彼らも天使なのだろうか。人間が想像する一般的な天使像とはだいぶかけ離れた姿をしている。彼ら半人半獣の天使は、目の前にミカエルが降り立っても詩織の姿を見ても眉一つ動かさなかった。
塔を出て初めて遭遇した天使らしき生物だったが、ミカエルは挨拶も交わさない。彼は聖獣の間を素通りすると、軽く跳躍して台座の上に乗った。そこでようやく抱えていた詩織を下ろす。
すぐに二人の足下が激しく輝いた。台座の巨大レンズから白い光が放たれたのだ。それは柱となって天空めがけて駆け上った。光の柱が消えたとき、台座の上にはもう二人の姿は無かった。
光に包まれた二人が次に立っていた場所は、先程までとは明らかに別の世界だった。草原も川も滝も、そして山も無い。空と地面さえなかった。前方位が虹色に輝く空間である。ぼんやりとした七色の光が無数の粒となって世界に満ちている。それらは風も吹いていないのに緩やかな速度で同じ方向へ流れていた。
まるで宇宙である。顔をどちらに向けても空間の果ては見えない。七色の光以外にあるものといえば二つだけだった。
一つは詩織とミカエルの足下にある台座。先程二人が乗った台座と完全に同じものだ。
それからもう一つは二人からはるか離れた場所に浮かぶ門。相当遠くにあるのにはっきり門だと分かるのは、それだけ桁外れに大きいからである。最早メートルではなくキロ単位で数えなければいけないかもしれない規模だった。門の内側には七色の光が満ちている。空間を漂う光の粒よりずっと眩い輝きを放つ光だ。光の先に何があるのかは見えない。
詩織の視線はごく当たり前に、前方で静止する巨大な門へと向けられた。
「ここは我々天使ですらごく一部の者しか立ち入れない場所だ。無論、人間がこの世界を訪れたのも今日が初めてだ」
ミカエルが言う。
彼の言葉で詩織は我に返ったらしい。光り輝く門に目を奪われていた彼女は、隣に立つ天使の横顔をちらと見た。
「では行こう」
ミカエルは詩織に手を伸ばすと、今度は断りもなく彼女を抱きかかえる。翼を広げると、遥か遠くに浮かぶ目標物に向かって飛んだ。
門から放たれる眩い輝きは近寄る者を強く照らす。ミカエルが門の数十メートル手前に来たときには、詩織がまともに目を開けれいられず瞼の上に手を添えて影を作らなければいけないほどの明るさになった。
何かに気付いた詩織の視線が門の足下で止まる。そこに一点の影があった。眩い光を背にして宙に浮かぶ天使がいる。門番だろうか。男の姿をした銀髪の天使だった。人間ならば歳は三十後半くらい。背丈三メートルはあろうかと言う偉丈夫だ。ミカエルと同じ白と青の衣を纏っているが鎧は身につけていない。服の上からでもはっきり分かるほど全身の筋骨が隆起していた。背中には六枚の白い翼が広がっている。顔は厳つく、青く光る鋭い眼光は威厳に溢れていた。
詩織を抱えたミカエルは門の足下に浮かぶ銀髪の天使に近付く。二人が傍までやってくると、天使は高い位置にある瞳で詩織を一瞥した。それからすぐミカエルの顔に視線を移す。
先に口を開いたのはミカエルだった。
「待たせたな“メタトロン”。見ての通り例のニンゲンをつれてきた」
「ああ。遂にことのときが来たのだな……」
メタトロンと呼ばれた銀髪の天使は深く頷いた。それから青い瞳で再び詩織を一瞥して
「しかし私は今でも迷っている。我々がしようとしていることは果たして正しいのだろうか?」
と疑問を唱えた。
ミカエルは即答する。
「聖界の未来と我々の正義のためには必要なことだ。心配せずとも我々は正しい。故に我々が成す事は常に正しく、我々は己が成す事を常に正しいと信じて疑ってはならないのだ」
「うむ……」
「ときに“ガブリエル”と“ラファエル”の様子は?」
「変わらない。彼らは何がどうあっても我々の計画に反対のようだ」
「二人ともニンゲンに対して好意的だからな。特にガブリエルはニンゲンに肩入れし過ぎる。彼女はシオリを聖界に連れて来る事にも反対していた」
「では、あの二人はもうしばらく閉じ込めておくか?」
「そうすべきだろう。しかし間もなく万事解決する。主が我々を導いて下さるはずだ」
「主……か」
メタトロンは口の両端をやや渋くして遠い目で虚空を仰いだ。




