焦熱と渇き
「どうぞ。中へお入り下さい」
そう言いながら鳥人が扉を開いた。
ガルダとの戦いを終えた樹流徒が連れて来られた場所は、宮殿一階の最奥に位置する部屋だった。
開かれた扉の向こうには悠々とした空間が横たわっている。奥には人が通れるほど大きな縦長の窓が何枚も並んでいた。天井の数箇所には大きなランプが吊るされており室内は驚くほど明るい。床にはペイズリーと良く似た美しい柄の刺繍が施された絨毯が敷かれていた。一方、壁には数々の鳥や動物が草原で戯れている絵画が淡い色と控えめな大きさで描かれている。部屋の真ん中には大きな円卓が置かれ、十の椅子に囲まれていた。来賓室と呼ぶに相応しい、落ち着きと上品さを備えた部屋である。
鳥人に促されるまま、樹流徒は扉の奥へと進む。
誰もいないかと思いきや、室内にはニ名の先客がいた。どちらも若い人間の形をした悪魔だ。「姿」ではなく「形」と表現するのが適切なほど、肌の質感が非生物的な悪魔なのである。まるで彫像かマネキンに不気味な塗装を施したような悪魔だった。両者とも身長は樹流徒と同じくらいあるが、全身のラインが平坦で、男とも女ともつかない体型をしている。
片方の悪魔は赤く短い髪と黄金の瞳を持っていた。肌は漆黒に染まり、体のあちこちに蛇が絡み付いているような曲線模様が刻まれている。全身タトゥーに見えるその模様は、冷たそうな肌の質感を補おうとするかのように情熱的な炎の色に染まっていた。
もう片方の悪魔は肩まで伸びた派手な銀髪が目を引く。目の色は赤。肌は褐色で、こちらも全身に蛇を絡みつかせたような模様が入っていた。模様の色は紫がかった黒。
一種のアートみたいな容貌を持った二体の悪魔は、樹流徒が入室するなり、彼の顔を一瞥した。そして挨拶を交わすでもなく、かといって険悪そうな雰囲気を醸し出すでもなく、ただ黙って視線を外す。
「では、試験が終了するまでこの部屋でおくつろぎ下さい」
ここまで樹流徒を案内してきた鳥人がそう言って、扉を静かに閉じる。
室内は樹流徒と悪魔二体の、計三名だけになった。
この悪魔たちも試験を突破してここに案内されたのか?
樹流徒は二体の悪魔を交互に見る。ふと、片方と視線が重なった。
目が合ったその悪魔――赤い短髪のマネキンはおもむろに口を開く。
「この部屋に来たということは、オマエも選ばれた戦士みたいだな」
悪魔は外見通り中性的な声をしていた。反面、意外と言うべきか、生物感に欠けた見た目とは裏腹に凛々しくて張りのある口調をしている。
「ということは、やはりお前たちも中庭の試験を突破したのか?」
樹流徒が尋ねると、赤髪の悪魔は首肯した。
「そうだ。私の名は“タウティ”。魔界では焦熱の悪魔などと呼ばれている」
「焦熱の悪魔……」
「そしてこっちが渇きの悪魔“ザリチェ”。私の相棒だ」
タウティと名乗る悪魔は、隣に立つマネキンの肩を軽く叩く。そのマネキン――ザリチェと呼ばれた銀髪褐色肌の悪魔は口元に無言の微笑を湛えた。
「俺は……」
樹流徒も名乗り返そうとすると
「言わなくても分かってる。首狩りキルトだろう? 魔界のあちこちで随分派手に暴れているそうじゃないか。オマエに殺された悪魔は数知れない、とも聞いているよ」
タウティは淀みなく語る。その言葉自体は樹流徒を責めるようなものだったが、口調が明るくさっぱりしているせいか、嫌味には聞こえなかった。言葉の裏に棘が隠されているようにも感じない。
お互いの印象は兎も角、相手の素性が分かって樹流徒は警戒しかけた心を緩めた。タウティとザリチェも樹流徒と同じく太陽の国の戦士としてガルダに認められたらしい。とすれば、この二人は樹流徒にとって共に降世祭で戦う仲間である。
「私たちは降世祭の主役だからな。お互い派手な戦いをして、祭りを盛り上げてやろうじゃないか」
タウティは自分の胸に親指を突き立てる。
「ああ」
樹流徒は相槌を打った。派手な戦いをするつもりも、大会を盛り上げるつもりも無いが、互いの健闘を祈った。
が、笑みを浮かべようとした樹流徒の表情が途中で固まる。
いや……。少し妙だ。
彼は心の中でそう呟いた。今の状況に違和感を覚えたのだ。二体の悪魔がこの場にいることへの違和感である。
タウティとザリチェは並の悪魔ではない。ただ向かい合っているだけで、強い戦士だと分かる。二人が中庭での試験を突破したというのも頷けた。正直な感想を述べれば、樹流徒はこの二体の悪魔が弱くも無い代わりに強大な悪魔だとも思えなかったが、それはあくまで樹流徒個人の感じ方であり、ただの憶測に過ぎない。魔王ラハブが女の姿に化けて実力を隠していたように、タウティやザリチェが真の力を隠し持っていたとしても何ら不思議ではなかった。
ただ、仮にタウティとザリチェが相当な実力者だったとしても、樹流徒も含めて既に三人もの戦士が決定しているという点がどうも引っかかった。降世祭出場メンバーを選出するのが、些か早過ぎる気がするのだ。太陽の国の戦士は五人。既にガルダは決定しているので残る椅子はたったの四つ。なのに現段階で三名も決定しているというのは、少し早すぎではないだろうか。まだ中庭には大勢の悪魔たちが残っている。その中にはタウティやザリチェ以上の実力者が隠れているかも知れない。なるべく強い戦士が欲しいガルダの立場からすれば、試験参加者全員の実力を見てから出場メンバーを選ぶのが妥当ではないか?
