悪魔の恩返し
もう結構前の話になるが、樹流徒とフォルネウスは現世で一度だけ戦ったことがある。まだ樹流徒がイブ・ジェセルのメンバーたちと知り合って間もない頃だった。当時現世を訪れていたフォルネウスは、偶然にも遭遇した樹流徒を組織の一員と勘違いして、ほとんど問答無用で彼に襲い掛かったのだ。際どい戦いの末に勝利したのは樹流徒だったが、彼はフォルネウスにトドメをささず見逃した。もしあのとき樹流徒が相手の息の根を止めていたら、当然ながら今回の再会は実現しなかった。
「私はキルトと再会を果たした。私は喜ぶことにする」
と巨大クラゲの悪魔。この独特な語り口は紛れも無くフォルネウスだった。
樹流徒は何か返事をしようとしたが、残念ながら和やかに再会の挨拶を交わしている暇など無い。ラハブの触手が毒針を連射して二人を襲った。
フォルネウスは樹流徒の腕を掴んだまま素早く横に逃れる。向かってくる針を難なく回避すると、すぐさま触手の先端を青く光らせた。
その輝きは魔空間を発生させる合図だった。画用紙に絵の具を垂らしたように、半透明な壁がじわりと水中に浮かび上がる。それはあっという間に遠くまで広がって、フォルネウスを中心としたドーム状の巨大空間を作り出した。フォルネウスの傍にいる樹流徒だけでなく、三十メートル以上離れているラハブもドームの中に閉じ込められる。
魔空間が完成すると、空間の内部に満ちていた海水が物凄い勢いで水位を下げ始めた。どうやらドームの壁が海水を吸っているらしい。
「私の魔空間の効果だ」
極めて短いフォルネウスの説明が終わった頃には、とうとう空間内に雫の一滴すら無くなってしまった。それにより辺りは陸地と化す。
しかも消えたのは海水だけではない。樹流徒たちの周囲を漂っていた苺色の水泡も一つ残らず消滅した。水泡爆弾は水中でなければ存在できないのだろう。
「海の中にいるラハブは無敵だという噂を、ずっと昔に聞いた覚えがある。しかし周りに水が無ければ我々にも勝機はあると私は考える」
とフォルネウス。彼は樹流徒と共にラハブと戦うつもりらしい。そうすることによって、かつて樹流徒に命を見逃してもらった恩を返そうというのだろう。樹流徒にとっては心強い味方だった。
戦いの最中に横槍を入れられた挙句フォルネウスの魔空間に閉じ込められたラハブだが、怒りや戸惑いを感じている様子は無い。樹流徒とフォルネウスを同時に相手しても勝つ自信があるのだろう。落ち着いた態度が魔王の余裕を感じさせた。
ただその一方で、フォルネウスが樹流徒の窮地を救ったことはラハブにとって甚だ意外だったらしい。
「フォルネウス。これは何の真似かしら? 何故、アナタがそのニンゲンに味方するの?」
悪戯をした子供に向かって優しく尋ねる母親のような口調でラハブは言う。どうして樹流徒を助けたのか? その理由をフォルネウスに問い質す。
「私はキルトに借りがある。彼が殺される前に返しておかなければいけない」
「その借りとは?」
「……」
フォルネウスは無言を返す。
「分かったわ。答えたくなければそれも良いでしょう。しかし、そのニンゲンをこの場で始末しておかなければ、我々悪魔の未来に不吉をもらたすことになるわよ」
「私は問題無いと考える。もしラハブの言う通りキルトが我々悪魔の未来に影を落とすならば、そのとき私は再びキルトの敵となって戦うのだから」
その言葉でラハブはフォルネウスの説得を諦めたらしい。
「では残念だけれどアナタにもここで眠ってもらいましょう。来世が訪れるまで、しばらくのお別れね」
そう冷然と言い渡した。
戦闘再開の口火を切ったのは樹流徒。周りに水がなくなった今、彼は全ての能力を使用できる。
