魔界探偵ソーマ(中編)
ウセレム襲来により一時騒然とした町は、早くも本来の静けさを取り戻している。
樹流徒が宿に戻ると、フロントにはウトゥックが立っていた。人間の輪郭を持つのっぺらぼうの悪魔は、相変わらず表情というものが存在せず、外側から感情が読み取れない。
「お帰りソーマ。こんな深夜に一体どこへ行ってたんだい?」
ウトゥックは明るく樹流徒を迎える。お陰で樹流徒も少し元気が出た。
「ウセレムが現れたから見に行ってたんだ」
答えながら樹流徒はフロントまで歩み寄り、そして立ち止まった。
「え。ウセレムが来てたの? それ本当の話?」
ウトゥックは両手をいっぱいに広げて驚く。表情がないぶんウトゥックは声のトーンと大げさな動作で感情を表現する。今回の反応を見る限り、彼はウセレムの襲来を知らなかったらしい。
「ウセレムが来たことに気付かなかったのか? 結構な騒ぎだったのに」
「それはしょうがないよ。だって私はたった今まで寝ていたんだから。というか今は偶然起きてるけど、普段は夜から朝までずっとぐっすり寝ているんだ。宿のチェックインは太陽が沈むまでと決まってるから夜中に新しいお客さんが来ることも無いしね」
「そういえば外は嵐だからな……。雨や風の音にかき消されて騒ぎの音が聞こえなかったのは仕方ない。しかも寝ていたのなら尚更だ」
樹流徒も最初は住人の悲鳴を空耳と勘違いしたくらいである。もし熟睡していたら騒ぎに気付かず朝までぐっすり眠っていただろう。大勢の悪魔が騒ぎを嗅ぎつけて海岸に集まったが、中にはウトゥックのように何も知らず寝ていた悪魔も多かれ少なかれいたはずだ。
「まさにそうなんだよ。でも驚いたな。ウセレムが連日やって来るなんて思わなかった。今までそんなこと無かったからさ」
ウトゥックは肩をすくめた。
「ところで君、びしょ濡れだね。待ってなよ。いますぐ何か拭く物を持ってきてあげるから」
続いて彼はそう言ってフロントから飛び出した。パタパタと軽妙な足音を鳴らし、一階に並ぶ部屋の一番右に駆け込む。すぐに薄いタオルを手に持って出てくると、それを樹流徒に渡した。
「ありがとう」
樹流徒はウトゥックに背を向けてフードを捲り、タオルで頭を拭いた。それからすぐにフードを被り直して、再びウトゥックの方を向く。かなり不自然な動作だったが、顔を見られるわけにはいかないので仕方がない。
「ローブを脱いだらどうだい? 濡れたままじゃ気持ち悪いだろう?」
「いい。部屋で脱ぐ」
本音を言えばウトゥックの言う通りにしたかったが、それも実行するわけにはいかなかった。
「ふうん。まあ好きにすればいいけどさ……。それで、ウセレムはどうなったんだい? まさか殺されたりしてないだろうね」
ウトゥックは興味半分、恐怖半分といった様子で尋ねてくる。
「ウセレムはとりあえず海に帰った」
「へえ、そうなんだ……。ムウの皆に怪我はなかったかい?」
「大丈夫だ。カイムたちが用意した供物は全部食べられ、道は壊されてしまったが、誰も怪我を負わずに済んだ」
