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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
246/359

掟破り



 アンドラスは力強く地面を蹴って垂直に跳ぶ。ほぼ同時、ガチンと硬い音が鳴って、地中から現われた二つの顎が口を閉じた。

「危ない!」

 鳥人の一体が叫ぶ。それだけ際どいタイミングだった。アミトの反撃があとほんの僅かでも早ければ、アンドラスの足は巨大な口に食いちぎられていただろう。まさに間一髪。アンドラスは寸でのところで難を逃れた。

 アンドラス本人も地中からの奇襲にさぞ驚いただろうが、戦いを見守る者たちにとっても心臓に悪い場面だった。無論、樹流徒も背筋がひやりとした。自分自身が敵と戦っているときとは別種の緊張感を覚えた。


 獲物を仕留め損ねた巨大な口は、底なし沼に沈むようにゆっくりと地中へ帰ってゆく。

 その最中にも戦いは次の展開へと進んでいた。かろうじて真上に逃れたアンドラスは羽を使って宙に静止すると、手に握り締めた剣をアミトめがけて投じる。アンドラスの手から離れた剣は刀身に雷を纏い、乾いた音を発しながら急加速した。それは落雷の如き目にも留まらぬ速さでアミトの頭部めがけ落下する。


 アミトは回避の挙動を見せなかった。彼女は驚くべき方法でアンドラスの攻撃を防ぐ。

 アンドラスが剣を投擲しようと腕を振りかぶったとき、後ろから強い風が吹いたわけでもないのにアミトの(たてがみ)がふわりと前方へ折れた。独立した意思を持つ生物のような動きだった。奇妙な動き見せる獅子の鬣は狐色から銀色へと変色し、さらに急激なスピードで背を伸ばす。最終的にロープと呼べるほど長くなったそれは網目状に絡み合ってアミトを守る盾となり、頭上から落下した雷の剣を受け止めた。


 硬い物同士をぶつけ合った音がして、盾に跳ね返されたアンドラスの剣が宙を舞う。

 銀の(たてがみ)はアミトの身を守ったばかりでなく、次の瞬間には恐ろしい凶器と化す。網目状に絡んでいた銀色の毛が一斉に解けて上空を指した。それらは先端を鋭く尖らせた針となって次から次へと射出される。月の光を反射して輝く数百本の針がアンドラスの元に殺到した。


 反撃を予知していたのか、アンドラスは漆黒の羽で空気を叩きつけて急上昇し、地上から襲い来る針の上を軽々と飛び越える。さらに逃れた先で反撃する余裕まで見せた。アンドラスは掌を重ねると紫色の炎を放つ。炎は球体に形を変え、激しい火花を散らしながら標的を襲った。


 頭上から降ってくる炎にアミトは背を向ける。と言っても、別に逃げ出したわけではない。アミトはアンドラスの攻撃を背中で受け止めたのだ。激しい火花が八方に散って、大きな炎と灰色の煙がアミトの背中で揺れた。チリチリと音を鳴らして獅子の毛皮が熱に溶けてゆく。その下から焼き爛れた皮膚が露わになった。

 紫色の炎を背負ったままアミトは上空のアンドラスを仰ぎ見る。その落ち着いた表情は、炎に身を焼かれながらもアミトが全く痛みを感じていない事実を物語っていた。

 硬化する前足。雷の剣を跳ね返した銀の(たてがみ)。そして炎に焼かれても痛みを感じない胴体……鉄壁の防御を誇るアミトに致命打を与えるのは容易ではないだろう。彼女に痛覚が無いのだとしたら降伏させるのはもっと難しい。無用な殺生を好まない樹流徒としては対戦相手にしたくないタイプの悪魔だった。


 時間切れを待てば勝てるアンドラスだが、彼は尚も果敢に攻めてゆく。炎が防御されたと見るや否や、虚空に出現させた新しい剣を握り締めアミトを睨んだ。そして羽をいっぱいに広げて下降すると、地面スレスレを滑空しながら標的めがけて突進する。両者の間合いが近付いた刹那、剣を前に突き出した。

