絶技
地上に向かって垂直に伸びた通路の中を檻が上昇してゆく。通路の高さは二十メートルあるかないか。その出口には分厚い石の扉で蓋がされていた。檻が通路の頂上に到着すると石の蓋が自動的にスライドして地上への扉が開かれる。砂の中を突っ切って檻がリングに出現した。
檻の中から樹流徒が登場すると、客席からは歓声も罵声もない。悪魔たちは近くの者と何やらひそひそと言葉を交わしたり、無言でしかめ面を作ったりと、今までと少し違った雰囲気を醸し出した。
異様な空気が張り詰める中、樹流徒は普段と変わらない足取りで歩く。緊張感はあまり無かった。ここまで来てしまったら却っていよいよ覚悟が決まって心が落ち着いた。頭の中は冴え、精神はギリギリまで身を削った刃のように研ぎ澄まされる。
樹流徒がリング中央で立ち止まると、思い出したように誹謗中傷の嵐が巻き起こった。今まで会場を飛び交った罵声の比ではない。大声援ならぬ大罵声だった。
――どのツラ提げて出てきやがった。この悪魔殺し!
――食い殺すぞ!
太陽の国を応援する者の中にも樹流徒に向かって野次を飛ばす者がいる。
今さらながら嫌われたものだ。そう思いながらも、樹流徒は自分に向けられた敵意をさほど理不尽には感じなかった。事情はどうあれ樹流徒が今まで数多くの悪魔を葬ってきたのは紛れも無い事実である。その事実ひとつだけでも、悪魔が樹流徒を憎悪する理由としては十分なのだろう。
その現状を樹流徒は受け入れた。受け入れた上で顔を上げた。会場の雰囲気に飲まれてはいけない。
罵声の大合唱はなかなか止まないどころか勢いを増す一方だった。中には魔空間の壁を叩き割ってリングに踏み込もうとしている輩もいる。暴徒化一歩手前といった様子だ。
見かねたように審判ヴォラックが声を張り上げる。
「静粛に。静粛に! 観戦態度が著しく悪質な者には即刻退場して頂く。この祭りが聖なる儀式であることをお忘れなく」
その厳然たる対応に観衆の怒鳴り声が通常程度に収まった。代わりにヴォラックに対する不満と、様々などよめきが起こる。
それをまるで意に介さぬ顔付きで、ヴォラックはもう一人の戦士を呼んだ。
「いでよ! 月の国の戦士……“ラーヴァナ”」
ラーヴァナという名前が出ると、客席の至る場所から「おお」と声が上がった。
「あのラーヴァナが出るのか。何万年ぶりの出場だ?」
「これで月の国の勝利は決まったな。ラーヴァナが負けるはずない」
樹流徒のときとはうって変わって割れんばかりの大歓声が会場を包む。純粋にラーヴァナを応援する声と、首狩りキルトの対戦相手としてのラーヴァナを応援する声が重なり合っていた。ラーヴァナの手によって首狩りキルトが無残な姿に変わり果てる展開を、多くの観衆が望んでいる。戦場の砂が樹流徒の血で染まったとき、彼らは溜飲を下げるのだろう。
リング西側から檻が出現して、中から異形の戦士が出てくる。
それは鬼神の如き形相と六本の腕を持つ巨人だった。肌は浅黒く、背丈はゆうに二メートルを超えている。銅の色に染まった瞳には輝きが無く、かといって濁っているわけでもない。不思議な瞳だった。黒い髪は逆立ち、鼻の下には立派な髭生やしている。上半身は素っ裸。赤と金色が混じった豪奢な衣を腰に巻き、サルエルパンツと似た白い衣類を穿いていた。左右三本ずつ生えた手にはそれぞれ武器を持ち、刃が月の形をした剣、長細い剣、三又の槍、先端が歪に曲がった長い杖、柄の両側に刃が付いた斧、金属製の槌など種類は豊富だ。
あれがラーヴァナ。俺の対戦相手。
こちらに近付いてくる六本腕の巨人を正面に見据え、樹流徒は集中力を一気に高めた。彼の五感は対戦相手だけに集中する。周囲の光景も、雑音も、全てが意識から消えていった。たとえ観衆の罵声が際限なく膨れ上がったとしても、もう樹流徒の耳には一切届かない。完全に戦闘態勢が整った。
かたや戦士の間にいるアンドラスは自分が戦うわけでもないのにそわそわしていた。
「キルトのやつホントに大丈夫なのか? ラーヴァナって言や、ガネーシャが苦戦したラクシャーサ一族の王だろ? つまりラクシャーサよりずっと強いってことじゃないか」
