怪魚
ラハブは腰から生えた触手を一本ひょいと持ち上げる。丸い吸盤が幾つもの眼となって樹流徒を睨んだ。
樹流徒が睨み返すと、交戦が始まる。動き出しは同時だった。樹流徒が手を横になぎ払い氷の矢を出現させる。対するラハブは足の先端に開いた穴から棒状の物体を吐き出した。いくつもの鋭い棘にまみれたその物体は薔薇の茎を連想させる。色は黒く毒々しい。先端は尖り獲物を貫くのに適した形状をしていた。言うなれば薔薇の剣である。
触手の内部に収納されていた薔薇の剣は恐ろしい速さで水を裂き、樹流徒が放った牽制の矢をことごとく叩き壊した。
下手にラハブの懐へ飛び込めばあの剣の餌食になる。
開戦早々に厄介極まりない能力を見せつけられ、樹流徒は水の中にいながらにして嫌な汗をかきそうだった。
水中戦に限って言えば、樹流徒に強力な遠距離攻撃は無い。火炎砲、電撃、それに冷気の光……地上や空中では活躍する能力も海の中では使用できないか弱体化してしまう。その事実は魔海の旅をしているあいだ水中生物相手に実証済みだった。弱体化した能力でも並の悪魔には通じるだろうが、魔王級が相手ともなれば牽制程度にしか使えない。
ラハブを倒すには接近戦しかない。樹流徒は交戦前から分かっていた。それだけに“もしラハブが接近しやすい相手であれば”という期待は多少あったのである。その願いは最初の攻防でいきなり粉々にされた。ラハブには簡単に近付けない。さすがに魔王級の悪魔にはこれといった欠点が無かった。
思い切っていきなり接近戦を挑むべきか。それとも敵の能力を確かめるためにもう少し様子見を続けるべきか。樹流徒が次の一手を迷っていると、相手から仕掛けてくる。
上半身に分厚い鎧を纏ったラハブは両腕に装備した装甲の形状を変化させる。ただの手甲が渦巻状の溝が入った円錐型の武器になった。いわばドリルである。
二つの大型ドリルが高速回転する。ラハブは右腕を引き、力強く振り抜いた。右手からドリルが分離して樹流徒めがけて突っ込む。大型の割に恐ろしく加速力があった。
まともに受ければ即死なのは、実際に攻撃を受けなくても分かる。樹流徒は力の出し惜しみはせず全力で避けた。早めに動き出していたため回避に間に合う。
右手のドリルが樹流徒の横を通り過ぎると、ラハブはもう片方のドリルも射出した。円錐型の凶器が水をかき回しながら樹流徒が逃れた先を追いかけてくる。
そう来ると思っていた樹流徒は背中から羽を出し水をかいて素早く下降して逃れた。標的を逃したドリルは大分離れた距離で勝手に爆発して粉々に砕け散る。
ドリルの破片が水に流され消えた頃にはラハブ腕の中から新しい装甲が現われていた。ドリルは際限なく何度でも使える、と考えたほうが良いだろう。また一つ敵の厄介な能力が判明して、樹流徒は余計迂闊にラハブの懐へ潜り込めなくなった。
とはいえ、最終的に敵に接近しなければいけないのは確定している。どこかで仕掛けなければいけない。樹流徒は穴が空くほどラハブの動きを観察して、敵の付け入る隙を探す。
ラハブの足が先端を樹流徒に向けた。先ほどは薔薇の剣が出現したが、今度は別の物が飛び出してきた。紫色の針である。箸と同程度の大きさがある、針と呼ぶには些か大きな物体が数本、触手の先端から立て続けに射出された。
両手の爪を使って全ての針を叩き落した樹流徒は、お返しにこちらも針を撃つ。樹流徒の爪が針の如く細長く尖り、赤く染まった。そしてラハブに狙いを定めて発射される。
水中戦を得意とするセドナの能力だけあって赤い針は水の抵抗を全く受けずに直進する。必殺の武器にはならないが、ラハブに対する牽制攻撃にはうってつけの攻撃だった。
射出した針の後を追って樹流徒も突撃する。敵に接近戦を挑み本命の一撃を叩き込むために。
