暴力地獄
海底神殿の果てに現れた魔界血管を通り抜けると、魔界の第七階層・暴力地獄にたどり着く。
この世界にやって来た樹流徒を最初に出迎えたのは、巨大な密室だった。
どうやら塔の中らしい。全方位を石に覆われた薄暗い場所である。ずっと遠くに見える壁も、遥か高くに見える天井も、そして床も、全てが頑丈そうな灰色の石で作られていた。
円形の床と天井は平たく加工され、その表面には幾つもの魔法陣が重なった繊細な模様が彫り込まれている。石材同士の継ぎ目がうっすらと見える壁面には窓はおろか小さな穴の一つすら見当たらなかった。存在する物といえば塔の頂上に向かって螺旋を描き整列する何百本ものロウソクである。ロウソクの先端には黄緑色の不思議な炎が灯り、壁際だけを明るく照らしていた。そんな中、最も強い輝きを放っているのは、樹流徒の背後にある魔界血管である。壁面に埋め込まれた巨大リングの中で妖しげな血色の光が渦を巻いていた。
辺りを見回しても、誰もいない。塔の中には悪魔はおろか虫一匹の姿さえ無かった。魔界血管の光に照らされた樹流徒の影だけが床にへばりついている。海底神殿を訪れる悪魔の数が非常に少ない事を考えれば、この静けさは予想通りと言えた。
樹流徒以外に誰かが訪れそうな気配は無い。そもそも窓一つ無いこの密室にどうやって外の悪魔が入って来るのかが不明だった。それは同時に樹流徒がこの塔から外へ出る方法も不明であることを意味していた。
しかし樹流徒に焦りは無い。
魔界血管を内蔵した施設には必ず得体の知れない技術が使われている。きっとこの塔にも何か仕掛けがあるはずだ。その仕掛けを見つければ出口が現れるかもしれない。
今までの体験からそう判断した彼は、早速動き出す。床に描かれた魔法陣の怪しそうな場所を踏んでみたり、壁を触って隠しスイッチが無いか確認したり、近くのロウソクを何本か調べてみたりと、塔の内部を手当たり次第に調べてみた。
数十分に渡る調査の結果、残念ながら特にめばしい発見は無かった。床はただの床、壁はただの壁、そして天井もただの天井だ。ロウソクを乗せた蜀台はきっちり壁に固定されて動かない。ロウソク本体、はてはロウソクの炎までも念入りに調べてみたが、どこにも仕掛けは隠されていなかった。
樹流徒は一旦手を休める。塔の中をくまなく知れべれば何か見つかると思うが、一人で調査するにはこの空間は余りにも広い。床や壁を隅々まで調べていたら数日がかりの作業になってしまう。それよりも誰かがこの場所に現れるのを待っていたほうが懸命な気がした。
とはいえ、実際いつ現れるかも分からない悪魔を何もせずジッと待ち続けるなど、樹流徒の性分が許さない。
どうしたものか? 樹流徒は目を閉じて熟考する。いっそのこと海底神殿ですれ違った牡牛の悪魔を追いかけて塔の脱出方法を聞いたほうが手っ取り早いかもしれない。しかしあの悪魔はかなり先を急いでいた。今から追いかけても多分追いつけないだろう。
結局、時間がかかっても地道に塔の内部を調べるのが一番良い方法かもしれない。すぐに仕掛けが見つかる可能性もあるし、運良く調査をしている最中に誰かが現れる可能性だってある。
そこまで考えたときだった。
瞳を閉じて真っ暗になった樹流徒の視界に、突然ぼんやりと光が浮かび上がる。もやのように輪郭がはっきりと定まらない白光だった。横長に広がったその光はどこかに向かって徐々に伸びてゆく。目を閉じているにもかかわらず樹流徒の網膜には光の動きがはっきりと分かった。
はっとして樹流徒は目を開ける。
謎の光は消えていた。魔界血管の輝きが生む影法師が思わず顔を見合わせるように樹流徒のほうをじっと見上げている。他には誰もいない。悪魔の姿、気配、殺気……目に映る物からそうでないモノまで諸々存在しなかった。
今の光は何だったんだ?
目を閉じていたあいだだけ見えた不思議な白光……夢の中に現われた、太陽を背に輝く雲のような存在だった。得体の知れない現象に樹流徒は多少警戒を強める。光の正体は悪魔の能力かもしれないと推測した。気配や殺気を抑えてどこかに敵が潜んでいても不思議では無い。塔の中に隠れる場所は無いが、普通では潜めない場所に潜めるのが悪魔である。異形の影が壁や床から這い出てくることも十分に有り得た。
それでも危険が迫ってくる気配が一向に無いので、樹流徒は光の正体が敵の攻撃ではないと分かった。
ついでにもう一つ別の事にも気付く。もしかするとさっきの光こそがこの塔に施された仕掛けなのではないか。塔から脱出するための手掛かりになるのでは?
