祭りは終わらない
沈む太陽と、天に燦然と輝く月。両国の雌雄を決する戦いは終わった。世界は維持される。三千年続いた沼と砂漠の世界は、さらにあと千年続く。
祭りの結末が決まり、世界の姿が変わる瞬間まで見られないとなれば、もうここにいる意味も無い。
観衆の一部が怒りと落胆と悲しみの面を提げて、一人また一人と会場を後にする。
容易に余憤が収まらない者たちはしきりに吼えていた。
「ガルダの野郎! これで四度連続の負けだぞ。次からは月の国を応援するからな」
「太陽の国が負けたせいで暴力地獄に移住できなくなったぞ。どうしてくれる?」
「失望させやがって……」
愚痴をこぼしたり、樹流徒たちが控える戦士の間を無言で睨んでいる者もいる。
降世祭は千年にたった一度の祭りだ。この日をずっと待ち焦がれていた悪魔も多いだろう。たとえ決闘がどのような結末を迎えても、勝者と敗者の双方から冷静さを失う者が続出するのは必然である。月の国を応援していた者の大半は文字通りお祭り騒ぎをしているし、太陽の国を支持していた者は負の感情を爆発させる。殆どの者が冷静ではいられなかった。
だから彼らは気付かない。アプサラスとアミトの戦いの中にあった違和感を見落としている。
観衆ばかりではない。戦士の間ではアンドラスとガネーシャがすっかり元気を失っていた。二人ともアプサラスが死んだと思って疑っていない。何もかもが終わったと思っている。
そんな彼らの横で、樹流徒とガルダだけは格子窓の外を見続けていた。
「まだ戦いは終わっていない」
出し抜けに樹流徒が言った。
「えっ」
落胆していたアンドラスが、うなだれていた頭をゆっくりと上げる。
「終わってないって……どういう意味だよ?」
力ない声でそう尋ねた。
「アプサラスは生きている」
樹流徒は確信を持って答えた。
その一言でアンドラスとガネーシャの瞳に多少元気が戻る。が、失望に代わって疑問が彼らの頭をもたげたらしい。
「でもキルトだって見ただろ? アプサラスがいた場所には赤い光の粒が漂ってたじゃないか」
言って、アンドラスが格子窓の向こうを指差す。
彼の言う通り、炎の槍に貫かれて消滅したアプサラスは赤い光の粒になった。それは樹流徒もしっかり確認している。間違いなく光は赤かった。
故に、樹流徒はおかしいと思ったのである。彼が知る限り、魔魂の光が放つ色は赤ではない。例外なく血のように赤黒い色をしているのだ。
この違和感は樹流徒だからこそ気付けたのかもしれない。ここ最近で彼ほど頻繁に魔魂を目撃した者は、現世と魔界中を探しても他にいないだろう。樹流徒はこの短期間で多くの悪魔と戦い、嫌と言うほど魔魂の輝きを網膜に焼き付けてきた。だからリングを漂う赤い光を見て、すぐに違和感を覚えたのである。
それに引き換え魔界の住人はどうか? 彼らには寿命が無く、恐らく病気とも無縁な種族だから簡単に死ぬことは無い。日常の中で悪魔が魔魂を見る機会は意外なほど少ないのではないだろうか。だとすれば、彼らが赤い光の粒を魔魂と見間違えるのも無理はない。
もしあの赤い光が偽の魔魂だとしたら、アプサラスはまだ死んでいないと考えられる。
「審判はまだ勝者の名を告げていないぞ」
ガルダが落ち着いた調子で言った。窓の外を見る彼の瞳は鋭さを失っていない。
この時点でやっと何かがおかしいと気付いたのだろう。アンドラスとガネーシャは慌てた様子でリングを凝視する。
「アプサラスが生きているっていうなら、彼女はどこに消えたんだい?」
ガネーシャの視線が戦場の中を縦横無尽に駆けた。
「……」
樹流徒は答えられない。彼にもアプサラスの居場所は分からなかった。
そのかわり、樹流徒はたったいま一つの異変に気づく。荒れ狂う白い冷気の中に、小さな影が浮かんでいるのを発見したのである。
だいぶ勢いが衰えてきた冷気の風に紛れて、一箇所に停止している小さな氷塊があった。大きさは人間の顔くらいだろうか。その氷塊は冷気を浴びながら急速に大きくなってゆく。そして忽ち人の姿を形作った。