「そうだねぇ。キルトがどれだけ強いか知らないけど、これはちょっと荷が重いんじゃないかな」
ガネーシャも声色に危機感を滲ませる。
ガルダは違った。
「確かに予想以上の強敵が出てきたが……まあ、見ていれば分かる」
言って、どこか余裕のある瞳でリングを見下ろす。
当の本人である樹流徒には余裕など無かった。何しろ彼はただ勝てば良いのではない。相手を殺さず勝利しなければいけないのだ。そのためにはラーヴァナを戦闘不能にするか、降参させる必要がある。単に相手の命を奪うよりも遥かに難しいことだった。
大観衆の期待を全身に浴びながら、ラーヴァナがリング中央に到達する。
両戦士が向かい合った。
「まさか、よりにもよってニンゲンと戦うことになるとは……」
ラーヴァナは毒を仰いだような顔をする。人間相手だと何か都合が悪いのだろうか? ただ、ひとつ確かなのはラーヴァナがたとえ人間相手だろうと毛ほども油断していないことだった。近くで向かい合っているだけで樹流徒は相手の気迫を体中でひしひしと感じた。
リングの真上に浮かぶ竜の背でヴォラックが高らかに叫ぶ。
「それでは第四戦、始め!」
いきなりだった。会場内の興奮が完全に高まるよりも早く、ラーヴァナが剣を上段に構えて突進する。その巨体からは想像もつかない凄まじい加速力であっという間に樹流徒の眼前まで入り込むと、次の刹那には豪腕を振り下ろした。
鋭い剣閃が三日月の軌道を描く。樹流徒は後ろに下がってやり過ごした。彼の鼻先をかすめて凶刃が物凄いスピードで通過する。
「惜しい」と観衆が舌打ちしたときには、ラーヴァナの第二撃目が始動。後ろに下がった樹流徒を追ってラーヴァナは槍を真っ直ぐ突き出す。三つに分かれた槍の穂先は赤い炎を纏いながら空を裂いた。樹流徒は身を屈めて寸でのところでかわす。彼の頭上を炎の槍が突き抜けていった。
ならばとラーヴァナは前蹴りを繰り出す。樹流徒の顔面を蹴り上げるつもりだったのだろう。しかし樹流徒は屈んだ体勢を利用して後方へ宙返りを繰り出し危地を脱した。ラーヴァナの蹴りは砂を舞い上げながら豪快に空振りする。
「いいぞ。首狩りは防戦一方だ」
決闘開始と同時に始まったラーヴァナの波状攻撃に観衆が沸く。
ただ、中には個人的な事情から樹流徒を応援している者たちもいた。
「こうなったら首狩りでも何でも良い。勝ってくれ。太陽の国が負けたら困るんだよ」
両の拳を固く握り締めて呟く悪魔がいる。
「そうだ! やっちまえ首狩り。ラーヴァナを倒せ」
声を大にする悪魔がいる。
そしてここにも三名……樹流徒を応援する悪魔たちがいた。
ヒトコブラクダの悪魔ウヴァルである。彼は二階席東側の最前列で観戦をしていた。
「大丈夫。キルトなら負けないさ」
ウヴァルは断言する。
彼の隣には、マネキンみたいな質感の肌を持つ中性的な外見の悪魔が二体並んで立っていた。戦士選抜試験で樹流徒と戦ったタウティとザリチェである。
「私もウヴァルと同じでキルトが勝つと予想する。ラーヴァナは非常に強力な悪魔だが、キルトは底が知れないからな」
そう語るのは、赤い短髪のタウティ。
一方、銀髪褐色肌のザリチェは他二名と違う考えを持っていた。
「私は、キルトから殺気を感じないのが気になる。もしかすると彼はラーヴァナを殺さず勝利する気かも知れない」
その穿った見方に、タウティは納得した。
「言われてみれば、試験のときもキルトは我々を殺そうとしなかったな」
「ああ。万が一キルトが相手を殺せないのだとしたら……この戦いがどんな風に決着するのか、私には想像できない」
「でもアイツなら何とかするよ」
ウヴァルはあくまで楽観的だった。
ラーヴァナは樹流徒めがけて無造作に斧を投擲する。斧はラーヴァナの手を離れた途端、激しい雷光を放った。その輝きに軽く目が眩みながらも樹流徒は真上に跳躍する。必要最小限の動きを使って紙一重で攻撃を回避。雷光を放つ斧は樹流徒の足下を通り過ぎて砂の地面に突き刺さった。