決定的な違和感ではない。それでも樹流徒は少し釈然としないものを感じた。
彼が入り口の傍に突っ立ったまま考え込んでいると……
「キルト。もう少しこちらへ来たらどうだ? そんな場所に立っていたら、誰かが入ってきたとき邪魔になる」
銀髪と褐色肌のザリチェが初めて口を開いた。ザリチェはタウティとは真逆で落ち着いた声色の持ち主だった。
「ああ。そうだな」
ザリチェの言うことはもっともだったので、樹流徒は扉から離れる。
入れ替わるように、窓際に立つタウティが、樹流徒の横を通り過ぎて、入り口の前に立った。彼(女)は扉の隙間から外を覗くような仕草を見せる。それからザリチェの方を振り返って
「次、この部屋に戦士が来るのはいつ頃だろうな?」
そう尋ねた。
「残り一枠だからな。ガルダもかなり吟味して選ぶはずだ。多分、試験が終わるまで戦士は来ないだろう。ガルダの配下が我々の様子を見に来ることはあってもな」
「なるほど。それもそうだ」
納得しながらタウティは扉に背を預ける。
「本来であれば、まだ全員の試験が終わっていない今の段階で、この部屋に三名もの戦士が揃うことは有り得ない。今年だけは例外中の例外と言って良いだろう」
「つまり私たちやキルトは特別……というわけか」
「そう。自分で言うのも何だが、私たちは受験者の中でも戦闘能力が飛び抜けて高かったのだ。だからガルダは試験が終わるのを待たず、私たちを戦士として認めたのだろう」
タウティとザリチェはそのようなやり取りをする。何気ない会話のつもりだったのか。それとも敢えてその話題を口にしたのか。まるで樹流徒の疑問を察してそれを解消するために交わされたような会話だった。
もし仮に、このやり取りが樹流徒を納得させる意図で行われたものだとすれば、生憎それは逆効果である。些か説明的な二人の会話は、樹流徒の疑問を解消するどころか、却って彼の疑念を深めた。
もしかすると、この悪魔たちは……。
樹流徒は注意深い目でタウティとザリチェを交互に見やる。
その視線に気付いたのだろう、二体の悪魔は顔を見合わせて、緩やかに口角を持ち上げた。樹流徒の憶測が現実に変わった瞬間だった。
樹流徒が身構えたと同時、悪魔たちの全身に争気が漲る。
「どうやら私たちの芝居を見抜いたようだな。良い洞察力だ。それともタダの勘か?」
タウティの手元に真っ赤な刃が出現した。赤い金属で作られたナイフだ。
一方、ザリチェは指先からひび割れた爪が伸ばし、さらに手中に一本の短い杖を出現させた。紺碧の宝石を頭に戴いた木製の杖である。
やはりそうか、と樹流徒は得心した。タウティとザリチェは降世祭出場メンバーではない。彼(女)らは樹流徒をテストするためにガルダが雇った者、もしくはガルダの配下なのだ。二人とも初めから受験者と戦うためにこの部屋で待機していたのだろう。
要するに、樹流徒はまだ太陽の国の戦士として選ばれていないのである。思い返してみれば、ガルダは樹流徒に対して「合格だ」とは言ったが「降世祭に出場させる」とは一言も発しなかった。樹流徒が勝手に戦士に選ばれたと勘違いしていただけなのである。中庭での戦いは言わば一時審査であり、樹流徒はそれに合格したに過ぎない。まだ次の審査が控えていたのだ。その第二次審査の相手がタウティとザリチェなのだろう。
樹流徒がこの部屋に入った時、二体の悪魔は揃って窓際に並んで立っていた。しかし樹流徒と入れ替わってタウティが入り口に立ったことで、現在は二体の悪魔が樹流徒を挟むような格好になっている。ザリチェが樹流徒に対して扉から離れるように言ったのも、今の状況を作り出すためだったのだ。
この位置関係は良くない。瞬時にそう判断した樹流徒は跳躍する。獣の如く機敏な動きで跳んだ彼の影は、部屋の中央に置かれた円卓の向こう側に降り立った。
