光滅の塔
白い雲の群れに紛れて不気味な影が一つ。遥か天空より雄大なる緑の大地を見下ろすその物体は、円柱型の巨大建造物だった。あの降世殿と比べればひと回り小さいが、間近で見れば圧倒されるほどの迫力がある。それだけの巨大物体が音も無く宙に制止しているのである。
「あれが光滅の塔です」
前方に浮かぶ大きな物体を鳥人の瞳が指し示す。隣を飛行する樹流徒は無言で頷いた。
太陽と月の国の国境沿いに浮かぶ光滅の塔。それは闇明の塔(異端地獄の海底神殿と繋がる密室の塔)の真上に浮かんでいた。謎の金属で造られた外壁を埋め尽くすのは、やはり電子回路似の線。忘却の大樹では緑、火山内部では赤、海底神殿では青の光がそれぞれ輝いていたが、今回は黄色い光が複雑で細いラインの中を駆け巡っていた。
樹流徒は光滅の塔を眺めやる。あの中にある魔界血管を通り抜ければ遂に魔壕に到着する。それを想像すると、まだ塔の中に入ってもいない内から全身の血が熱くなった。
塔の一番下には入り口らしきものがある。長方形の上部をアーチ状にした形の大きな空洞だ。扉は無い。
「あの入り口に罠はありませんから通っても大丈夫です」
鳥人の言葉通り、樹流徒たちは難なく入り口を通過した。
建物内部はかなり明るかった。壁や床、それから天井に至るまで内壁全体がぼんやりと白い光を放っている。白と言っても純白ではなくほのかに暗い色が混ざった白だ。
入り口から向かって正面には坂が見えた。幅は二十メートルくらい。床から塔の中腹まで真っ直ぐ伸びた非常に長い坂だ。勾配は緩やかだが大人の足で上っても頂上までたどり着まで五分はかかるだろう。その坂も塔の内壁と同様に白い光を放っていた。
また、坂の両脇には謎の女神像が等間隔で並んでいる。見上げるほど大きな石の像だ。数をかぞえてみると坂の両側に六体ずつ、計十二体あった。十二体の女神像はどれも髪型が違い、背中まで伸びたストレートヘアもあれば、グラデーションカットのショートヘアもある。髪型だけでなく顔の造作や背の高さもそれぞれ微妙に異なっていた。加えてポーズも一体ずつ違っており、胸元に手を添えているものもあれば、髪をかきあげるような仕草をしている像もあった。個体ごとに特徴があってまるで本物の人間みたいである。かたや十二体の女神像には共通点もあった。全員が目を閉じ口元に微笑を湛えているのだ。花を愛でるような柔らかい表情だった。
女神たちの優しい微笑に見下ろされながら坂を上りきれば、そこに大きな階段が架かっている。階段の先には渦を巻く赤い光があった。確認するまでもなく魔界血管である。
長い坂と女神像。そして魔界血管。他にこれといって目に付く物は無かった。罠らしきものも見当たらない。光滅の塔は危険だ、とデカラビアは言っていたが、とてもそうには見えなかった。
あたりは静まり返っている。周囲を見回しても樹流徒たち以外誰もいなかった。
「こんなに広いのに虫一匹いないんだな」
樹流徒の言葉に鳥人が反応する。
「ええ。この暴力地獄と魔壕を行き来する悪魔は多くありませんからね」
「なぜ?」
「理由ははっきりしていませんが、基本的に魔壕の住人が外の世界に対して興味が無いためと言われています。きっと魔壕の住人は自分たちの世界が一番魅力的だと思っているのでしょう。事実、魔壕は魔界で最も大きく美しい世界と言われています。ですからあの世界の住人は自分たちの世界には興味があっても別の階層に対する興味があまり無いのでしょう。ですからこの暴力地獄を訪れる者も少ないわけです」
塔の中に誰もいない理由を鳥人はそのように分析する。
「それでも降世祭の前後になると多少は出入りが増えるのですが……今は誰もいませんね」
と最後に付け足した。
「魔壕からこちらの世界へ来る悪魔が少ないのは分かった。逆にこちらから魔壕へ向かう者はどうなんだ?」
樹流徒が聞くと、それを待っていたかのように鳥人は即答した。
「魔壕へ行ってみたいと希望する者は多いです。しかし並の悪魔では魔壕にたどり着けません。あの坂のせいです」
言って、彼は正面に見える光の坂に視線を送る。
