開幕式
その日は朝からずっと、空に雲ひとつ浮かんでいなかった。太陽の動きは心なしか遅く、昨日は絶えず吹いていた穏やかな風がぴたりと止んでいる。鳥も飛んでいなければ、砂漠に棲む生物も虫一匹姿を見せない。嵐の前触れを予感させる、とても静かな一日だった。
樹流徒たちがジェドゥに到着してから早くも一日と半が過ぎた。赤く燃える夕日は半分地平に隠れ、もう間もなく聖地に夜が訪れようとしている。いよいよ千年に一度の祭りが始まるのだ。
祭りの会場とその周辺には無数の松明が焚かれ、絶えず燃える炎が世界を覆う闇を遠ざけようとしていた。特に降世殿の壁伝いに並べられた松明の明かりは特別大きく、もうすぐ日没にもかかわらず建物の足元は近づき難いほど真っ赤に染まっている。かたや空を仰げば数千の悪魔が飛び回り、各々の手に持ったランプで降世殿の壁面を照らしていた。ただの古びた石造建築物が、今夜だけは光の祭殿と呼べるほど神々しく輝いている。
それとは対照的に、降世殿から離れた場所は夜の闇をひっそりと受け入れようとしていた。花畑に突き立てられた松明の明かりは小さく、刻々と深みを増してゆく夜陰を払うには弱い。昼間の美しい花は陽が沈むにつれて影を纏い赤黒い妖花へと変貌を遂げてゆく。まるで闇に潜み人間の生き血を啜って成長する植物のようだった。
光り輝く降世殿と、赤黒く咲き乱れる花。その神々しさと妖しさに引き寄せられたかのように、祭りの会場には異形の群れがひしめき合っている。少しでも良い場所で戦士の決闘を見物しようと詰め掛けた悪魔たちによって、すでに客席の下段から中段は埋め尽くされていた。降世殿の入り口にも異形の波が押し寄せている。我先に建物の中へ押し入ろうとする悪魔たちは半ば暴徒と化していた。
会場周辺と同じく降世殿内部にも沢山の松明が設置され、大きな炎が決闘のリングと観客席を煌々と照らしている。
「スゲェ……。見ろよ。客席がどんどん埋まってくぜ。一番高い場所から見下ろすと壮観だな」
アンドラスは戦士の間から会場の様子を眺めていた。長方形の小さな格子窓に顔を目一杯近づけて、しきりに瞳を動かしている。もうかれこれ三十分以上はそうしているが一向に飽きる気配が無かった。
降世殿を訪れる悪魔の数が急に増えたのは、僅か一時間ほど前である。それまではずっと客席が埋まらず、降世殿の周りに集まっている悪魔の数も少なかった。余りの静けさに、果たして本当に数十万もの悪魔がやって来るのか? と樹流徒が疑問に思ったほどである。それが今や、果たして聖地を訪れた悪魔全員を降世殿に収容できるのか? という疑問に変わっていた。それほどの勢いで、一斉に大挙した悪魔たちが客席を埋めてゆく。きっと悪魔から見ても異様な光景だった。アンドラスが飽きもせずに客席の様子を眺めていられるのも納得である。
戦士の間には、アンドラスだけでなく他の戦士も全員揃っていた。
ガルダとアプサラスは元々それほど口数が多くなかったが、降世殿に大量の悪魔が押し寄せてからは、さらに喋る頻度が減っている。いかに彼らでも命を懸けた決闘の直前ともなれば多少は心境に変化が起こるのだろう。樹流徒もいつしか鼓動が高まり始めていた。
「血が滾ってくるよ。今まで数え切れないほど祭りに参加したけど、この興奮は何万年経っても変わらないねぇ」
部屋の真ん中に立つガネーシャも今までに無くやる気だ。たった数分前まで眠っていた者とは思えないほどの気迫を全身に漲らせている。時折眠たそうに下がっていた瞼も今は全開になっていた。
