暴走する海竜
一刻も早くウセレムが出現した場所へ向かわなければ。
樹流徒はベッドから跳ね起きて部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
一階にウトゥックの姿は無い。騒ぎに気付かず自室で寝ているのか。それとも既に外へ飛び出しているのか。どちらにせよ樹流徒にはウトゥックを探して事情を説明している暇など無かった。
宿を飛び出すと、道路脇に立つ半獣半人の悪魔が南の方角を指差して叫んでいる。
「ウセレムが出たぞ! 昨日と同じ場所だ」
それを聞いて樹流徒は走り出した。
雨水が薄く張った石畳の道を裸足で跳ね、深夜とは思えない騒々しさに包まれた町の中を疾走する。
目的地に近付くにつれ人混みが激しくなった。騒ぎを聞きつけて悪魔たちが皆外へ飛び出してきたようだ。彼らもウセレムを見に行くつもりなのだろう。樹流徒は往来の隙間を縫ってひたすら走り、最後は道を塞ぐ異形の波を掻き分けるようにして先へ進んだ。
復旧作業が行なわれていた海沿いの道路に出る。道の中を埋め尽くす異形の垣根を多少強引に突破して、樹流徒は何とか道路脇に立った。
集まった悪魔たちは皆揃って同じ方角に顔を向け、同じ方角を指差している。彼らの視線の先、陸から数十メートル離れた海面から不気味な物体が飛び出していた。
小さな島がこちらに向かって近付いてくるように見える。しかしそれは島ではなく、青い鱗に包まれた竜の顔だった。
ウセレムである。ムウの守護竜が町に接近してくる。顔だけ見ても、貪欲地獄で出会った巨竜ガルグユより遥かに大きな存在だと分かる。想像以上の迫力に樹流徒の背筋がゾッとした。
海面から顔だけ覗かせたウセレムは、ムウに近付くにつれ首を伸ばし、徐々にその全貌を露わにする。
いよいよ海岸に迫ったとき、首を真っ直ぐ伸ばした海竜は、町の中央にそびえる塔よりも遥かに高い位置から岸を見下ろしていた。真っ赤な眼球の下に落ちた瞳孔は闇よりも黒く、暗雲の裏に隠れた月よりも大きい。
ウセレムを見物しに来ておきながらウセレムの接近に恐怖した悪魔たちが一斉に逃げ出した。彼らは波となって町の中になだれ込む。その波に逆らって海岸に残ったのは、町の代表者カイムを先頭とした十数名の悪魔と、樹流徒だけだった。
カイムの背後に控えている悪魔たちの手には食料入りの木箱や酒樽、それに硬貨が詰め込まれていると思しき布袋などが抱えられていた。ウセレムに渡す供物だろう。
先日、ムウの住人たちは初めてウセレムの要求を断って供物を渡さなかった。それに激怒したウセレムは町を破壊したのである。
再び町を破壊されることを恐れて、今回はウセレムに供物を差し出すつもりだろうか?
樹流徒はカイムのすぐ近くから事の成り行きを見守る。ムウの住人たちがどのような行動を取るのか、それに対してウセレムがどのような反応を示すのか、まずはそれを見届けることにした。
鶫の悪魔カイムは一度だけ樹流徒のほうをちらと見たが、何も言わなかった。老人の姿をした使い魔の肩に止まってジッとウセレムを見上げている。
海沿いの道路から逃げ出した悪魔たちは建物の陰に固まっていた。ある者は不安そうに、またある者は興味深げな顔で、遠巻きに事態の進展を見守っている。
中には樹流徒の身を案じる者もあり
「おい、そんなところにいたら危ないぞ。こっちに来い」
と、彼の背中に向かってしきりに叫んでいた。
接岸したウセレムは、悪魔たちのざわめきが少し鎮まるのを待ってから、ついに口火を切る。
――我に供物を捧げよ。
頭上から放たれた低い声が、悪魔たちを一斉に震え上がらせた。
ウセレムは元々喋らない生き物だったが、豹変してから言葉を発するようになったという。それだけでも違和感を覚えるには十分だが、樹流徒は己の目で直に喋るウセレムを見て、ますます強い違和感を覚えた。というのも、ウセレムの声がウセレム自身の声に聞こえなかったからだ。声の出所がウセレムの喉や口ではなく、腹から響いているような気がするのである。
かつてムウの守護竜とまで呼ばれたウセレム。しかしある時を境に豹変してしまったこの海竜は、今宵も町の悪魔たちに供物を要求してきた。
その要求に従って、カイムの背後に控えていた十数体の悪魔たちが両手に抱えた物を次々と海岸に積み上げてゆく。やはり今回はウセレムに供物を捧げるつもりらしい。これはカイムたちが相談に相談を重ねて決めた苦渋の決断だったはずである。おいそれと樹流徒が止めることはできなかった。
