ラハブの正体
樹流徒とフォルネウスが接近戦を仕掛けようとしていることに感づいたのか、ラハブが高く後方へ跳躍して二人との間合いを大きく広げる。
着地するなり魔王の上半身は装甲の穴という穴から吐き出された大量の針に覆われた。白黒の縞模様が入った針が四方八方に向かって射出され出鱈目な軌道であちこちを飛び交う。ラハブの周囲にあるものを無差別に襲う殺戮兵器だ。
樹流徒は鋭い出足でフォルネウスの前に飛び出す。魔法壁を展開して自分の身を守りつつ、背後にいるフォルネウスの盾になった。
暴れ狂う針の嵐は空間の壁や天井にぶつかってバラバラに砕け散り、硬い破片を地面に積み重ねる。最初は塵一つ落ちていなかった空間内に悪趣味な彩りを添えた。
全ての針が不発に終わったとき
――よし、今だ。我々は接近戦を仕掛ける。キルトは私の上に乗れ。
フォルネウスの声が樹流徒の脳内に響いた。
「分かった」
と答えてから、樹流徒は少しでも安全に敵へ接近するため牽制攻撃を行なう。
彼の背後に小さな闇が浮かんだ。闇は形を変えて忽ち数十羽のカラスになる。これもアミーという悪魔が使用した一風変わった力。使い魔召喚の能力だ。
「頼む。少しのあいだ敵の注意を引き付けてくれ。ただし無理はするな。命が危険と感じたら迷わず逃げるんだ」
樹流徒が命じると、翼に雷を纏ったカラスたちは一斉に羽ばたいてラハブの元へ殺到した。
フォルネウスは体内に空気を充満させて突進の準備を済ませている。
樹流徒が軽く跳躍してフォルネウスの頭に飛び乗ると、クラゲ悪魔は傘に溜めた空気を勢い良く吐き出して宙を疾走した。
先行したカラスたちがラハブの元にたどり着き、敵の周りを旋回する。
残り九十メートル……八十メートル。
樹流徒を頭に乗せているにもかかわらず、フォルネウスの突進速度は相当なものだった。ラハブまでも距離はゆうに百五十メートル以上あるが、懐に飛び込むまで十秒とかからないだろう。
カラスの群れが装甲の隙間を狙ってラハブの上半身をクチバシでついばむ。魔王の体に細かな傷が付き、青い血が薄く滲んだ。かすり傷程度のダメージとはいえ、初めてラハブに攻撃が通った。
対するラハブは薔薇の剣やドリルを使ってまとわりつくカラスを一羽ずつ始末する。今こそ装甲から針を出せば周囲の敵を一網打尽にできるのに、少し手こずっている様子だった。
その光景を見て樹流徒は「やはり」と心の中で呟く。恐らくラハブの装甲から飛び出す針は連続使用できないのだ。もし無制限に使用できるならばラハブは既に実行しているし、それにより樹流徒たちは大なり小なりダメージを負っていただろう。何しろ全方向めがけて高速で飛び回る針は回避が困難だ。使用制限が無ければラハブが針を多用しない理由は無かった。
このタイミングで接近攻撃を仕掛けたのは正解だった、と樹流徒は確信する。勝機が見えた。針の鎧を纏えない今、ハラブを守るモノは両腕の盾しかない。
危険を感じたら逃げろ、と樹流徒に命じられたにもかかわらず、使い魔のカラスはラハブへの攻撃を止めようとしなかった。彼らはまた一羽、また一羽とラハブの餌食になりながら、それでも果敢に攻め続ける。
フォルネウスは突進の速度を緩めることなく、敵に接近しながら触手の内の二本を長い槍に変えて攻撃を仕掛けた。
ラハブは残ったカラスに対応しながら白色の光線と薔薇の剣でフォルネウスの触手を両方とも正確に撃墜する。並外れた脳の情報処理能力と高い集中力がなければできない芸当だった。もっとも、魔王がそのくらいの技をやってのけても樹流徒は今更驚かなかったし、フォルネウスも攻撃が通じるなどとは考えていなかっただろう。
敵との距離が縮まる。あと五十メートル。
――私は警告する。目を閉じろ。
樹流徒の脳内に再びフォルネウスの声が響いた。
どういう意図があって「目を閉じろ」と指示されたのか分からなかったが、樹流徒は言われるまま瞼を結ぶ。視界が真っ暗になったとき、フォルネウスの狙いを理解した。
「もういい。全員離脱しろ」
目を閉じたまま樹流徒は使い魔に向かって叫ぶ。これ以上ラハブと戦わせても、カラスたちが無駄死にするだけだ。