改めて考えてみても、ウセレムが何故急に帰ったのか、その理由が樹流徒には分からなかった。お陰であまり被害が出ずに済んだのは助かったが釈然としない。
「それは良かった。今の凶暴なウセレムに逆らい続けてたらその内誰か犠牲になるんじゃないかって心配してたんだよ」
心底安堵したようにウトゥックが言う。有り得る話だった。現に今夜樹流徒がいなければあの水色髪の少女はウセレムの下敷きになって命を落としていたかもしれない。
「もう寝るよ。これ、ありがとう」
樹流徒は借りたタオルを畳んでカウンターの上に置く。
「そんなに急いで部屋に帰ることないじゃないないか。今すぐ温かいスープを作ってくるからここにいなよ」
「いや。気持ちだけ有りがたく受け取っておくよ」
「なにニンゲンみたいなこと言ってるんだ。いいから適当なところに腰掛けて待ってなってば」
ウトゥックはそれ以上樹流徒の返事を聞かずに厨房へと駆け込んだ。
やや強引な誘いではあるが、折角なので樹流徒はウトゥックの厚意に甘えることにした。言われた通り適当な席に腰掛けて、テーブルに視線を落とす。
今すぐスープを作ってくると言って姿を消したウトゥックだが、本当にすぐ戻ってきた。彼が厨房に駆け込んでからまだ五分と経っていない。一体どういう調理法をしたのだろうか。
「おまたせ。このスープは美味しいよ」
テーブルの上に置かれた皿から温かい湯気と食欲をそそる匂いが立ち上る。黄金色に染まったスープの水面が樹流徒の真っ赤な瞳を映して輝いていた。
「さあ。どんどん食べてくれよ。おかわりも沢山あるよ」
「それじゃあ、遠慮なく」
樹流徒はスプーンを握り締めて皿に手を伸ばす。
が、スプーンがスープの中に沈んだとき、樹流徒の手がぴたりと止まった。
これは……?
樹流徒は信じられないものを見てしまった。背中に霜が降りたように寒気が走る。自分の顔からさっと血の気が引いてゆくのが分かった。
樹流徒の指輪が変色しているのである。憤怒地獄にてグザファンの店から購入した指輪の宝石が、深い緑から黒に変わっていた。
ムウに到着する前、メフィストフェレスがこんな話を聞かせてくれた。
樹流徒が手にはめている指輪の宝石には不思議な性質がある。それは指輪を特定の毒物に近づけるとその毒の種類に応じて宝石が様々な色に変わる……というものである。
あの話が事実ならば。今、樹流徒の眼前に置かれたスープには毒が混入している。
誰がそんなことをしたのかは考えるまでもない。状況的にそれができたのは一人しかいない。
問題は動機だ。何故彼がこのスープに毒を盛ったのかが重要だ。
首狩りキルトの正体に気付いて毒殺しようとしたのか? もしかするとそうかもしれない。
でも、他に可能性があるとしたら……
頭をフル回転してその可能性を考えたとき、樹流徒の脳内で、あるひとつの恐ろしい憶測が生まれた。
樹流徒がウセレムを追い払ったあとというこのタイミングで出された毒入りスープ。まるでこれ以上樹流徒にウセレムの邪魔をさせまいとするかのような行為。
まさかウトゥックが……
信じ難い話だが、その可能性がゼロであると一体誰が決め付けられるだろうか?
ウトゥックが事件に関わっているのか?