ところがウセレムは全然満足しなかった。
「足りない。前回の供物よりも少ないではないか。もっとだ。もっとよこせ。食い物も酒も金も、もっともっと持って来い!」
雷の如き怒声がカイムたちの頭上から降る。海岸に積まれた供物は相当な量があるが、それでもウセレムの欲望を満たせないらしい。
するとカイムたちは意を決したような顔付きで頷き合い、一致してウセレムを睨め上げた。
「これ以上オマエの要求を飲むわけにはいかねーよ。この供物で満足できないなら、もうオマエに渡す物は何もない」
使い魔の肩から身を乗り出すような姿勢でカイムが叫ぶ。
その叫びより何十倍も大きなウセレムの咆哮が大気を揺るがした。先ほどウセレムの腹から響いてきた低い声とはまるで質が違う。喉から飛び出したこの咆哮こそウセレム本来の鳴き声であるように、樹流徒は感じた。
「我も甘く見られたものだ。ならば昨日よりもっと痛い目を見せてやろう。そうすれば二度と我の要求を断ろうなどとは思うまい」
竜の雄たけびと脅し文句は、ムウの住人たちを絶望させるのに十分な迫力があった。加えてウセレムの首が道路の上まで侵入し、真っ赤な瞳がなぶるように町を見渡すと、悪魔たちは完全に恐怖に飲まれてしまった。カイムとその周りの悪魔たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
ウセレムの首がしなり、頭部が地上を襲った。青い鱗が地面を削り、その場に取り残された供物がたった一口で丸呑みにされる。その光景を目の当たりにして、今まで遠巻きに成り行きを見守っていた者たちも踵を返して走り出した。
供物を回収したウセレムは、ムウの大地に頭を叩きつける。舗装中の道路に新しい亀裂が走り、その下に敷かれていた土壌が押し出されるような形で海に流れ出た。天変地異にも劣らぬ凄まじい破壊力だが、よく見ればその力はウセレム自身をも傷つけていた。竜の眉間から真っ赤な血が溢れている。
ウセレムの破壊行為を止めなければいけない。
今こそ動くときだと判断した樹流徒は、荒れ狂う海竜めがけて走り出した。
が、樹流徒とは別の方向から小さな影がウセレムのほうへと駆けてゆく。
水色の髪と黒いドレスが特徴的な、人間の姿をした悪魔。樹流徒が海岸で出会った少女である。
樹流徒よりも早く駆け出していた彼女は凶暴化した邪竜の真正面に立った。その命懸けの行動を目の当たりにして、思わず樹流徒も足を止めてしまう。
「大人しく海に帰ってウセレム。こんなことを続けていたら、いずれアナタがムウの皆に殺されてしまうわ」
少女は悲痛な叫びで訴えた。彼女とウセレムの関係を聞いただけの樹流徒でさえ心に響く真剣な叫びだった。
とはいえ彼女の訴えに耳を傾けている場合ではない。少女の身の危険を予見した樹流徒は再び走り出す。
「邪魔だ。すぐにそこをどけ。でないとオマエを最初の見せしめにする」
ウセレムの声は突風となって少女の前髪を揺らした。
それでも少女は頑としてその場を譲らない。ウセレムを信じているのだろう。親友である自分をウセレムが傷つけるはずがないと信じたいのだ。
その願いをウセレムはいとも容易く裏切った。弓の弦みたく反った首が勢い良くしなり血にまみれた頭部が少女に向かって振り下ろされた。
既に走り出していた樹流徒が間に合う。彼はめいいっぱい伸ばした腕で少女の体を横から軽く突き飛ばした。
少女はあっと叫んで転倒し、地面を転がる。一方、彼女が立っていた位置に飛び込んだ樹流徒はほぼ真上から降ってきたウセレムの頭部の下敷きになった。
すさまじい重量が樹流徒の体を襲う。並みの悪魔であれば即死。全身の骨が砕けていたか、硬い地面とウセレムに挟まれて肉が押し潰されていただろう。
いかに樹流徒でもまともに立ってはいられなかった。予想以上の衝撃に膝が折れる。それでも何とか持ちこたえた。どこの骨も折れていないし、意識もはっきりしている。衝突の刹那、樹流徒は魔法壁を張って自身に降りかかる衝撃を和らげ、さらには全身を輝かせ爆発的な力を発揮し、とっさに頭上で交差した両腕でウセレムの頭部を受け止めたのである。
竜の眉間から溢れた血が雨に溶けて樹流徒の足下に広がる。