戦士たちの緊張感と戦意が高まる中、気がつけばいつの間にか客席の八割が埋まりつつある。
「さて……。もうすぐ日没だ。私は開幕式に出席してくる」
急に言って、ガルダが一人で部屋を出て行こうとした。
その背中に樹流徒は声を掛ける。
「俺たちは式に出なくてもいいのか?」
尋ねると
「うん。出なくていいんだよ。というか、ボクたちは式に出たくても出られないんだ」
ガルダの代わりにガネーシャが答えた。
彼が言うには、降世祭の開幕式は一風変わっており、太陽の国の王であるガルダと月の国の王であるアナンタを除いて、祭りの主役とも呼べる戦士たちは誰一人として式に参加できない決まりになっているという。何故そのようなルールが存在するのかと言えば、全ては不正行為を防止するためである。決闘の瞬間まで両国の戦士が接触しないようにすることで、スパイ行為や戦士に対する買収工作が行われる危険性を極力減らしているのだ。祭りの七日前から両国の戦士がジェドゥ内で接触できないように決められているのも、主に不正防止が目的だという。
「だからと言って、開幕式の出席まで禁じるのはやり過ぎ……って思うかい? でも実際、過去に何度か開幕式の中で不正行為が行なわれたから仕方ないんだ。それまではちゃんと戦士全員で開幕式に出られたんだけどねぇ」
とガネーシャ。
今から数万年前、開幕式に出席した戦士が不正行為を働いたという。その戦士は開幕式の中で身振り手振りを使って敵側にサインを送り、自分たちがどの戦士を何番手に出すか等の情報を相手方に知らせていたという。その見返りとして、敵国から大きな見返りを受け取っていたのだ。一種のスパイ行為である。また、スパイ行為を行っていたその戦士は、決闘でわざと負ける約束も敵国と交わしていた。この事実が発覚して以降、両国の戦士の接触は従来以上に相当厳しく制限されるようになり、また故意に敵国の有利となる行動を取った戦士には非情に厳しい処分が課せされるようになったそうである。
「ただ皮肉にも、そのルールが今となっては祭りを盛り上るのに一役買ってるんだよ」
「え。それは、どういう意味だ?」
「だって開幕式に戦士が登場しなければ、決闘の瞬間まで誰と誰が戦うのか、ほとんど誰にも分からないだろう? だから観客は一体どんな戦士が出てくるのか、戦いが始まる時まで楽しみに待っていられるのさ」
そのようにガネーシャは説明する。
樹流徒は異を唱えた。
「でも、俺たちの姿を見た悪魔から噂が流れているんじゃないか?」
降世殿に入る前、樹流徒たちを取り囲んだ大勢の悪魔がいる。彼らの口から噂が広まれば、他の観客も太陽の国のメンバー構成を知ることになるだろう。太陽の国だけでなく、月の国の戦士を目撃した悪魔もいるはずである。決闘が始まる前から既に多くの者が戦士の顔ぶれを把握していそうなものだった。
しかしその可能性をガネーシャは否定する。
「大丈夫。本物の噂に紛れて、偽の情報が大量に出回っているからね。直接ボクたちの姿を見た者を除いて、誰にも正しいことは判断できないのさ」
「そうそう。毎回色んな噂が大量に出回るもんだから、祭りを仕切ってる連中が決闘を盛り上げるためにワザと偽情報を流してるんじゃないかって言われてるくらいさ」
アンドラスが補足説明する。
彼らの話を樹流徒が聞いている内に、ガルダの姿は戦士の間から消えていた。
そのあと樹流徒とガネーシャが二言、三言交わしていると、会場がにわかに騒がしくなる。
「おい、見ろよキルト。アナンタが出てきたぜ。月の国の王だ」
