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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
224/359

望郷



 地上をあまねく照らす太陽の光も、深い水の底までは届かない。

 人間が海に潜るとまず視界から赤や黄色などの明るい色が消え、海底三十メートルあたりに来ると海水の色が緑色っぽく見えてくる。五十メートルくらいで青一色に、そして六百メートルまで到達すれば、もう人の目には何も見えない。千メートルでは光が全く届かなくなる。


 今、樹流徒は緑色の水を必死にかき分けて泳いでいた。水深三十五メートル付近にいる彼は、さらに暗い場所を目指して脇目も振らずに潜行している。


 その背中を猛然と追いかけるのは金魚と似た姿の水中生物。ただし大きさは金魚とは比較にならない。五メートル級の怪魚である。全身の鱗は紫色に染まっているが、水中だからそう見えるのだろうか。光が届く地上に連れていけば普通の金魚と同じ色をしているのかもしれない。


 紫色の巨大金魚は顔の左右にある目玉を別々の方角へ向けて狂ったような顔をしていた。口をぱくぱく開閉させ、樹流徒を捕食しようと迫り来る。

 海で金魚と遭遇するとは想像していなかった樹流徒だったが、それに驚いている場合でもなければ、さすが魔界には色々な生き物がいるなどと感心している場合でもなかった。背後から猛追してくる怪魚から逃れるため下へ下へと潜ってゆく。

「こっちです。早く!」

 海底では人魚の悪魔ヴェパールが手を振っていた。すでに避難を完了させている彼女は、岩場に囲まれた小さな洞窟から顔を出して樹流徒を呼んでいた。


 巨大金魚が姿を現したのは、樹流徒とヴェパールが水深十五メートルあたりの深さを泳ぎ海溝の真上を通り過ぎたときだった。偶然二人の姿に気付いたのか、暗い海の溝から飛び出してきた金魚が二人を下から襲撃したのである。ほとんど同時に危険を察知した樹流徒とヴェパールは互いに言葉を掛け合う間もなく別々の方向へ逃げた。樹流徒は右へ。ヴェパールは真っ直ぐ。


 二手に分かれた獲物を同時には追えない。巨大金魚は樹流徒に的を絞った。

 最初、樹流徒は上昇して海から飛び出し空に逃げようかと考えたが、それにより金魚の標的がヴェパールに移るかもしれないと思い直し、敢えて水中に留まった。

 対する巨大金魚は知能が高いのか、それとも狩猟本能のなせる技なのか、樹流徒が二度と浮上できないように彼を水の底へ底へと追い込んでいった。

 そして樹流徒と怪魚が鬼ごっこを繰り広げている内にヴェパールは海底の岩場に避難を完了させたのである。体の大きな金魚は岩場の狭い場所には侵入できない。ヴェパールが隠れた場所は安全だった。

「キルト、急いで下さい!」

 彼女が呼ぶ声に引っ張られて、樹徒徒は海底に潜る。ムウに到着するよりも前、樹流徒はダゴンという悪魔の力を吸収し水中でも機敏に動けるようになった。

 それでも怪魚のほうがわずかに速い。樹流徒の位置からヴェパールが待つ岩場までの距離は約五十メートル。逃げ切れるかどうか微妙なところだった。


 残り四十メートル。

 開閉する金魚の口が樹流徒にじわじわと近付いてくる。


 残り三十メートル。

 樹流徒は泳ぎながら黒煙を吹いて煙幕を張る。インキュバスが使用する能力だ。驚いた金魚は一瞬泳ぐ軌道を変えたが、構わず煙幕の中を突っ切った。黒煙が持つ睡眠効果も発揮されず、両者の距離は更に縮まる。


 二十メートル。樹流徒の視界に映る海水の色が暗い青一色に染まった。

 間に合わない。このままでは確実に追いつかれる。頼りの魔法壁も、実は先ほど巨大金魚と追いかけっこをしている最中に使用してしまい、今しばらくは使用できなかった。

 洞窟の中からヴェパールが樹流徒に向かって手を伸ばしている。届くはずもない手を――


 いや、そうでもない。手が届く方法はある。

 咄嗟に閃いた樹流徒は急いで腕を触手に変えた。それを伸ばしてヴェパールの手首に巻きつける。

 怪魚はいよいよすぐ後ろにいた。開閉していた口が開きっぱなしになって獲物を捕食しようと肉薄する。


 あと十メートル。樹流徒の考えを即座に理解したヴェパールは、彼女の見かけよりもずっと強い力で手首に巻かれた触手を引っ張った。衝撃で肩が外れるかと樹流徒が思ったくらいである。その怪力に引っ張られて樹流徒は急加速した。怪魚との距離がわずかに広がる。


