最後の問題
頭が大木で、お尻は半月?
問題文を聞いた瞬間、樹流徒の脳内には、大木の頭部と半月状の尻を持つ生物の姿が浮かび上がった。頭には青々と葉を茂らせ、瞳は真っ赤。胴体は胸から尻に向かってゆくにつれ徐々に細くなって尻は半月のように曲がっている、四本足の獣……。
そんな異形の生物がいるはずなかった。よしんばそのような姿の生物が魔界にいたとして、それが答えではなぞなぞとして成立しない。
ルサルカが「難しい」と前置きしただけあって、今度の問題も即答は無理そうだった。
樹流徒は再び思考に没入する。
まず頭と尻。この単語を別の意味――たとえば上と下に置き換えてみたらどうだろうか。そうすると問題文は「上は大木、下は半月、これなーに?」になる。こちらのほうが何となく答えがイメージし易そうだった。
では、上が大木で下が半月とは何か? 「上は洪水、下は大火事」という有名ななぞなぞは知っているが……。
これは難問だ、と樹流徒は頭を悩ませる。しばらく答えは出せなかった。
樹流徒がヒントを頑なに拒否することを第二問目のときに察してか、ルサルカは何も言わずに答えを待っている。一方の樹流徒も沈黙したまま、問題と格闘した。そのあいだ海底神殿を訪れる者は誰もいない。二人を包む雲だけがほとんど止まっているような遅さでゆっくりと流れてゆく。
頭は大木で、お尻は半月。これなーに?
上は大木で、下は半月……
前の問題と同じだ。頭の中で問題文を反芻すればするほど訳が分からなくなってくる。
まず半月という部分が気になった。なぜ満月でもなく三日月でもなく半月なのか? 恐らくそこに正解の糸口が隠されているような気がする。ただ、肝心なその糸口が掴めない。なぜ半月でなければいけないのか? そもそも空に浮かんでいる月が、地面に生えている木よりも下にあるという矛盾も樹流徒の頭を妙に混乱させた。思考の糸が絡まる。
それともこの世には月よりも高い木があるというのだろうか。貪欲地獄で見たあの忘却の大樹でさえ、さすがに月までは届かないというのに……
そこまで考えて樹流徒ははっとする。思いも寄らないところに大きなヒントが転がっていた。
忘却の大樹。それこそが今回の問題のほぼ回答だったのである。
「そうか。答えは“憤怒地獄”だな」
魔界の第五階層・憤怒地獄は、上の階層にある忘却の大樹と、下の階層にある半月状のドームと、魔界血管により繋がっている。まさに「頭に大木。尻に半月」だ。魔界を知っているものでなければ答えられない、悪魔ならではのなぞなぞだった。
「わ、凄い。良く分かったね。この問題をこんなに早く解けたのは多分アナタで三人目くらいだよ」
感心したようにルサルカは言う。
自力で問題を解き、樹流徒は再び若干の満足を得ようとしたが、そんな場合ではないとすぐに気付いた。ルサルカが次の問題を読み上げる前に別れの挨拶を切り出さなければいけない。第三問目を解くのにも結構な時間を使ってしまった。いい加減、先へ進まなければ。
「ルサルカ。悪いが暇つぶしに付き合ってあげられるのもここまでだ。俺はもう行くよ」
言うと、直前まで太陽みたいだったルサルカの表情が若干曇った。
「ちょっと待ってよ。ようやく面白くなってきたところじゃない。まだまだ難しい問題がいっぱいあるんだよ?」
「しかし、これ以上は……」
困惑から樹流徒が少し眉を曇らせると、ルサルカは「しょうがない」と言った。
「じゃあ、次の問題で最後にする。だからもう一問だけいいでしょ。ね?」
「……」
「すごく簡単な問題だから」
「本当に次が最後の問題か?」
「うん。しかもアナタなら絶対即答できる問題だよ」
まるで樹流徒がクイズ名人であるかのようにルサルカは言う。
樹流徒はおだてに乗る人間ではないが、あと一問くらいなら付き合ってあげても良い気がした。この程度のお願いに必死になっているルサルカを無視して先へ進むのは多少心残りになる。
「分かったよ。でも次が本当に最後の問題だぞ」
先にそれを断ってから、樹流徒は了承した。
「うん。ありがとう」
ルサルカは満面の笑みで喜ぶ。よほど退屈していたのだろう。彼女の友達が早くこの場に現われるように樹流徒は軽く祈った。
「それじゃあ最後のこれなーに? だよ。本当の本当に簡単な問題だから」
念を押すようにそう言ってから、ルサルカは第四問目を読み上げる。
――ベルゼブブのバベル計画に邪魔なニンゲン。これなーに?