セドナの赤い爪には毒が含まれているが、敵に刺さらなければ効果は無い。ラハブは胸の装甲を盾にして樹流徒が放った牽制攻撃をいとも簡単に受け止めた。そればかりか並行して足から薔薇の剣を伸ばし、次にやって来る樹流徒を迎撃する構えを取る。
ここまでの展開は樹流徒の予想範囲内だった。牽制攻撃が大した牽制にもならなかったと分かると、樹流徒は分身能力を発動して自分のダミーを二体生み出した。
ダミーの内一体がラハブの正面から突っ込み、別の一体が右側へ。そして本物の樹流徒は左側へ回り込んだ。三方向から同時に攻撃を仕掛ける。もっともダミーに攻撃力は無いが。
分身を使った樹流徒の奇襲に一驚を喫したか、寸秒ラハブの動きが止まった。そのあとすぐに振り上げた薔薇の剣は咄嗟な反応であったかのように単純な軌道で正面のダミー突き刺した。攻撃を受けた樹流徒のダミーは消滅する。
樹流徒本人は左側。ラハブの装甲は首に大きな隙間が開いている。そこめがけて爪を突き出した。セドナを吸収した樹流徒の肉体は水の抵抗をほとんど受けていない。全力で振り抜かれた腕は銃弾よりも速く標的を狙った。
あと一息で攻撃が届くというとき、樹流徒の視界が虹色に染まった。体が無理矢理ラハブから遠ざけられる。
ラハブは魔法壁の能力を有していた。魔王の巨体を丸ごと包む円形の防壁はラハブの右側に回りこんだ樹流徒のダミーを消滅させ、樹流徒本人を外側へ押し出した。
魔法壁に弾き飛ばされた樹流徒は落ち着いて体勢を立て直すと、水を蹴って上昇しながら自身の周囲に四つの空洞を生む。魔法壁はこれまで樹流徒が最も多用してきた能力の一つである。それゆえに樹流徒にはラハブの魔法壁が消えるタイミングが完璧に分かっていた。その瞬間を狙って生み出した空洞から植物の蔓を伸ばす。
深海を植物が這う光景はなかなかに奇妙だった。ラハブは十本の足を扇いで水をかき、素早く後ろに逃れる。それを際限なく伸びる蔓が追跡した。一本の蔓がラハブの足を捕まえると、残りの蔓がラハブの全身を満遍なく捕縛した。
それを確認した樹流徒は素早く動く。水中を直下してラハブに接近攻撃を仕掛けた。狙いはもちろん敵の首。
拘束されたラハブは力任せに暴れた。忘却の大樹にて巨人フンババの動きさえ封じ込めた蔓が、ラハブの抵抗を受けて一本、また一本と引きちぎれる。桁外れの腕力だった。
それでもラハブが蔓の拘束から逃れるより、樹流徒がラハブの元にたどり着くほうが早い。ラハブはしばらく魔法壁が使えない。勝負を決めるなら今と判断した樹流徒は迷わず飛び込んだ。
それをラハブは待っていたのかもしれない。
樹流徒がすぐそばまで接近すると、黒く染まったラハブの唇が歪んだ。彼女が身にまとっている装甲には至る場所に謎の空洞が存在している。その空洞からいきなり無数の針が飛び出したのだ。
白と黒の縞々模様の針だった。長さは丁度樹流徒の背丈と同じくらい。太さは人間の人差し指くらい。それを上半身全体に纏ったラハブの姿はさながらハリネズミの怪物だった。
足下から数え切れないほどの針がせり上がって来たとき、樹流徒は咄嗟に魔法壁でガードしていた。ラハブの針を受け止めた衝撃で、魔法壁ごと上方に押し戻される。
魔法壁には複数の細かな亀裂が走っていた。もし防御が間に合わなかったら、と想像すると、深海よりも冷たい怖気が樹流徒の背筋を這った。
無数の針はラハブを捕縛していた蔓をも切断する。それにより体の自由を半分取り戻したラハブは両腕の装甲をドリルに変形させ、残りの蔓をあっという間に貫いた。
薔薇の剣。両手のドリル。魔法壁。そして上半身全てをカバーする針の山……戦えば戦うほど、樹流徒はラハブに接近攻撃を仕掛けるのが難しいと分かった。
それにここまで自分の能力を晒してきたのは何もラハブだけではない。樹流徒もまた分身能力をはじめ幾つかの奥の手をラハブに晒している。それを考慮すると余計ラハブに一撃見舞うのは困難だった。
あの敵に水中で勝てるのか?
