マモン
樹流徒が姿を現すと、詩織は手元に落としていた視線をさっと上げた。
少女の手から薄い単行本が滑り落ちる。それはページを開いたまま落下し、床に当たって閉じた。
「アナタ相馬君なの? どうしてここに……」
「伊佐木さん。捕まっているのは君だったのか」
互いの声が重なる。
樹流徒は束の間、眼前の少女に意識を奪われた。まさか、悪魔に捕まっているのがあの伊佐木詩織だとは思ってもみなかった。
意外であると同時に、何か因縁めいたものを感じた。世界の終わりを告げた彼女と再びこうして出会ったことは、果たしてただの偶然なのだろうか。
「その体は一体どうしたの?」
一拍置いて、詩織が樹流徒に問う。声色は至極冷静だったが、それに反して彼女の視線は寸秒世話しなく動き回った。少女の瞳は、返り血で真っ青に染まった樹流徒の体を映したあと、彼の指先から伸びた異形の爪に焦点を合わせたところでぴたりと止まる。
樹流徒は彼女の質問に答えたいのはやまやまだった。これまでの経緯や、自分の体について話を聞いて貰いたい気持ちは多少なりともある。
逆に詩織からも色々と話を聞きたかった。魔都生誕が発生したあと、彼女が何をしていたのか。彼女はどうして生き延びることができたのか、詳しく教えて貰いたかった。
しかし今はそれどころではない。まずはこの空間からの脱出を優先しなければいけなかった。
幸い周囲には悪魔の姿が見えない。詩織を連れて逃げ出すには絶好の機会と言えるだろう。
「話は全部後回しだ。行こう」
樹流徒は詩織の元に駆け寄る。
「え」
「とにかくここから逃げるんだ」
言って、彼女に手を差し出した。
だが詩織は床に座ったまま手を伸ばそうとしない。
首を小さく横に振り
「ごめんなさい。多分それは無理」
やや伏し目がちにそう言って、救いを拒む。
意外な反応だった。この展開を想像していなかった樹流徒は驚き、若干焦る。
「何故、無理なんだ?」
そして、ここから脱出しようとしない理由を詩織に問いかけた。
――それはオレがいる限り誰もここから出れないからさ。
――それは私がいる限り誰もここから出られないからです。
その時だった。通路の奥から2種類の声が続けて聞こえてくる。
樹流徒は素早く後ろを振り返った。目付きを鋭くして、通路の奥に広がる闇を睨む。
視線の先には誰の姿も無かった。しかし、耳を澄ますと床の軋む音が緩徐なリズムで接近してくるのが分かる。気のせいか肌を刺す不快な圧迫感も伝わってきた。
得体の知れない何かがこちらに向かっている。樹流徒はそれを感覚的に察知した。
「相馬君。早くここから逃げて」
詩織が囁くような声で樹流徒に退避を促す。向かってくる足音の正体を知っている風な口ぶりだ。
樹流徒はその場に留まって身動きしない。詩織だけを置いて逃げられるはずがなかった。どの道、通路は一本しかない。すでに逃げ道は塞がれている。
青年は引き続き闇の向こうに鋭い視線を投げて、心の中を臨戦態勢に移行した。
間もなく通路の奥に異形の影が浮かび上がる。
それはついに樹流徒たちの前に姿を現した。
悪魔である。一つの体に左右ニつの首を持った化物だ。
頭は左右ともに鳥の形をしており瞳の中が鈍い黄金色に輝いている。背丈は百九十センチ前後。人間の全身に青黒い羽毛を貼り付けたような姿をしていた。
その奇異な容貌はロウソクの光が作り出す陰影によって余計に底気味悪さを増している。
双頭の悪魔は、二人の前に姿を現すなり口を開いた。
「貴様、ニンゲンだな?」
右の首が樹流徒の素性を問う。ドスの利いた声をしていた。
「貴方はニンゲンですね?」
続けて左の首が丁寧な言葉使いで右首と同じ台詞を繰り返す。こちらは高く滑らかな声をしていた。
「相馬君。信じられないかも知れないけれど……その生き物は悪魔よ」
と詩織。
「分かってる。こいつがマモンか」
樹流徒は軽く頷いた。
「ほう。オレのことを知ってるのか?」
「私のことをご存知なのですか?」
マモンはまたも左右の首で同じ台詞を一回ずつ唱える。そうしなければならないのだろうか? 聞き手と話し手、双方にとって少し大変そうな喋り方だ。
「そんなことよりお前は何故彼女を監禁している?」
樹流徒はマモンの質問に対し質問を返す。
「シオリはニンゲンにしては珍しい力を感じる。だからオレのコレクションに加えたのさ」
と、右首。
「加えさせていただいたのです」
続けて左首。
「コレクションだと?」
