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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
253/359

因縁の魔獣



「引き分け……?」

「相討ちなのか?」

 戦いが終わった実感をすぐには得られなかったのだろう。客席の悪魔たちは独り言を呟いたり近くの者と顔を見合わせたりして、現状を確認する。

 彼らはすぐに状況を飲み込んだ。観衆の中から起こった小さな歓声が忽ち会場を包む割れんばかりの大喝采となって、傷つき倒れた両戦士の背中に降り注ぐ。客席のあちこちから「珍しい」という声が漏れた。決闘で引き分けという例は極めて少ないようだ。「良い物を見られた」と喜ぶ者もいた。結果も含めてガネーシャとラクシャーサの勝負は観衆に十分な満足を与えたのだ。この時ばかりは誰もが自分の事情を忘れて両戦士に惜しみない賞賛を送った。


 リングの東西から檻が競り上がって、両方から合わせて十名近くの悪魔が飛び出してくる。二名はラクシャーサの元へ。残り全員はガネーシャの元へ駆け寄った。彼らは両戦士を担ぎ上げると、すみやかにリングから退場してゆく。

 戦士の間からその様子を眺めていたガルダは

「引き分けか」

 とだけ言って壁に背を向けた。

 格子窓から入り込んでくる会場の騒々しい声は、しばらくのあいだ収まる気配が無かった。


 ガネーシャは戦士の間に戻って来なかった。あの重症では無理もない。意識の有無も不明だし、あまり想像したくはないが絶命という恐れも十分に考えられる。

 ガネーシャの様子を見に行くべきか? 彼の身を案じた樹流徒が入り口の扉を見ていると

「アイツは今頃下で休んでいるはずだ。すぐに意識も回復するし自力でここまで戻ってくる。少なくとも死ぬことはないから心配は無用だ」

 樹流徒の心中を察したようにガルダが言った。


「それより問題は残りの試合だな。本音を言えばガネーシャの引き分けは痛い」

「もう後が無いものね」

 とアプサラス。彼女は太陽の国が置かれた状況を正確に理解しているようだ。

 第二戦が終了した段階で、太陽の国は一敗と一分。最悪の事態だけは免れたが、早くも窮地に追い込まれてしまった。

 残り三戦で、太陽の国は全部勝つか、悪くても二勝一分ではければいけない。つまりもう一回も負けられないのだ。仮に残り三戦で二勝一敗だった場合、両国の戦績は二勝二負一分で並ぶが、降世祭のルールでは五戦終了時点で勝ち星が並んだ場合、前回の降世祭で勝利した国(月の国)が勝者となる。だから太陽の国は残りの決闘で二勝一敗では負ける。同じ理由で一勝二分もいけない(一勝一敗三分で戦績が並んでしまうので)。もう絶対に負けられないし、二勝以上しなければいけないのだ。アプサラスの言葉通り、もう後が無かった。


 ガネーシャが勝利していれば状況はずっと楽だったが、それをぼやいたところで仕方ない。第一ガネーシャの見事な戦いぶりを責められるはずがなかった。今、客席の様子を覗いてみると、ガネーシャの強さを褒める者はあっても、逆を言う者は一人もいない。太陽の国を応援する者たちでさえ、今回の結果は致し方なしという雰囲気に落ち着いていた。第二戦はガネーシャがしくじったのではなく、想像以上に強かったラクシャーサを褒めるしかない、というのが彼らの見方である。

「ラクシャーサは過去の戦績でガネーシャに大きく負け越したままだが、両者の実力は限りなく近付いた」

 そう述べる見物客もいた。


 どの道、引き分けは引き分け。いまさら誰がどんな不平不満を漏らしたところで、勝負の結果は良いほうにも悪いほうにも転がらなかった。

 で……太陽の国にとって難しいこの局面。ガルダは黙して考え込む。次の勝負に樹流徒かアプサラスのどちらを送り出すべきか迷っているのだろう。

 彼の立場や心中を察して、樹流徒は敢えて何も尋ねなかった。雑音でガルダの思考を邪魔してはいけないと考え、足音を立てるのすら控えた。考えることは皆同じらしい。アプサラスも、アンドラスも、何も言わずその場から一歩も動かなかった。