メリメリと皮膚を裂く音がして、樹流徒の腹が上下に割れた。体内で燃え盛る真っ赤な炎が渦を巻いて地を這いラハブを襲う。
ラハブは回避の挙動を見せたが、水中にいたときより明らかに動きが鈍かった。炎の渦を避けられないと判断したか、魔法壁を展開して防御する。
魔王の巨体を覆う虹色の防壁は表面に深い亀裂を走らせながらも炎の渦を防ぎきった。そうなると分かっていたのか、ラハブは冷静に魔法壁の内側で両腕の装甲をドリルに変形させていた。壁が消滅するや否や、触手を使って後ろへ跳ね樹流徒たちとの間合いを開きつつ、ドリルを二発同時に発射する。片方のドリルは樹流徒へ、もう片方はフォルネウスへ。
ラハブ本体の動きと同様、ドリルも水中と比べて速さが無い。樹流徒は側宙で楽に回避した。
フォルネウスも見かけによらず機敏な動きでひらりとかわす。傘を膨らませその中に蓄えた空気を勢い良く吐き出すことで推進力を得ると、斜めに上昇してドリルの軌道から逃れた。そればかりではなくフォルネウスは回避運動をしながら反撃も行う。自身の周囲から三つの氷塊を召喚し、それらをまとめてラハブに放った。
ラハブは薔薇の剣を振り上げて一個目の氷塊を破壊すると、残りの二発をかわした。水中よりも動きが鈍いとはいえ、並の悪魔とは比較にならない程度には速いのだった。ラハブを捉えるためにはある程度速い攻撃をぶつけるか、手数の多さが必要になる。
樹流徒はフォルネウスが氷塊を発射している内に次の攻撃の準備を済ませていた。三つの青白い光が彼の周囲に浮かび上がっている。それらが全部同時に膨張し、光の柱となって宙に解き放たれた。重なった三本の柱は一本の大きな柱と化しラハブを襲う。
たたでさえ広範囲、高速の一撃。フォルネウスの氷塊を回避して動きが止まったラハブがかわせるはずがなかった。ありとあらゆるものを凍りつかせる死の光が魔王の上半身を包む。初めてラハブに攻撃が通った。
光が消えたとき、ラハブの頭と胴体は氷漬けになっていた。通常の悪魔であればしばらく身動きが取れない状態だ。冷気に弱い悪魔ならば死に至っていただろう。
ラハブの場合は違った。樹流徒が追加攻撃を仕掛けようと判断するよりも先に、魔王の上体を覆っていた氷が全て消えてしまった。一瞬の出来事である。余りの早さに、樹流徒の目にはラハブを覆っていた氷が溶けたというより、氷が一口でラハブの体に飲み込まれたように見えた。
フォルネウスも樹流徒と似たような見方をする。
「私は予想する。ラハブの皮膚は凄まじい勢いで水分を吸収できるようだ」
つまりラハブを凍りつかせるのは不可能。
氷漬けの状態から瞬時に回復したラハブは触手の先端を一本ずつ樹流徒とフォルネウスに向ける。樹流徒に対しては白色の光線を、フォルネウスへは麻痺針を飛ばした。
樹流徒とフォルネウスは両者ともに攻撃を回避する。垂直に高く跳躍した樹流徒は上空ですっと息を吸い込んで炎の玉を吹いた。美しい球体を模った三連の青い炎がラハブの頭よりやや高い位置から発射される。
これに対しラハブは両腕の装甲を変形させた。ただしドリルではない。ラハブの前腕を隠すほど大きな半円形の盾だった。ラハブが両腕をくっ付けることで半円形の盾は円形の盾になる。それを使ってラハブは樹流徒が放った炎の球体を三発とも受け止めた。
防御と並行してラハブは装甲の至る場所から縞模様の針を突き出す。無数の針が魔王の上半身を埋め尽くした。
着地した樹流徒は眉をひそめる。自分もフォルネウスも敵に接近戦を挑んだわけではない。ラハブとの間合いは相当ある。なのになぜラハブはいきなり針を出して身を固めたのか?