窓の外を覗きながらアンドラスが手招きをした。たったいま客席から漏れたざわめきは、アナンタの登場により起こったものらしい。
樹流徒はアンドラスの隣に立って格子窓から会場の様子を見下ろす。
砂が敷き詰められた丸いリングの隅に、身の毛もよだつほど大きな影が蠢いていた。十本以上の頭部を持つ大蛇である。一体何メートルあるのか? 巨体のガルダやガネーシャさえも小柄に見えてしまうほど大きな蛇だった。全身を覆う鱗は青みがかった紫色に染まり、腹は白い。瞳の色は赤、黄金色、銀、紺碧など、頭部によってそれぞれ異なっていた。
ただの見掛け倒しではなく、恐ろしく強大な力を持つ悪魔だと分かる。アナンタの姿をひと目見た途端、樹流徒の肌がそそけ立った。そういえばアナンタが現・暴力地獄の魔王であったことを思い出す。
会場が再び騒がしくなった。
リングの一部が競り上がって、砂の下から金属製の檻が現れる。巨体のアナンタでも通れそうな桁外れに大きな檻だ。その中からガルダが落ち着いた歩調で現れた。
太陽の国の王と、月の国の王。深い因縁を持つ両雄がリングの端と端に立って向かい合う。彼らは互いの姿を見詰め合うだけで、それ以外は何もしなかった。相手を睨みもしなければ、口汚く罵ることもない。どちらも表面上は落ち着き払っているように見えた。
ただ、樹流徒にはガルダとアナンタの内側で黒い炎が渦巻いているのが分かった。闘気。殺意。憎悪。互いの存在に運命めいたものを感じる気持ち。そこから転じて生じた一種の親しみ。複雑な感情が両雄の間を激しく駆け巡っている。
最初は何も感じなかった客席の悪魔も、ガルダとアナンタが発する禍々しい気配を察知し始めたのだろう。ぶるっと異形の影が肩を震わせた。誰かの呼吸が次第に加速してゆく。会場のあちこちで観衆が息を飲んだ。不気味な静けさがリングを包む。
やがて息が詰まりそうな緊張感が会場内で急速に膨れ上がった。それが飽和状態に達したとき――
客席の数十箇所に設けられた出入口から、合わせて数百名の悪魔が飛び出した。出し抜けに現われた彼らは会場のあちこちへ散らばって、松明に灯る炎を次々と消してゆく。それにより降世殿の中は完全な闇に包まれた。ガルダとアナンタの強烈な気配が鎮まる。緊張状態から解放された観衆が安堵の吐息混じりにどよめき声を上げた。
「あッ! 始まるぞ」
客席の誰かが叫んだ。
辺りを包む騒々しい声が一旦小さくなり、すぐに地が割れんばかりの大歓声へと変わる。
会場内の東から太陽が昇り、西から月が昇り始めたのだ。魔空間が見せる幻像だろう。今日この場所に集まった悪魔たちが待ちに待った瞬間が遂に訪れたのである。開幕式の始まりだった。
ガルダの背後から昇る幻の太陽。アナンタの背後から昇る幻の満月。同時に出現した二つの天体は徐々に高度を上げ、会場の真上で重なり合った。
月と太陽は激しく混ざり合い、真ん丸な輪郭をおぼろげにさせる。そしていきなり弾けた。黄金の光と白銀の光がシャワーとなって一斉に会場内に降り注ぐ。興奮した悪魔が悲鳴にも似た雄たけびを上げた。異形の観衆が次々と立ち上がる。拳を天に突き上げる。歌う。騒ぐ。踊る。
会場内は瞬く間に歓喜と興奮の坩堝と化した。最早冷静な者など誰一人いない……そんな風に錯覚してしまうほど、圧倒的な感情の爆発だった。
樹流徒は我知らず自分の腕を握り締めていた。饒舌なアンドラスが放心したかの如く言葉を発さない。アプサラスとガネーシャもいつの間にか格子窓に張り付いて感情の渦に飲み込まれていた。
会場の興奮が収まるのに十分近くも要した。
