翼をもがれた鳥
アナンタを中心に広がった黒ずんだ光は戦場全体を薄く包んだまま消える気配が無い。
あの光は何だ? これから何が起こる? 戦況の変化を見逃すまいと樹流徒は可能な範囲でリング上をつぶさに観察する。
異変はすぐに起きた。決闘開始直後からずっと空中で戦っていたガルダが急に高度を下げたのである。彼だけではない。ヴォラックを乗せた双頭の竜も下降を始めている。彼らが自らの意思でそうしている風には見えなかった。ガルダもヴォラックも見えない天井に頭を押さえつけられて無理矢理落下させられているように見る。
「あれこそ対ガルダ用にアナンタが編み出した能力だ。特殊な重力場を発生させて空の獲物を地上に引きずり下ろすんだよ」
「特殊な重力場?」
「そう。あの重力場の中では地上から離れた物体ほど強い重力を受けるようになっている。つまり空を飛ぶと体が重くなってしまうんだよ」
「じゃあガルダはもう空を飛べないのか?」
「低空飛行は可能だけどね。でもアナンタから近い距離で戦わなければいけない」
「まさに戦況を変える能力というわけか……」
相変わらず悪魔が使う力は現世の科学や常識を平気で無視する。ガネーシャが口にした重力場という言葉も現世で言うところの重力場とは別物なのだろう。光、炎、風、雷……そうした言葉も全て現世と魔界とでは微妙に異なった性質の物を指していると考えたほうが良さそうだ。
特殊な重力場が生み出す力により今やガルダは翼をもがれた鳥も同然だった。彼が着地した瞬間を狙ってアナンタが動く。大蛇の巨躯が砂の地面に太い線を引いて前に出た。勢いそのまま首の一本が緩やかな曲線を描きガルダの上から覆いかぶさろうとする。
ガルダは着地の反動を利用して片足で地面を蹴り横へ跳躍した。さらに宙で手を薙ぎ払い虚空に円盤状の歪みを生む。それは殆ど目に見えない真空の刃となり、半瞬前までガルダがいた場所に落下した大蛇に深々と突き刺さった。
ただしアナンタの首は一本ではない。ガルダが華麗な反撃を見せたと思いきや、彼の元に別の大蛇が突っ込んでいた。
地を這って滑る大蛇の頭部がガルダの側面から体当たりを見舞う。衝突の寸前ガルダは身を丸めて防御を固めた。果たしてその行動にどれだけの意味があるのか。アナンタの強烈な突進を受けたガルダは防御の姿勢そのまま後方へ吹き飛ばされた。
彼の体は落下して砂の上を横転する。小さな砂埃を立てながらゆうに三十メートルは転がった。
やっと停止したところへまた大蛇の頭が突っ込んで来る。ガルダは急いで体を起こし真上に高く跳躍。彼の真下を白い眼球と青みがかった紫色の鱗が走り抜けていった。
ガルダは大蛇の首に着地する。素早く腰を落して己の足場となっている敵の皮膚に手刀を突き刺した。横一列に並んだガルダの指が易々と大蛇の体内に突き刺さる。
ガルダが指を引き抜くとアナンタの全身が揺れた。傷の痛みに悶えたと見るより、首の上に乗っているガルダを振り落とすために暴れたと見るのが正解だろう。
紫色の足場が波打つ。圧倒的な力の前にガルダはなす術も無く宙に放り出された。単純な筋力の差では勝負にならない。あんなに大きく頼もしく見えたガルダの巨躯もアナンタと並ぶと小鳥に見えてしまう。
宙に投げ出されたガルダは翼を広げて姿勢を立て直そうとする。そこへ大蛇の頭が四本固まって突っ込んだ。うち一本がガルダの背中に追突する。
ガルダはえび反りの格好で弾け飛んだ。そのまま地面に叩きつけられるかに見えたが、彼は空中で体を回転させ姿勢を立て直す。上手く足から着地すると砂の上を滑って踏ん張った。砂上サーフィンとでも言えば良いのだろうか。ガルダは足下から砂を舞い上げて地面を滑り、リングの隅で何とか停止した。両者の間合いは五十メートル以上まで広がったが、アナンタの体が大き過ぎてあまり離れているように見えない。
「ガルダは大丈夫なのか?」
