月雷(つきいかずち)
夜子は瞬きひとつせず、棺の中で眠る自分と似た姿の女を見つめる。微かに寄せられた眉が不快とも不安とも恐怖ともつかぬ感情を露わにしていた。
渚もすっかり棺の中身に見入っている。魅入られていると言ったほうが良いかもしれない。彼女は自分の手から刀がこぼれ落ちて地面を転がっていることにすら気付いていないようだった。
そんな二人の隣に立つ火雷もまた一瞬たりとも銀髪の女から視線を外さない。目を反らすことが罪であるかのように棺の奥を仰いでいる。
そのまま何分くらいそうしていただろうか。
「なんだ……あの女は?」
やっと我に返ったように夜子が尋ねる。
隣に立つ火雷は畏怖の念を込めた口調で答えた。
「あのお方こそ、我らの偉大なる盟主、黄泉津大神様です」
「え。ヨモツオオカミ様?」
「黄泉津大神様が初めて根の国を訪れてから現在に至るまで果てしなく長い年月が経っています。しかしあのお方は未だ本来の力を取り戻しておりません。ですからああして棺の中で休んでいらっしゃるのです」
「ちょっと待って下さい。それじゃあ……」
渚の視線が夜子と棺の女を往復する。当然の反応だった。もし棺の中にいるのが黄泉津大神だというならば、今この場には同じ人物が二人いることになってしまう。
「下らん」
夜子は冷ややかだった。火雷の言葉を最初から嘘と決め付けている。
「あの。もし仮に……。あくまで仮にですよ? もしあの女の人がヨモツオオカミ様だとしたら、夜子様は誰なんですか?」
渚が疑問を唱えると、夜子は無言で火雷と目を合わせた。彼女も答えを聞きたいと思っているのだろう。
二人の真剣な眼差しを受け止めて、火雷は淡々と真実を打ち明ける。
「“月雷”」
「え」
「それがアナタの本当の名です、夜子様」
「月雷だと?」
「はい。黄泉津大神様という太陽の光を浴びて輝く月。我々八鬼とは似て非なる存在。濁さず言ってしまえば黄泉津大神様の複製。それが月雷……アナタの正体なのです」
「そんな。夜子様が誰かの複製なんて……。そんなの嘘ですよ」
できれば火雷の言葉を否定したいのだろう。渚は改めて棺の女と夜子を見比べる。しかし見れば見るほど誰の目にも両者の姿は酷似していた。
「黄泉津大神様が完全復活しあの棺から出ていらっしゃるまでには、まだかなりの時間を要します。そこであのお方はご自身の記憶と力の一部を持った複製を生み出し、復活までのあいだ根の国を統治させることにしました。いわば影武者を生み出したのです。その影武者こそがアナタなのですよ、夜子様……。いや、月雷」
火雷は淀みない口調で説明するが、夜子は認めない。
「作り話も大概にしておいたほうが良い。なるべく安らかに死にたいのなら」
彼女は火雷に掌を向ける。そこに黒い光が集まり、いつでも攻撃可能な体勢に入った。
「私を消したいのでしたらご自由になさるが良いでしょう。しかし事実は覆せても真実は覆せない。それだけはお忘れなく」
そう言って火雷は恍惚とした表情で真の黄泉津大神を見上げる。その横顔はまるで死を恐れていない者のようだった。恐れる以前に自分の生死など眼中に無い様子である。
渚は手も口も出さなかった。床に落ちた刀を拾い上げようともせず、ただこの場の成り行きを見守っている。
夜子の手に集まった光がゆるやかに渦を巻いた。その光がいつ放たれてもおかしくないと思われた、そのとき。
「うっ」
夜子の体が大きく揺れた。腰が落ち、床に片膝を突いて激しく咳き込み始める。手で押さえた口から先刻よりも大量の血があふれ出した。
「夜子様」
渚はしゃがみ込んで夜子の両肩を支える。その優しい手を夜子は振り払おうとはしなかった。最早それだけの余力すら残っていないのか、奈落よりも暗い瞳で床の一点を見つめ、咳払いと吐血を繰り返す。
「アナタの体調不良の原因は現世の空気が原因ではありません。先ほど申し上げた通り、寿命が尽きかけているのです。神の複製であるアナタに永遠の命は無いのですから」
火雷は感情のこもらない目で夜子を見下ろす。
「夜子様、本当にこのまま死んじゃうんですか? 助かる方法はないんですか?」
口を利かない夜子に代わって渚が救いを求める。
まさにその直後だった。
渚の願いに反応したのか、棺の中からキィン……キィン……と謎の高音が鳴り響く。鈴の音よりも高く鐘の音よりも鼓膜に響く、軽く脳に突き刺さるような音波だった。
「なに? この音……」
鳴り続ける不快音に渚は目を眇めた。
「黄泉大神様が渚に語りかけておられるのだ」
と、火雷。
「私に?」