 対するアミトは不意に横から突き飛ばされたかの如き瞬発力で低く跳ねる。剣の切っ先とアンドラスの突進を回避してわき腹から砂に着地すると、身を伏せたまま鬣を逆立てた。銀色に変色した鬣は長い針と化し、アミトの頭部から一斉に発射される。

 かたやアンドラスは明らかに攻撃の段階で相手の回避と反撃までを見越しており、突進をかわされた直後には旋回を始めていた。アミトの姿を振り返るまでも無く、背後から襲い来る針の雨をかわす。


 互角の勝負だった。やはりアンドラスは多くの悪魔の中から選ばれた戦士だけのことはあるし、アミトも自信満々に自分を売り込みに来ただけの実力を持っている。双方とも強力な悪魔だ。

 勝負開始から一進一退の激しい攻防が繰り広げられているものの、両者共にほぼ無傷。たった五分という短い時間で、この戦いに決着がつくようには見えなかった。

「アンドラス……このままいけば何とか逃げ切れそうだな」

 ガネーシャもそう呟いている。勝負の残り時間はあと一分くらいだろうか。多くても二分は無いだろう。アンドラスの勝ちはもう目の前だった。


 ただ、命がけの真剣勝負に予想外の展開はつきものである。(こと)に悪魔はどのような能力を秘めているか分からないので、人間同士の戦いよりも予想外の展開は起こり易い。

「さて。ここからどうなるか……」

 ガルダが独り言を呟く。

 事態が大きく動いたのは、その直後だった。


 アミトの巨体が音も無く宙に浮く。陸上動物を混成した姿を持つ彼女だが、外見に似合わず飛行能力を有していたのである。異形の獣が、まるで透明な坂を上るように空気を蹴って夜空へと駆け上がった。

 迎え撃つアンドラスは、敵に飛行能力があると知っていたようである。あるいは予想の範疇だったのだろう。冷たく輝く月を背にして、彼は迎撃の構えを取っていた。その両手にはいつの間にか剣が一本ずつ握られている。アンドラスは片方の剣をアミトめがけて投擲すると、そのあとを追って自身も飛び出した。


 投じられた剣は雷を纏ってアミトの頭部を正確に狙う。アミトは宙を疾走しながら獅子の鬣を銀色に輝く網目状の盾に変化させ、先ほどと全く同じ方法でアンドラスの剣を防御した。

 恐らくそれがアンドラスの狙いだったのだろう。アミトが鬣を変化させた瞬間、アンドラスは羽を思い切りはばたかせ急加速し、敵との間合いを一気に詰めた。すれ違いざま、相手の胸を狙って剣を横に振り払う。銀の鬣はアミトの頭部全体をカバーしているが、そこ以外はガラ空きである。

「入った!」

 二つの影が空中で交差するとき、ガネーシャが叫んだ。同じ瞬間、樹流徒もアンドラスの攻撃が入ったと確信した。アンドラス本人さえそう思ったはずである。


 彼ら全員の予想をアミトは裏切った。アンドラスの剣は完全には振り抜かれず、アミトの胸を切り裂く寸前で停止していた。完全に決まったかと思われたアンドラスの一撃は、アミトに防がれたのだ。

 アミトは口から吐き出した腕で、剣を握るアンドラスの手首を掴んでいた。ただし赤い腕ではない。アミトの口から飛び出したのは青い腕。彼女は体内にもう一本別の腕を隠し持っていた。


 空中の二体はもつれ合いながら落下し、一切減速せずに砂の大地に墜落する。両者の周りに大きな砂煙が舞い上がった。

 それが晴れたときには二つの影が地上で激しく踊る。機先を制したのはアミト。異形の獣は見た目通りの俊敏な動きでアンドラスに飛びかかった。アンドラスはその場から逃れようとしていたが、相手の突進を受けて背中から倒れた。

