地中に潜むもの
ゴモリーと分かれた樹流徒は、道案内役を引き受けてくれたバステトと共に砂嵐の中を歩き始めた。目指すはガルダが住まう黄金宮殿。
道中、樹流徒はバステトから、この世界や、ガルダという悪魔について色々と教えてもらった。
暴力地獄は他の階層に比べて広い世界だが、その殆ど全てを太陽の国と月の国が二分して治めている。闇明の塔より東は太陽の国の領土、西は月の国の領土になっているという。ちなみにバステトは遥か昔から暴力地獄に住んでおり、彼女の住み処は月の国側にあるらしい。
太陽の国を治めるガルダは鳥の頭部と人間の体を持ち、言わば鳥人の姿をしている。一方、月の国を治めるアナンタは複数の頭部を持つ巨大な蛇の姿をしているという。
ガルダと、アナンタを筆頭とした蛇の一族の間には深い因縁があって、それが今でも続いている。ガルダと蛇の一族はこの先もずっと争い合う運命にあるそうだ。彼らの過去に何があったのか、その因縁の詳細をバステトは語らなかったし、樹流徒も聞こうとは思わなかった。ただ、ガルダと蛇の一族双方の母親が両国の因縁と関係していることだけは、バステトが説明の中で何となく匂わせていた。
「ガルダはとても強くて逞しい悪魔よ。黄金宮殿には彼の配下である鳥人族が沢山住んでいて、誰もがガルダを誇り高い王として慕っているわ」
この激しい砂嵐の中、バステトは目と口をいっぱいに広げて平然と喋っている。樹流徒は相手の話に相槌を打ったり返答したりするが、手で口を押さえながらでないと喋れなかった。ゴモリーと立ち話をしたときは風に背を向けて喋っていれば割と平気だったが、歩いている今、迂闊に口を開くと遠慮なく砂が飛び込んでくる。この状態が目的地に着くまでずっと続くというのだから、たまらなかった。
暴力地獄やガルダについて一頻り喋ったバステトは、聞き手に回る。
「ね。今度はキルトの話が聞きたいな。アナタについて色々教えてくれない?」
そう言って、純粋な好奇の光に満ちた目を樹流徒に向けた。
「俺のことか……」
樹流徒は少し考えて
「俺のことと言われても、何を話したらいいか分からないな」
滅びた故郷や死んだ家族に関して話しても、辛気臭い雰囲気になるのは目に見えている。他愛も無い話をしようにも、これといって趣味らしい趣味は持ってないし、好きな映画や音楽の話をしたところで悪魔には分からないだろう。現世について色々と喋ることはできるが、樹流徒個人について語れる事といえば、せいぜい自分の名前か、年齢か、血液型くらいだった。いずれも会話が弾むような話題ではない。
何を話したら相手を楽しませられるだろうか? と樹流徒が迷っていると
「アナタ、どうしてそんな力を手に入れたの?」
バステトのほうから質問してきた。
樹流徒が魔人になった経緯については、樹流徒自身あまり思い出したくない過去だったし、気軽に喋れる話題でもなかった。しかしバステトは黄金宮殿まで案内してくれる上、暴力地獄に関して色々と教えてくれた。彼女の厚意に対する礼として、樹流徒は多少気乗りしなくても喋ることにした。自分が悪魔の力を手に入れたまでの経緯を、なるべく暗い部分を避けながら簡単に説明する。
「へえ。そんなことがあったんだ。不思議な話ね」
話を聞いたバステトは一層興味深そうな瞳で樹流徒の横顔をジッと見つめた。
樹流徒が魔魂吸収能力を得た原因と思われるNBW事件について、悪魔たちは何も心当たりが無いようだ。これまで戦ってきた悪魔の誰もが、樹流徒の能力について知らなかったか、知っていたとしても実際目の当たりにするまでは半信半疑な様子だった。