渚の耳にはただの不快音にしか聞こえなくても、火雷にはそれが声として聞こえているらしい。
夜子にはどう聞こえているのか。彼女は眉一つ動かさない。
棺の中から発せられる音波が止んだ。
「今、あの人は何て言ったんですか?」
「渚の願いを聞き入れる、と仰られたのだ。黄泉津大神様のお力があれば月雷の延命など造作も無いのだからな」
と、火雷。
夜子の力をもってしても彼女の体調はどうにもできない。それを棺の中の女がいとも容易く治せてしまうというのならば、どちらが真の神か、考えるまでも無かった。
それを証明されるのを恐れるかのように、夜子は震える膝を無理やり起こす。
「余計なことはしなくて良い。紛い物の力など借りずとも、私は不滅だ」
彼女はまだ自分こそが神であると主張する。
夜子は両肩に添えられた渚の手をそっと払いのけ、棺に向かって掌をかざす。奥で眠る女を攻撃しようというのか。
「おやめになったほうが良いですよ、月雷。折角助かった命を捨てることはありません。黄泉津大神様の御慈悲と渚の気遣いを無駄にするおつもりですか?」
火雷が外見に似合わぬたしなめるような口調で言う。
「私は月雷ではない」
言い終わるより早いか、夜子の掌から漆黒の炎が放たれる。渚があっと言うよりも早いか、炎は棺ごと女を飲み込む勢いで前方へ広がった。
火雷は音なしの構えを取る。夜子の攻撃を止めようともしなければ、棺の女を守ろうともしなかった。日常の光景を眺めるかの如く、黒い炎が激しく形を変える様を傍観する。
銀髪の女も目を閉じたまま指先ひとつ動かさなかった。
ところが、棺の正面に黒ずんだ白い光が現れる。それは円形を模り防壁となって夜子の攻撃を遮断した。それだけに留まらず、光の防壁は攻撃を防ぐとすぐに長い弓矢へと姿を変え、目にも留まらぬさで夜子の胸元めがけ飛び込んだ。万全な状態の夜子ならばあるいは回避できたかもしれないが、立っているのがやっとの彼女に矢を回避するだけの余裕は無かった。
夜子の体から血は流れなかった。光の矢に射抜かれた彼女は糸が切れた人形みたく膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せで倒れる。隣の渚は声も上げずに顔を真っ青にした。
火雷は心なしか気の毒そうな目で夜子を見つめる。彼女に対して少しでも惻隠の情が芽生えたのだろうか。
「夜子様……?」
恐る恐る渚が声をかけるが、夜子は薄く目を開けて倒れたまま反応が無い。
ふっと力が抜けたように渚の両肩が下がった。
辺りを漂うヒトダマの色が何度か変わると、出し抜けにキィン、キィンと、棺の中から不快音が響いた。黄泉津大神の声である。
火雷は棺に向かって静かに頭を下げてから、渚のほうを向く。
「案ずることはない渚。月雷はまだ生きている。そう黄泉大神様は仰っている」
「本当ですか?」
今にも泣き出しそうな少女の言葉に、火雷は静かに頷いた。
たしかに夜子の体はまだそこにある。ネビトといい、樹流徒と戦った八鬼の一人・柝雷といい、根の国の住人は皆、命を落とすと泥のような物体になって跡形も無く消滅する。その点、夜子の肉体はまだ床に倒れたまま残っており崩壊を始めていなかった。
「それじゃあ、夜子様を助けてもらえるんですか?」
「黄泉津大神様は月雷のこれまでの働きに大変満足しておられる。長年積み重ねてきた月雷の功績と、渚の願いに免じて、先述した通り、今回は月雷の延命を行なって下さるそうだ」
それを聞いて渚はほうっと安堵の吐息を漏らした。
「本来は黄泉津大神様の手で直々に月雷を葬っていただき、新しい夜子を用意する手筈になっていたのだがな」
火雷が夜子に向かって「用済み」などと挑発したのは、手っ取り早く夜子と黄泉津大神を引き合わせ、両者を戦わせるためだったのかもしれない。現に、夜子は黄泉津大神に戦いを挑み返り討ちに遭った。渚の願いにより命拾いしたが、本来であれば夜子は既に亡き者になっていたのだ。
「ただし、延命はするが月雷の記憶は書き換えさせてもらう。夜子様にはこれからも黄泉津大神様を演じていただくのだから」
火雷は事務的な口調で言った。黄泉津大神の力があれば夜子の記憶を改ざんするなど容易なのだろう。次に夜子が目を覚ましたとき、彼女は祭壇の秘密も、月雷という己の真名も、棺の中で眠る女の存在も、全てを忘れているのだ。そしてこれまでと同じように自分を神だと信じて、偽りの頂点に君臨し続けるのである。
夜子は今後も生き続ける。生き続けるが、それは黄泉津大神が完全復活するまで利用され続けるとも言えた。果たしてそれが幸せなことなのかどうか、良いことなのかどうか、渚には分からない。証拠に彼女の表情はいつになく複雑だった。