 アミトがアンドラスの上にのしかかる。負けじとアンドラスも全開にした(くちばし)から超音波を放って抵抗した。神経を蝕む不快音にアミトは顔を歪めたが、それでも彼女は決して獲物を逃しはしない。前足でアンドラスの両腕をしっかりと押さえつけていた。これではアンドラスは逃げられない。


 アンドラスの息が途切れて、超音波が止む。

「ここまで良く粘ったわね。でも私の方が一枚上手だったみたい」

 アミトは勝ち誇ったように笑う。

 獅子の爪が食い込んだアンドラスの腕から青い血が滲んだ。アンドラスは腰を捻ったり脚を暴れさせたりするが、アミトの巨躯はびくともしない。

 鰐の口がゆっくりと開いた。巨岩を丸かじりにできるほど大きな口の中には、長い牙と短い牙が無秩序に並んでいる。その牙が音も無くアンドラスの頭部に迫った。最早、万事休すか。鳥人の二、三名は顔を背けて、これから始まるであろう残酷なショーの見物を拒否する。

 樹流徒は迷った。今すぐにアンドラスの窮地を救うべきか否か。アミトは別にルール違反は犯していない。それでもアンドラスを援護して彼の命を救うべきか。


 ――そこまでだ!


 鼓膜を突き破らんばかりの大声が一帯に轟いた。

 アンドラスとアミトを含めた全員が一斉に声の発生源――ガルダの顔を見る。

「時間切れだ。今、勝負は終わった」

 ガルダは改めて大声でそう告げた。

「終わった……」

 誰かが鸚鵡(おうむ)返しに言う。そう。たった今、勝負開始から五分が経ったのだ。最後の最後でアンドラスは逃げ切ったのである。

 鳥人たちの口から安堵したような吐息が漏れた。樹流徒も内心で胸を撫で下ろす。

「一時はどうなる事かと思ったけれど、何も起こらず済んで良かったわね」

 アプサラスの言葉に、ガネーシャが頷いた。


 しかし……様子がおかしい。

 アミトがその場を動こうとしないのだ。彼女はアンドラスを腕を押さえ込んだ手を()けるばかりか、さらに握力を込める。獅子の爪はより深くアンドラスの腕に食い込み、傷口から新たな血がこぼれ出した。

 アミトの耳には試合終了の声が聞こえなかったのか? そんなはずはない。アミトも確かにガルダの声に反応してそちらに顔を向けていたのだから。

「おい。五分経ったぞ。戦いは終わりだ」

 アンドラスが言うと、アミトは口の隙間からふ、ふ、と怪しい声を発する。

「ええ、そうね。確かに時間切れね。でも、もし今ここで私がアナタを殺せばどうなるかしら? きっとガルダは私を戦士として迎え入れてくれるんじゃない?」

「何だと?」

「だってそうでしょう? 降世祭は五名揃わなければ出られないのよ。かと言って、今更新しい戦士を探している時間もない。だからアナタさえ消してしまえば、ガルダは私を仲間にする。そうせざるを得ないのよ」

「アミト……。さてはオマエ、最初から制限時間なんて守るつもりなかったな?」

「あら、なかなかお利口さんじゃない。良く分かったわね。それじゃあ正解のご褒美としてなるべく苦しまないように殺してあげようかしら」

 アミトの口からするりと赤い腕が伸びる。相手の心臓を握りつぶす、死の腕だ。

「おい、やめろ……。本気か?」

 アンドラスは目を剥いて全身を暴れさせる。しかし逃げられない。

「じゃあね、アンドラス」

 赤い腕がアンドラスの首元まで伸びた。


「あっ」

 鳥人の一体が短い叫びを上げる。

 その声に反応したか、アミトは目をいっぱいに見開いて、大袈裟なほど勢い良く後方へ跳躍した。

 半瞬と経たず異形の獣がいた場所を氷の矢が立て続けに何本も通り過ぎてゆく。 


 樹流徒の攻撃だった。勝負が終わったにもかかわらずアンドラスの上から降りないアミトを不審に思った樹流徒が、逸早く牽制攻撃を放っていたのだ。アミトが勝負のルールを破ってアンドラスを殺そうとした今、彼に攻撃を躊躇う理由は無かった。