「……」
樹流徒は、自分の心が急速に暗く冷たくなってゆくのを感じた。
目の前の悪魔から邪悪な闘気が漲る。ルサルカが言っていた通り、最後の問題は樹流徒ならば簡単に解ける問題だった。
「答えはそう……。アナタよ、首狩りキルト」
ルサルカの口調が急に艶かしく変わる。外見とは不相応に幼かった今までの態度が、今度は逆に外見以上に大人の雰囲気を醸し出した。その器用な変貌ぶりは魔女と呼ぶに相応しい。
雰囲気をがらりと変えたルサルカは音も無く宙を浮いて、樹流徒の頭上で停止する
広場を包んでいた青空が禍々しい黒の侵食を受けた。魔空間の発生である。二人の周囲は夜よりも暗くなった。
樹流徒の視界があっという間に闇に覆われる。ルサルカの姿はおろか自分の足下さえも見えない。
――本当にありがとう。アナタが問題に付き合ってくれたお陰で空間構築の時間を稼げたわ。
艶かしい女の声が樹流徒の頭上から降ってきた。
相手の姿が見えないままでは戦えない。樹流徒は闇を見通す力を持つ暗視眼を使う。
それでも視界は真っ暗なままだった。きっとこれがルサルカの魔空間が持つ効果なのだろう。暗視眼でも見えない完全な闇の世界を作り出す力。樹流徒はいきなり視界を奪われた。
迂闊だった。どうして罠の危険性を考えなかったのか。そう樹流徒は後悔しかけたが、最早それどころではない。立ち止まっていたら的にされる。とりあえず逃げなければいけない。
樹流徒は横に駆けた。半瞬前まで彼が立っていた場所から何か硬い物が叩きつけられたような音がする。恐らく上空から飛んできたルサルカの攻撃が床を叩いた音だ。
――あはははは。
女の声が闇にこだまする。その哄笑が樹流徒の耳に届いた時、ルサルカはもう全然別の場所を飛んでいた。
たとえ相手の姿が見えなくても、殺気が飛んで来る方向で樹流徒は敵の大雑把な位置を察知できる。ただ、攻撃を命中させられるほど正確な位置までは把握できなかった。音を頼りに敵の位置を感知することも不可能。攻撃を命中させるどころか、下手に五感をあてにすれば却って危険に追い込まれるかもしれない。
――まさかあのラハブがニンゲンに負けるとは思ってなかったわ。だから私、アナタが姿を現したときは内心かなり驚いてたのよ。
「そうか。お前はここで俺を待ち伏せしていたんだな。友達と待ち合わせをしていたという話は嘘だったのか」
――そんなの当たり前でしょ。あ。でも、友達に三日間も待たされたって話は本当だよ。上手な嘘の秘訣は嘘の中に事実を混ぜることだって、ずっと昔に会ったニンゲンが言ってたからね。
ルサルカは大人と子供の喋り方を交互に使う。
相手の姿が見えない暗闇の中、樹流徒は二人の女を相手にしているような錯覚に陥りそうだった。
鋭く風を裂く音がして、上空から降ってきた硬い物体が樹流徒の腕を擦った。矢か、氷柱か、それとも爪か。かなり貫通力がある攻撃だ。急所に受ければ命は無い。
急いで反撃しなければいけなかった。攻撃の的にされないよう絶えず地面を駆け回ってはいるが、このままでは樹流徒が被弾するのは時間の問題。その前に敵を撃墜しなければいけなかった。
見えない敵に攻撃を命中させるにはどうしたらいい?
必死に考えて、樹流徒はすぐに心当たりを得た。敵の姿が見えないなら、敵がどこにいても攻撃が当たるようにすればいいのだ。
メリメリと異音が鳴って、樹流徒の首から、肩から、背中から、そして胸から、上半身のほとんど至る場所から、皮膚を破って無数の異物が突き出した。
――あれはラハブの!