「やはり生きていたな」
ガルダの目元が緩んだ。
「アミトが放った炎の槍に貫かれたのは氷の結界が生んだアプサラスの分身だったのだ。本物の彼女はあそこにいる」
彼の視線が向かう先、宙に浮かんでいた氷塊はアプサラスの姿に変わっていた。
「一体いつの間に本体と分身が入れ替わってたんだ?」
「アミトが瞬間移動で上空に逃れたときだろう。それしかアプサラスが相手の目を盗む隙は無かったからな」
「入れ替わりは本当に一瞬だったわけだねぇ」
戦士の間にいる全員がアプサラスの存在に気付いた。一方、観衆の多くはまだ気付いていない。誰もが決闘は終わったと信じ込んだままである。
中には何気なくリングを見て異変に気付き始めた者もいるが、彼らの驚く声は勝者の歌声と敗者の怒声に全てかき消された。たとえごく少数の悪魔が騒いだところで、異変に気付かない者たちの目には、怒り狂う太陽の国の支持者とまるで見分けがつかないのだろう。
アミトもまた対戦相手の存在に気付いていなかった。降世殿の真ん中で哄笑していた彼女は、観衆の反応を見て心が満たされたらしく落ち着きを取り戻しつつある。それでも己の勝利は疑っておらず、アプサラスの存在を知らない様子だった。
異形の獣は額をやや上に向けて、双頭の竜へと視線を送る。
「ねえ。ご覧の通りアプサラスは殺したンだけど。早く私の勝利を宣言して頂戴よ」
と審判ヴォラックに要求した。
ヴォラックは返事をしない。その場から微塵も動こうとせず、悪魔の中では珍しい青い瞳でアミトの顔を見返すだけだった。
彼の無反応にアミトは首を傾げる。何故、ヴォラックは早く勝ち名乗りを上げないのか? アプサラスは死んだはずなのに、どうしてこの戦いを終わらせないのか? それが不思議で仕方ない様子だ。
「まさか戦闘中アナタを盾にしたことを怒ってるんじゃないでしょうね? アレはワザとじゃなかったって言ってるでしょ」
アミトがもう一度声をかけても、ヴォラックは返答しなかった。彼の態度には決してアミトに対する怒りや嫌悪感は含まれていない。単に無反応を決め込んでいる。
それを目の当たりにして、歓喜に満ちていた魔獣の瞳にようやく一点の曇りが生まれた。
アミトは異変に気付いたらしい。ヴォラックを見つめていた瞳が、驚愕に見開かれた。
そのときにはもう……地上から放たれた青い閃光がアミトの腹と喉を突き破り頭頂部から飛び出していた。
閃光の正体は弓矢だった。アミトがヴォラックに勝ち名乗りを要求しているあいだに、アプサラスが氷の矢を放っていたのである。羽衣を変形させて作った弓と、虚空から生み出した氷の矢を構え、殺気を極限まで押し殺しながら、彼女は冷静に狙い済まして一撃を放った。ほとんど音も無く放たれた氷の矢は、青い光の粒子をばら撒きながら飛翔し、異変に気付いたアミトの真下から標的の体内を正確に貫いたのだ。
アミトの体から光が溢れる。赤い光ではなく、赤黒い光の粒が漂う。
「まさか……。何故? アイツの体には間違いなく私の毒針が刺さった。全身が麻痺しているはずなのに」
肉体が崩壊を始める中、アミトは自分が敗北を喫した原因を探す。
「なぜ、アプサラスは動けるの?」
彼女の疑問に、樹流徒たちは答えることができた。
「あ……。そういえばアプサラスには解毒能力があるんだった」
ガネーシャがそれを思い出した。
黄金宮殿から聖地ジェドゥへ移動する最中、アプサラスは浄化の能力で毒沼を綺麗な水に変えてみせた。彼女は降世祭に備えて解毒能力を体得していたのである。アミトの毒針を受けて体に麻痺毒が回っても、それを無効化できたのだろう。
突然の出来事に観衆の様子が一変する。喜びの歌を口ずさんでいた者は口を開いたまま固まった。戦士の間を仰いで怒声を発していた者が次々とリングを振り返る。
一体何が起こっている? 何故、アミトの体が崩壊しているんだ? あそこにいるのはアプサラスじゃないのか? アプサラスは生きていたのか!