 

 アミトの拘束から逃れたアンドラスは、素早く立ち上がって身構える。

 しかしアミトは眼前の悪魔には目もくれず、遠く離れた樹流徒のほうを恨みがましい目付きで凝視していた。

「おい。どこ見てるんだよ?」

 アンドラスに声を掛けられると、アミトは思い出したようにそちらを向いて、不敵に笑う。

「まあいいわ。こっちが駄目なら月の国に自分を売り込むまでよ。アナタたちの情報を手土産に、アナンタと交渉させて貰うわ。思わぬ収穫もあったことだしね……」

 アミトは横目を使ってもう一度樹流徒のほうをちらと見る。どうやら彼女は樹流徒たちに関する情報を月の国に提供する代わりに、自分を月の国の戦士に加えてもらうつもりらしい。

「じゃあまた降世祭で会いましょう。私を仲間にしなかったことを後悔させてあげる」

 最後にそう言い残すとアミトは去っていった。これから大急ぎで月の国へ向かうのだろう。わざわざここまでガルダを追いかけてきたというのに、引き際は実にあっさりしていた。


 異形の獣はあっという間に地平の彼方へと消えた。

 戦いの余韻が冷めてきた頃、かろうじて生還を果たしたアンドラスが皆の元に戻ってくる。

「助かったぜキルト。オマエが援護してくれなかったら、多分オレは死んでたよ」

 アンドラスは真っ先にその礼を言った。

「いや。形はどうあれ、勝ったのはアンドラスだからな」

 樹流徒が答えると、その背後にガルダが立つ。

「良く戦士の座を守ったな。怪我も大したこと無さそうでなによりだ」

 と、アンドラスの健闘を称えた。

 危うく命を落としかけたアンドラスは、円らな瞳を大きくした。

「冗談じゃないぜ。アミトの挑発に乗ったオレ自身にも多少の責任はあるけどよ。もうちょっとで殺されるところだったんだぞ」

「だが、こうして生きているのだから良いではないか」

 ガルダは結果論を述べて軽く笑う。その横からガネーシャが口を挟んだ。

「笑っている場合じゃないと思うんだけどなぁ。もしアミトが本当に月の国と接触したら、こちらが多少不利になるんじゃないか?」

 そうかもしれない、と樹流徒は心の内で同意した。月の国はアミトの口を通じて太陽の国がどんな戦士を揃えたのか把握できる。一方、こちらは対戦相手が誰なのか全く分からない。この差は大きいのではないだろうか。例えば、こちらのメンバーに応じて月の国が戦闘上、相性の良い悪魔を用意してくるかもしれない。もしそうなれば、決闘では大なり小なり不利な展開になりそうだった。

 だが、その危険性をガルダは否定する。

「心配無用だ。先ほどアミトが言ったように、我々に新しい戦士を探している時間は無い。それは月の国にも言えることだ。たとえこちらの情報が相手に知れ渡ったとしても、月の国が我々の戦力に合わせて戦士を変更している暇など無い。要するに、今更我々の情報に大した価値などありはしないのだ」

「言われてみれば、確かにそうかもね」

 とアプサラス。

「そもそも黄金宮殿で選抜試験を行うのが降世祭直前なのも、敢えて早い段階で戦士を選ばないようにするためだ。こちらの情報が漏れて、月の国に対抗策を練られるとまずいからな」

「はぁ……。そのような事情があるとは存じませんでした」

 鳥人が感心したように唸る。彼らも初めてこの話を知ったらしい。

「じゃあ、アミトが月の国に接触してもこっちが不利になることはないんだな。アミトのヤツ、オレたちの情報を手土産にアナンタと交渉するつもりらしけど、門前払いを食うんじゃないか?」