樹流徒の動きが予想外に速かったのだろう。二体の悪魔は虚を突かれた顔をしていた。その寸隙を突いて樹流徒は眼前の円卓を思い切り蹴り飛ばす。
蹴りを受けた円卓はその場から勢い良く弾き出され、床を滑ってタウティを襲った。
円卓と壁に挟まれそうになったタウティは、真上に跳躍して回避する。その動きを先読みしていた樹流徒は相手が逃れた先めがけて跳んだ。
空中で体を捻り回転の力を加え、タウティの頭上から踵落としを繰り出す。タウティは両手を交差してカードしたが、頭上から叩きつけられた威力に抗えず落下。円卓と衝突した。木製の円卓はメキメキと音を立てて潰れる。
一方のザリチェは樹流徒が着地した瞬間を狙おうとしたようだが、突然混乱をきたしたように視線を左右に動かしていた。樹流徒が空中で方向転換をしたばかりか、四つに分裂したからだ。魔王級の悪魔さえも欺いた分身能力である。
三体のダミーと本物の樹流徒が一斉に宙を疾走してザリチェへと迫った。ザリチェは杖の柄で宙を突く。しかしそれはダミー。杖の先端に貫かれた樹流徒の姿が音も無く霧散したとき、本物の樹流徒はザリチェの背後に回りこんでいた。さらに氷の鎌を装備し、相手の首に冷たい刃をつきつける。
花火が打ち上げられてから夜空に大輪を咲かせるまでの時間より早かったのでは、というくらいあっという間の決着だった。実際交戦してみてタウティもザリチェもかなりの実力者だと樹流徒は分かったが、これまで三体もの魔王を撃破した彼の相手にはならなかった。
「聞きしに勝る強さだな。首狩りキルト」
首元に氷の鎌を突きつけられたザリチェだが、恐怖は微塵も感じていないようだった。彼(女)は指先を器用に操って掌の上で杖をくるくる回す。
樹流徒は手中の武器を消してザリチェから一歩離れた。円卓に落下したタウティが背中を押さえながら立ち上がる。
「参ったな。対峙した瞬間から苦戦の予感はしていたが、まさかここまで簡単に負けるとは思わなかった」
そう言って、楽しいやら悔しいやら複雑そうな顔をした。マネキンの如く生物感に欠けた雰囲気のタウティだが、表情が付くと不思議と自然な生き物に見える。
「お前たちは、俺たち受験者の実力を試すためガルダに雇われたんだな?」
二対の悪魔を交互に見ながら樹流徒は尋ねる。
「概ねそれで正解だが、一つだけ訂正させてもらおうか。私とザリチェは自らの意思でガルダに協力したんだ。別にカネや物で雇われたわけじゃない」
と、タウティ。続いてザリチェが口を開く。
「今から数週間前、私たちはガルダに用があって黄金宮殿を訪れた。そのときガルダがこう言ったのだ。“もうすぐ降世祭の戦士選抜試験が始まるが、今回から新しい方法で参加者の実力を試したい”と。だから私たちはそれに協力しようと思い、進んで手を貸すことにしたのだ」
「しかし……まさか噂の首狩りが現れるとは予想していなかったな。面白い体験をさせてもらったよ」
最後、タウティが笑った。
さらに二人から詳しい話を聞くと、今まで降世祭出場メンバーは中庭での戦闘によって全て決定していたが、毎回同じやり方では面白みが無く、参加者による不正行為も行われやすくなるので、今年から試験の内容を変えたのだという。
最初に参加者全員を宮殿の中庭に集めて一対一の決闘をさせるという方式は、従来の試験と変わらない。敗者は宮殿内の一ヶ所に集められ、試験が終了したら解放される。一方、勝者は中庭に残って、参加者全員が初戦を終えたところで、第二回戦を始める……というのが毎回お馴染のやり方だった。
しかし今年からは選抜試験の内容が変更され、中庭の決闘で勝利した者たちは宮殿内のどこかへ連れてゆかれ、次なる試練を与えられる方式になった。それにより、ある参加者たちは宮殿の地下へと導かれ、十数名の悪魔によるバトルロイヤルをさせられる。またある参加者たちは宮殿の裏へ連れてゆかれ鳥人の群れから襲われることになる。そしてまたある参加者たちは宮殿の二階に連れてゆかれ、二階を一周してくるように言われる。二階の廊下にはこの日のために作られた危険な罠がふんだんに用意されているそうだ。