彼の物言いからして、光滅の塔に潜む罠は坂のどこかで発動するようだ。果たしてどんな罠が待ち受けているのか樹流徒には想像もできなかったが、並の悪魔では通れないほどの難所である。それを今から突破しなければいけない。
鳥人は光の坂について説明する。
「闇明の塔では目を閉じたまま坂を上らなければいけませんが、それに対し光滅の塔ではずっと前を見て坂を歩き続ける必要があります」
「前を見て歩く? それだけでいいのか?」
「はい。しかしたったそれだけが難しいのです。前を見て歩くということは、坂の途中で走ってはならず、立ち止まってはならず、そして下を向いたり後ろを振り返ったりしてもならないということです。目を瞑るのも駄目です。瞬きくらいなら構いませんが」
「要は普通に歩けば良いんだな。それがどうして難しいんだ?」
「まだ話に続きがあるのです。あの女神像をご覧下さい」
鳥人は坂を挟んで立ち並ぶ十二体の女神像を指差す。
「あの女神像は坂を上る者の記憶を読み取り、その情報を元に五感を惑わす様々な試練を与えてきます」
「五感を惑わすというのは、つまり幻覚みたいなものか」
「はい。まさにその通りです。女神像は坂を上る者に対して幻覚を与えます。しかし決してそれに惑わさてはいけません。例え何が見えても、何が聞こえても、何を感じても、それは幻に過ぎないです。決して急がず、立ち止まらず、前だけを見て歩き続けるのです。もしひとつでも行動を誤ればその瞬間にアナタの命はありません」
命は無いという直截的な表現に樹流徒はうすら寒いものを感じた。
「質問ばかりで悪いが、具体的にどう命が無いんだ?」
「坂の途中で間違った行動を取れば、女神象の目が開き消滅の閃光が放たれます。その光から逃れる術はありません。また光を浴びて生き残る術もありません」
「なるほど。光滅の塔という名前の由来はそれか……」
「この事実を知らずにあの坂を上って命を落とした悪魔は数知れません。また、罠があると知った上であの坂に挑み光の中に消える者も毎年必ず現われます」
「それだけ女神像の幻覚が強力なんだろうな」
今まで鳥人から聞いた説明を要約するとこうだ。
“坂を上ると幻覚に襲われる。その幻覚に驚いて立ち止まったり目を閉じたりすれば女神象が放つ光に殺される”
詳しく知れば知るほど恐ろしい坂だった。もし鳥人から説明を受けていなければ間違いなく樹流徒は女神像が放つ消滅の閃光に巻き込まれていただろう。想像すると生きた心地がしなかった。
「話は分かった。ありがとう」
鳥人に礼を言ってから、樹流徒は女神像を見上げる。今回の敵は悪魔ではない。女神像が見せる幻と自分自身の恐怖心が敵になる。今までと勝手が違う相手だけに心が慎重になった。
「余談ですが一度あの坂を通過した者に対しては二度と罠が作動しません。ですからこの世界へ戻ってくるときは安全ですよ」
「そうか。またいつかこの世界を訪れることがあったら黄金宮殿に寄らせてもらう。ガルダに宜しく伝えておいてくれ」
「承知いたしました。きっと伝えておきます」
樹流徒は頷いて、光の坂に向かって歩き出す。
「魔界血管に入るまで決して油断しないで下さい」
背後から鳥人の忠告が聞こえた。
樹流徒は坂のすぐ手前で立ち止まる。一目見たときから長い坂だと思っていたが、鳥人の話を聞いてからは坂の頂上が余計遠く見えた。女神像の顔はどの角度から見ても優しげに微笑んでいる。それがひとたび目を開けば悪魔の肉体をも滅する閃光を放つというのだから恐ろしい。
一度坂を上り始めてしまえば二度と引き返せない。樹流徒は心を落ち着かせるため深呼吸をした。彼の鼓動が落ち着くのと反比例して、背後に佇む鳥人の胸は速く上下する。樹流徒よりも鳥人のほうが緊張しているようだった。
精神が十分に落ち着くと、いよいよ樹流徒は光の坂に挑む。意を決した彼の足が坂の上に乗った。ここからは走ることも、立ち止まることも、振り返ることも、全て死に直結する。ただひたすら真っ直ぐに前を見て歩くしかない。
坂を上り始めて少しのあいだは何も起こらなかった。幻覚らしきものが襲い掛かってくる様子も無く、女神像に異変が起こる気配も無い。