「夜子様はともかく、どうして私まで黄泉津大神様と会わせたんですか?」
若干の困惑と憤りが入り混じった口調で渚は問う。
「黄泉津大神様ご自身が渚に会いたいと望まれたからだ。あのお方は祭壇の奥からずっと外の様子をご覧になっていた。渚の人柄や言動なども視ておられた。そして君のことをいたく気に入られたようだ。黄泉津大神様に気に入られるなど、この上なく光栄な話だ。君はもっと喜ぶべきだ」
と火雷。
自分の心の在り方を勝手に決められそうになって、渚はむっとする。
「光栄とかそういう問題じゃないです。今まで夜子様を騙していたアナタたちみたいな人が、私は好きになれません」
そうはっきりと言い切った。
火雷の口元が微かに歪む。苦笑に近い表情だ。
「月雷を騙していたのが許せないというなら、君自身はどうなのだ?」
「え。私?」
「君は月雷に対して何か隠し事をしている。恐らく相馬樹流徒に関する情報だろう。その程度のことを黄泉津大神様や私が気付かないとでも思ったのか?」
「ええと。それは……」
渚の視線が泳いだ。図星だったのだろう。
たしかにその気配はあった。樹流徒が最後に根の国を訪れたとき、夜子はメイジの死や悪魔倶楽部の鍵について何も知らされていない様子だった。あれは渚が夜子に対して情報を隠していたからなのだろう。恐らくは樹流徒のために。
キィン、キィン。棺から不快音が鳴る。
渚はびくりと肩を震わせた。黄泉津大神に対して「好きになれない」と断言してしまったのだ。今から殺されるか、それとも夜子と同じようにされるか、渚が恐怖するのは当然だった。
震える少女の手が足元に落ちている刀の鞘を握り締める。黙って殺されるくらいなら、抵抗しようというのか。
しかし彼女が刀を抜き放つ前に、火雷が言葉をかける。
「早まる必要は無い、渚。そして怯える必要も無い。先ほども言ったが、黄泉津大神様は君を気に入っておられる。君が危害を加えられることは無い」
「でも。だからって、アナタたちが夜子様にしたことは許せないです。確かに私も夜子様に隠し事とかしましたけど、アナタたちみたく人を利用するための嘘じゃないですから」
渚が覚悟を決めた表情を浮かべると、火雷はひとつ頷いた。
「分かった。この際、君が我々を快く思わないのは良しとしよう。別に許してもらおうとも思わない。しかし念のために言っておくが、間違っても我々を裏切ろうなどとは考えないことだ」
今回の件で渚の心が根の国から離れるかもしれないと先読みしたのか、火雷が釘を刺す。
脅迫とも取れる相手の言葉に渚は顔をしかめた。
構わず火雷は続ける。
「渚はすでに陰人の改造手術を受けている。君は最早人間ではない。今さら普通の人として現世で暮らすのは不可能だ。たとえ君が地上のどこに住み、隠れようと、人間はきっといつか君の存在に気づき、君を恐れ、排除するか、利用するか、あるいは崇めようとするだろう。いずれにせよ君を放っておいてはくれない」
「……」
「そこで一つ良い提案がある。君は新たな手術を受けるつもりは無いか? そうすれば君の余分な記憶を全て消してあげよう。人間だったころの記憶も、千里眼で見たおぞましい光景も、月雷の記憶も、何もかも綺麗に無くなる。手術が成功すれば、今後君が苦しむことは何一つ無い」
火雷の案を聞いて、渚はやや視線を落とした。
「この提案は君が最初の手術を受ける直前にもした。当時、君はかなり前向きに考えていたはずだが?」
「はい。それは覚えています」
「では、渚が何のためここにいるかも覚えているな? 君は陰人計画を成功させ、人間たちの間で争いがひとつも無い世界を作りたいからではなかったのか?」
渚は火雷から完全に視線を外し、それを遠くの床にさまよわせる。
追い討ちをかけるように、火雷は更に付け加える。
「全人類を陰人に変え、黄泉津大神様が現世を管理されるようになった暁には渚の願いがかなう。現在地球上のどこかで絶え間なく繰り返される人間たちの暴虐な振る舞いを止められる。戦いや悲しみが無い恒久的に平和な世界を作れるのだ」
「それも分かってます」
「ならば良い。幸い時間はある。今後君がどの道へ進むのか、じっくり考えてみるといい。ただし月雷と黄泉大神様の件は決して口外してはいけない。もし誰かに話せば、君だけでなく月雷の命も保障できなくなる。それだけは肝に銘じておくように」
火雷が重ねて釘を刺したが、渚は神妙な顔で床の一点を見つめ返事をしない。刀を握り締める指が、何かを堪えるようにぐっと力を込めた。