最早確認するまでも無いが、樹流徒が連れてこられた来賓室も、試験会場の一つだったのである。
「私たちは既に百体以上の参加者を脱落させている。この部屋を突破したのはオマエが初めてだよ、キルト」
とタウティ。
「まだ試験は続くのか?」
樹流徒が問うと
「いや。数ある試験の中でもこの部屋は特別でね。突破できたら即、戦士の仲間入りだ。私たち二人を同時に相手して勝つほどの実力者ならば、降世祭に出場するだけの資格は十分あるというわけだ。他ならぬガルダがそう言っていたんだから間違いない」
そう答えて、タウティは未だ手中に収まっている赤いナイフにふっと息を吹きかけた。するとナイフはロウソクの火みたいに忽然と姿を消してしまう。
かたやザリチェは手に持った杖で床をトントンと二回叩いた。杖は風に流れた砂みたくさらさらと溶けてしまった。
「それじゃあ、私たちは試験の結果をガルダに伝えてくるよ。少しのあいだここで待ってな」
言って、タウティはザリチェと一緒に部屋を出ていった。
二人が樹流徒の元に戻って来ることは無かった。代わりに彼(女)たちが部屋を出て行ってからしばらくすると、二体の鳥人がやって来た。
「試験の突破、おめでとうございます。それではアナタ様を選ばれし戦士として、最上階にある太陽の間へお連れ致しましょう」
そう言って、彼らは樹流徒を来賓室から連れ出した。
鳥人の案内で、樹流徒は最上階へ移動する。二階から十一階までを素通りして、十二階へ。
最上階の廊下も一階と全く同じ造りになっていた。ロウソクの火に照らされた至る場所が金色に輝き、黄金宮殿の名を全力で体現した光景を広げている。
「試験は終盤に差し掛かっています。アナタ様の他にも、既にもう一人の戦士が決定しておりますよ。そのお方は一足先に太陽の間でくつろいでいらっしゃいます」
廊下を歩きながら鳥人の一体がそう言った。
「そのもう一人の戦士というのは誰なんだ?」
「私が申し上げるよりも、ご自分の目でお確かめになった方が早いでしょう」
鳥人が答えている内、樹流徒たちはある部屋の前に到着した。
他の部屋よりもずっと大きな扉がそびえ立っている。赤金色の金属を使った豪華な装飾を全身に施した両開きの扉だ。真ん中で輝く太陽の彫像が一際目を引いた。
入り口の両側には二体の見張りが立っている。最初に樹流徒が案内された来賓室とは違い、かなり厳重に警備されていた。
「第二の戦士をお連れした。開けてくれ」
鳥人が言うと、扉の両脇を固める見張りたちが扉の取っ手を片方ずつ握って思い切り引っ張る。
真ん中の太陽が二つに割れて、重い扉がズ、ズ、ズ、と足を地面に引きずりながらゆっくりと開いた。
その先に現われたのは、一見しただけで異質な空間だった。先の来賓室ですら比較にならないほど広い床には白い気体が雲のように漂っている。見渡すほど大きな壁は一面水色に染まっていた。そして天井の真ん中には透明な金属の球体が吊るされ、中でオレンジ色の発光体が浮かんでいる。部屋全体を神秘的な輝きで照らすその光は、まさに太陽を模しているのだろう。
眼前に現われた思いも寄らない光景に、樹流徒は束の間目を奪われた。太陽の間などという仰々しい名称もあながち誇張ではない。とても美しく力強い雰囲気に満ちた空間だと感じた。
足元に流れてくる白煙を足で掻き分けながら、樹流徒は太陽の間に踏み込む。
先ほど鳥人が言っていた通り、部屋の中には樹流徒よりも一足早く戦士に選ばれた悪魔がいた。
微かに緑がかった長い黒髪と、青白い肌を持った、若い女の姿をした悪魔である。踊り子のような服を身に纏い、服の袖や首に巻いた羽衣は、半透明な水色の布で作られていた。