 金魚のまん丸な口が閉じられて、悔しそうに一文字を引いた。

 間一髪だった。樹流徒はウェパールが待つ岩場の洞窟まで無事に逃れることができた。二人のどちらかでも判断が遅れていたら間に合わなかっただろう。

 金魚は岩場が邪魔で樹流徒たちに近づけない。二人が少しのあいだ洞窟でジッとしていると捕食を諦めて去って行った。


 怪魚の姿が見えなくなったあとも樹流徒とヴェパールは少しのあいだ洞窟の中に待機した。そして完全に危機が去ったと判断してから岩場を出る。海中では樹流徒が喋れないので、浮上して一旦海面から顔を出した。


 今日は海上を吹き抜ける風が優しく、波も穏やかだった。真っ白な雲に囲まれて太陽が燦燦(さんさん)と光り輝いている。

「ありがとうウェパール。助かった」

 樹流徒が礼を言うと、水色髪の人魚は「はい」と笑顔で答える。初めて会ったときの彼女はウセレムの件で落ち込んでいたため儚げな少女に見えたが、本来は陽気なムウの住人らしく明るい性格の悪魔なのだと分かる。

「それにしても海底に身を隠せる場所があって助かったな」

 先ほど二人が逃れた岩場はかなり遠くまで広がっていた。どこまで広がっているのかは泳いで調べなければ分からない。何しろ視程よりもずっと遠くまで続いていた。

「あの岩場。元々は海底火山の噴火で生まれた島だったんです」

 とヴェパールが説明する。

「島? ということは、もしかしてあの岩場は島の残骸なのか?」

「はい、その通りです。かつてこの場所にあった島が崩壊し、その残骸が海底に積み重なって岩場になったんですよ」

「島はどうして崩壊したんだ?」

「巨大悪魔のレビヤタンが暴れて半壊させたんです。その後、大きな自然現象の影響を受けて島は完全に沈んでしまいました」

「そうか。レビヤタンはここの世界の住人だったのか」

「昔、この世界の海は今ほど水位が高くありませんでした。でも数万年前に空からいくつもの小さな氷の星が降ってきて、この世界を襲ったんです。その影響で世界の水位は急激に上昇しました。だから島の残骸もこんなに深い水の底に沈んでいるんですよ」

「なるほど……」

 そこまでで話は終わり、二人は海中に戻った。


 樹流徒たちがムウを発ってから今日で六日目になる。ここまでの道のりはそれなりに険しかった。

 はじめの三日くらいまでは特にこれといった危険に見舞われることもなく安全な旅だった。多少波が荒れたときあったが水の流れに苦戦することも無く、危険な水中生物に遭遇することも無く、ヴェパールの口数も時間を追うごとに増していった。


 そんな状況が変わったのが旅を始めて四日目。大陸棚と似た平坦な地形の入り口に差し掛かった辺りで、何の前触れも無くヴェパールが樹流徒に注意を促したのである。

「この辺りから危険な生物が増え始めます。気をつけてください」

 それが冗談でも軽い脅しでもなく、ただの事実だと分かるまで時間はかからなかった。

 ヴェパールの忠言を受けて樹流徒がやや慎重に泳いでいると、人間の倍近い体躯もつ肉食魚が現れたのである。

 魚は青っぽい全身をうねらせて浮上し、二人を真横から襲った。そのときは樹流徒が敵を追い払ってすぐに事なきを得たが、これは危険な海中冒険のほんの序章に過ぎなかった。

 一難去ってまた一難、とはまさにこの事を言うのだろう。魔界ならぬ魔海(・・)の脅威はその後もひっきりなしに二人を襲った。大量の毒液を吐く巨大ウツボ。小山の如き大きさの蟹。その蟹を丸呑みにできるほどの大口を開けて海中生物を無差別に吸い込む巨大な鯨など、恐ろしくも不思議な生物たちが幾度と無く樹流徒たちを襲った。