「それはどうだろうな? アミトほどの強者ならば純粋な実力だけで向こうの戦士に選ばれてもおかしくない。それに我々の情報に大した価値が無いとはいえ、全く無価値というわけでもないのだ。もしかすると決闘の舞台で再びアミトと出会うことになるかもしれんな」

「まあ、ボクは報酬さえ貰えればそれでいいよ。国の勝ち負けとか、有利・不利とか、良く良く考えてみれば大した問題じゃないんだよねぇ」

 さもどうでも良さそうに言って、ガネーシャは長い鼻をゆらゆらと揺らした。


 アミトの乱入という思わぬ出来事は起きたが、戦士たちは特に何事も無かったかのように改めてオアシスのほとりで休憩を取る。樹流徒とガネーシャはただ砂の上にジッと座って湖の水面を眺めていた。戦闘で砂にまみれたアンドラスは水で全身を洗っている。幸いにもアミトの爪に刺された腕の傷は大した怪我ではなかったらしく、既に出血は止まっていた。


 そしてアプサラスはというと、ガルダの隣に立っていた。

 彼女は少しのあいだ黙っていたが、ガルダから話しかけてくる気配が無いので、頃合を見計らったように口を開く。

「ガルダ……。アナタ、アンドラスを助けたわね? 結果的に助ける格好になった、と言ったほうが良いかしら」

 ガルダは顔だけアプサラスのほうに向けるが、何も言わない。

「アナタはさっき、まだ五分経っていないにもかかわらず戦いを止めたわ。本当はもう少し時間が残っていたはずよ。ガルダに限って時間の測り間違いをするなんてことは有り得ないでしょうしね」

「……」

「これはあくまで私の憶測だけれど、アナタは、アミトが制限時間を守らないことを見抜いていたんじゃないの? だからこちらも五分間という制限時間を破って、本来よりも少し短い時間で勝負を終了させた。目には目を、掟破りには掟破りを、というわけね。試合を止めたアナタのほうがアミトよりも先にルールを破ったわけだけれど、これも一種の意趣返しと呼んで良いのかしら?」

「アミトの性格はそれなりに知っているつもりだ」

 ガルダはそれだけ言って、わずかに目元を緩ませた。


 結果的にアミトの暴走を止めたのは樹流徒の攻撃だったが、もし樹流徒が動いていなければ、ガルダがアミトを止めていたのかもしれない。

 また、もしアミトが制限時間を守ってアンドラスに危害を加えようとしなかった場合、ガルダはアンドラスの代わりにアミトを戦士に選んでいたかもしれない。

 全ての真実はガルダのみぞ知ることろである。


 アミトの影響により休憩は少しだけ延長されたが、間もなく太陽の戦士たちはオアシスを発った。

 アンドラスはすっかり元の機嫌を取り戻している。怒りが持続しないタイプなのだろう。彼はアミトに対する怒りも、ガルダへの不満も一言も口にしなかった。代わりにしゃがれた声で陽気に歌をうたい、他愛も無い話をして場を和ませた。足取りも他の者たちより軽い。

 

 しかしながらオアシスを離れて三日三晩も歩き続けると、流石のアンドラスでも陽気が続かなかった。

 ガルダから事前通告があった通り、オアシスを最後に目的地まで休憩する場所は無いようである。毒沼が点在する砂漠を抜ければ、先にあるのは岩だらけの砂漠。そこを抜ければまた毒沼と砂漠。ずっとその繰り返しだった。これといって目新しい景色も現われず、短い昼と長い夜だけが繰り返される。ほとんど表情を変えない世界を歩き続けている内、太陽の国の一行はすっかり沈黙していた。何か喋ろうにも、すでに話題の種は尽きている。

「そろそろ中間地点に差し掛かるな」

「そうですね」

 というガルダと鳥人のやりとりを最後に、もうかれこれ一、二時間は誰も言葉を発していなかった。


 そんな彼らが数時間ぶりに口を開いたのは、前方の景色にようやく変化が訪れた時であった。

 樹流徒たちの前方に、紫色に濁った湖が横たわっている。見れば、それは広大な毒沼だった。ドロドロした水の中に、痩せきった木々が点々と佇んでいる。その内の一本には動物の死骸らしきモノが引っかかっていた。誤って沼に足を踏み入れてしまった生物だろうか。死体は半分腐敗しており、皮膚の隙間から黒ずんた肉と白い骨が覗いていた。