まだラハブからまともに攻撃を受けてすらいないのに、樹流徒の脳裏には圧倒的不利の予感が渦巻いた。何しろラハブに対して有効な攻撃方法があとどれだけ残っているか分からない。たとえ絶望的な状況でも決して退かない、という結論だけは覆らないが……泥の船に乗って鋼鉄の戦艦に立ち向かわなければいけない思いだった。
ラハブの上半身を覆い尽くしていた針の山が百本、また百本と抜け落ち、海に排出されて沈んでゆく。いずれの針も数メートルと沈まぬ内からサラサラと水に溶けた。魔法壁にヒビを入れるほどの強度を持つ針でありながら、少しのあいだ海水に浸かっているだけで酷く脆くなると見える。
針が一本残らず海水に溶けると、ラハブは後ろへ下がった。これまでの展開から樹流徒の狙いが接近戦であると分かったのだろう。ラハブからすれば何もそれに付き合ってやる必要性は無いのだ。
樹流徒との距離を遠ざけながら、ラハブは薄く開いた唇の隙間からボコボコと泡を吐き出した。
ラハブが息を吐いたことによって生じた気泡――そう思って、樹流徒は別の可能性など考えもしなかった。
が、どうも違っていた。ラハブの口から漏れた数百の泡は海水に触れるとすぐ苺色に変色したのである。赤く色づいた泡は四散して、ラハブを中心にまんべんなく広範囲に位置取る。そして知能を持たない生物のように無秩序に動き始めた。
あの泡に触れるのは危険だ、と樹流徒が想像するのは当然だった。
ただ、予想したときには既に彼は包囲されていた。それほど泡が散らばるのは速かったのである。泡が四散したときに直撃を受けなかっただけ運が良かったかもしれない。そう樹流徒が感じるほどの展開速度だった。
ラハブは両腕の装甲をドリルに変形させると、樹流徒めがけて飛ばす。
水を抉りながら進むドリルは射線上を漂う苺色の泡を潰しながら標的に迫った。
樹流徒は上昇して回避する。一口に回避と言っても楽ではなかった。周囲を無秩序な軌道で動き回る泡に触れないようにしながらの回避である。しかも海底には白い光の粒(魔力)が漂っている。それがラハブの口から吐き出された泡と混ざって樹流徒の視覚を惑わせた。
ラハブは樹流徒が逃れた先を狙ってタイミングよく二発目のドリルを放つ。
周りを注意しながら回避できる一撃ではなかった。樹流徒はドリルの回避には間に合ったものの、赤い水泡と接触してしまう。
大きな爆発が起こった。ドリルに潰されたときは何も反応しなかった水泡が、樹流徒の腕に接触すると激しく破裂したのだ。泡の小ささからは想像もつかない威力。恐ろしく高密度なエネルギーだった。
樹流徒は吹き飛ばされた。そのせいでまた別の泡に肩が触れる。二度目の爆発が起こる。
次に吹き飛ばされた場所に泡は無く、不幸中の幸いと言うべきだろうか、樹流徒は二発のダメージを受けただけで済まされた。
水泡爆弾を受けた両肩は皮膚が破け、奥の筋肉も損傷は免れなかった。どちらの傷口もかなり広く、ある程度深い。そこから滲み出る赤紫色の血が海中を微かに染めた。
「頑丈なニンゲンね。並の悪魔ならきっと今ので両腕を無くしていたわ」
ラハブが感心した風に言う。ただ、それはすぐ同情に取って代わった。
「けれどなまじ体が丈夫なだけに、アナタはこれから死ぬまでにどれだけの苦痛を味わうのかしら」
ラハブの腹部を守る装甲が左右に割れた。
装甲の下に隠れていたラハブの腹部にはいつの間にか大きな穴がぽっかり開いており、人間が簡単に入れるほどの大きさがあった。その穴の入り口付近に黄緑色の薄い皮幕が張られている。
今度は何をするつもりだ? と樹流徒が目を見張っている先から、ラハブの体内で皮膜が膨らみ出した。
瞬く間に膨張した皮膜はラハブの体を飛び出して、彼女の胴体を覆い隠すまでに肥大する。とうとう圧力に耐えかねた皮膜が破裂したとき、その内側から異形の生物が姿を現した。ラハブが魔物を生んだのである。