樹流徒は眉をひそめる。
「マモンは金目のものや珍しいものを収集するのが趣味なの。人間も対象みたい」
詩織がマモンに代わって樹流徒の疑問に答えた。
「そういうことか」
樹流徒は納得した。おそらく床に散乱している札束や宝石も、マモンが市内のどこかから盗んできた物に違いない。
「魔界の連中からはよく“強欲なヤツ”と言われている。自覚は無いんだがな」
「自覚はございませんがね」
マモンは笑い混じりに言う。
「それより、伊佐木さんを返してもらえないか?」
樹流徒は詩織の解放を要求した。
もっとも、彼女は誰かの所有物ではない。本来こんな風にお願いするのは筋違いかも知れなかった。
すると、マモンは左右の首を同時に激しく暴れさせる。怒り或いは拒否の意思を示す動きだろうか。まるで駄々をこねる子供のようだ。
「断る。シオリは返さない。ついでにオマエも帰さない。痛めつけて動けなくしたあと、オレのコレクションに加えてやる」
「私のコレクションに加えて差し上げましょう」
言い終えたのと同時であった。
マモンの右首が口を開き、炎を吐き出す。口の先から数メートル伸びる長い火柱だ。
詩織はあっと短い声を漏らした。
完全な不意打ちである。しかし樹流徒は集中していた。彼は咄嗟に火柱をかいくぐると、ついでに前方へ駆けて敵との間合いを一気に詰める。難なくマモンの懐に潜り込むと、思い切り腕を振り上げ、悪魔の右首に爪を突き立てた。
樹流徒の指先に確かな手応えが伝わる。相手が小人型の悪魔だったら、間違いなく体を貫通していたはずだ。
が、おかしい。感触が硬過ぎる。樹流徒はぎくりとした。よく見れば、爪の先はマモンの皮膚に阻まれて中まで通っていない。
すかさずマモンが反撃に移る。今度は左の首がクチバシを上下いっぱいに開いて、口内から白い煙を吐き出した。
正体不明の攻撃に、樹流徒は一驚を喫してすぐさま飛び退く。しかし煙の一部を右手の甲に浴びてしまった。
少し遅れて、攻撃を受けた部位から焼けるような痛みが広がる。ただし熱ではない。冷気による痛みだった。
どうやら、マモンは右首から火柱、左首から冷気を吐き出すことができる悪魔らしい。しかも羽毛の下に隠れた恐ろしく硬い皮膚によって全身を守られている。
交戦が始まって間もないが、樹流徒は苦戦の予感を覚えた。相手は、今まで戦ってきた悪魔とは少し違う。間違いなく強敵だ。
マモンの右首が次の火柱を放つ。勢い良く伸びる炎が樹流徒を襲った。
樹流徒は素早く床を転がって回避する。
逃れた先に冷気が待ち伏せしていた。樹流徒は攻撃を足下に浴びながら立ち上がる。今にも凍りつきそうな空気が、靴や、制服の裾を通り抜けて彼のつま先と脛に張り付いた。じんと痛みが広がる。樹流徒は微かに表情を歪めた。
「ニンゲンにしてはなかなか良い動きをするじゃないか。ここまで辿り着いただけのことはある」
「辿り着いただけのことはありますね」
マモンは腕を組んで余裕を見せる。「戦闘でニンゲンに遅れを取ることなどありえない」とでも言いた気な態度だ。
悪魔のこうした態度は、バルバトスやコンビニで遭遇した化け物にも少なからず共通していた。
ただ、その驕りは油断に繋がる。樹流徒にとってはむしろ有り難いだけだった。
「マモン、攻撃を止めて。相馬君も逃げて」
詩織がやや語気を強めて言い放つ。
しかしその言葉に返答は無い。睨み合う両者は互いに一歩も引く気配を見せない。
樹流徒が反撃の一手を打つ。敵に爪が効かないのであれば火炎弾に頼るしかない、と考えた。
彼は詩織を巻き添えにしないよう自分の立ち位置を調整しつつ、マモンに狙いを定める。
今だ! と思った瞬間に口から炎を放った。
詩織は驚いたようにぱっと瞳を見開く。炎の塊は彼女の眼前を横切り、マモンの左首めがけて飛んだ。
これに反応したマモンは恐るべき速度で右首を伸ばす。攻撃を防御した。
火炎弾は右首の顔面を捉えて細かな火の粉を舞い上げる。
樹流徒は固唾を飲んで相手の様子を窺った。攻撃の効果を確認する。
結果は、最悪に近いものだった。
「オレにこんなモノは効かん」
「私にこのようなものは効きませんよ」
悪魔が不敵な笑い声を重ねた。
炎はマモンの表皮をわずかに焦がすことしか出来ていなかった。攻撃が効いていないというのは、嘘やハッタリではないようだ。
樹流徒は渋い表情になりかける。だが、敵に心中を読み取られないようにするためポーカーフェイスを保った。