物は試しと思って、樹流徒は再び瞼を閉じる。しばらく目を閉じていれば、先ほどと同じ現象が起こるかもしれない。
少しのあいだ待っていると、本当に真っ暗な視界の中にぼんやりと白い光が浮かび上がった。
きっと間違いない。この光こそ、出口の無い塔を脱出する手かがりになるはずだ。樹流徒は確信した。
先ほどは目を開けた瞬間に光が消えてしまった。今度はそうならないよう、樹流徒は目を閉じたまま白光の動きを見守る。
横長のぼんやりした光は今にも途切れそうな薄さを保ったまま、ゴムを引っ張ったように伸びた。壁に並ぶロウソクに沿って螺旋を描きながら塔を上ってゆく。光が坂になった。
広がる光の先端は塔の頂上付近までたどり着いたところで壁にぶつかって溶け、大きく広がる。塔の壁面に光の扉を生み出した。
「そうか。あの扉が塔の出口だな」
呟いて、樹流徒は目を閉じたまま歩き出す。
一歩進むごとに光が近付いた。樹流徒は坂の前で立ち止まり、遥か頭上に輝く光の扉を一度だけ仰ぐ。そしてやや慎重に足を踏み出した。
坂の上に乗る。白くぼんやりと輝く足場は、紙に近い薄さでありながら堅くてしっかりした感触を樹流徒の足裏に伝えた。
それを確かめた樹流徒は引き続き目を閉じたまま螺旋状に伸びる光の坂を一歩一歩踏みしめるようにして上を目指す。
坂の道幅は広く、真ん中を歩いていれば落ちる心配は無かった。途中で目を開けさえしなければ出口までたどり着けるだろう。早くも坂の上を歩くのに慣れた樹流徒は歩調を速めた。
塔の内壁に沿って何十週かすると、特にこれといった障害や敵にぶつかることも無く樹流徒は光の扉の前にたどり着いた。
眼前で輝く光の広がりは間近で見ると扉というより門と呼んだほうがしっくりくる大きさだった。
その門を通り抜けることに躊躇いは無い。樹流徒はすぐに前進した。激しい光が一瞬だけ彼の網膜を刺した。
光の門をくぐると、さらさらした砂の感触が裸足に触れた。横から吹く乾いた風が前髪を揺らして通り過ぎてゆく。
樹流徒はそっと目を開いた。奇妙な光景が視界に飛び込んでくる。分厚い雲が張り詰めた夜空の中、ぼんやりと輝く青い月。地平の彼方まで続く黄砂と、そこに点在する沼。沼は一足飛びで越えられそうに小さなものからプールくらい大きいものまであり、毒々しい色の水面が月の光を受けて艶艶と光っていた。大きな沼のところどころには痩せきった木が佇み、枝には葉の一枚もつけていない。
砂漠でもない、沼地でもない、双方を混ぜ合わせたような、現世ではあり得ない地形だった。気温は上階の異端地獄もより少し高いくらい。しかし灼熱の憤怒地獄に比べれば熱い内には入らなかった。
後ろを振り返ると、樹流徒のすぐ目の前には石造の建築物が佇んでいる。円柱型の建物だ。面積は広いが、巨体の悪魔がやっと入れるくらいの高さしかない。しかし視線を落とすと建物の足が砂に埋まっているのが分かった。
考えるまでもなく、この石造建造物は樹流徒がさっきまで閉じ込められていた塔であった。頭だけを地上に出して首から下は全て地中に埋まっているらしい。だから地上で見ると背が低い建物に見えるのだ。
「暴力地獄は沼と砂漠の世界か……」
樹流徒は全方位を眺め回す。いくら頭を振っても視界の中に動く影はひとつも見当たらなかった。背後の建物を除いて特別目につく物もない。全て砂と沼。何か目印が無ければすぐに方向感覚が狂ってしまう天然の迷宮である。
視程を遠くまで伸ばすために樹流徒は空を飛んだ。高所から地平の彼方を眺望し、町や建物や悪魔の姿を探す。これで何も見つからなければ、あても無くこの世界を彷徨い歩くしかない。何でも良いから発見が欲しかった。
少しのあいだ首を動かし続けていると、遥か遠くの地面にひとつだけ黒い点が見えた。山だろうか? しっかり目を凝らさなければ見えないほど遠くにあるので、ここからでは分からない。
他には特に何も発見できなかった。この世界は悪魔の数が極端に少ないのか、町や建物どころか異形のの影すら見当たらない。
結局目に留まったのは遠くに見える黒い点だけ。樹流徒はそちらへ移動してみることにした。