着地した樹流徒を狙ってラーヴァナが猛然と突っ込む。標的との間合いを一気に詰めると細い剣をなぎ払った。
樹流徒は高く跳躍して剣の上を飛び越える。相手の頭上も越えて背後へ抜けた。ついでに空中で体を捻り、ラーヴァナのほうを向いて着地する。
野生の獣も顔負けの素早い動きで相手の頭上を飛び越えた樹流徒。彼の姿を見失ったか、ラーヴァナは寸秒硬直した。今ならば背中のガードはガラ空き。魔人の瞬発力があれば一撃加える余裕は十分にある。
が、ここで樹流徒は慎重になった。 好機か? 敵の罠か? 一瞬迷う。その隙に、背中を見せていたラーヴァナの顔がいつの間にかこちらを睨んでいた。
不意を突かれた。軽く心臓が跳ねる。樹流徒の動体視力でもラーヴァナがいつの間に振り返ったのか分からなかった。
それもそのはず、ラーヴァナはまだ樹流徒に背を向けたままだった。背を向けたまま、ラーヴァナは銅色の瞳で樹流徒をまっすぐ睨んでいる。首を回転させて真後ろを見たわけでは無い。ラーヴァナの後頭部が顔に変形したのだ。異形がさらなる異形へと変化した。
それだけでも十分驚嘆に値するが、ラーヴァナから生まれたものは第二の顔だけではなかった。最初は六本だった腕が八本に増えている。新たな腕が二本生えていた。しかもその腕は武器を握っている。刃が真っ直ぐ伸びた槍と、柄が異常に長い斧である。
背を向けたまま、ラーヴァナは後頭部の顔で樹流徒を睨み、体内から生やした二本の腕で攻撃する。
眼前から迫り来る二本の凶器を樹流徒は上体を反らしてかわした。またもや紙一重。斧の刃が樹流徒の髪の先端に触れた。
「見ろよ。首狩りのヤツ、逃げ回るのに精一杯で反撃する余裕すらないぞ」
「アレならラーヴァナの攻撃が命中するのも時間の問題だな」
月の国の勝利を確信した悪魔が言う。
「おい、ラーヴァナ。あまりいじめるなよ。さっさと殺してやるのが優しさってモンだぜ」
別の誰かが笑った。
観衆の大部分が、一方的な展開と感じているようだ。彼らの目には樹流徒が慌て怯えながら逃げ回っている風に見えているのかもしれない。
樹流徒は至って冷静だった。ラーヴァナが放つ攻撃を読み切って、全て紙一重でやり過ごしていた。
ラーヴァナの動きは風のように速い。しかし魔王ベルフェゴールほどの速さではない。
彼の突進は炎のように激しい。しかし魔王ベリアルほどの猛攻ではない。
八本の腕から繰り出される変幻自在の攻めは非情に厄介だ。しかし魔王ラハブの触手ほど対応しにくい攻撃ではない。
ラーヴァナがどんな軌道で武器を振っても、蹴りや体当たりを繰り出しても、相手に掴みかかろうとしても、それを樹流徒は避け続ける。反撃の機をじっと窺っていた。
そんな中、ついに先制攻撃が生まれる。ラーヴァナがまっすぐ下ろした剣が虚しく空を切ったとき。狙い済まして振り抜かれた樹流徒の蹴りが相手の手の甲を強烈に打ち付けた。ラーヴァナの顔がはっきり歪む。痛みを感じている証拠だった。
この戦い。樹流徒は相手を殺さず戦闘不能にしなければいけない。そのためにはラーヴァナに対して小さなダメージを与え続けるしかなかった。小さなダメージと言っても、最低限相手の動きを止めるだけの衝撃は与えなければいけない。でなければこちらが攻撃を当てたときに反撃を受けてしまう。
精神力が削られる作業だった。今のところ上手く回避できているとはいえ、ラーヴァナの攻めは激しい。それこそ魔王級の悪魔と紙一重の差しかない。樹流徒が楽に攻撃を放り込めるほど生ぬるい相手ではなかった。そもそも樹流徒が敢えて寸でのところで攻撃を回避しているのは、回避の動きを最小限に留めなければ反撃する隙が無いほどラーヴァナの攻撃が速いからだ。
ラーヴァナが長細い剣と槍を同時に突き下ろす。樹流徒は横に速いステップを踏んでかわした。ラーヴァナは攻撃を繰り出した二本の手を引きながら腰を回転させ、めいいっぱい伸ばした腕と長い杖を横に払って樹流徒の顔面を殴打しようとする。それを樹流徒は身を屈めて回避。直後に分身能力を使用してダミーをラーヴァナの懐に潜り込ませた。