 暗黙の内に作り出された静寂は数分間続いた。沈黙を破ったのは扉を開く音だった。

 ガネーシャが戦士の間に戻ってきたのである。驚くべきことに彼の全身は早くも出血が止まりつつあった。ラクシャーサの角に刺された大きな傷跡の表面には薄く白い膜が張って、まだ膜が広がっていない部分から僅かに血が滲んでいる程度である。凄まじい回復力だった。ただ、黄金の光に焼かれた全身には未だ異質な傷跡が生々しく刻まれている。自力歩行できるまで回復したとはいえ、どう見ても無事とは言い難い姿だ。

「いやあ。ラクシャーサが前に戦ったときよりもずっと強くなってて驚いたよ」

 部屋に入るなりそう言って、ガネーシャは屈託なく笑った。彼は床の真ん中までやって来ると「よいしょ」と言いながら腰を下ろす。流石にまだ傷が痛むのだろう。動作のひとつひとつがぎこちなかった。

「傷の具合は?」

 樹流徒が尋ねると

「全く平気ってわけじゃないけど、降世祭が終わる頃には全快してるから大丈夫だよ」

 ガネーシャは体をゆっくり仰向けに倒しながら答えた。

「良い戦いだった」

 ガルダは言葉少なくガネーシャの健闘を称える。

 ガネーシャは軽く頷いただけで、あまり嬉しそうではなかった。戦いの結果に満足していないのもあるだろうが、彼の場合、勝利すれば得られた報酬を逸したことへの失望も大きいだろう。目尻に寄った明るいシワはいつの間にか消えていた。

 彼の浮かない表情を見て、ガルダが言う。

「本来は引き分けの場合追加報酬は無いのだが……今回だけは特別だ。もし今回の祭りで我々が勝った場合は、オマエの報酬を倍にしよう」

「本当かい? それじゃあボクも太陽の国が勝つように頑張って応援しないといけないねぇ」

 ガネーシャは嬉しそうに鼻を揺らす。周りから軽い笑いが起こり、束の間、場が和んだ。


 そのあとすぐ、部屋は静寂を取り戻した。ガルダは次の決闘に誰を出すかをまだ決めかねている。

 何故そこまで悩むのか? 今まで沈黙していたアンドラスは、いい加減何か言いたそうな顔をしている。捨て石作戦を知らない彼だけに余計、戦士の出場順など適当で良いと感じているのだろう。

 あの作戦を知っている樹流徒とて、ガルダの真意を測りかねていた。もう一敗もできないというプレッシャーがあるのは承知しているが、月の国からどのような戦士が出てくるか分からない以上、こちらが誰を送るか悩んでも仕方ない気がした。一方で樹流徒は、ガルダが無闇に長考しているとも思わなかった。きっと、ガルダにはガルダなりの考えがあるのだ。


 ややあって、無遠慮に入り口の扉が開かれる。例のピンク兎が現れた。彼の頭上にはやはり蝶が止まっている。第一戦のときは黄色の蝶。第二戦は黒アゲハ。今回は紋白蝶だった。

「テメーら時間だ。次の戦士を宣告しろ」

「まだ決まっていないんだ。もう少し待ってくれ」

 樹流徒が事情を伝えると

「はあ? まだ決まってないだと? さっさと決めねーと失格にするぞオイ」

 兎はその場で足踏みして怒鳴る。

「失格にするって……オマエにそんな裁量があるのかよ?」

 アンドラスの言葉にも

「うるせえ。だったら残った三人の戦士で今から殺し合え。勝ったヤツが次の決闘に出場しろ」

 などと、本気か冗談か分からないことを言い喚いた。

 そんな兎を一顧だにせず、ガルダは真剣な目で壁面と見つめ合っている。今の彼には兎の声も、窓から飛び込む観衆のざわめきも、全て聞こえていない様子だった。なるべく物音を立てないように注意していた樹流徒たちの気遣いも無用だったようである。