 太陽の国の一行は、視界いっぱいに広がる毒沼の数歩手前で横一列に並ぶ。

「今回もこの毒沼を歩いて渡らなきゃいけないのかぁ……。でも迂回すると降世祭に間に合わなくなっちゃうから、仕方ないね」

 ガネーシャは少しだけ憂鬱そうだ。

「オレたちは空を飛べるからいいけど、ガネーシャは飛べないもんな」

「うん。ボクも短時間なら飛べるんだけどね。とてもじゃないけどこの毒沼を越えるのは無理だよ」

「沼に入るとどうなるんだ?」

 樹流徒の素朴な疑問に、ガネーシャが答える。

「少なくとも死ぬ心配は無いよ。ただ、この沼に浸かると二、三日間くらい皮膚が腫れて物凄く痒くなるのさ。だから、できれば通りたくないんだよねぇ」

「頑丈なガネーシャだから皮膚が腫れるだけ済むが、普通の悪魔だったら肌から浸透した毒により三分と経たず死に至るだろう。あんな風にな」

 そう言って、ガルダは木に引っかかった動物の死骸に視線を送る。

「太陽の国が勝ちさえすれば、この毒沼も綺麗な湖に変わるんだろ?」

 誰にとも無くアンドラスが尋ねると、アプサラスが「そうよ」と答えた。

 彼らがそのようなやり取りをしているあいだに、鳥人たちは背負っていた水瓶を下ろして腹に抱えている。水瓶を背負ったままでは翼を広げられず、空も飛べないからだろう。水瓶を前に抱えて飛ぶしかないのである。


「さて。泣き言を言っても仕方無いからね。さっさと行こうか」

 ガネーシャは諦めて毒沼を渡ろうと、小さく一歩前に踏み出した。

 が、次の一歩を隣に立つアプサラスが止める。

「待ってガネーシャ。ここは私に任せてくれない?」

 言って、彼女はガネーシャの返事を聞くよりも早く、毒沼に向かって手をかざした。


 一体何をするつもりだろうか、と全員が注目する中、アプサラスの手から光が溢れる。

 その白みがかった水色の光は、空中で広がり、大量の粒に姿を変え、毒沼に降り注いだ。雪の粒が水色の光を纏って舞っているように見える。

 その美しい光景に皆が目を奪われていると、光の粒が降り注いだ場所を中心に変化が起こり始めた。紫色に染まった毒沼の色が段々と薄くなり、汚泥よりもドロドロした水質は水らしい潤いを取り戻してゆく。その変化は驚くほど急速に遠くまで広がって、沼全体を浄化していった。神秘的で不思議な現象に、鳥人の数名が驚嘆の吐息を漏らす。


 ややあって、見るも毒々しかった沼は、あのオアシスにも負けないほど美しい湖に変貌を遂げた。

「驚いたよ。アプサラスがこんな不思議な力を持っているなんて知らなかった」

 ガネーシャはこの上なく嬉しそうだ。

「降世祭に備えて幾つか新しい能力を身につけておいたのよ。今、私が使った毒を浄化する能力もその一つよ。でも、本来この力は私が敵から毒を受けたときに解毒するためのものであって、それがこんな形で役立つとは思わなかったわ」

 とアプサラス。

「とにかく凄い力だ。これなら我々も毒沼の中を歩いて行けるな」

 鳥人たちも嬉しそうだ。気が早い者は腹に抱えた水瓶をもう一度背負い直している。

「でも、残念ながら私の能力はいつまでも続かないわ。この湖も徐々に元の毒沼に戻ってしまう。だから今の内に急ぎましょう」

 アプサラスの説明を聞いて、ガネーシャはすぐさま湖に飛び込んだ。



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