劣勢
悪魔の爪も通じない。火炎弾も効かない。一体、どうすればいい?
樹流徒は、焦りに満ちた心中をマモンに読み取られないように表情を押し隠しながら、打開策を捻り出そうとする。
事態はかなり深刻だった。これまで樹流徒が戦ってきた悪魔には全て爪や火炎弾の攻撃が通じた。それがどちらも効かない強敵に、今回初めて遭遇してしまったのである。
他に使えそうな武器も所持していない。樹流徒は、あえて武器を調達していなかった。なぜなら、悪魔の爪と火炎弾はそこら辺で簡単に手に入りそうな武器に比べれば威力において優秀だし、なにより道具と違って壊れたり手放したり奪われたりする心配がないからだ。
とにかく、樹流徒はもう他の攻撃手段を持っていなかった。マモンを打ち破るための牙が無い。
攻撃手段がなければ、当然ながら消極的な戦い方を余儀なくされる。樹流徒は敵の攻撃を避けながら、何とか勝つための方法を探すしかなかった。ただしそのようなものが見つかるかどうか怪しい。周囲を見ても、武器になりそうなものはひとつも落ちて無い。
ならば詩織を連れて一緒に逃げ出せないだろうか、と考える。
余りにも無謀な考えだった。マモンがそんな隙を与えてくれるハズがない。樹流徒一人だけならば逃げられるかも知れないが、詩織の足では恐らくすぐに追いつかれてしまう。2人での脱出は不可能だ。
マモンの右首が炎を吐き出す。薄闇を明明と照らす真っ赤な光が樹流徒に迫った。
樹流徒は低い姿勢で駆けて、なんとか敵の攻撃をやり過ごす。足を止めると、今一度反撃を試みた。火炎弾を放つ。
マモンは攻撃を回避する素振りすら見せなかった。胸をいっぱいに広げて炎の塊を受け止める。
無数の火の粉が弾けた。焦げた羽毛の下から皮膚の一部が僅かに覗く。しかし2本の首は同時に鼻を鳴らして、ダメージが極めて軽微であることを主張する。
樹流徒は、敵との間に大きな戦力差を感じた。このままでは善戦することすら叶わない。一方的に攻撃を受けて、やがてなぶり殺しにされてしまう。
脳裏に敗走の2文字が過ぎった。心に恐怖が滲み出す。
ここは一旦引くべきかも知れない。強力な武器を調達するか、もっと力をつけて、再び戻って来た方が良いのではないか。他にどんな方法がある?
そのような考えが浮かんで、心はますます弱気な方へ傾いた。
が、次にマモンの右首がクチバシを伸ばして樹流徒の額を突き刺そうとした、その時。
紙一重で攻撃を回避した樹流徒は、不意に視界の隅に詩織の顔を捉え、はっとする。
今更だが、詩織はかなり衰弱しているように見えた。無理もない。彼女も魔都生誕に巻き込まれて市内の悲惨な光景を見たはずだ。それだけで相当なショックを受けているに違いない。加えて悪魔に軟禁されてしまったのだから、彼女の心身の消耗が一層激しいのは考えれば当然のことだった。
今回詩織を助けなければ、再びマモンに挑むまでのあいだ、彼女が生きている保障などない。なまじ生きていたとして、そのとき彼女の精神状態はどうなっているだろう?