「幻覚が襲ってくる地点は決まってません。いつどこで何が起こるか分かりませんからご注意下さい」
鳥人の補足説明が後ろから聞こえてくる。樹流徒は振り返らず心の中で了解した。
すると最初の女神像を通り過ぎたときである。ついに最初の試練が牙を剥いてきた。
出し抜けに樹流徒の視界が歪む。かと思えば、辺りに熱気と硫黄臭(硫化水素の臭い)が立ち込めた。眼前がオレンジ色に光るマグマの海になる。先ほどまで滑らかだった坂の道が生き物の腹みたく浅い起伏を繰り返した。白煙が舞いマグマの熱で空間が揺れる。
これこそ女神像が見せる幻なのだろう。幻覚なのは分かっているが、本物と全く見分けがつかない。
マグマの光と熱が足元に伝わってくると樹流徒は恐怖を禁じ得なかった。
立ち止まってはいけない。目を閉じてもいけない。この坂の上では覚悟を決める時間も許されなかった。恐怖に抗って樹流徒は歩き続ける。眼前にある物が幻覚だと信じなければいけない。目をしっかりと見開いたままマグマの中に足を突っ込んだ。
恐れを超えて前進を続ける者の前に幻は消滅する。マグマの海を十歩も進むと樹流徒の五感を襲っていた熱や臭気が嘘のように消えてしまった。視界が歪み眼前の景色が元に戻る。
なるほど。こういう罠か。
女神像が生み出す最初の幻を打ち破った樹流徒は急に気が楽になった。これと似た幻覚を突破し続ければ良いのだ。決して不可能では無い。
そんな風に思っていると早速次の試練が襲い掛かってくる。樹流徒の眼前で陽炎がゆらめいた。マグマの次は雷が落ちるのか。それとも嵐が吹くのか。
違う。樹流徒の前に現れたのは一体の悪魔だった。手足に長い爪を生やした豹頭の悪魔だ。この異形を樹流徒は知っていた。フラウロスである。かつて現世で樹流徒と戦い絶命した悪魔だ。
「ヒ、ヒ……。よくもオレを殺してくれたな」
フラウロスは狂気と恨みに満ちた瞳で樹流徒を睨む。
きっとこれも幻に違いなかった。女神像は坂を上る者の記憶を読み取って幻覚を生み出す、と鳥人が言っていた。つまりこのフラウロスも女神像が樹流徒の記憶を読み取って作りだしたまやかしに過ぎないのである。
分かっているが、本物さながらの迫力と殺気に樹流徒は足が止まりかけた。幻像のフラウロスが爪を振りかざして真正面から襲ってくる。樹流徒の防衛本能が回避を命じた。後ろへ跳躍して相手の攻撃をかわすように指示を送ってくる。それに逆らって樹流徒の理性が足を前に進ませた。
鋭く振り抜かれたフラウロスの爪が樹流徒の心臓を貫通する。痛みは無かった。悪魔の幻影は樹流徒に触れた先から消滅した。
樹流徒は荒くなりかけた息を整える。第二の試練にして女神像は早くも樹流徒の記憶を利用してきた。この先も同じような幻覚が何度か襲い掛かってくるに違いない。そんなものを十回も二十回も見せられたら誰だって廃人になってしまうだろう。最初の試練を突破して一時的に気が楽になった樹流徒だったが、ここにきて緊張感が戻ってきた。歩いていても何となく地に足が着いていないような感じがする。できれば一度立ち止まって呼吸を整えたかった。次の幻覚に備えて心を落ち着かせたかった。
そんな彼の気持ちを知ってか、知らずか、畳み掛けるように次の試練が樹流徒を襲う。
――首狩りキルト。憎い。オマエが憎い。
背後から低い声が聞こえた。誰の声か思い出せないが聞き覚えのある男の声だ。
ヒタヒタと裸足で歩く音が後ろから迫ってくる。今度は視覚ではなく聴覚に訴えて恐怖心を煽るつもりらしい。背後から悪魔が襲い来る幻聴が樹流徒を襲った。
樹流徒は並の悪魔よりも殺気を察知する能力に長けている。その力は今まで幾度と無く彼の危険を未然に防いできた。しかし今回はそれが思わぬ敵となる。足音と一緒に背後から迫ってくる殺気が樹流徒の恐怖心をより強烈に刺激した。並の悪魔が発する殺気ではない。魔王級の威圧感がある。そう思ったとき、背後から聞こえてくる声の主が魔王ベルフェゴールのものであると気付いた。
「憎い。憎い……」