ラハブの体内から生まれた魔物は推定一メートル前後の怪魚だった。頭部はダツ(口が長く尖った魚)、胴体はフグ、全身に十六ものヒレを持ち、尾は先端を鋭く尖らせている。口と尾の両側が針のように突き出しているその姿は、攻撃的で危険そうな生物という印象を感じさせた。
ラハブの腹にはもう既に新しい皮膜が出現している。それでも連続して魔物を生むのは不可能なのか、左右に閉じていた装甲が閉じてラハブの腹部を覆い隠した。
ラハブに命じられるまでもなく魔物は樹流徒に襲い掛かった。生まれたばかりとは思えない勢いで水の中を滑り、鋭利な口で樹流徒の眉を狙って飛び込んでくる。
樹流徒は横に逃れて魚の突進をかわした。怪魚は樹流徒を通り過ぎてそのまま真っ直ぐ突っ込む。
最悪の事態を免れた樹流徒だが、危険なのはラハブと魔物だけではない。樹流徒の背中が苺色の水泡と接触した。背後で激しい爆発が起こり、樹流徒は前のめりの体勢で吹き飛ぶ。
そこを狙って身を翻した魔物が襲い掛かった。今度の狙いは樹流徒の首筋か、怪魚は十六枚のヒレを器用に操って方向修正しながら高速で突進する。
危険を予感した樹流徒は、背後を振り返るまでもなく魔法壁を展開した。
そこへ突っ込んだ怪魚は自分の突進力をそのまま受けて大きく仰け反る。更に赤い泡に接触して爆発に巻き込まれた。
それだけで絶命には至らなかったが、怪魚の動きが止まる。樹流徒に反撃の好機が巡ってきたかに思われた。
妨害したのはラハブのドリルだった。樹流徒は斜め前方から飛来する攻撃の存在に気付いて後ろに下がり難を逃れる。それにより怪魚を仕留める機を逸してしまった。
水泡爆発を受けて動きが止まっていた怪魚がダメージから回復して尾びれを左右に揺らし始める。
機先を制したラハブはついでにもう一発ドリルを放った。
樹流徒は上昇してかわす。逃れた先に苺色の水泡は無い。というより、辺りを漂っていた色付きの泡がいつの間にか全て忽然と姿を消していた。それこそただの泡のように。
もしかすると赤い水泡は時間が経つと自然消滅するのかもしれない。そう樹流徒は推測した。
ラハブの援護を受けて体勢を立て直した魔物が樹流徒の喉に狙いを定めて水中を疾走する。この魔物は生まれつき人体の急所を心得ているようだ。いちいち危険なところを狙ってくる。
樹流徒は今度も自分の位置を横にずらして攻撃をやり過ごした。しかし回避してばかりでは状況を変えられない。何とか反撃に移らなければいけなかった。
樹流徒は回避行動を取りながら自分のダミーを三体生み出した。
このダミーは直進や円運動など単純な動きしかでない。また、途中で行動を変えることもできない。直進すればどこまでも直進するし、停止すればいつまででも停止している。
樹流徒が生み出した三体のダミーは、内二体がラハブに向かって、もう一体が怪魚に向かってそれぞれ直進した。樹流徒本人は怪魚を狙う。まずは弱いほうの敵を倒して数的不利なこの状況をなんとかしようと考えた。
ラハブは樹流徒のダミーに向かって触手の一本を向ける。その先端から飛び出したのは薔薇の剣でもなく、針でもなく、銃口のような細い筒状の物体だった。
銃口が一度だけぱっと輝いて白い光線を放つ。光線はダミーの額の真ん中を正確に貫いて消滅させた。それだけ精密な狙撃をしながら、ラハブは己に向かって直進してくるもう一体のダミーにも対応する。薔薇の剣でダミーの胸を貫いて消滅させた。
怪魚も鋭利な口でダミーを突き刺し消滅させる。
だが、まだ樹流徒本体が残っていた。樹流徒はタイミングを見計らい、ダミーを貫通した怪魚の側面を突く。長い爪が魔物の胴体を刺し貫いた。
怪魚は口から普通の透明な泡を大量に吐き出し、全身を暴れさせて悶絶する。樹流徒はすぐに敵の体から爪を引き抜いて離脱したが、怪魚が振り回した尻尾の先端に目元を浅く切られる。