もしNBW事件について何か知っている者がいるとすれば、樹流徒や詩織を聖界へ連れてゆこうとした天使ミカエルくらいだろうか。或いはベルゼブブも……と樹流徒は考えていた。
バステトの疑問に答えた樹流徒は、質問する側に回る。
「ところで、あとどれくらい歩けば黄金宮殿に着く?」
「そうね。あと……」
が、バステトが全てを言い終えるよりも前だった。彼女の視線が樹流徒から外れてあらぬ方を見る。
「ちょっと待って」
急に真剣味を帯びた声で言って、彼女は立ち止まった。
一体何事か? と樹流徒が尋ねようとしたとき、ずっと遠くから異音が聞こえてきた。
地鳴りだろうか。その正体が分からない内に、微かな震動が足元に伝わってくる。
「いい、キルト。例え今から何があっても絶対に動いたら駄目よ。指一本すら動かさないで」
バステトが厳しい口調で警告した。今まで楽しそうに喋っていた彼女とはまるで別人だった。
何がどうなっているのか、樹流徒にはまるで状況が飲み込めない。取り敢えずバステトの言う通り、体の動きを止めた。
まさにその直後である。樹流徒たちから数十メートル離れた場所で地面が急激に盛り上がった。黄色の大地が水面のように波打ち、砂の下から長細い巨大な影がぬっと現れる。
蛇……いや、ミミズに近い姿の化物だった。魔界の生物か、はたまた悪魔か。体長十メートルは下らない巨大ミミズである。頭の先端に開いた口をいっぱいに広げ、砂を飲み込みながら、地を裂くように進んでくる。全身の至る場所に血走った眼球がついており、それら全てがしきりに動いていた。
余りの迫力とおぞましさに樹流徒は危うく一歩後退りしそうになった。声も出そうになったが、バステトの忠告を信じてぐっと堪える。
良く目を凝らして見ると、巨大ミミズが進む先には、一匹の陸上生物がいた。カメレオンと似た爬虫類系の生物である。こちらは体長三十センチくらいだろうか。砂漠の砂と同じ色の皮膚を身に纏っているため、本当に良く見なければその存在には気付けない。
保護色の皮膚によって砂漠の景色に溶け込んでいたカメレオン似の生物は、背後から猛然と迫るミミズの存在に気付いて走り出した。ただ、両者の速度には余りにも差が有りすぎる。地中から現れた巨大な捕食者は、逃げるカメレオンを砂ごと飲み込んでしまった。
獲物を捕えたミミズはすぐさま地中へと戻ってゆく。その巨体が地上に飛び出してから姿を消すまで、ものの三十秒程度だった。
地鳴りと震動が遠ざかって完全に消えると、バステトはほっと一息ついた。
「あの生物は動く獲物にしか反応しないの。だからジッとしていれば襲われる心配はないわ」
そのように彼女は説明する。
「そうか。だから俺に動かないよう忠告してくれたんだな」
もしバステトの助言が無ければ、樹流徒はミミズから離れるために走っていただろう。そしてミミズに捕捉されて追われるはめになっていた。空へ逃れたくても、この砂嵐の中で急浮上するのは不可能だ。空中へ避難する前にミミズに食われていたに違いない。その結果、命を失うことになったか否かは不明だが、かなり危険な状況に追い込まれたことだけは間違いなかった。
砂漠の脅威を何とかやり過ごした二人は、再び歩き始める。
「とろこで、黄金宮殿までの距離はどれくらい残っている?」
歩き始めてすぐ、樹流徒は尋ねる。先ほども同じ質問をしたが、ミミズが現れたせいで答えを聞きそびれていた。
「休まず歩き続けてもあと四、五時間は掛かるわよ」
とバステト。
「そうか。思っていた以上に遠いな」
「もしかして疲れた?」
「いや。むしろ黄金宮殿まで走っていきたいくらいだ」