樹流徒はスプーンを皿に突っ込んだまま固まる。動けなかった。
ウセレムの体内に侵入していたのがウトゥックであるという証拠は一つも無い。
ただ、逆にウトゥックにアリバイが無いのも事実だ。つい先ほどウトゥックは「キルトが宿に戻って来る直前までずっと寝ていた」と言ったが、それを証明できる者はいない。何しろ今夜この宿に泊まっている客は樹流徒だけだ。ウトゥック以外の従業員もいない。つまり樹流徒が夕食を終えて二階に上がってから、ウセレムと戦って宿に帰るまでのあいだ、ウトゥックが何をしていのかを知る者は、本人以外誰もいないのである。
ウトゥックは寝ていたのではなく、外出していた可能性がある。樹流徒が二階で仮眠を取っているあいだに海へ出て、どこかでウセレムと会い、ウセレムを操ってムウを襲ったのかもしれない。
全ては憶測の域を出なかった。それでも宝石の色は変色している。ウトゥックが毒入りスープを樹流徒に差し出したのは決して動かせない事実なのだ。
やや乱れた心を落ち着けて、樹流徒は眼前の悪魔の顔を見た。もしこの悪魔に表情というものがあったのだとしたら、彼は今どのような顔をしているのだろうか? 思えばこの悪魔は最初から口調こそ明るかったが、外面からは何を考えているか分からなかった。話す言葉は友好的でも、目に見えない表情をずっと憎悪に歪めていたのかもしれない。
樹流徒はひとつ深く息を吸って、努めて落ち着いた口調でウセレムに言う。
「このスープ、お前が飲んでくれないか?」
いきなり突きつけられ言葉にウトゥックの肩が微かに震えたように見えた。
「え。急にどうしたんだい? あ。もしかして食欲が無いとか? それとも何か嫌いな具材でも入ってた?」
「そうじゃない。いいから、このスープを飲んでくれ」
「意味が分からないな……。何でそんなことを言うんだよ?」
ウトゥックの声音が微かに陰を帯びる。
これ以上回りくどいやりかたは止めにして、樹流徒ははっきり言ってやった。
「飲めないだろうな。このスープには毒が入っているから」
ウトゥックの肩が、今度ははっきりと揺れた。
緊張感を孕んだ沈黙が数秒続いたあと、のっぺらぼうの悪魔は目に見えない口を開く。
「酷いじゃないか。折角君に温まって欲しくて用意したスープが、まさかそんな風に言われるなんて思わなかったよ」
心が痛む台詞だった。ただしこのスープに毒が入っていなければの話である。
「もし俺が間違っていたら後で何度でも謝る。だから先にこのスープを飲んでくれ」
樹流徒が厳しい口調で言うと、ウトゥックは言葉を失って、少しのあいだその場に立ち尽くした。
次に相手がどのような行動に出るか、樹流徒が警戒心を強めていると……
「頼む! 許してくれ」
ウトゥックはいきなり祈るように顔の前で両手の指を組んだ。樹流徒に対する殺意を認めたと受け取って良いだろう。
「なぜ俺を毒殺しようとした?」
樹流徒は犯行動機を問い質す。
「それは……。その……」
ウトゥックは、まるでどこかの悪魔みたいに歯切れの悪い返事をしてから
「嫉妬だよ」
ぽつりと答えた。
「嫉妬?」
「そう。白状するけど、私がずっと宿屋で寝ていたというのは嘘だ。本当は外が騒がしいのに気付いて、私もウセレムの様子を見に行ってたんだよ。そしたらウセレムを追い払ったソーマが町の皆から英雄扱いされていたから、それを見てつい嫉妬してしまったんだ。すまない」
「……」
一見筋は通っているが、果たしてその程度のことで他者を毒殺しようとまでするだろうか? 人間と悪魔の価値観が違っていたとしても、いくらなんでも動機が不自然すぎる。
だとすると、ウトゥックは何故こんな嘘をつくのか? 考えられることはひとつしかなかった。ウトゥックは本当の動機を隠すために、偽の動機をでっち上げているのだ。小さな罪を認めることで己の大罪を闇に葬ろうとしている。
樹流徒は考える。ウトゥックが俺を毒殺しようとした本当の動機とは何だ? 何かの拍子に俺の正体に気付き、俺を殺して名声や賞金を得ようとしたのか?