ダミーの動きに釣られたラーヴァナは咄嗟に槌を振り下ろす。人の体ほどある大きさの槌がダミーを消し飛ばし、勢い余って地面を叩いた。衝撃が砂埃が起こったとき、樹流徒の口内から放たれたほぼ無色透明の弾丸――空気弾がラーヴァナの腕に命中する。浅い傷口から血がじわりと浮かび上がった。
「この程度、傷の内にも入らん」
ラーヴァナはダメージを気にせず体の正面を樹流徒に向けた。まな板のように大きく平たい足で大地を踏むと、大胆なまでに高く跳躍して相手に踊りかかる。樹流徒のほぼ真上から三日月状の剣を振り下ろした。
樹流徒は側宙で逃れる。すかさずラーヴァナの槍が追ってきたのでそれも後方へ大きく跳んでかわした。そのまま反撃に移行する。着地の際、樹流徒の足下から円形に広がる光が生まれた。豹頭悪魔オセから得た能力だ。樹流徒が円形の光を踏むと、ラーヴァナの真下から先端の尖った岩が飛び出した。
危険を察知したラーヴァナは横へ跳んだが間に合わない。砂から頭を覗かせた岩に足の外側を抉られる。紫がかった巨人の唇が軽くへの字に歪んだ。
そのあと樹流徒は徐々に反撃の頻度を増していった。フラウロスの爪。火炎弾。フォルネウスの触手。電撃。マヒ毒の煙。睡魔の黒煙。念動力。氷の鎌。そして炎の矢……多彩な能力を駆使し、集中力を最大限に発揮して、相手に少しずつダメージを蓄積させてゆく。
初めはラーヴァナが一方的に押している展開だと盛り上がっていた観衆も、今やリング上のニンゲンが何をしているか理解し始めていた。
いま樹流徒がやっていることを人間同士のボクシングで例えるならば、相手が至近距離から繰り出す素早いジャブも、ボティブローも、果てはクリンチや反則の頭突きまでも全てギリギリで避けながら、反撃を行っているようなものだった。
それだけの絶技を見せられれば、どんな悪魔でもいい加減事実に気付く。
「おい。何か変じゃないか?」
「今まで首狩りがラーヴァナに弄ばれているかと思ったんだが……オレには逆に見えてきた」
魔人が見せる別次元の動きに、さきほどまで悪態をついていた者たちは唖然とした。やがて閉口する。
ラーヴァナの攻撃はことごとく空ぶった。振り下ろし、突き、薙ぎ、そして投げられた凶器は空を泳ぎ虚しい風を生み出すばかりである。
樹流徒はひたすら避け、隙を見て反撃する。引き続き余裕は欠片も無かった。たった一度の油断やたった一度の失敗が死に直結する。加えて敵はどんな能力を隠し持っているか分からない。ラーヴァナの一挙手一投足に注意しなければいけなかった。
三又の槍が真っ直ぐ前に伸びる。樹流徒は小さく後方に跳んだ。両者の間合いが五メートル以上離れる。いくら巨体のラーヴァナが長い武器を使ってもそこまでのリーチは生まれなかった。しかし樹流徒は決して気を抜かない。注意を怠らなかった。
出し抜けにラーヴァナの呼吸が急に大きくなって腹部が小さく膨らむ。その微かな異変さえも樹流徒は目ざとく見逃さなかった。危険を予測した彼は横っ飛びでその場から離脱する。半瞬後には彼が立っていた場所は、ラーヴァナの口から吐き出された黒い煙に覆われていた。黒煙に触れた砂はバチバチと小さな音を鳴らして炎にまみれる。
初見の能力だった。が、それすらも樹流徒は寸でのところで回避した。
こうも簡単に技が見破られるとは思っていなかったのだろう。元から鬼神じみていたラーヴァナ形相がますます恐ろしい顔つきに変わる。彼の心中が穏やかでないのは一目瞭然だった。
その結果、樹流徒はラーヴァナに次の一手を打たせる。
前後二つの顔と八つの腕を持つ巨人の肉体が、更なる変化を見せたのだ。ラーヴァナの頭部と肉体が急速に膨張する。新しい顔と腕が次から次へと生えてくる。背の高さはガネーシャを追い越して、樹流徒の三倍はあろうかというまでに成長した。
最終的にラーヴァナは十の顔と、二十本の腕を持つ巨人へと変貌を遂げた。ただ、異形でありながら、そのたたずまいは不思議と自然に見える。もしかするとこれが彼の本来の姿なのかもしれなかった。