冷たいベルフェゴールの視線と足音と気配が近付いてくる。幻覚と分かっていても全てが本物に感じた。逃げなければ死ぬという意識が樹流徒を襲う。背後を振り返りたい衝動と、前方へ走り出してこの場から逃れたい意識に駆られた。足が強く地面を蹴ろうとする。
殺気が樹流徒の背中から腹へと抜けていった。額に冷や汗が滲む。フラウロスの幻覚より何倍も恐ろしかった。ときに目に見えるものよりも見えないモノのほうが人に強い恐怖を与える場合がある。その現象を樹流徒は味わった。もう少しで咄嗟に回避行動を取ってしまうところだった。
あわやという場面だったが第三の試練も何とか突破。残り幾つの試練が残されているか分からない。ここから先は度胸もさることながら精神の耐久力も試される。
一定の速度で歩き続けてようやく坂の中腹までたどり着いた。距離にしたら大した道のりではない。それでも樹流徒からすらば気が遠くなるほどの長さだった。今ほど自分の歩幅を小さく感じた日は無い。一歩一歩がこんなにも前へ進めないものかと思った。
坂を挟んで六体ずつ並ぶ女神像の上から三列目に差し掛かる。
樹流徒の視界で小さな陽炎が揺らめいた。フラウロスの幻が現われたときと全く同じ現象だ。
今度はどの悪魔が出てくるのか? と樹流徒は心で警戒する。そんな彼の予想を裏切って、陽炎は悪魔ではなく別のモノに姿を変えた。
現れたのは人間の男だった。ワイシャツとベストを身につけた三十歳くらいの男だ。
「や、樹流徒君。一緒に食事でもどうだい?」
スラリとした体型の男はにこやかな笑顔で樹流徒に手を上げる。
「南方さん……」
幻とはいえ少し懐かしい顔に出会って、樹流徒は微かに和んだ。南方はイブ・ジェセルのメンバーである。詩織を助けようとした彼は天使から反逆者と見なされ処刑された。生死不明とはいえ生きている可能性は絶望的である。
南方の幻は樹流徒の胸中に感動ともせつなさともつかない複雑な感情を起こさせた。
が、それは次の恐怖を引き立たせるための演出に過ぎなかったのである。
「俺、天使に殺されちゃったよ。ふ、ふ、ふ」
南方が急に暗い顔で笑みを浮かべたかと思ったら、全身の肉がどろりとこぼれ落ちた。頭蓋やむき出しになった目や内臓が露わになる。
グロテスクな光景だった。樹流徒は驚き、それ以上に軽い吐き気を催した。血にまみれた悪魔の姿は見慣れている。しかし人間の肉体が崩れる光景など今まで一度も見た事が無かった。それが目の前で起こったのである。思わず目を瞑りたくなったし、顔を背けたくなった。
樹流徒は微かに唇を震わせながら必死で南方の無残な姿を正視する。
「樹流徒君。痛いんだ。助けてよ。俺を見捨てないでくれ」
幻の南方は悲痛な叫びを上げた。半分崩れた手で樹流徒の肩にしがみつく。焦点の定まらない目の片方は樹流徒の顔の輪郭をなぞるように動いた。
樹流徒は軽く歯噛みして前に出る。恐怖で息を少し乱しながらも決して目の前の光景から目を逸らさなかった。南方の幻像を通り過ぎると血の臭いがする。自分の内臓と南方の内蔵が触れ合うようなおぞましい感触が起こった。樹流徒は思わず顔をしかめる。それでも歩みは止めない。彼が南方を通り過ぎると幻は陽炎となって最後には完全に消えた。
樹流徒は静かに息をして鼓動を整えながらひたすら同じ動きで前に出続ける。坂の頂上にかなり近付いてきた。今までのペースでいけば幻覚が襲ってくるのはあと一回か二回だろう。しかし油断はできない。油断をすれば忽ち心に隙が生じる。この真理は樹流徒が戦いを重ねる中で学んだことだ。心に隙が生じれば幻覚の恐怖に足下をすくわれてしまうだろう。
ただ、それを理解した上で人は恐怖や驚きを完全に封じ込めることはできない。たとえ油断せずとも、警戒に警戒を重ねても、人は不意を突かれることがある。それを樹流徒は味わう事になった。
次の試練が襲い掛かってくる。
「痛い……。痛い……」
樹流徒の背後から苦しそうな声がする。若い男の声だった。
それを聞いた樹流徒の瞳孔がいっぱいに開く。心臓が嫌な跳ね方をした。
「待ってくれ樹流徒。痛ェ……痛ェよ」
この声を樹流徒が聞き間違えるはずがなかった。そして忘れられるはずもない。
メイジ!