光のシャワーが消え、客席が徐々に鎮まると、頃合を見計らったように松明の火が付けられる。会場内が再び温かい炎で照らされた。
リングの北側と南側が同時に競り上がり、地中から大きな檻が現れる。その中から異形の群れが飛び出してきた。その数、数千。
南側から現れた悪魔は真っ赤な太陽の面を被り、北側から現れた悪魔は青い満月の面を被っている。彼らは雄たけびを上げ、武器を手に、戦いの劇を演じ始めた。
降世祭は今でこそ五対五の決闘を行っているが、遥か昔は太陽の国と月の国のあいだで大規模な戦争が勃発していたという。その当時の光景を、リングに飛び出してきた数千の悪魔たちが演じているのだ。
南北両側の檻から現われた異形の戦士たちはリングを所狭しと駆け回り、戦いの風景を再現する。戦いで討ち死にを果たした(役を演じる)者たちは檻から地中へと戻ってゆき、両国の戦士が次から次へと観衆の前から姿を消した。最後には両国の戦士がたった一名ずつ残る。槍を構えた太陽の戦士。斧を振り上げた月の戦士。彼らは相打ちとなり、両国の戦争は引き分けで終わった。
最後の戦士が退場すると、リング上に出現していた檻が地中に沈んでいった。派手な劇の終幕に、鎮まりかけた会場が再び熱気を取り戻す。空気を押し潰さんほどの大歓声が至る方角から飛び交った。お祭り騒ぎというより、もう半狂乱である。
今度はその興奮が鎮まるのを待たず、次の演目が行われる。
再びリングの南北から巨大な檻が出現した。中から現われたのは楽器を携えた数千の悪魔たち。観客席の出入り口からも同じく楽器を手にした悪魔が次から次へと飛び出してくる。弦楽器、打楽器、金管楽器、木管楽器、ありとあらゆる楽器から溢れ出す音色が威風堂々たる曲を奏でた。観衆たちは興奮を飛び越えて陶酔する。会場全体の雰囲気に酔っ払う。
曲が進むと、北側の檻からから一人の美しい女が現われた。髪は黒く、瞳は黄金色に輝いている。四本の腕を持ち、二本の腕には琵琶と似た楽器を、残り二本に腕には聖典と数珠を携えていた。金と白が入り混じった衣を身に纏った彼女は、裸足でリング中央へ向かってゆく。足取りは軽やかでありながら洗練されていた。
――サラスヴァティ!
――サラスヴァティだ!
――なんと美しい。
観衆たちが、リングに現われた悪魔の名を呼ぶ。口々に感嘆の吐息を漏らす。
サラスヴァティの登場と共に激しかった曲調が変わり、大河の如く悠々と流れ出した。
リング中央に到達したサラスヴァティは琵琶と似た楽器を奏でる。その穏かで心安らぐ音は、降世殿の頂上に位置する戦士の間まで届いた。琵琶の糸が揺れるたび、樹流徒の胸は心地よいリズムで弾む。ガネーシャが全身を揺らし始めた。会場の雰囲気に酔っていた悪魔たちは我を取り戻し穏やかな表情になってゆく。柔らかい一体感が会場を包んだ。
十分程続いたサラスヴァティの演奏が終わると、会場中からほっとした吐息が漏れた。凍えそうな吹雪の中で温かいスープを飲んだときに口から出そうな、安らぎに満ちた吐息である。
役目を終えたサラスヴァティはリングから下がり、最後まで美しく軽やかな足取りで北の檻から姿を消した。
彼女と入れ替わるようにして、今度は南側の檻から異形の集団が数百名飛び出す。観客席の出入り口からもそれぞれ数十体ずつ悪魔が飛び出した。それに合わせて会場を包む音楽が穏やかな調子から一転、陽気な曲調に変わる。
ダンスタイムの始まりだった。会場中に散らばった悪魔たちは軽快な動きやアクロバティックな技を駆使して観衆を盛り上げる。リングの中央には黒猫の悪魔バステトの姿もあった。彼女の踊りは他のどの悪魔よりも滑らかで美しく、動きの大きさ自体は周りの悪魔よりもずっと控え目なのに誰よりも目立っていた。会場からバステト、バステトの大合唱が起こる。