 微動だにしないガルダを見て、決断を急ぐように催促しても無駄と悟ったか、兎は渋面を作って黙った。


 長い思考の果てにガルダが意を決したのは、痺れを切らした兎が丁度何かを言いかけた時だった。

 ガルダはアプサラスに視線を投げる。

「次はお前に出てもらう」

 それが考え抜いた末に彼が下した決定だった。


「分かった。アプサラスだな」

 ピンク兎はもう「本当にそれで良いのか?」「一度決めたら変更はできないぞ」などと、確認を取ったりしない。ガルダが宣言するや否や、頭の紋白蝶を外に向かって飛ばした。


「何となくだけれど、次は私になると予感していたわ。今日は勘が冴えているみたい」

 アプサラスは今までと変わらない調子で答える。彼女が決闘に参加するのは今回が初めてらしいが、心理的な圧力を受けている様子はまるで無かった。

「オマエが負けたらこっちは終わりなんだ。頼んだぜ」

 ともすればプレッシャーになりそうなアンドラスの台詞も、アプラサスは気にも留めていないようである。

「分かっているわ。負けないから安心しなさい」

 そう断言して、彼女は廊下へ出て行った。

 いまアプサラスの口から出た言葉は、彼女の本音ではないだろう。ガネーシャとラクシャーサの戦いが始まる前「戦いとは常に何が起こるか分からない」と語っていたのは他でもないアプサラスである。その彼女が「負けないから安心しろ」などと本心から約束するはずがなかった。仮に本心から出た言葉だったとしても、それは確実な勝利を保障する言葉ではなく、戦いに臨むアプサラスの意気込みの表れに過ぎないのである。

「彼女を信じるしかあるまい」

 アプサラスの背中が見えなくなると、ガルダが言った。


 第二戦の興奮が完全に冷めやらぬまま、間もなく次の戦いが始まろうとしている。観衆は今もずっと立ちっぱなしで、その時が訪れるのを待っていた。

「今回の祭りも月の国が貰ったな」

 月の国の支持者たちの中でも特に気が早い者は、今から勝利気分に浸っている。

「あと一勝すれば良いんだからな。第三戦で決まるんじゃないか?」

「いや。それでは張り合いも無ければ面白味も無い。せめて一勝くらい太陽の国に与えてやっても良いだろう」

 などと言い合って、余裕を見せる者の姿もちらほら。

 逆に太陽の国を応援する悪魔たちはすっかり敗戦ムードに包まれていた。それこそ太陽の如く顔を真っ赤にして怒っている悪魔がいる。「ガルダの奴め」と今から恨み節を唱えている者。そして「厳しいな」と沈痛な面持ちでつぶやく者。極少数だが会場を去ろうとしている者までいる。


 それでもリング中央から双頭の竜が舞うと、観衆は直前までの思考を全部どこかへ捨てて、次の戦いに意識を集中する。いがみ合っていた大人たちが玩具を与えられた途端に仲良く遊び始めたかのような、一種異様であり、滑稽でもあり、そして微笑ましい光景だった。

 もっとも、それはすぐに殺伐とした雰囲気に変わる。

「それではこれより第三戦の戦士たちに入場して貰う」

 審判ヴォラックが告げると、悪魔たちは揃って目を尖らせた。

 客席の中をグリフォンが飛び回る。その背に跨がった戦士風の悪魔がラッパを吹けば、異形の波は猛り狂った。今日はじめて祭りに参加する樹流徒でさえ、ラッパの音が耳に飛び込んでくると半ば反射的に身が引き締まる。


「出でよ、アプサラス!」

 ヴォラックの口から戦士の名前が呼ばれた。

 リング東側の地面から檻が出現する。中からアプサラスが登場すると、ほかの戦士のときと同様、嵐の如き大歓声と罵声が彼女を出迎えた。まさかアプサラスが決闘に参加するとは想像していなかった、と驚く声も混ざっている。

 改めて見ても、アプサラスは戦士という言葉が似つかわしくない容貌の持ち主だった。微かに緑がかった長い黒髪も、青白く細い四肢も、踊り子のような衣装も、首に巻きつけた半透明な羽衣も、すべてが戦いに適した姿かたちとは離れている。戦士として決闘のリングに上がるよりも、踊り子として開幕式に登場したほうが違和感の無い悪魔だった。