樹流徒は心の中で叫んだ。そう。後ろから聞こえてくる苦しそうな声は紛れも無く樹流徒の親友であるメイジのものだった。
これまで女神像の幻は全て樹流徒の恐怖心に訴える試練を与えてきた。しかしそれでは彼の足を止められないと踏んだのか。女神像は樹流徒が持つ人間の情を狙い撃ってきたのである。
油断の欠片も無かった樹流徒が完全に不意打ちを食らった。マグマの海でも、襲い来る悪魔でも止められなかった彼の足が止まりかける。
それを耐えて何とか歩き続けるが、樹流徒はどうしようもなく立ち止まりたい衝動に駆られた。たとえ幻でも良い。立ち止まり振り返って、死んだ親友がもう一度動き喋っている姿を見たかった。
「待ってくれよ相棒。頼む……」
断腸の思いで樹流徒は振り切る。メイジに別れを告げた日のことを思い出した。メイジはもうこの世にいないのだ。もし幻影のメイジに心奪われたりなどしたら、それこそ本物のメイジはあきれ果てるだろう。頭の中で必死にそう考えて前だけを見る。
やがて声は聞こえなくなった。所詮は女神像が作り出した幻。本物のメイジの声ではない。
頭では理解しているのに、樹流徒の胸中にはもやもやとした不快な感情が生まれた。
幻覚はもう襲ってくる気配が無かった。樹流徒はとうとう光の坂を上りきる。どんな幻を使っても樹流徒の歩みは止められないと女神像が判断したのか。最後はすんなりと頂上に着いてしまった。目の前には魔界血管へと続く階段がある。
「お見事ですキルト様。アナタ様は無事に坂を上りきりました。もう罠が作動する心配はありません」
坂の下から嬉しそうな鳥人の声が響いてくる。
樹流徒は安堵して足を止めようとした。眼前の階段を一歩のぼったら背後を振り返って、鳥人に礼を言おうと思った。
いや。待て――
直感的に嫌な予感がして樹流徒は足を止めず前に出す。具体的に何かを考えたわけではない。ただ何となく歩みを止めてはいけない気がして半ば無意識的に前進を続けた。
樹流徒の足に触れた階段がすっと消えて、坂の頂上が数メートル先まで遠のいた。
全身に悪寒が走る。樹流徒は今、状況を理解した。
これは罠。すべて幻覚と幻聴だったのだ。樹流徒はまだ坂を上りきっていない。女神像は樹流徒に対して坂の頂上に着いた幻覚を見せ、さらに鳥人の声を利用して「アナタ様は無事に坂を上りきりました」という幻聴を与えたのだ。もし樹流徒が鳥人に礼を言おうと思って振り返っていたら、今頃女神像の瞳は全開になり彼は光に飲まれ死んでいただろう。
幻ではなく本物の頂上目指して樹流徒は歩き続ける。坂を上る前に鳥人から聞いた忠告を思い出した。
「魔界血管の中に入るまでは決して油断しないように」
本当にその通りだった。頂上にたどり着いたと思っても安心してはいけなかったのだ。
程なくして樹流徒は坂の頂上に着いた。しかし油断はしない。魔界血管へと続く階段を上り始めても、その階段が幻かもしれないと疑った。そのくらいでなければいけなかった。
階段を上りきった樹流徒は眼前で渦を巻く赤い光に足を踏み入れる。上下左右あらゆる方向に曲がりくねった管状の通路が目の前に現れた。皮膚の上から見た静脈を思わせる青みがかった緑色に全体が染まっている。ドクン、ドクン、という心臓のような音が微かに聞こえた。その中を鮮やかな赤い光の粒が駆け巡り、ずっと先に見える出口とこちら側の出口のあいだを延々と往復していた。
今度こそ樹流徒は全ての試練を乗り越えて魔界血管に足を踏み入れたのである。ここを通り過ぎれば魔壕に到着する。そこは長かった魔界の旅が終わる場所。ベルゼブブの居城がある地。そしてバベル計画最後の儀式が行なわれる世界。
樹流徒は道の先を睨むと力強く前に進んだ。