見物客の一人が不安そうに言った。
空中ではほぼ無傷だったガルダが、地上へ降りた途端に攻撃を浴びた。それもただの攻撃では無い。強烈この上ないアナンタの攻撃を二発もである。不穏な展開に、太陽の国の支持者たちは緊張の面持ちになった。そんな彼らの不安をよそにガルダは弱気の欠片も見せない。黄金色の瞳は力強く尖っていた。
ガルダは頭上に手をかざす。虚空から緑色に輝く槍が現れた。槍の形をした光と言ったほうが良いかもしれない。それはガルダの手中にすっと収まる。
樹流徒の背筋に謎の悪寒が走った。ガルダが呼び出した槍を見た瞬間、胸がざわめいた。本能的な恐怖を感じたのかもしれない。「ガルダの手中に収まっている槍はただの武器ではない」と第六感が教えている。
それは単なる気のせいではなかった。リングを見るとアナンタの様子が少しおかしい。これまでどんな攻めを受けても、どれほど多量の血を流しても動じなかったアナンタが初めてガルダの攻撃に反応を示した。大蛇の首が動きを止めて光の槍を注視し、警戒している。
直後、アナンタの首が三本まとめてガルダを狙った。まるでガルダに槍を投げさせまいとするように。
ガルダは槍を持ったまま駆ける。迫り来る大蛇の隙間を器用に縫いながら素早く目を動かして何度かアナンタを仰ぎ見た。どこか一点に狙いを定めているのか、攻撃するタイミングを測っているのか。明らかに今までの攻防とは少し様子が違った。もしかすると次の一撃が勝負の行方を左右するのかもしれない。樹流徒は漠然とそんな予感を覚えた。
戦場を所狭しと駆け回りながらガルダは攻撃を放つ位置を慎重に選ぶ。が、彼はある場所で急に立ち止まると意を決した。目を剥き、足を踏ん張り、腰を回転させ、そして思い切り腕を振り下ろして槍を投擲する。電光石火の早業だった。動作の始まりから終わりまで一秒とかからなかった。
ガルダの手元から離れた光の槍は緑の閃光となって周囲に竜巻を纏う。竜巻は瞬時に勢力を増しアナンタに着弾したときには大蛇の首を吹き飛ばすまでの威力に達していた。赤い瞳を持つ大蛇の頭部が鱗の一片も残さず消え去る。
見事標的の頭部を貫いた緑の閃光は巨大な竜巻を纏ったまま尚も直進した。別の大蛇の首をかすめて遥か後方にそびえる魔空間の防壁に衝突。八方へ爆風を撒き散らしながら消滅した。頭部を失った大蛇の首は切断面から血の雨を降らせてうなだれる。
あまりの威力に樹流徒は先ほど以上の悪寒を覚えた。あの槍を受けたらどんな悪魔でもひとたまりも無いだろう。魔法壁もきっと何の役にも立たない。アナンタが警戒したのも良く分かった。
ただ、樹流徒が知る限り基本的に悪魔の能力は便利で強力なモノほど制限がつく。たとえば魔法壁が連続使用できず、念動力が精神集中しなければ使えないように。今ガルダが放った光の槍も気軽に使えるような能力ではないのだ。無制限で連射できるならすでに勝負はついている。
それについては樹流徒が尋ねるまでもなく、親切にもアンドラスが教えてくれた。
「オレの記憶が確かならあの槍はガルダにとって切り札の一つだ。見ての通りとんでもない威力があるケド一度使うと長時間使えないって代物だったハズだぜ。決闘中の再使用は不可能だろうな」
「やはりそういう制限があるのか。強力だけど決して使い勝手が良い能力でもないんだな」
樹流徒は納得して
「でも攻撃が成功して良かった」
と言った。ガルダが投じた槍は見事大蛇の頭部を一つ吹き飛ばした。これでガルダも多少は楽に戦えるかもしれない。
そう思ったのだが……樹流徒の考えは誰の同意も得られなかった。
「残念だけど今の攻撃は失敗だよ」
渋い調子でアンドラスが言う。
樹流徒には意味が分からなかった。
「失敗? 槍は命中したのに?」
「いやハズレだよ。何せガルダが狙ってたのは別の首だからな」
別の首? どういう意味だ?