 何度か危険な目に遭ったあと

「空を飛んで行こう」

 そう樹流徒は提案した。わざわざ危険な水中を移動し続ける必要は無い。ヴェパールに飛行能力が無いとしても樹流徒が彼女を抱えて空を飛べば問題ない。

 ヴェパールの返答は「残念ですが……」だった。

「実は私、空を飛ぶ力も持っているんです。でもずっと昔、空を飛んでいたら怪鳥の群れに襲われて食べられそうになって……。それ以来空を飛ぶのが怖いんです」

 ですから空を飛ぶわけにはいかないです、とヴェパールは少し申し訳なさそうな顔で言った。


 そのような事情があり、二人は引き続き魔海の中を進み、時折危険な水中生物に襲われながら先へ先へと進んだ。そしてムウを発ってから六日目となる今日――つい先ほども、巨大金魚に襲われ、何とかやり過ごしたのである。


 魔海の旅は樹流徒が思っていた以上に過酷だった。しかし、危険な目に遭いながらも目的地は着実に近付いている。

「今日の夕方頃には中間地点に到着しますよ」

 とヴェパール。誰から尋ねられるでもなく、彼女は時折こうして二人の現在位置を教えてくれる。そのささやかな心遣いが樹流徒としてはありがたかった。


 太陽が沈んで水平線が真っ赤に染まり始めたころ、樹流徒は遥か前方の海底に何かを見つけた。また岩場が広がっているのだろうか。初めはそう思ったが、前に進むにつれて違うと分かった。


 前方に出現したのは、町か集落らしきものだった。四角い石造の家が三十軒くらい立ち並び大きな輪を作っている。どの家も大体同じ大きさをしており、床は三十畳くらい高さは三メートルくらいあった。窓はついておらず、重そうな石のドアがひとつだけついている。

 家々に囲まれた円形のスペースは憩いの広場として使われているらしく、石造のベンチが四方にひとつずつ置かれていた。


 家の周りや広場に合わせて十体前後の悪魔たちがいる。水中に浮かんで談笑している者や、魚を追いかけて遊んでいる者。家の屋根で寝そべっている者や、公園のベンチでチェスのようなゲームをしている悪魔たちもいた。

「着きました。あそこがムウと海底神殿の中間地点です」

 ウェパールは嬉しそうに町を指差す。

 樹流徒は頷いて答えた。水中では喋れないから、基本的には首を縦か横に振ってニ択で返事をするしかない。


 二人が町の上を通りかかると、民家の前で談笑していた悪魔たちが揃って頭上を仰ぐ。

 人間と魚を混ぜ合わせた姿を持つ魚人の悪魔が笑顔で手を上げた。

「やあヴェパールじゃないか。久しぶりだな」

 ほかの悪魔たちも口々にヴェパールへ声を掛けたり、様々な身振り手振りで挨拶をしたりする。

 彼らに向かってヴェパールは笑顔を返し、その場でくるりと宙返りをした。


 樹流徒たちはそのまま町を素通りした。

「町に寄らなくてもよかったのか? 少しくらいなら良いんだぞ?」

 表情や仕草で樹流徒が訴えると、ヴェパールはそれを正確に理解したらしい。

「あの町へは帰りに寄っていきますから大丈夫です」

 と笑った。しかし口ではそう言っても多少は後ろ髪引かれる思いがあるのだろう。彼女は、後方に遠ざかって行く町の景色を一度だけ振り返った。


 太陽が完全に沈んで、夜空に美しい月が輝き始めた。

 海全体が深海の如く暗く冷たくなる時間帯。波はまだ穏やかだった。少し離れた場所に大きな島があり、水深は十メートル以下と少し浅くなってきた。


 夜の魔海は昼間とは別の美しい顔を持っている。全身を緑色に光らせる魚が泳ぎまわり、海底にも白く発光する不思議な珊瑚礁が群生していた。どの光も海上からはほとんど見えない程度の微弱な光だが、そのぼんやりとした光が幽霊のようで少し不気味であり、幻想的でもあった。