傷の内にも入らない程度のその小さな切り傷が、怪魚が樹流徒に与えた唯一のダメージだった。
悶絶していた怪魚は傷口から青い血を流し続けるにつれやがて動きが鈍くなり、最後には完全に動かなくなる。
味方を失ったラハブは、さもどうでもよさ気だった。それどころか目障りだと言わんばかりに、自分が生んだ魔物の死体にドリルを撃ち込む。
その非情とも取れる行為に樹流徒は驚き、驚きをすぐ怒りに変えてラハブを見た。
自らの手で魔物を始末したラハブは、もう片方のドリルを樹流徒めがけて飛ばす。
樹流徒は回避しながらラハブに接近した。ラハブは口から苺色の泡を吐きながら逃げる。
樹流徒の狙いが接近戦であることはもう気付かれていた。そして水中での移動速度は樹流徒よりもラハブのほうが上。そのたったふたつの要素が、樹流徒にはこの上ない絶望だった。樹流徒は敵に攻撃を与えるどころか近付くことすら容易ではない。
無闇に突っ込んでも無意味と悟った樹流徒は、一旦ラハブへの接近を諦めて急停止する。
途端、ラハブも動きを止めて安全圏から強力な遠距離攻撃を仕掛けてくる。両腕のドリル、そして触手の先端から放たれる白色のレーザー光線を一斉に放った。
樹流徒は急浮上して全ての攻撃をかわしたが、またも水泡爆弾にぶつかる。殺気も放たず無秩序な軌道で動き回る大量の泡を、ラハブを相手にしながら回避するのは決して不可能である。樹流徒の肩で水泡が爆発した。魔人の体が大きくよろめく。
この展開をラハブは待っていたようである。脚の先から数本の針を射出した。箸ほどの大きさがある針の一本が樹流徒の脛に突き刺さる。
強烈な痛みに樹流徒は全身を硬直させた。それだけではない。樹流徒は痛みを堪えたあとも体が固まって動けなかった。
全身が痺れている。どうやらラハブの針には即効性の麻痺毒が含まれていたらしい。樹流徒の心臓や呼吸器官などは問題なく動き続けているが、体の自由がまったく利かなかった。身動きが取れなければ死んだも同然である。
死に体となった樹流徒はめくらましのダミーを三体作り出すが、苦し紛れもいいところだった。
ラハブは全てのダミーを無視して水中で停止している樹流徒にドリルを一発撃ち込む。
樹流徒は魔法壁を張って防御。ドリルは魔法壁に小さな穴と大きなヒビを入れて停止し、その場で爆発四散した。
魔法壁の消滅を待たずにラハブが次弾を放つ。
攻撃が来るのが分かっているのに樹流徒は動けなかった。かなりの硬度を持つ魔法壁も亀裂が入った状態では紙切れ同然。ドリルを受け止める力などあるはずもない。
集中力を要する念動力を発動する余裕も無かった。仮に発動したとしてもドリルの軌道を逸らしたり、勢いを弱めるほどの力は無い。回避、防御共に封じられ、樹流徒はまさに万事休すの上体だった。
死を覚悟する暇も無い。絶望と恐怖に脳内が満たされてゆく。どれだけ力をこめようとしても指先一本動かせない中、樹流徒の鼓動だけが急激に速度を増した。
その心音が最高潮に達したとき――
樹流徒の背後から飛んできた何かが魔法壁を突き破り、樹流徒の腕に巻きついて彼の腕を思い切り上に引っ張り上げた。それにより樹流徒はドリルを回避する。
何が起こったのか分からなかった。背後を振り返りたくても体が痺れて首が回らない。
お前は誰だ? 樹流徒は心の中で背後の何者かに語りかける。
すると、声無き樹流徒の問いに対し、答えが返ってきた。
――キルト。私はいつかの借りを返しにきた。
穏やかな青年の声だった。いつかどこかで聞いたことのある声だった。
まさか、この声は。気付いたのと同時、樹流徒の全身から痺れが取れる。
急いで背後を振り返ると、そこには一体の悪魔がいた。
紫がかったゼラチン質のクリアボディを持つ、大きな巨大クラゲである。傘の中で赤、緑、青の三原色の光が点滅していた。
「お前は……フォルネウス」
思わぬ場所で再会したクラゲ悪魔の名前を樹流徒は呼んだ。