羽を広げて全速力で飛ばす。それを邪魔する者は誰もいない。憤怒地獄は鳥と竜が空を支配し、異端地獄は海の世界だったため、最近樹流徒が飛行する機会は少なかった。だからこうして自由に空を駆け回れるのは久しぶりな気がする。人間という陸上の生き物でありながら樹流徒は水を得た魚の心地になった。もし目の前に魔界血管が現われたら、このままのスピードで突っ込んでしまいたい。そのままベルゼブブの元まで一気に飛んで行ってしまいたかった。
ただ、それを実践するのは不可能だ。何しろ樹流徒はこの世界でやらなければいけないことがあった。それは、何としてもアムリタを見つけることである。アムリタはインド神話に登場する飲料で、イブ・ジェセルのメンバーである早雪の呪いを解除するために必要なものだと聞いている。
――アムリタは魔界の第七階層にございますよ。
――ガルダという者がそれを所持しておりますが……
以前馬頭悪魔オロバスから聞いたその話を、樹流徒は忘れていなかった。この世界でガルダに会い、アムリタを手に入れ、無事早雪の元へ届ける方法を考えなければいけない。それは下の階層へ行く前に済ませておきたい事だった。なので仮に今すぐ魔界血管を見つけたとしても樹流徒はそこに飛び込むわけにはいかないのだった。
間に合えば良いが……。
樹流徒は色々と願わずにいられなかった。早雪の呪いがこれ以上悪化する前にアムリタを届けてあげたい。もう間もなく始まる天使と悪魔の戦争の前にベルゼブブと決着をつけたい。詩織の身に何か起きる前に彼女を救い出したい。何もかも全て間に合って欲しいと祈らずにはいられなかった。
その強い思いを乗せて樹流徒は羽を力いっぱい扇いだ。
地平の彼方に見えていたものがあっという間に目と鼻の先まで近付く。
黒い点の正体もすぐ明らかになった。山かと思っていたものは、実は全く別のものだった。色も黒ではなく緑。人間の指よりも太い針を全身に纏った植物……。そこに根を下ろしていた物は、目を疑うほど巨大なサボテンだった。山と見紛うのも仕方ない巨躯である。花も蕾も咲いていないが、時期がくればさぞかし見事な大輪を咲かせることだろう。
目の前に現れた巨大物体を樹流徒は少しのあいだ黙って見ていた。不意にこの巨大サボテンが動き出してこちらに襲い掛かってくるのではないか、と想像する。魔界では本当に起こりえる話なので、ただの妄想が警戒心を抱かせる。
かといってずっと警戒したまま動かないわけにはいかない。周囲を見回しても他にこれといって注目すべき物も見当たらないので、樹流徒はこのサボテンを調べてみることにした。もしかすると何か貴重な手掛かりが隠されているかもしれない。
淡い期待を抱きながら、羽を広げて滑空する。徐々に下降しながらサボテン周囲に沿って飛んだ。
丁度裏側に回ったところで、月の光を浴びたサボテンが砂の上に落とす陰に悪魔らしき者を見つけた。
一角獣の頭部と人間に近い胴体を持った異形の生物である。全身は白い毛に覆われ、赤いマントを背負っていた。手には四本の弦が張られた楽器を携えている。足を休めているのか、砂の上に腰を下ろしてジッとしていた。
あの一角獣、もしかすると知っている悪魔かもしれない。
樹流徒は相手の姿を注視した。一角獣の悪魔と面識は無いが、見覚えならばある。以前、悪魔倶楽部で楽器を演奏していた悪魔が、確かそうだった気がする。
何にせよ折角見つけた悪魔である。話しかけず通り過ぎるという選択肢は無かった。
戦闘にならなければ良いが、と危惧しつつも、樹流徒は一角獣の正面に降り立つ。
突然現れた樹流徒を前にしても、一角獣の悪魔は驚かなかった。砂の上に腰掛けたまま、赤く光る大きな瞳で魔人の全身をまじまじと見つめる。
どこか値踏みするような相手の視線を感じながら、樹流徒は声を掛けた。
「いきなりですまない。少し聞きたいことが……」
「その顔、首狩りキルトだな。前に一度バルバトスの店で見かけた。あの時とはだいぶ姿が変わっているが、間違いない」
樹流徒の言葉尻を遮って一角獣が口を開いた。声色は暗くて低い。やはりこの悪魔は、以前悪魔倶楽部で演奏していた者に間違いない。
獣の眼光がやや鋭さを増した。砂の上で開かれた五本の指がそっと内側へ折れる。
その僅かな動きの中に自分への確かな敵意を感じて、樹流徒は反射的に後ろへ跳び退いた。着地して身構えたとき、眼前の悪魔から敵意は感じても殺気は感じないと気付く。
「そんなに警戒しなくても私に戦意は無い」