 入場したアプサラスは落ち着いた足取りでリング中央まで歩き、立ち止まった。

 続いて月の国の戦士が呼ばれる。ヴォラックの口から飛び出したその名前は、樹流徒たちを些か驚かせ、同時に納得させるものであった。

「出でよ、アミト!」

 観客からまた歓声と罵声。そして驚きの声。


 樹流徒たちは互いの顔を見合わせた。

「今、アミトって聞こえたねぇ」

 部屋の真ん中で寝そべっていたガネーシャが傷んだ体を起こす。

「ああ。アミトのヤツ、本当に向こう側の戦士に加わったんだ」

 アンドラスの口調はちょっと渋い。

「うむ……」

 格子窓から外を覗きながらガルダが答えた。どういうわけかその横顔は少し嬉しそうに見える。アミトが相手なのは我々にとって好都合、と言っているように樹流徒には見えた。


 リング西側に出現した檻の中から戦士の影がぬるりと出てくる。ワニの頭部と獅子の胴体、そしてカバの後ろ足を持った異形の獣……紛れも無くアミトだった。太陽の国にとっては多少因縁のある相手である。

 アミトはアプサラス同様落ち着いた足取りでリングの中央までやって来きた。両戦士が向かい合う。

「数日ぶりね。無事そちらの仲間に入れたようで何よりだわ」

 アプサラスから声を掛けると、アミトの目が不敵に歪んだ。

「ありがとう。でも本来月の国の戦士になるはずだった悪魔には気の毒なことをしたわ。彼、今頃私の爪に引き裂かれた体を抱えてベッドの上で悶え苦しんでいるはずよ」

 とアミト。彼女の口ぶりから推測すると、月の国も戦士の一名とアミトで入れ替え戦を行わせたのだろう。結果、アミトは見事に勝利し、戦士の仲間入りを果たしたのだ。


「ここまでの試合、一勝一分けで私たちが優勢ね。どうやら太陽の国の戦士にならなくて正解だったみたい」

 アミトが挑発的な台詞を吐く。

「どうかしら? まだ勝ったと判断するには早いんじゃないの? それに仮に月の国が勝ったとして、アナタがその瞬間を見届けられるとは限らないわよ。喜ぶのは生き残ってからにしたほうが良いんじゃない?」

 アプラサスも負けていない。()しくも女性型悪魔同士の対決。既に戦いの火蓋は切られていた。

 決闘開始を急かす観衆の叫びと、ヴォラックの声がリングに降る。

「それでは第三戦、始め!」

 開始と同時、アプサラスが素早く後ろへ飛び退いて相手との距離を取った。

「あら。威勢の良いことを言った割に随分と慎重じゃない」

 アミトは笑う。

 それで良い。アプサラスは間違ってない、と樹流徒は彼女の初動に納得した。何しろアミトの口内には敵の心臓を握りつぶす恐怖の赤い腕が潜んでいる。それを警戒してアプサラスがアミトから距離を取るのは当然だった。それにアンドラスとの戦いを見る限り、アミトはどちらかといえば接近戦を得意とするタイプだ。仮にアプサラスが中~遠距離戦闘を得意とするならば、余計にアミトとの間合いを広げるのは妥当な判断と言える。


 ただしアミトとて近接戦特化の戦士ではない。遠くの敵を攻撃する強力な能力を持っている。

 先に仕掛けたのはアミトだった。戦闘開始の位置に立つ彼女は、アプサラスとの間合いを詰めようとはせずその場で(たてがみ)を逆立てた。狐色の毛が銀に変色しながら伸びる。毛の一本一本が見る間に長大な針と化した。

 銀色の針がアミトの頭部から数百本まとめて発射される。この攻撃法方は、アンドラスとアミトの戦いを見ていたアプラサスも当然知っているはずだ。彼女は砂の地面を蹴ると軽やかに跳ね、踊るように宙を舞って難なく攻撃を回避した。

 のみならず、彼女は即反撃に移る。華麗に着地を決めたアプサラスの周りに白い冷気が漂った。冷気は薄い水色の光を帯びて数十の蝶を(かたど)り、彼女の周囲を舞う。殺伐とした戦場に現われた光の蝶。その美しさに観衆から吐息が漏れた。