「じゃあ、そうしましょうか」
言うと、今まで二足歩行をしていたバステトが四本足で地面に立つ。獣の姿勢になって駆け出した彼女は、外見通り速かった。
吹き荒れる風に逆らいながら、二人はどれだけの時間走り続けただろうか。ここが現世だったらそろそろ空が白み始めても良い頃だと思うが、暴力地獄は夜が長いため空は未だ暗かった。砂煙と雲の向こうに隠れた月の光は全く見えない。
そんな中、地面にキラキラと光る物があった。前方にそれを発見した樹流徒とバステトは、どちらからともなく足を止める。
光の正体は一輪の花だった。この砂嵐の中で地面に埋もれることもなく、花は白い光を放っている。直径は四センチくらいで、五枚の花びらをつけていた。形だけ見れば日々草と呼ばれる花と良く似ていた。
「綺麗な花でしょ。何度砂に埋もれてもすぐに顔を出す、不思議な花なのよ」
「水も無ければ太陽の光も届かないこんな場所に咲くなんて、見かけによらず強い花なんだな」
「これとは違うけれど、“ジェドゥ”にも綺麗な花が咲いているわよ」
「ジェドゥ?」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったわね。ジェドゥは降世祭が行なわれる聖地よ。太陽の国にも、月の国にも属さない、この世界で唯一の中立地帯なの。闇明の塔や光滅の塔と同じで、両国の国境線の役割を担っているわ」
「その聖地ジェドゥはここから近いのか?」
「そうね……。近いとも言えないし、遠いとも言えないわね。ジェドゥは二つの塔からずっと北へ行ったところにあるの。黄金宮殿からゆっくり歩くと一週間くらいかかるんじゃないかしら」
「なるほど。良く分かった」
樹流徒は小さく頷いた。異端地獄で道案内をしてくれた人魚の悪魔ヴェパールといい、バステトといい、その世界に詳しい悪魔が一緒に行動してくれると、何かと助かるし、勉強にもなる。
また、憤怒地獄でグシオンというアライグマの悪魔と出会った時にも感じたことだが、魔界に来てからというもの、何かと巡り合わせが良かった。まるで不思議な力が自分と悪魔を引き合せてくれているかのような、運命的なものを感じる。
ただ、当然と言えば当然だが、これまでの冒険を思い返しても、自分に味方してくれる悪魔との出会い以上に、自分の命を狙う悪魔との遭遇の方がずっと多かった。
すると、その危険な遭遇が、今、またしてもやって来たのかもしれない。
砂漠の中で光り輝く花を観賞した樹流徒たちが、再び歩き始めようとした、そのとき。
急に地面の砂が流れ出した。風向きに逆らって一帯の砂が渦を巻き始めたのである。
樹流徒は最近これと似た現象を体験していた。異端地獄の海で一つ目人魚の悪魔セドナが起こした渦に飲み込まれたときと状況が酷似している。
当時の経験から素早く危険を察知した樹流徒はすぐ宙に浮いた。ただし、この砂嵐の中では素早く浮上できない。横殴りの風に何とか逆らいながら徐々に高度を上げてゆく。
バステトは空を飛べないのか、焦っているのか、その場でおろおろしていた。そうしている間に彼女の足の甲は砂に埋もれようとしていた。
「掴まれ」
上空から樹流徒が両足を伸ばす。それに反応したバステトが顔を上げて、頭上から垂れ下がる樹流徒の両足首を掴んだ。
樹流徒はバステトを吊るしたまま慎重に浮上する。ある程度の高度に達したところで静止した。正確に言えば、静止するのがやっとだった。ただでさえ飛び回るのが困難な状況である。バステトという重りをぶら下げた状態では、全く身動きが取れなかった。