悪魔自身もそう言っている。
樹流徒は構えを解いて、改めて相手の前に立った。
「お前は?」
「私は“アムドゥシアス”。初めて言葉を交わした記念に一曲いかがかな?」
一角獣の悪魔は名乗るついでに、楽器を構える。
樹流徒が是とも否とも答えない内から、悪魔の手が弦楽器を鳴らし始めた。しなやかな指がめまぐるしく踊り四本の弦を弾く。その華麗な手さばきに樹流徒の目は釘付けになった。
演奏は二、三十秒程度で終わった。
「見事な腕前だな」
「お褒めに預かり光栄だ」
アムドゥシアスは楽器のベルトを肩に掛ける。挨拶代わりの一曲を終えたところで、樹流徒に本題を持ちかけた。
「何か……私に聞きたいことでも?」
意外にもアムドゥシアスは樹流徒に敵意を抱きつつも話を聞いてくれるようである。その行為に裏が無いとすればかなり紳士的な悪魔だ。
「聞きたいことは二つある。一つはガルダの居場所。もう一つは下の階層と繋がっている魔界血管の在り処だ」
遠慮なく樹流徒が質問すると
「一つ目の質問には答えられないが、後の質問には答えられる」
アムドゥシアスは即答した。
「魔壕へと続く魔界血管は“光滅の塔”の中にある」
「コウメツの塔?」
「そう。光滅の塔は遥か上空に浮かんでいる。より正確に言うならば、“闇明の塔”の真上に浮かんでいる」
「じゃあ、そのアンメイの塔というのは?」
「聞く必要は無いだろう。オマエは既に闇明の塔を知っているはずだ。視界を閉ざして闇にすれば隠された光の道が明らかになる密室の塔。だから闇明の塔と呼ばれている。それを通過してオマエはこの階層にやって来たのだろう?」
「もしかして、海底神殿と繋がっているあの建物が、闇明の塔なのか」
アムドゥシアスは無言で首肯した。
この話が事実だとすれば、樹流徒は先ほどまで光滅の塔の真下にいたことになる。上空に厚い雲が張り詰めていたせいで頭上にある塔の存在に気付けなかったのだ。
早くも魔壕へと続く魔界血管の場所が判明した。しかもそれはすぐ近くにある。魔壕にはベルゼブブの居城が存在するという。そこは樹流徒にとってひとつのゴール地点だった。ベルゼブブからバベル計画の全てを聞き出せば、長く辛かった真実を求める旅が遂に終わる。そしてベルゼブブを倒すことにより、バベル計画の犠牲になった人たちの仇が取れる。復讐の旅も幕を下ろすのだ。
樹流徒はこれ以上無いくらい後ろ髪引かれる思いで闇明の塔がある方角を振り返った。今すぐ魔壕へ突入しようと思えばできる。どうしようもない衝動に駆られそうだった。
しかしそれをぐっと堪える。現世では早雪が悪魔の呪いに苦しんでいるかもしれない。彼女と、彼女を取り巻く人たちの心情を考えると、このまま魔壕へ行けるはずがなかった。
そんな樹流徒の想いなど知る由も無いアムドゥシアスは淡々と話を続ける。
「さっきも言ったとおり、一つ目の質問……ガルダの居場所については私も知らない。黄金宮殿に住んでいるのは有名だが、それがどこにあるのかまでは不明だ」
「そうか」
「ただ、あくまで噂に過ぎないが、ガルダの宮殿は向こうに存在するという話を聞いたことがある」
そう言ってアムドゥシアスがある方角を指差す。そちらは先ほどまでサボテンの反対側にいた樹流徒には見えなかった方角だった。
見れば、ずっと遠くの空が黄色く染まっている。
「あの場所には年中激しい砂嵐が吹き荒れている。そのため地面の砂が常に舞い上がり、ああして空が黄色く染まっているのだ」
「……」
「だが、砂嵐の中心だけは台風の目のようになっており、無風状態だという。そこにガルダの黄金宮殿が建っていると聞いた。繰り返しになるが、ただの噂に過ぎないがな」
「いや。噂でも十分だ」
何のあてもなく砂漠をさまようよりはよほど良い。
こちらに対して悪印象を持ちながらも情報を教えてくれたアムドゥシアスに、樹流徒は感謝した。
「では私はそろそろ行かせてもらおう。望む望まぬにかかわらず、お前とはまた出会いそうな予感がする」
そう言うとアムドゥシアスは静かに腰を上げた。サボテンの根元に沿って落ち着いた足取りで歩いてゆく。
去り行く背中に掛ける言葉が思いつかず、樹流徒は踵を返した。ガルダの黄金宮殿を求め、黄色く染まった空に向かって羽を広げて飛び立つ。
その姿をアムドゥシアスが一度だけ仰ぎ見た。