派手に盛り上がり、鎮まり、また派手に盛り上がる。興奮のジェットコースターに観衆の心は完全に弄ばれていた。樹流徒の鼓動も速くなったり、遅くなったりと、刻々と変化する。
時間経過の感覚が麻痺してきた。長いような短いようなバステトたちの踊りが終わると、会場中に散っていたダンサーたちはそれぞれの出口から素早く退場して行った。
続いて天が鳴動する。降世殿の天井が左右に割れて動き始めたのだ。まるでドーム球場のような仕掛けだった。ゴリゴリと硬い音を鳴らして開く天井に、異形の群れがオ、オ、オとどよめいた。天井が完全に開くと、上空には青い満月が輝いていた。
「降世祭が日没から始まるのは、前回の決闘で月の国が勝利したからだ。もし太陽の国が勝った場合は、太陽が真上に輝いた時から祭りが始まるんだよ」
夜空の月を見上げながらガネーシャが言う。もし前回の降世祭で太陽の国が勝利していれば、今頃樹流徒たちの頭上に輝いていたのは満月ではなく、太陽だったというわけである。
青い月の神秘的な光に照らされて、観衆たちはまた鎮まりかけた。
が、夜空に轟音が放たれると、絶叫と、歓声と、興奮が蘇る。
降世殿の頭上で色とりどりの花火が大輪を咲かせた。絶えず放たれる閃光はめまぐるしく色を変えながら会場中を照らす。悪魔たちは夜空めがけて歓声を発していたが、いつしか口を開きっぱなしにしたまま、頭上に広がる幻想的な情景に目を奪われていた。
この花火も魔空間が見せる虚像なのだろうか? もしかするとそうかもしれない。ただ、このさい実物だろうと幻だろうと、大した問題ではなかった。美しいものは美しい。夜空に燦爛と輝く光に樹流徒もしばらくのあいだ魅入られた。
最後の花火が夜空に散ると、リング上に飛び出していた巨大な檻が静かに地中へ戻ってゆく。
未だ観衆の瞳は上空に向けられたままだった。花火が消えるや否や、どこからともなく現われた鳥の群れが降世殿の天井を抜けて会場に飛び込んできたからだ。
体の模様も大きさもそれぞれ異なる数千の鳥が会場内を旋回する。彼らの足には木製の浅い籠が吊るされていた。六芒星の籠目から色とりどりの花びらが覗いている。その花びらが無数の柔らかな雨となって会場中に降り注いだ。
花びらを撒く鳥たちは観衆の大歓声を浴びながら辺りを無秩序に飛び回った。が、やがて足に掴んでいた籠を客席に放り捨て、次から次へとリングの中央に降り立った。
これから何が始まるのだろうか? 期待に満ちた悪魔たちの視線が一ヶ所に集まる。その場所に固まった数千の鳥たちは、何の合図も無く一斉に羽をはばたかせて四方八方へと飛び立った。
悪魔たちが口を揃えて「あっ」「おっ」と短い声を発し、「アレは何だ?」と同じ場所を指差す。飛び立つ鳥の中心に、いつの間にか一体の悪魔が立っていた。
それは、トキの頭部と人間の胴体を持つ悪魔だった。古代エジプトの衣装を連想させる服に身を包み、月と太陽を上下に重ねたような黄金色の被り物を頭上に戴いている。右手にはヤシの木で作られた杖を持ち、左手にはアンク(生命を象徴する図形。十字架の上部を楕円形の輪にしたような形をしている)を模った大きなアクセサリーを握り締めていた。
舞い上がる鳥の中から突如現われたトキの悪魔は、派手な登場とは裏腹に、物静かで知的そうな佇まいをしている。同じ鳥の頭部を持つ悪魔でも、明るく陽気なアンドラスとは正反対の雰囲気を持っていた。