 アプサラスは人差し指をアミトに向ける。彼女が指すモノを標的と定めて光の蝶が一斉に舞った。

 アミトは迎え撃つ。いっぱいに開かれた口の中から黒い渦が巻いて、前方へ広がる激しい炎となって放たれた。アンドラスとの戦いでは見せなかった能力である。


 アミトが吐いた黒い炎は光の蝶を飲み込みながら小さな波となってアプサラスを襲った。

 初見の能力だけあって不意を突かれたか、アプサラスは回避が間に合わない。彼女はあわやというタイミングで魔法壁を展開して炎を遮断した。

 炎を逃れた光の蝶が数匹、水色に輝く光の粉を振り撒きながらアミトの頭上に迫る。アミトは鬣を逆立てて銀色の毛針を飛ばした。数百の毛針が次々と光の蝶を貫く。蝶は全て消滅したが、その美しい羽に触れた針は忽ち氷の塊となって地面に落下した。もしアミトが蝶に触れていたら、彼女の体も凍り付いていたかもしれない。


 アプサラスの魔法壁が消えると、即座にアミトが駆け出した。接近戦を仕掛けるつもりだろう。異形の獣は砂を跳ね上げながら疾走し、アプサラスから数メートル離れた位置で高く跳躍した。

 目線よりもやや高い位置から踊りかかってくるアミトを、アプサラスは横に跳んで回避した。対するアミトは相手の姿を目で追いながら、着地と同時に身を翻す。アプサラスが逃れた方向へ駆けた。


 俊敏性ではアミトが一枚上手に見える。このままでは逃げきれないと判断したのだろう、アプサラスは立ち止まって相手を迎え撃った。長い脚を真っ直ぐ振り上げ、懐へ飛び込んで来るアミトの顎を跳ね上げる。アプサラスに落ち着いて攻撃を繰り出す余裕は無かったはずだが、タイミングを見計らったように綺麗な一撃だった。またアプサラスの細身からは想像できないほど力強い一撃である。アミトの首から上が無くなってしまっても不思議では無かった。


 にもかかわず顎を蹴られたアミトの頭部は会場の三階席あたりを軽く仰いだ程度で、ほとんどダメージを受けていない。攻撃を食らっても構わずに異形の獣は突進した。今度こそアプサラスの懐に入り込むと、獣の前足を振り上げる。アプサラスは咄嗟に後方へ跳んだが、蹴りを繰り出した直後の不安定な体勢では回避が間に合わない。迫り来る異形の爪が彼女の脛を裂いた。

 着地したアプサラスの脚に三本の爪痕が走り、青い血が滲む。それでも彼女は己の傷に目もくれず、もう一度後方へ跳んでアミトとの間合いを広げた。


「戦士選抜試験で見た限り、アプサラスは力押しで戦える悪魔ではない。瞬発力もアミトより少し劣るだろう。恐らく接近戦では不利だな」

 ガルダが言う。

「今のは危なかったぜ。アミトが爪で攻撃したから良かったものの、赤い腕を使ってたらどうなってたか……」

 アンドラスはぞっとしたような目をしていた。危うくアミトに殺されかけた時のことを思い出したのだろう。肩がぶるっと震えた。

「アプサラスがどういう能力を持っているか分からない以上、アミトもおいそれと切り札を使ったりはしない。今の攻防はアミトにとってただの様子見だったのだ」

 ガルダはそう分析する。

 樹流徒も同じ考えだった。アミトの赤い腕は恐ろしい力を持つ反面、連続使用できない欠点を持つ。アンドラス相手には惜しみなくその能力を使用したアミトだが、決闘本番ともなると能力使用のタイミングを多少慎重に選ばざるを得ないのだろう。アミトがアプサラスの実力をアンドラス以上に警戒しているとも考えられる。

 加えて、アプサラスはアンドラスとアミトの勝負で赤い腕の動きを見た。初見の能力と、たった一度でも見た能力とでは対処のし易さに天地ほどの隔たりがある。故にアミトは気軽に切り札を使えないのだ。同じ悪魔と再戦した経験が何度かある樹流徒にはそれが良く分かっていた。悪魔同士の戦いにおいて相手の能力を知っていることほど有利なことはない。


「でも、相手の切り札を防いだだけで、戦いに勝てるワケじゃないからねぇ」

 ガネーシャが重い体を引きずって壁際まで歩いて来る。

 彼の言う通り、アミトの武器は何も赤い腕だけではない。鋭い牙や爪、銀の針、口から吐き出す黒い炎など、いずれも殺傷力が強い攻撃が揃っている。


 接近戦ではアミトが有利、とガルダは分析していた。

 アミト自身もそう思っているらしい。異形の獣はアプサラスの能力を警戒しながらも、彼女めがけて果敢に飛び込んでいった。



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