疑問と驚きの声が高いうねりとなって客席を揺らした。
「何故? 何故……?」
謎が解けないまま、アミトの顔が崩壊し、魔魂は全て消えた。
「第三戦。勝者、アプサラス」
ヴォラックが勝者の名を告げる。
祭りが終わったとばかり思っていた悪魔たちは息を吹き返したように騒ぎ始める。特にさっきまでガルダや太陽の国の悪口を吐いていた者たちの喜びようは尋常では無い。面白いほどの豹変ぶり。いっそ清清しいほどの掌返しだった。両戦士が見せた隠し玉の応酬に決闘愛好家たちも盛り上がっている。月の国を応援している者たちだけが口をぽっかり開けていた。
「まだ祭りは終わっていない。まだ太陽は沈んでいない」
陽気な悪魔が即興の歌を口ずさむ。一度は会場を後にした悪魔が騒ぎを聞きつけて引き返してきた。
リング東側から檻が出現する。アプサラスは入場の時と全く変わらない落ち着いた歩調で戦場を後にした。
「やったぜ。アプサラスが勝ったぞ」
喜びの余りアンドラスがガネーシャに飛びつく。
決闘の傷が癒えていないガネーシャは、アンドラスの体当たりを受けて一瞬表情を歪めた。しかしすぐに頬を緩ませてアプサラスの勝利と生還を喜んだ。
間もなく話題の中心人物が戦士の間に戻ってきた。彼女は体の数箇所を負傷しながらも何事も無かったかのような顔をしている。際どい戦いを終えた後にしては冷静過ぎると思えるほどの落ち着きぶりだった。
「良くやってくれた。必ず勝ってくれると信じていたぞ」
開口一番、ガルダは自国に初勝利をもたらした戦士を褒め称えた。アプサラスの活躍により、太陽の国は一勝一敗一分。戦績を五分に戻した。
「本音を言えばまるで勝った気がしないわ。何度も危ない目に遭ったし、アンドラスとアミトの戦いを見ていなければ多分負けていたもの」
アプサラスは初めて少し悔しそうな微笑を浮かべる。前もってアミトの能力を幾つか知っていたから辛うじて勝てた、という意味だろう。
ここにきて第一戦の捨て石作戦が功を奏したようである。月の国はアミトの口を通してアンドラスの能力を知ることができたが、気の毒ながらアンドラスは初めから捨て駒扱いだったので、たとえ彼の情報が敵に知れても何一つ問題は無かった。かたやアミトはアンドラスとの戦いで複数の能力を樹流徒たちの眼前に晒し、それが敗因となった。この差はとても大きい。仮に第一戦でアンドラスの相手がアミトだったらガルダの思惑は完全に外れていただろうが、結果は強敵カーリーだった。彼の采配は見事的中した。
もしアンドラスとアミトが戦っていなければ、今の第三戦、アプサラスは敗れていただろう。アプサラス自身がそう言うのだから間違いない。彼女が敗れていたら太陽の国も降世祭での敗北が確定していた。
ガルダは最初(アミトが砂漠のオアシスに現れたとき)からこの展開を全て予想していたのだろうか。だとすればとんでもない先読みの能力だった。先読みではなく予知能力と呼んだほうが良いくらいである。何しろガルダはアミトが月の国に自分を売り込みにいくことまで初めから予想していたことになるのだから。
そう考えたとき、樹流徒はふと気付いた。ガルダが戦士の出場順を熟考していた理由についてである。もしかするとガルダはこんな風に考えていたのではないか?
“もし月の国にアミトが加わっているとしたら、アミトは何番手に出てくるか? そしてアミトに対して誰をぶつけるべきか?”