ルサルカが初めて真剣な声色を発した。
彼女が言うとおり、樹流徒の上半身から飛び出したものは白と黒の縞模様を纏った針。とても記憶に新しい魔王ラハブの武器である。針の大きさは樹流徒の体に合わせて実際にラハブが使用したものよりも小さいサイズになっている。ついでにラハブと比べて針の本数も少なかった。それでも敵に対して十分な殺傷力があるだろうし、命中力もあるはずだ。
樹流徒の上半身から飛び出した数百の針が四方八方に散らばって無秩序な軌道を描いて飛び回る。
――チッ
ルサルカの舌打ちする音が聞こえた。
樹流徒はすかさずそちらに向かって両手から電撃を同時に放つ。雷光の片方は空間の壁で弾けたが、もう片方の雷に瞬間的な歪みが生まれた。その中心で女が笑い声を上げる。
雷光の消滅と共に闇が晴れてゆく。魔空間が消えたのだ。
ルサルカはまだ生きていた。樹流徒の針を受けたのだろう。いつの間にか地上に降り立っていた彼女の手首には青い血がうっすらと滲んでいた。
身構える樹流徒に対し、ルサルカはにっこりと微笑む。
「さすがだね。思っていた以上の力だったよ、首狩りキルト。最後の電撃を魔法壁で防いでいなかったら危なかったかもね」
まるで今までの戦いが嘘か冗談だったかのように、彼女の雰囲気はなぞなぞをしていたときの、幼い感じに戻っていた。
「なぜ、自ら魔空間を消した?」
「だって、戦いはもう終わりだもん。勝手に付き合せておいて悪いけど、これ以上アナタと遊ぶつもりは無いんだよね。私はただ、アナタの力を確かめたかっただけだから」
「そちらに戦うつもりが無くても、こちらにはある。バベル計画の参加者は、たとえ誰であろうと許すわけにはいかない」
攻撃を仕掛けようと樹流徒が相手に掌を向けると、ルサルカはくすくすと可笑しそうに笑った。
「アナタ、何か思い違いをしているみたいだね」
「何?」
「私がバベル計画の存在を知ったのはつい最近のことだよ。まだ計画には参加していないし、ベルゼブブの仲間でもないんだから」
「……」
嘘か真か。しかしこの話が本当だとすれば、ルサルカは龍城寺市の壊滅には関わっていない。樹流徒にとって倒すべき敵ではなかった。
「私、迷ってるんだよね。これからベルゼブブの仲間になってバベル計画に参加するか、それともリリスたちに協力するか」
楽しそうにルサルカは言う。
彼女が何を言っているのか、樹流徒には分からなかった。リリスはベルゼブブの仲間だ。ベルゼブブの指示を受けてベルの体を乗っ取っりスパイ活動をしていた悪魔だ。つまりベルゼブブのバベル計画に参加することと、リリスに協力することは同義のはずである。しかしルサルカの口ぶりを聞いていると、まるでベルゼブブとリリスが別勢力……もっと言うならば敵対勢力であるかのように聞こえる。
樹流徒が訝しげな顔をすると
「いけない、いけない。どうやら少し喋り過ぎちゃったみたい」
ルサルカは子供じみた口調で笑う。しかし
「アナタとはきっとまた会うことになるわ。次こそ互いに殺し合うことになるか。それとも……」
急にフフフと妖艶な声を出して、樹流徒に近付いてきた。二つの人格が数秒おきに入れ代わっているのではないか、と疑いたくなるほど目まぐるしい変貌ぶりである。
樹流徒はまだ身構えているが、ルサルカからすっかり殺気が消えているので、相手にこれ以上戦意が無いことは分かっていた。
女は金色の長い髪をふわりとなびかせて樹流徒の横を静かに通り過ぎる。
「じゃあ、またね」
幼さと大人が同居したような第三の声を彼の耳元で囁いた。
「待て」
樹流徒が振り返ると、すぐ傍にいたはずのルサルカの姿はもうどこにも無かった。ふと女の柔らかい残り香が漂ってきたが、それもすぐに消えた。
「一体、何がどうなっているんだ?」
ルサルカが自分の実力を確かめようとした理由。そしてベルゼブブとリリスに関する話。樹流徒は心に引っかかった。たしか憤怒地獄の山頂に現われたヴィヌという悪魔も「オマエの実力を確かめさせてもらう」と言ってこちらに襲い掛かってきた。もしかしてヴィヌとルサルカは同じ目的から戦いを挑んできたのではないか、と樹流徒は憶測した。
釈然としないものを抱えたまま、樹流徒は階段を上り始める。足下から聞こえてくる美しい歌声が、今はもう安らかな音には聞こえなかった。逆に不吉で不安な音階を奏でているように思えてくる。
心がもやもやしたまま足を動かしていると、やがて頭上から狂ったような音楽が流れてきた。雑音と言った方が良いかもしれない。
何事かと思って樹流徒が顔を上げると、大きな異形の影が鍵盤の階段を駆け降りてきた。
やって来たのは牡牛の姿をした悪魔。全身の毛皮は赤茶色に染まり、体長は三メートル以上ありそうだ。頭から二本の立派な角を生やし、その根元には黄金のアクセサリーが巻かれていた。四本の足にもそれぞれ黄金に輝く巨大なアンクレットを身につけており、遠目にも目立つ派手な姿をしている。
黄金のアクセサリーで全身を飾りつけた牡牛は、厳つい肩を揺らしながら数段飛ばしで鍵盤の階段を跳ね降りてくる。そして樹流徒を一瞥することもなく、無言で彼の横を通り過ぎていった。これからどこへ行こうとしているのかはさて置き、よほど慌てている様子だ。
樹流徒も同様に黙って相手の横を通り過ぎた。背後から狂った音楽ガ聞こえなくなったとき、ふと頭上を仰ぐと遥か天空の果てに魔界血管の光が見えた。