その答えは樹流徒が自力で導き出すまでも無く、ラハブが教えてくれた。魔王の上半身を覆った針が一斉に外へ飛び出したのである。針は接近してきた敵を迎撃するための武器であると同時に、飛び道具でもあったのだ。
巨大な針が無数のミサイルとなって全方向に飛び散る。あるミサイルは蛇行しながら上昇し、またあるミサイルは地を這うように直進する。それぞれの針が無秩序な軌道を描いて空間内を飛び回った。大量のロケット花火に一斉に火をつけると似たような光景になるだろう。
軌道が読めない攻撃はそれだけで避けにくいのに、それが高速で大量に襲ってくるともなれば、最早自力では避けるのは困難だった。
樹流徒は運よく針と針の間をすり抜けて被弾を免れたが、フォルネウスに一発命中する。針がクラゲ悪魔の触手を二本まとめて切断した。
すぐ近くで味方の被弾を目撃した樹流徒はフォルネウスが負傷したと思って寸秒ヒヤリとしたが、思い出してみればフォルネウスの触手は再生可能である。その事実は樹流徒とフォルネウスが戦ったときに判明していた。
また、彼の触手は伸縮自在でもあった。フォルネウスは二本の足を切断された直後、被弾していない別の触手を伸ばしてラハブに反撃を試みる。
ラハブは横にずれて回避しながら薔薇の剣でフォルネウスの触手を切断した。その隙を狙って樹流徒が掌から炎を放つ。炎は樹流徒の手元を離れると忽ち矢を模り、目にも留まらぬ速さで敵の元へ飛んで行った。これは憤怒地獄で戦った炎の悪魔アミーの能力だ。
炎の矢は見事ラハブに命中し、彼女の触手を一本焼き切る。
それでも樹流徒に喜びは無かった。ラハブの触手もまたフォルネウスのそれと同じで再生能力を持っていたからである。しかもフォルネウスの触手とは再生速度が段違いだ。炎の矢が消滅したときにはもう、ラハブの足は元の形状を取り戻していた。
音も無く魔王の触手が二本同時に動く。それは今まで樹流徒とフォルネウスに対し一本ずつ向けられいたが、今度は両方ともフォルネウスのほうを向いた。まずはフォルネウスを始末して魔空間を消してしまおう、という算段だろうか。
触手の先端から白色のレーザーと麻痺針が発射される。続けざまラハブは両腕をドリルに変え、それもまとめてフォルネウスに発射した。
フォルネウスは傘に溜めた空気を利用して右へ左へと動き、敵の執拗な連続攻撃を避ける。その回避行動の終わりを狙ってラハブの触手が再び針を飛ばした。すでにフォルネウスは傘の中に溜めた空気を使いきっており、新たに空気を吸い込むまで動けない。その僅かな隙を狙った、絶妙なタイミングで放たれた一撃だった。
フォルネウスの回避は間に合わない。しかし金属同士を叩きつけたような硬い音がして、針はフォルネウスに到達する前に軌道が逸れた。ラハブ以上にタイミングよく動き出していた樹流徒が足の爪で麻痺針を蹴り落としたのだ。
「私は助かった。キルトに感謝する」
フォルネウスが独特な言い回しで樹流徒に礼を述べている内に、樹流徒はすぐさま敵に向かって逆襲の電撃を放った。
ラハブは魔法壁を展開して防御する。
魔法壁が消滅した瞬間を狙ってフォルネウスが敵の頭部めがけて氷塊を三発飛ばした。
ラハブは両腕の装甲を半円形の盾に変え、腕を合わせることで円形の盾を作る。それで氷塊を防いだ。
ならば、と樹流徒は炎の渦を発射した。直撃すれば敵の上体は半分くらい炎に包まれるはずだ。盾だけでは防ぎきれないし、装甲の隙間からダメージを与えられるはずである。今ラハブは魔法壁が使えない。両腕も塞がっている。防御する術は無いと思った。
その認識は誤りで、よく見ればいつの間にかラハブの腹を覆っていた装甲が左右に割れている。魔王の腹に開いた空洞から黄緑色の皮膜が飛び出して膨れ上った。先ほど怪魚を生んだときと同じ現象だ。
膨れ上がった皮膜は円形の盾と協力してラハブの上半身を完全に守り炎の渦を防御した。炎に焼かれたラハブの皮膜は消滅し、皮膜の内側から生まれようとしてた魔物もその姿を外に現すよりも前に一緒に燃え尽きてしまう。
「あんな防御方法を取るなんて……」
自分の腹から生まれた存在――いわば自分の子供とも言える生物を何の躊躇いもなく殺したり、盾に使うラハブの行動に、樹流徒は今まで戦いの中で感じてきた恐怖とは別種の恐ろしさを覚えた。
それはそうとラハブの守りは非情に頑強だ。フォルネウスの魔空間のお陰で樹流徒は敵と互角以上に戦えるようになったが、このままでは埒が明かなかった。
結局、最後は接近戦で決着をつけるしかない。樹流徒はそう結論した。戦闘に関しては思考が似通っているのか、フォルネウスは今度もまた樹流徒と同じことを考えていたらしい。
――キルト。私は提案する。ラハブに接近攻撃を仕掛けよう。私が必ず敵の隙を作る。そこをキルトが狙って欲しいと考える。
フォルネウスの声が樹流徒の脳に響く。ラハブには聞こえていないようだ。
たった今、樹流徒は初めて知ったのだが、どうやらフォルネウスには俗にいうテレパシーの能力があるらしい。
樹流徒はラハブを睨んだまま、隣にいるフォルネウスに向かって小さく頷く。彼と同じ事を考えていたため、接近戦を挑もうという提案に迷わず乗った。