そのとき樹流徒ははっきりと感じ取った。決定的な違和感。目の前にいるウセレムの気配がズレている。ウセレム本人からではなく、ウセレムの体内から殺気を感じた。
これまで幾度と無く殺意を向けられてきた樹流徒の体感として、殺気というものは体内から生まれ、全身の肌や、目や、はたまた頭のてっぺんを通して、体の外へ放たれるものだった。それにひきかえウセレムの殺気は内にこもったままである。殺気が体内に充満しているような感じを受けた。
気配や殺気という目に見えないものを感じ取る能力に乏しい生き物からすれば、樹流徒が気付い違和感は荒唐無稽な妄想話にしか聞こえないだろう。それでも殺気をはっきりと感知できる樹流徒にとってこの違和感は確信だった。殺気を放っている者はウセレムではない。ウセレムの中にいる。
「邪魔をするな」
ウセレムが吼える。いや、ウセレムの体内に潜む何者かが放った声だ。
樹流徒の腕に支えられている竜の頭部が地上からゆっくり離れてゆく。海面から前脚の片方が飛び出して岸に乗り上げた。ビルを幾つも積み重ねたような大きさの脚である。
反対の前足が天に向かって掲げられた。ウセレムの全体重を乗せた一撃を受ければ、たとえ瞬発的に凄まじい力を発揮した樹流徒でもその衝撃に抵抗できるかどうか分からない。
樹流徒は膝を起こし、すぐに迫り来るであろう一撃に備えた。
空に掲げられたウセレムの足が樹流徒を押しつぶそうと落下する。
樹流徒は思い切り横に跳躍してかわした。振り下ろされたウセレムの足がムウの大地と衝突する。鼓膜を打つ轟音と共に道が割れ、砕けた石が一斉に飛び跳ねる。道路の下に敷かれた砂が大量に押し出されて海面を黒く染めた。
「お願い。止めて」
少女は地に座り込んだまま声を絞り出す。その言葉は果たしてウセレムへの説得か。それとも樹流徒に対する「ウセレムを傷つけないで欲しい」という願いか。
どちらの意味であっても樹流徒は少女の叫びに応えるつもりだった。これ以上ウセレムに町を破壊させないし、ウセレムを殺すつもりもない。一連の騒動の元凶はウセレムの体内にいる。倒さなければいけないのはその真犯人である。
樹流徒の狙いはすでに決まっていた。自らウセレムの口に飛び込んで、ウセレムの体内に侵入する。そしてウセレムの体内に巣食う真の敵を倒す。要するに童話の一寸法師と似た様な戦法を使おうと考えていた。上手くいくかどうかは分からない。ウセレムの口に飛び込んだ瞬間牙に噛み砕かれるか、よしんば体内に潜り込めてもウセレムの胃液に体を溶かされてしまうかもしれない。それでも他に良い方法が思いつかないから、樹流徒が取るべき行動は決まっていた。
そのはずだったのだが……。
樹流徒が自分の狙いを実行に移す前に、予想外の展開が待っていた。
ウセレムが身を翻して岸から離れてゆくのである。不利な状況に陥ったわけでもなければ、攻撃を受けたわけでもないのに、青い竜はまるで逃げ帰るように海へ戻ってゆく。
少女の叫びが、ウセレムを操っている真犯人の心に届いたのか?
違う。もっと別の理由があって、ウセレムは反転せざるを得なかったのだ。そう樹流徒は考えた。なぜなら背を向けたウセレムの体内にはまだ殺気が充満しているからだ。
樹流徒は余程ウセレムの後を追おうと思ったが、嵐の影響で現在は波が激しく、海の中に飛び込むのはかなり危険だった。水中で息が吸えるようになったので溺れる心配は無いとはいえ、荒れ狂う海の中では相当動きが制限される。海竜の口に飛び込むのは至難の業だった。
それに樹流徒のすぐ横には、放心したような顔でウセレムを見送る少女が未だ力なく地面に座り込んでいる。彼女を放っておくのも忍びない。
少女は声も無くウセレムを見送った。海に帰ってゆく海竜の背中には、かつて少女を庇って負ったという二つの傷が残されており、青い鱗を縦に裂いていた。
ウセレムが水の底に消えると、戦いの余韻に浸る間もなく、遠くでわっと歓声が上がった。未だ建物の陰に隠れて成り行きを見守っていた悪魔たちが一斉に飛び出してくる。
物陰から躍り出た悪魔たちはあっという間に樹流徒を包囲して、彼の頭や背中を叩いたり服を引っ張ったりする。ウセレムを追い払った英雄への手荒な祝福だった。
悪魔たちはお祭り騒ぎだが、樹流徒からしてみれば恐怖以外の何者でもなかった。沢山の手にもみくちゃにされてローブを引っ張られる。顔がバレれないよう必死にフードを手で押さえた。