使い魔たちは今度こそ樹流徒の命に従ってラハブの周りから離れた。彼らはカラスから形容しがたい模様の闇へと姿を変化させ、最後は跡形も無くどこかへと消え去った。
いよいよ敵が目前まで迫る。ラハブが思い切り足を前に踏み込んで腕をいっぱいに伸ばせばドリルの先端が樹流徒たちに届きそうな間合いだ。使い魔たちが敵の相手をしてくれたお陰で二人は無傷でこの距離まで接近できた。
訪れた勝負の瞬間。巨大な触手がしなり薔薇の剣が天井を指す。装甲の奥で輝く黄金の瞳が樹流徒たちをまとめて葬ろうと狙いを定める。あとは剣を振り下ろすだけ――
樹流徒が息を呑んだ刹那、フォルネウスの体内が眩い光を放った。かつて樹流徒も食らった強烈な目くらましだ。この攻撃に巻き込まれないよう、フォルネウスは樹流徒に対して目を閉じるよう警告を与えていたのだ。
辺り一面が真っ白に染まる。短くうっと叫んで、目くらましを食らったラハブが両手で瞼を覆った。振り上げられた薔薇の剣が力なく垂れ下がる。魔王に大きな隙が生まれた。
フォルネウスは約束を果たした。今度は樹流徒が自分の役目を実行する番である。
目を閉じたまま樹流徒はフォルネウスの上から跳躍した。ラハブの首元めがけて最短距離を進む。
それを待っていた、と言いたげにラハブの口元が微かに緩んだ。
ラハブの上半身を覆う装甲の穴から細長く尖った物体が飛び出す。針ではない。針よりも少し太くて長い物体――数十本もの氷塊だった。
ナイフよりも鋭利な先端を持つ氷塊は前方へ広範囲に飛び散って樹流徒の全身を容赦なく突き刺す。離脱中を始めようとしていたフォルネウスも巻き込まれた。氷塊の一つが彼の傘を貫通する。
フォルネウスの体内から光が消えた。
樹流徒たちにとっては最悪なことに、フラッシュをまともに受けたはずのラハブはすでに視力を取り戻している。一度は塞がれた瞳が全開になって爛々と輝いていた。
「ふふ……」
魔王は勝ち誇ったような笑みをこぼしかける。
が、その表情は完全な笑みになるよりも前に硬直した。
氷塊に全身を貫かれたはずの樹流徒の姿がそこに無い。ラハブが放った氷塊が刺し貫いたのは樹流徒のダミーだったのである。樹流徒は万が一の反撃を見越して、ダミーを最短距離で突っ込ませ、同時に自分はラハブの真上に跳躍していた。フォルネウスのフラッシュで視界を奪われてたラハブにはそれが見えていなかったのである。
敵の首元を狙って樹流徒は直下する。彼の殺気で気付いたか、ラハブははっとしたような表情をして、頭上を仰ぐ暇も無く触手をしならせる。薔薇の剣の切っ先が樹流徒めがけて正確に飛んだ。
樹流徒か、それともラハブが、どちらの攻撃が先に届くかタイミングは微妙だった。際どい攻防に樹流徒は奥歯が潰れそうなほど歯を食いしばる。
両者の影が重なった。
「キルト!」
フォルネウスの叫びが、ラハブの耳には絶望の叫びに聞こえたはずである。
一瞬を争う際どい勝負を制したのはラハブだった。上空から直下してきた樹流徒がラハブに接触するよりもわずかに早く、薔薇の剣が樹流徒の肩を刺し貫く。
だがラハブは元々皿のようだった目をもっと真ん丸にした。手応えがまるで無かったからだろう。薔薇の剣に突かれた樹流徒の体が幻の如くすうっと消えてゆく。
ラハブが攻撃したのはまたも樹流徒もダミーだったのだ。本物の樹流徒はダミーよりも僅かに遅れてラハブの真上から落ちてきた。そうとは知らずラハブが薔薇の剣がダミーを刺したとき、本物の樹流徒は両足を揃えて敵の首筋に飛び込んでいたのである。
丸太よりも太い魔王の首に樹流徒の爪が深々と突き刺さる。
「うぬっ」
驚きとも怒りともつかぬ叫びを発して、ラハブは体を激しく前後に揺らした。
樹流徒はラハブの体から振り落とされて地面に叩きつけられる。ラハブの首から噴き出した青い血潮が後続と化して彼の回りに飛び散った。
降り注ぐ青い雨を頭から被りながら樹流徒は素早く立ち上がる。
悲鳴を上げることもなくラハブの体が崩壊を始めた。硬い装甲は砂となってさらさらと地面にこぼれ落ち、腰から生えた触手が溶けてゆく。そして空中に微量の赤黒い光が放出された。