アンドラスが言った言葉の意味を樹流徒は考える。窓から地上を見下ろすとアナンタの瞳が色とりどりに輝いていた。それを見て彼はすぐ答えに気付いた。
「そうか……。ガルダの狙いは重力場の消滅だったのか」
「おっ正解」
アンドラスが控え目な拍手をする。
樹流徒は何も分かっていなかった。ガルダはただ単に槍を命中させようとしていたわけではない。
ガルダが狙っていたのは紫色の目を持つ大蛇だったのだ。なぜならその大蛇が戦場に重力場を発生させているからだ。それは重力場発生時に大蛇の目が紫色に輝いたのを考慮すればほぼ間違いない。だからガルダは紫目の大蛇を潰して重力場を消そうと思っていたのだ。しかしガルダの槍が貫いたのは赤目の大蛇だった。攻撃は命中したが外れたも同然というわけである。
戦場を埋め尽くす重力場の光はまだ一定の明るさを保ち続けている。これが消えない限りガルダは空を飛べない。引き続き地上戦を余儀なくされるのだ。
「ちなみにガルダが使う光の槍は標的が遠ければ遠いほど威力が増すという面白い特性を持っている。敵の至近距離から放てば威力は無に等しく、逆に敵から離れれば威力は上がるけど回避されやすくなる。だからガルダは槍を投げる場所を慎重に選んでいたのさ」
ガネーシャが補足説明を加えた。
実質的に光の槍を回避したアナンタは勢いづく。「ガルダもはや恐るるに足らず」そう言いたげな目をした大蛇が代わる代わる長い首を伸ばして上から下からガルダめがけ突進していった。
ガルダは暴れ狂うアナンタの首をかいくぐりながら矢よりも速く駆ける。アナンタから距離を保ちつつ大きな円を描くように走って敵の側面へ回り込んだ。そうすることで次の逃げ道を確保しているのだ。闇雲に逃げ回っているだけではすぐアナンタに捕まってしまう。
黄色い目の大蛇が泥水の渦を吐き出す。ガルダは横に駆けて逃れた。続いて青目の大蛇から氷塊が飛ぶ。ガルダは大きく後ろへ跳んで氷塊をやりすごすと地面スレスレをホバリング。宙に制止したまま翼を前後に揺らして羽の弾丸を射出した。十発前後の弾丸は黒目の大蛇に全弾命中した。紫目の大蛇には当たらない。その首だけは未だ無傷だった。
全部で十本以上あるアナンタの首は一見すると単純な動きをしている風に見える。秩序だった動きをするにしてもせいぜい数本の首がまとめて攻撃を放つか、連続してガルダに突進するくらいしかバリエーションが無いように見える。それがとんだ勘違いであることに樹流徒は今気付いた。注意して観察すると大蛇の首はある一つの法則を忠実に守って動いている。紫目の大蛇を他の首が全員で守っているのだ。ガルダと紫目の頭部を直線で結ぶとその線上には常に別の大蛇がいる。一本だけでなく、必ず数本の首が分厚い壁となってガルダの前に立ちはだかっていた。ガルダの飛行能力を封じている重力場はアナンタにとって生命線だ。だから彼は他の首を盾にしてでも重力場を発生させている紫目の大蛇を守っているのだろう。
ガルダが投じた光の槍は大蛇の首を貫通するだけの威力がある。つまりアナンタのガードを無視して紫目を仕留められる武器だったのだ。それが外れてしまったのはやはりガルダにとって痛い。
アプサラスがそっと腕を組んだ。
「ガルダは相当苦しくなったわね。地上戦ではアナンタが圧倒的に有利よ」