それは多分違った。もしウトゥックが樹流徒の正体に気付いているならば、既にそれを自白している。樹流徒に対する殺意が露見した今、ウトゥックが樹流徒の正体に気付いていることを隠す理由は無いからだ。むしろこの場面では積極的に自白するのが自然である。何故ならウトゥックは樹流徒の正体を利用できる。「君の正体は黙っているから見逃してくれ」「見逃してくれないなら首狩りが出たと大声で叫ぶぞ」などといった具合に交渉や脅しのカードとして使える。「嫉妬で殺そうとした」などと苦しい言い訳をせず素直に「首狩りキルトの命が欲しかった」と言うはずなのである。ウトゥックはほぼ間違いなく樹流徒の正体に気付いてなかった。
では、ウトゥックの本当の犯行動機は何か? それはやはり“樹流徒が邪魔になったのでこの世から消したかった”ではないだろうか。
ウトゥックからしてみれば、まさかソーマなどという無名悪魔がウセレムと渡り合えるだけの力を持っているとは想像すらしなかったはずである。そのためウトゥックは先日の夕食には毒を入れなかった。わざわざ毒殺などしなくてもウセレムの力で樹流徒を叩き潰せると信じて微塵も疑っていなかったはずである。また、樹流徒がウトゥックの宿に泊まっていることはカイムが知っている。樹流徒を殺せばウトゥックに妙な疑いがかかるかもしれなかった。故に、ウセレムを使って樹流徒を始末するのが、ウトゥックにとっては最善策だったのだ。
ところがその思惑に反してウセレムの力を以ってしても樹流徒は殺せなかった。ウトゥックにとっては甚だ予想外の展開だったに違いない。そこでウトゥックは考えた。真正面から戦うよりも、樹流徒を油断させて毒入りスープで楽に殺したほうが良い。それにより妙な疑いをかけられるかもしれないが、この際仕方ない。そう考えて、ウトゥックはウセレムを急遽帰還させた。予定を変更して樹流徒を毒殺するために退却した。
無論、これらも全て憶測でしかない。ウトゥックの犯行動機が本当にただの嫉妬という可能性もゼロではないし、実は樹流徒の正体に気付いている可能性も然り。
そこで樹流徒は逆に考えることにした。ウトゥックの犯行動機が何であるかを想像するのではなく、もし仮にウトゥックが騒動に関っているとしたら、それをどうやって証明したら良いかを考えた。
そういえば一つ疑問がある。事件の犯人は、ムウの住人から巻き上げた供物をどこへやったのか? 外のどこかに隠してあるという可能性も十分考えられた。ただ、万が一隠した供物を誰かに発見されたら大変である。なるべく自分の手元に置いておきたいと犯人が考えても不思議ではなかった。
今にして思えば、この宿屋には少し怪しい場所がある。一階の部屋だ。ドアに×印を描いた紙を貼ってまで客の立ち入りを防止している四つの部屋である。その内の一室は厨房であり、夜食前に樹流徒も足を踏み入れた。しかしそれ以外の部屋にはまだ入っていない。調べてみる価値はありそうだった。
「頼む。許してくれ。命だけは見逃してくれ」
引き続き祈りを捧げような構えで命乞いをするウトゥック。
「分かった……。許すよ」
あっさり樹流徒が承諾すると、ウトゥックは顔を上げた。もしこの悪魔に表情があったらきっと意外そうな顔か、満面の笑みを浮かべていることだろう。
ただ、直後にはその笑みが凍りついたに違いない。次に樹流徒が放った一言によって。
「スープに毒を混ぜたことは忘れる。でもその代わりにこの宿屋を隅々まで調べさせてくれないか?」
「え……。何故そんなことを?」
ウトゥックはあたかも不思議そうに言う。その声だけを聞けば焦りの色はまるで感じられなかった。
しかし樹流徒には相手の態度が演技に見えた。ウトゥック自身は無意識の内にやっているのだろうが、彼の足の先がさっきから世話しなく動いているからだ。内心ではかなり動揺しているように見えた。
「宿の中を一通り見学させてもらうだけで全て水に流そうと提案しているんだ。こんな良い話は無いと思うが、どうだ?」
「いや。それはそうだけど……」
ウトゥックの反応の悪さが、樹流徒の憶測を確信へと変えてゆく。この宿屋、調べれば色々と面白いモノが出てきそうだ。
最早樹流徒が躊躇う理由は無かった。これで予想が外れていたらウトゥックに謝るしかない。自分を毒殺しようとした相手に謝るなどおかしな話だが、それくらいの覚悟で勝負に出た。