待て……。何かがおかしい。
違和感を覚える光景に、樹流徒は怪訝な顔をした。ラハブから放出される魔魂の量が余りにも少ない。
樹流徒が知る限り、悪魔は肉体が大きい者や、力が強い者ほど、死亡時に大量の魔魂を発生させる。しかし今、樹流徒の眼前で舞っている光の粒は両手の中に包めそうな程度しかなかった。通常の悪魔ですらもっと大量の魔魂を発生させる。ラハブの体の巨躯や実力を考えると、この現象はおかしかった。
違う。まだラハブは死んでいない。
樹流徒が気付いたとき、崩れ行く魔王の体内で大きく細長い影が蠢いた。
それは蛇だった。赤と青、二色の鱗が不規則に並んだ大蛇。長さは十メートル前後。今までどうやってラハブの体内に隠れていたのか? と思えるほどの大きさだった。
この大蛇こそがラハブ本体に違いない。今までの姿はただの皮膚……着ぐるみに過ぎなかったのだ。
樹流徒は素早く視線を動かしてラハブの背後を見る。先ほど氷塊に傘を貫かれたフォルネウスが地面に落下したまま微動だにしなかった。フォルネウスの肉体が崩壊していないため死んではいないが、深手を負っていそうだ。その事実に逸早く気付いた樹流徒は果敢に敵へ向かった。ラハブがフォルネウスを狙う前に決着をつけてしまわなければいけない。
大蛇と化したハラブは地面に着いた腹を支点に巨大な尾を振り回す。
迫り来る尾を、樹流徒は羽を広げながら真上に跳躍して回避した。
そこを狙ってラハブが大口を開き青紫色の炎を吐き出す。しかし、それは逆に樹流徒の狙いでもあった。樹流徒は相手の口が開く瞬間を突こうと考えていた。
ゴウッと大気を揺るがす音がして、巨大な炎が樹流徒の全身を包む。
構わずに樹流徒は突っ込んだ。両腕を交差して自分の頭部を守りながら、自らラハブの口内めがけて突っ込む。ムウに滞在していたとき海竜ウセレム相手にやろうとした戦法を、今ここで使おうというのだ。
炎を纏った樹流徒が敵の体内に突入すると、大きな岩が塞がるようにラハブの口が重々しく閉じられた。間髪入れず、大蛇の喉の奥から緑色の液体が上がってくる。毒か溶解液の類だろう。口内で樹流徒を毒殺するなり溶かすなりしてからゆっくり胃袋に流し込もうとしているに違いない。
この流れは初めから樹流徒の頭にあった。ラハブの喉から上ってきた液体が口内に到達するよりも早く樹流徒の体が赤く輝く。横一文字に割れた魔人の腹部から炎が飛び出した。強烈な勢いを持つ紅蓮の光は渦を巻き前方へ広がる。緑色の液体を押し戻し蒸発させながら大蛇の喉を焼いた。液体が蒸発して白い気体がラハブの口内に充満する。それを吸い込まないように樹流徒は息を止めた。
――ギエエエッ
美しい女の姿をしていたラハブからは想像もつかない醜い咆哮が轟く。
ラハブは大口を開けて自ら下顎を地面に叩きつけた。更に細い舌を暴れさせ、口内の樹流徒を強引に外へと追い出す。圧倒的な敵の力に抗えず、樹流徒は白煙と一緒にラハブの口から飛び出して床を転がった。
その拍子、気化した毒が極微量、樹流徒の鼻孔から侵入した。たったそれだけで樹流徒は激しいめまいを起こす。目の前の景色が三重になり、手足が痺れた。一瞬でも気を抜けば意識を失いそうだった。
のそりと頭を持ち上げて、大蛇は黄金の瞳で樹流徒を睨め下ろす。負けじと樹流徒も膝を起こしながら赤い瞳の中で輝く黄金の輪で敵を睨み返した。この睨み合いを制した者が勝者となるかのように互いに視線を外そうとしない。
先に目の光が消えたのはハラブだった。大蛇は真っ暗になった瞳で虚空を仰ぐと、全体重を乗せた頭部を樹流徒めがけて落とす。意図的な攻撃ではない。力尽きたラハブが倒れただけだった。
樹流徒は力を振り絞って大きく後ろに跳ぶ。着地した瞬間、脚に力が入らず片膝が折れた。
無意識下で繰り出されたラハブの一撃が空気を圧して床を叩く。衝撃で空間全体に強い振動が伝わった。それは、魔王の最期を告げる断末魔の叫びだった。
大蛇の体が崩壊して、大量の魔魂が発生する。
それを全身で吸引しながら、樹流徒は敵がまだ生きているような気がして、油断のない瞳でラハブの滅びを見つめていた。