「でも負けるって決まったワケじゃないだろ? ガルダならやってくれるさ」
多分……とアンドラスは最後に付け足した。どうにも旗色が悪い。
「こうなった以上ガルダは重力場の中で辛抱強く戦うしかないよ。アナンタに接近して強引に紫目の大蛇を狙う方法もあるけれど危険過ぎる」
ガネーシャはそう言い切った。
ガルダは両手を広げる。右手に大きな炎が燃え。左手から緑色に輝くつむじ風が生まれた。両手を合わせて前に突き出すと、左右の手から現れたものが混じり合い炎の竜巻となった。赤く燃える烈風が螺旋を描いて地を這いアナンタの横腹を深く抉る。炎が大蛇の鱗に引火して見る間に背中まで延焼した。
アナンタは立ち上る炎と煙を背負ったまま平然と戦闘を続行する。大蛇の二頭が岩塊と電撃を放出した。岩塊は空中で爆ぜ散弾となって広範囲に飛び散る。雷光の柱はガルダがいた場所を飲み込んだ。
大蛇の口内で雷光が輝く寸前からガルダは横に跳んでいた。その動きは完璧だった。数秒先の未来を読んだような美しい回避だった。ただ運が悪かった。空中で四方八方に飛び散った岩塊の破片が偶然にもガルダの行動をさらに先読みした格好になったのである。
幾ら魔王級の悪魔でも不運までは避けられない。人間の胴体ほどある硬い岩がガルダの顔面を強か殴りつけた。ガルダの首が後ろに倒れ体が大きく仰け反る。岩はさらに細かい破片となって飛び散った。
岩の大きさといい、速度といい、もし被弾したのが人間なら頭の骨が砕けて即死だった。撃たれ強い悪魔でも転倒は避けられなかっただろう。それをものともせずガルダは強靭な足腰を使って不安定な体勢から逸早く回復した。
かたやアナンタもいままで何度もガルダと戦っているだけあって相手がこの程度では倒れないと良く分かっている。すでにガルダの視線よりやや高い位置から大蛇の頭部が迫っていた。
ガルダは鳥と言うより獣みたく姿勢を低くすると弾力性豊かな脚をバネに変えて跳んだ。頭上から突っ込んでくる大蛇の下をすり抜けて砂上を転がると機敏な動きで腰を上げる。天敵から急襲を受けた野生動物並みの身のこなしだった。立ち上がると即座に後方へ跳躍しながら眼前を這う大蛇の首へ羽の弾丸を浴びせる。ビスッ、ビスッ……と、クッションの皮をナイフで突いたような音がして破れた大蛇の鱗から青い血が滴った。アナンタにしてみれば小さな傷なのだろう。だがガルダはこうして細かなダメージを加算してゆくのが最善策なのだ。絶えず押し寄せるアナンタの攻撃をかいくぐりながらの作業だった。もし自分がガルダの立場だったら、と想像するだけで樹流徒は気が遠くなりそうだった。
そのとき、出し抜けに大気が鳴動する。謎の不快音が会場全体を襲った。ヴァイオリンを乱暴に奏でで発した音を何百倍にも増幅させたらこんな超音波になるのかもしれない。そんな不快音が空気を伝って四方八方へ駆け巡る。観衆は驚き、予め示し合わせたように皆で耳を塞いだ。
謎の怪音波の発生源は大蛇だった。怒りの咆哮か、気合の雄たけびか、アナンタの気が昂ぶっている。おぞましい咆哮に客席の至る場所で悪魔たちが身を震わせた。
「ボク、あの鳴き声苦手なんだよねぇ」
ガネーシャは自分の体を抱いて太い腕を擦った。
奇異な鳴き声が止むとアナンタが動き出す。ガルダは迎撃の構えを取った。