そのアンドラスが樹流徒に言う。
「アイツがトートだよ。今回の降世祭を仕切ってる悪魔だ」
「そうなのか。彼が……」
祭りを仕切る悪魔トートは、リングの東西に立つガルダとアナンタに視線を送った。それから会場をゆっくり見回して、観衆がざわつく中、おもむろに口を開く。
『ようこそ皆様、聖なる地ジェドゥへ。私、降世祭の運営進行という栄えある役を任されました、トートと申す者です。ご存じない方は、是非、以後お見知りおきを』
冷静沈着な性格を思わせる男の声だった。それは脳内に直接語りかけてくるように、樹流徒の頭の中で鮮明に響く。恐らく会場中の悪魔にも同じように聞こえているのだろう。
丁寧な言葉遣いで挨拶をするトートに、会場中からささやかな歓声が送られた。
トートの演説は続く。
『さて。今宵は太陽と月が重なり合う千年に一度のお祭り。そして千年に一度の聖なる儀式です。存分に騒ぎ、存分に楽しみ、しかし厳かにすべきときは己を律し慎み深く……我々の一人一人の手で、最高の祭りにしようではありませんか。そのためには皆様の協力が必要です。どうかここに集まった全員が祭りの主役とお考え下さい。皆様には主役にふさわしい振る舞いを期待しております』
最初よりも一段大きな歓声が起こる。
『それではこれより降世祭を開幕します。果たしてこの世界が変わるのか、保たれるのか、その瞬間を皆様の目で、耳で、全身の肌でお確かめ下さい』
そして最後に開幕宣言がなされ、降祭殿は本日一番の大喝采に包まれた。
霧が晴れるようにトートの姿が薄くなってゆく。彼の姿は会場を駆け巡る歓喜の雄たけびが止むよりも早くどこかへと消えてしまった。
約一時間の開幕式が終わり、その余韻が冷めると、会場はようやく本当の落ち着きを取り戻した。
客席の中を飛び交う会話は、開幕式の感想から、このあと始まる決闘の話題へと早くも移りつつある。
式に出席していたガルダが戦士の間に戻って来た。アナンタと見詰め合っていたときは凄まじい感情を内に燃やしていた彼だが、今はすっかり元の状態に戻っている。
「よう。お疲れさん。サラスヴァティの演奏やバステトの踊りが間近で見られるなんて羨ましかったぜ」
アンドラスが声を掛けると、ガルダは小さく頷いた。
「ああ、今回の開幕式は歴代の中でもかなり良かったほうだと思う」
と、どこか満足気に答える。
「ボクも存分に楽しませてもらったよ」
「たまには観客席以外から見る開幕式も良いわね」
ガネーシャとアプサラスもすっかり満足した様子だ。
ただ、戦士の間が和やな雰囲気になったのは、そのときが最後だった。
「さて。余計なお喋りはここまでだ。間もなく最初の決闘が始まる。全員、戦いに備えて気持ちを引き締めろ」
ガルダは一転真剣な目つきで、戦士たちの顔を一人一人見回す。
周囲の空気が急に張り詰めた。アンドラスがゴクリと喉を鳴らす。
「ところで、もう戦う順番は決めてあるんだろうね?」
ガネーシャが問うと、ガルダは首肯した。
「二番手以降は戦況に応じて変える可能性もあるが、一番手は既に決めてある」
「それは?」
全員の視線がガルダの口元に集まった。
ガルダはすぐに告げる。
「アンドラス……。初戦はオマエに任せた」
「え。オレ?」
壁際に立っていたアンドラスは一瞬驚いた目をした。しかしガルダから真剣から眼差しを向けられると、その瞳に熱い闘士を宿らせた。
「よーし任せとけ。魔界中にオレの名を轟かせてやる。今日がアンドラス伝説の幕開けだ」
己の中から恐怖を追い出そうとするかのように、彼はけたたましく吠えた。