そういえばガルダはアミトが入場してきたときに心なしか嬉しそうな顔をしていた。それはガルダの読みが見事に的中したからではないだろうか。ガルダはアミトが月の国の戦士になっていた場合、三番手で出場すると踏み、アプサラスをぶつけようと考えていたのでは? それ以外、ガルダが戦士の出場順で頭を悩ませる理由が見当たらない。
「お前は初めからこうなると予想していたんだな?」
樹流徒は限りなく確信に近い憶測で尋ねる。
ガルダは「そう」とも「違う」とも言わなかった。変わりに彼にしては珍しく朗笑した。
「よおし。このまま一気に三連勝といこうぜ」
アンドラスはご機嫌だ。ガネーシャも笑顔で相槌を打っている。
樹流徒も嬉しいには嬉しいが、しかし彼の場合手放しには喜べなった。何せ第三戦にして初めて死者が出たのである。いくらアミトが敵とはいえ、殺し合いによる勝利を素直に喜べるほど樹流徒は鈍感になれなかった。どうしても後味の悪さを感じる。
それでも気持ちを切り替えなければいけない。次、決闘に出場するのは樹流徒である。大将戦はガルダ対アナンタの組み合わせに違いない。第四戦に樹流徒が出場するのは既に決定事項だった。
他の面々もそれを分かっている。アプサラスの帰還に一頻り湧いたあと、彼らの視線は自然と樹流徒の元に集まった。
「さあ。次はいよいよオマエの番だねぇ。一体どんな戦いをするのか想像もつかないから、楽しみだよ」
とガネーシャ。
「第四戦は全く心配していない。オマエと直接手合わせした私にはオマエの強さが分かっているからな。頼りにしているぞ」
続いてガルダが声をかける。
樹流徒が頷くと、入り口の扉が開いた。このタイミングでこの部屋を訪れる者は一人しかいない。
思った通りピンク兎だった。頭には紫色の蝶が止まっている。彼もまた次の決闘に出場するのが誰かを承知していた。
「次に出るのはオマエだな? 名前を教えろ。ヴォラックに報告しなきゃいけないんだ」
扉を開けるなり樹流徒にそう尋ねた。
「俺は……」
自分の正体を隠すため魔界ではソーマと名乗っている樹流徒だったが、ひとたびリングに上がれば首狩りキルトと気付かれるのも時間の問題だろう。隠すだけ無意味である。
「樹流徒だ」
彼は敢えてそちらの名を告げた。
兎の片耳がぴょんと跳ねる。
「キルト……って。まさか、あの賞金首の首狩りキルトか?」
樹流徒は無言で首肯する。
「道理で見覚えのある顔だと思ってたンだよな。言われてみれば手配書で見た顔とそっくりだ。まさかこんな場所で実物と会うことになるとは思わなかったぜ。なるほどねェ。コイツがあの首狩り……」
兎はそのようなことを独りでぶつぶつ喋ったあと、すぐ我に返って頭の蝶を飛ばした。
蝶が部屋の中を横切っているあいだに
「それじゃあ、行って来る」
樹流徒は仲間たちへの挨拶を済ませた。
戦士の間を出た樹流徒は、兎の背中について歩く。
暗い廊下の先に六名の鳥人が固まっていた。彼らは黄金宮殿から聖地ジェドゥまで樹流徒たちと共に旅してきたガルダの配下である。
「頑張ってください」
「御武運を」
「勝利を祈っております」
彼らは期待のまなざしを輝かせ樹流徒に激励の言葉を送る。こうやって他の戦士も送り出したのだろう。
「ありがとう」
樹流徒はお礼を述べて鳥人たちの前を通り過ぎた。
廊下の突き当たりには曲がり角がある。そこを折れると目の前に大きなドアがあった。戦士の間みたいな洋風の扉とは違う。一目見てエレベーターの扉という言葉が頭に浮ぶ形状をしたドアだ。材質は壁と同じ石で、かなり分厚そうだった。手で開こうと思っても普通の悪魔ではビクともしないだろう。また、ドアの横には謎の文字がひとつ刻まれている。樹流徒の体に並び輝く極小の文字と同じ種類に見えた。
兎は自分の背丈よりも高く飛び跳ねて、ドアの横にある文字に触れる。
ぼんやりと文字が黄色い輝きを放った。ゴリゴリと硬い音を小さく鳴らしながら石の扉が右から左へと勝手に開く。その先には四角い空間があった。人ならば二十人くらいまで収容出来そうなスペースだ。
兎は扉を通り過ぎると、すぐに立ち止まって樹流徒のほうを振り返り
「乗れ」