二人の眼下で渦を巻く砂は加速度的な勢いで激しさと範囲を増す。上空に逃れなていなければ、樹流徒とバステトは今頃腰のあたりまで砂に浸かっていただろう。
「このアリ地獄……多分“ウヴァル”よ」
バステトが叫ぶ。
「ウヴァル?」
「そういう悪魔がいるの。多分、近くに潜んでいるわ」
焦りのせいかバステトの説明はやや不明瞭だったが、どうやらウヴァルという名前の悪魔がこのアリ地獄を発生させたらしい。
――その通りだ。
すると樹流徒たちの眼下から潰れた声がした。アリ地獄の真ん中で砂が勢い良く盛り上がって、一体の異形が姿を現す。
月明かりに背中を照らされたその悪魔は、ヒコトブラクダの姿をしていた。全身を青いローブに包み、四本の脚にそれぞれ数本ずつベルトを巻きつけている。
先刻遭遇した巨大ミミズの如く地中から姿を現したヒトコブラクダは、激しい流砂の上にしっかりと足をつけて立っていた。
「ホラ、やっぱりウヴァルだった」
バステトは少しむっとした顔つきで言う。
ヒトコブラクダの悪魔ウヴァルも怒っていた。
「バステト、そいつはあの首狩りキルトだぞ。分かっているのか?」
言って、前脚で樹流徒を差す。
「そんなの知ってるわよ」
「そいつは悪魔相手に連戦連勝してるって噂だが、嘘に決まっている。全ての悪魔の名誉のためにもこのウヴァルが、そいつの化けの皮を剥いでやる。ついでに賞金も頂きだ」
ヒトコブラクダの悪魔がそのようにわめいている間に、もう樹流徒の周囲には青みがかった白い光が三つ浮かんでいた。その一つが膨張して、何もかもを凍りつかせる光の柱となって敵を襲う。
ウヴァルは横っ飛びでかろうじて回避した。冷気の光が地表を叩き、広がり続けるアリ地獄の中に氷の床を作り出す。
樹流徒はわざと攻撃を外した。ウヴァルの口吻からして、恐らく彼はベルゼブブの手先ではない。だから敢えて最初の一撃を命中させなかった。この攻撃が脅しになってウヴァルが戦意を喪失してくれれば御の字。逆に彼が微塵も恐怖を感じなければ、仕方ないが戦うしかない。
結果は、樹流徒が望んだ方に転んだ。
「ちょっと待て。攻撃するな。落ち着け。落ち着こう!」
先ほどまでの威勢はどこへやら。ウヴァル自身が落ち着きの無い声でわめく。
地表で渦を巻いていた流砂が止んだ。これ以上戦うつもりはない、というウヴァルの意思表示だろうか。
樹流徒たちが着地すると、すぐさまバステトはウヴァルの正面まで駆け寄って、相手の鼻面に人差し指を押し付ける。
「分かった? アナタじゃキルトには勝てないわよ」
まるで樹流徒の実力を知り尽くした者のような台詞だった。初対面の樹流徒に向かって「余り強そうに見えない」と言ったバステトだが、当時のことはすっかり忘れているようだ。
バステトの言葉にウヴァルは納得した様子だった。
「まさか本当にこれほど強いとは思わなかった。降参する」
と素直に負けを認める。
すっかり戦意を喪失したウヴァルは、樹流徒の元まで歩み寄り、へ、へ、へ、と首を揺らしながら笑った。
「アンタ、それだけ強力な力を操れるなら降世祭に参加してみたらどうだ? 今、ガルダの黄金宮殿では参加者を募ってるぜ」
「ああ、既にそのつもりだ」
樹流徒が答えると、ウヴァルの赤い瞳が嬉しそうに十五夜月の形を作った。
「オオ。なら話は早い。何を隠そう、実はこのオレも降世祭に出るつもりなんだ。どうだ? 折角だから一緒に黄金宮殿まで行かないか?」
「そんなこと言って、本当はこの砂嵐の中で迷子になってたんじゃないの? で、偶然キルトを見かけたものだから襲い掛かってきたんでしょ?」
バステトが指摘すると、ウヴァルはうっと短い声を上げる。続いて無言でそっと首を縦に振った。