それに気付いて、樹流徒は一時撤退しようという選択を捨てた。やはり、このまま一人で逃げるわけにはいかない、と闘志を盛り返す。
とはいえ、状況が最悪なのは変わらなかった。
かたや精神論だけでは敵を倒せないという現実。かたやここで引くわけにはいかないという想い。
樹流徒は激しい葛藤の中で悪戦苦闘する。いや、葛藤というより、ただの絶望かも知れなかった。
悪魔の攻撃は一向に休む気配を見せない。樹流徒は次々に襲い来る火柱、冷気、爪、そしてクチバシを、飛び跳ねたり転がったりしてかわす。その回避行動に相当な神経を費やさねばならず頭を働かせるのが難しかった。
なにぶん狭い空間である。樹流徒はほぼ常にマモンの攻撃範囲内に身を置いており、その中で逆転の一手を見つけ出すのは至難の業に近かった。
時間が経過するにつれ樹流徒の体にはダメージが蓄積されてゆく。今のところ攻撃の直撃こそ避けているものの、完全にやり過ごせているわけでもなかった。すでに小さな火傷と凍傷が体のあちこちを蝕んでいる。局面は悪くなる一方だ。
「なあ、ニンゲン。分かってるだろうが逃げてるだけでは勝てんぞ」
「逃げているだけでは勝てませんよ」
マモンは一層余裕だった。
しばらく回避に専念している樹流徒を見て、彼が他の攻撃手段を持っていないと気付き始めている様子だ。それともすでに確信の域に達しるのだろうか。
左首から真っ白な冷気が放たれる。これでもう何発目か分からない。
すると、樹流徒は攻撃を避けながら敵の右側面に回り込んだ。素早く間合いを詰める。
久しぶりの反撃だった。無謀だと知った上でマモンに攻撃を仕掛けたのである。敵に玩弄され続けることが癪だったし、このまま逃げ続けてもジリ貧だと思ったが故の行動だった。
樹流徒は敵への接近に成功すると全力で腕を伸ばし、マモンの右首の眼球を狙う。
ところが爪の先が目標に到達するより早く、右首の瞼が閉じられた。
樹流徒の指先に絶望的な感触が伝わる。この悪魔は瞼の皮まで恐ろしく硬かった。全くの無傷である。
マモンが無造作に手を振り払う。指の先から伸びた鋭利な爪が、樹流徒の皮を引き裂いた。咄嗟に体をよじった彼の左肩に、赤く太い線が3本浮かび上がる。
樹流徒は傷口を抑えながら床を転がった。
その先にはダイヤの指輪やプラチナのネックレスなど、美しい装飾品が大小合わせて5,6点散らばっている。彼はその中から指輪を掴んでマモンに投げつけた。完全に苦し紛れの行為である。
無論、このような攻撃が通じるはずもない。樹流徒が投げた指輪はマモンの左首の額に跳ね返って床を転々とする。ただそれだけだった。
詩織は心なしか不安そうに表情を微動させ、胸の前で拳を軽く握り締める。窮地に陥った青年の姿をジッと見つめていた。
樹流徒には勝ち目など欠片も残されていない。もし、この戦いを観戦する者がいれば10中9人以上はそう思っただろう。それほど一方的な展開だった。
ところが、樹流徒が苦し紛れに取った行動は、彼に意外な気付きをもたらしていた。
宙を舞った指輪がマモンの左首に跳ね返されたとき……樹流徒は、先ほどマモンが見せた動きに妙な違和感を覚えたのだ。
先ほどというのは、樹流徒が最初の火炎弾を放ったときのことだった。
あのとき、火炎弾は左首に向かって飛んだ。それに対してマモンはどんな動きを見せたか? 確か、凄まじい反応速度で右首を防御に回していた。
樹流徒は今になって、あの動きが不自然に思えてならなかった。
考えてもみればわざわざ右首が急いで左首の前に飛び出してくる必要は無い。指輪を投げた時と同じように左首が火炎弾を受け止めれば良かったはずだ。
なのに、何故、右首は左首の前に飛び出したのか? この疑問に対して、樹流徒の直感はひとつの答えを出した。
まさか、あの時右首は左首をかばったのか?
樹流徒はそれに気付く。
もしこれが憶測に留まらないとしたら、右首が左首の盾になった理由など1つしかなかった。
火炎弾は右首には通じなくても左首に対しては有効。
そうとしか考えられない。
絶望と焦燥が真綿のようにじわじわと首を締め付けてくる中、樹流徒の瞳に幽かな光が宿った。
ここで彼は“ある策”を思いついた。あわよくばマモンに一泡吹かせることができるかもしれない。
ただしその策は非常に危険なものだった。なにしろ相打ち狙いが含まれているからだ。作戦の成否に関わらず、手痛い反撃を受けることが初めから確定していた。
更に、必ずしも上手くいくとは限らない。策などという上等なものではなく、博打と呼ぶに相応しかった。それもかなり分の悪い賭けだ。正直に言えば、実行するのが躊躇われた。
けれど他に敵を倒す手段など無い。やるんだ。やるしかない。
樹流徒は胸の奥から湧き上がる恐怖を懸命に押さえつける。
この決意が崩れてしまわぬ内に、そしてこの決意が敵に悟られる前に、行動を起こさなければいけない。
樹流徒は素早く立ち上がると、間髪入れずにマモンめがけて真正面から飛び込んだ。
今度は無謀ではなく、敢然と立ち向かってゆく。