顎を使って指示した。「入れ」ではなく「乗れ」と言うくらいだから、扉の先にある四角い空間は、どうやら部屋ではなくて乗り物らしい。ドアの形状からしてもしかすると本当にエレベーターなのかもしれない。
予想は当たっていた。ドアが閉まると、二人を乗せた四角い箱はほぼ無音で下に降りていった。石造のエレベーターである。魔界血管と同じ、基本的に機械文明とは無縁の魔界には些か過ぎたテクノロジーだった。果たしてこのエレベーターを機械と呼んで良いのかどうかは分からないが……
何とはなしに樹流徒は兎の背中へ尋ねる。
「もしかすると、これも魔界血管みたく初めから魔界に存在した物なのか?」
「良く知ってるじゃねえか。先住民の遺産ってヤツだな」
「先住民って?」
「そんなの知らねぇよ。でも降世殿を造ったのはオレたち悪魔じゃないんだから、これを作った先住民がいたとしか考えられねえだろ。違うか?」
「いや。別に違わないと思う」
「あー……。ただ、魔界血管といい降世殿といい、悪魔と無関係な先住民が造ったにしてはどこか懐かしい感じがするンだよな。はじめてこの建物を見たとき、強烈な既視感を覚えたんだ。オレだけじゃないぜ。他の連中も似た様なコトを言うんだ」
「そうなのか。不思議な話だな」
そのようなやり取りが交わされている間にエレベーターが下に着いた。
開いた扉の先に現れたのは一本道の通路だった。明かりは全く無い。例によって巨体の悪魔でも通行可能な、タダそれだけの大きな通路である。もしピンク兎が言う先住民がいたのだとしたら、彼らは体の大きな種族だったのだろう。生まれたときから人間の大人ほど身長があったのかもしれない。
広大な通路の中を樹流徒たちは歩く。
「ここは降世殿の地下だ。戦士を含めた一部の悪魔しか通れない通路なんだぜ」
「この地下道を通ってリングまで移動するんだな」
たった一言交わしている内に突き当りが見えてきた。
そこに一体の悪魔が立っていた。全身白い毛に覆われた巨人である。「雪男の絵を描け」と言われたら十人中七、八人はこの姿に近いものを描くだろうという外見。白い毛の中かから大きな目玉だけが覗いていた。
雪男は無言で佇んでいる。樹流徒たちが現われても虚空の一点を見つめて微動だにしない。
彼の傍には見覚えのある巨大な檻が置かれていた。壁にはブレーカーのようなレバーが付いており、上にあがった状態になっている。
「じゃ、あの檻に乗れ」
ピンクの耳が直角に折れて前方を指す。樹流徒は言われた通りにした。
兎は「よし」と頷いて
「戦士入場のラッパが鳴ったらその檻がリングに上がる。そのあとどうすればいいか、説明が必要か?」
「いや、大丈夫だ」
今までの決闘を見ていた樹流徒は戦士入場から退場までの流れを全て把握していた。
その頃、地上では観衆が次の決闘を待ち侘びていた。一度は両国の決着がついてしまったと思ったあとである。太陽の国の支持者は逆転勝利に期待を寄せているし、月の国の支持者は第三戦の直前に見せていた余裕を多少失って「次の決闘で絶対に決めろ」と騒いでいた。彼らの盛り上がりと精神の消耗具合は尋常ではない。祭りが終わった頃には全員抜け殻になっていそうだ。
間もなく客席の中をグリフォンが飛び、戦士入場を告げるラッパが鳴り響いた。
審判ヴォラックは今までより心なしか長めの間を取ってから、戦士の名を告げる。
「いでよ! 太陽の国、四人目の戦士……首狩りキルト」
数十万の瞳が点になった。あれほど騒がしかった会場が急に大人しくなる。
――今、首狩りって言ったよな?
――それって、あの、賞金首の?
――ヤツが魔界に来てるって噂は本当だったのか。
――でもどうして首狩りが降世祭に……?
これまでに無かった異様などよめき声が会場を包む。それは微かな振動となって地中で待機する樹流徒たちの元まで届いた。
「聞こえるか? 観衆のヤツら驚いてやがるぜ」
ピンク兎は自分のことみたく嬉しそうにケラケラと笑ってから
「よーし。檻を上げろ」
と壁際に立つ雪男に命じる。
今まで微動だにしなかった雪男がのそりと動き出しレバーを下げた。ひとつカタンと小さな音が鳴って、樹流徒を乗せた檻が浮上を始める。
「ま、せいぜい頑張れよー」
兎が手を振って樹流徒を見送った。