「おい。そろそろ解放してやれ。ソイツ明らかに困ってるじゃねーか」
カイムの言葉で狂喜乱舞していた悪魔たちはようやく冷静さを取り戻す。「ワリィワリィ」などと笑いながら樹流徒から離れた。
「ついでに言うが、オマエらはしゃいでる場合じゃないぞ。ウセレムがまたいつ町に現れるか分からねーんだ。明日来かもしれない。十分後かもしれない。問題は何一つ解決しちゃいねェんだからな」
厳しい口調でカイムは言う。
ぐうの音も出ないほどの正論だった。が、少し言い過ぎだったかもしれない。折角明るくなっていたムウの住人たちは、カイムから注意を受けたことにより冷静さを通り越して一気に落ち込んでしまい、揃って沈痛な面持ちになった。
その内のひとつが特に厳しい顔付きで樹流徒に詰め寄る。見れば、あの兎頭悪魔だった。前回ウセレムに家を破壊された悪魔である。
「なぜウセレムを逃がしたんだよ? ヤツが身を翻したときに攻撃できなかったのか?」
まくしたてるような早口で兎頭悪魔は言う。口調こそ責めるような感じではなかったが、それは紛れも無く樹流徒を糾弾する言葉だった。
ただしその発言に同意する者は誰もいない。周囲の悪魔たちは困った者を見るような目で兎頭に視線を集めた。
「ソーマはウセレムを殺さずに追い払ってくれた。礼を言うならまだしも、ただ逃げ回ってたオレたちが文句を言う資格はねーだろ」
カイムが叱声を浴びせると、兎頭は一瞬ムッとしたように瞼を下げる。しかしすぐに「そうだなスマン」と答えて力なくうなだれた。
それをしおに悪魔たちはぞろぞろと帰り始める。皆、夢から覚めたような足取りで夜陰に消えていった。
その場には樹流徒、カイム、兎頭、そして少女の四人だけが残った。
樹流徒は他三人の顔をさっと見回して、おもむろに口を開く。
「俺がウセレムを倒さなかったのは、ウセレムの体内から別の気配を感じたからだ」
それは兎頭の疑問に対する答えであり、少女に伝えたい言葉でもあった。
「え。どういうことですか?」
少女は樹流徒の傍まで詰め寄って詳しい説明を求める。
「実は戦闘中、ウセレムの体内から殺気を感じたんだ。誰かがウセレムの体内に侵入していると俺は確信している」
「それってつまり、ウセレムは誰かに操られてるってことか?」
理解の早いカイムが樹流徒の言葉を咀嚼する。
「ああ、その可能性はかなり高いと思う」
言ってから、樹流徒は不意にはっとした。
偶然にも視界に怪しい影を捉えたからだ。樹流徒たちが立つ道路のずっと先。やや姿勢を低くした一つの影が横切った。
まるで誰からに見付かるのを恐れるような動きをするその影は、何のためらいも見せずに高く跳躍して建物の屋根に飛び乗る。たしか景観を何よりも大切にするムウでは、屋根に乗る行為を禁じているはずだ。
ウセレムが去って間もなく現れた謎の影……少し怪しかった。樹流徒の直感が「念のために影の正体を確かめたほうが良い」と告げる。
「カイム。今だけ飛行能力を使わせてくれ」
屋根に乗ることと同様にムウでは空を飛ぶことも禁止されている。分かった上で、樹流徒は相手の許可を待たずに羽を広げた。
「え? おい。いきなりどうしたんだよ?」
カイムが目をぱちくりさせるが、事情を話している暇は無かった。もたもたしていたら不審な影を見失ってしまう。
「話の続きはまた明日にでも」
それだけ言い残して、樹流徒は未だ雨と風が吹きすさぶ夜空に向かって羽ばたいた。
怪しい影を追って樹流徒は宙を疾走する。もし万が一影の正体がウセレム騒動の犯人だとしたら絶対捕まえなければいけない。この機を逃すわけにはいかなかった。
間もなく前方に不審な影を発見した。異形のシルエットが屋根から屋根へと飛び移りながらどこかを目指している。周囲を警戒しながら移動しているせいか影の動きは遅かった。全力で空を飛んでいる樹流徒ならば簡単に追いつける。
謎の影がまた屋根から別の屋根へ跳躍した。それを横から追い抜いた樹流徒は、相手が着地した瞬間に同じ屋根に降り立った。影の正面に回りこむ。
いきなり行く手を遮られて驚いたのだろう。異形のシルエットが体を仰け反らせるようにして揺れた。
「お前は……」
相手の正体を見て、樹流徒は少し驚いた。
フクロウの頭部と人間の体を持ち、全身を青っぽい毛に覆われた悪魔……。
アモンである。