 樹流徒とヴェパールは海面から顔を出してゆっくり泳いでいた。そうしたいとヴェパールからお願いされたからだ。六日間もほとんど休まず泳ぎっぱなしだったから、樹流徒は理由を聞かずに二つ返事でヴェパールの提案に乗った。実を言えば樹流徒も集中力を取り戻すために少し休憩したいと思っていたところである。

「このあたりに危険な生物はほとんどいないんですよ」

 だから今は周囲を警戒する必要は無い、とヴェパールは説明する。

「毒を持った貝やクラゲはいますけど、海底に足をつけなければ貝には攻撃されませんし、毒クラゲもこちらから近付きさえしなければ何もしてこないです」

「そうか。じゃあ安心だな」

 樹流徒は数時間ぶりに言葉を発して微笑した。それから海の上で仰向けになって足だけをゆっくり上下させる。視線のずっと先には無数の星々が輝いていた。


 ここは異世界だ。あの星たちの中に地球は存在しない。宇宙の隅々までさがしても存在しないのだ。

 そう想像すると、今更にして自分がとんでもない場所にいると感じた。

 今頃現世はどうなっているのだろうか? 組織の皆や仙道さんは何をしているのか?

 ふと望郷の想いに駆られそうになった。それをすぐに振り払おうとして、樹流徒は体をひっくり返し海水に顔をつけた。


 奇遇にもヴェパールも樹流徒と似たようなことを考えていたらしい。

「聖界って、きっとあの夜空みたく綺麗な世界だったんでしょうね」

 彼女はどこか遠い目をしていた。

 まるで他人事のようなヴェパールの物言いに、樹流徒は違和感を覚える。

「だったんでしょうね、って……。お前は、聖界がどんな場所か知らないのか?」

「知らないというより、覚えてないんです。私だけじゃなくてほとんどの悪魔は聖界の景色を覚えていません。自分たちが魔界に追放された理由は忘れたくても忘れられないのに。不思議ですよね」

「……」

 意外な事実だった。ただ、考えてみれば納得できないこともない。何しろ悪魔が聖界を追放されてから永遠とも思える年月が流れているのだ。たとえ生まれ故郷だとしても悪魔たちが聖界の景色を忘れてしまっていても不思議ではない。


 だからなのか? だからこそ余計に悪魔たちは今でも聖界に帰りたいのだろうか? 自分が生まれた世界がどのような場所だったのかを思い出すために。自分たちのルーツを知るために。

「聖界に帰りたいか?」

 聞いてみると

「帰りたいです。聖界に行けば色々と大切なことが思い出せそうな気がしますから」

 ヴェパールはこれまでになく力強い調子で即答した。


 もし天使と戦争になったとしても彼女は「帰りたい」と即答するだろうか。他の悪魔たちも魔界を出て故郷の地を踏みたいと考えるだろうか。

 そのようなことを樹流徒が考えていると――


 突然、思考を遮るほどの嫌な気配が漂ってきた。捕食目的の水中動物とは違う、怨念じみた殺気だった。身震いしそうな冷たさが樹流徒の全身を伝う。


 特別な敵意を持つ者がこちらに迫っている。

「多分戦闘になる。離れていた方がいい」

 樹流徒はヴェパールに退避を促してから、自分は水中に潜った。

 それを追ってヴェパールも潜る。

「大丈夫です。危ないと判断したらすぐに逃げますから」

 よほど足を引っ張らない自信があると見えて彼女は断言した。たしかにヴェパールは水中ならば樹流徒よりも機動力がある。そして彼女は頭の良い悪魔だ。ここ数日間の旅で、樹流徒はヴェパールのことをある程度理解していた。


 遠方で泳ぐ魚たちが四方に散ってゆく。

 その奥に浮かんだ異形の影が樹流徒たちに近付いてきた。禍々しい殺気の発生源である。


 現れたのは片目が潰れた人魚だった。赤く輝く隻眼は破裂しそうなほど腫れあがり、紫色の髪は干からびた海藻のようにごわごわしている。

 樹流徒が知っている悪魔だった。この世界に来てまだ間もない樹流徒を襲った一つ目人魚である。




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