異空間
摩蘇神社には拝殿も神楽殿も無い。小さな本殿、それから参道脇に小屋みたいな社務所と手水舎があるだけの控えめな佇まいをしていた。
社は強い風に吹かれればいつ倒壊しても不思議ではない。それだけ老朽化が激しかった。好意的な言い方に置き換えるとそれだけ歴史がある建物だ。手水舎の屋根は既に一部が腐って小さな穴が開いていた。
本殿内部の広さは、外観からして十畳にも満たないことが推測できる。悪魔が住みつき人間を捕らえておくには長所よりも短所の方が目立つように思えた。
それにしても、いくら小規模とはいえ神社は神社。神の住む家である。そこに悪魔が居座るとは世も末だ、と樹流徒は皮肉に近いものを感じた。実際世界が終わっているかも知れないだけあって笑い話にもならない。
もっとも、アンドラスがくれた情報の真偽は未だはっきりしていない。社の中が無人とも限らなかった。
境内に人の姿は見えない。樹流徒は参道を渡り賽銭箱の横を通り過ぎて、入り口の前に立った。
古い引き戸に手をかける。その向こう側に真実が待っている。
戸は建てつけが悪くガタガタと頼りない音を立てながら開いた。
その先にある光景を目の当たりにして、樹流徒は一驚を喫する。
彼の眼前に現れたのは悪魔でもなければ囚われの人間でもなかった。無人の部屋でもない。
漆黒の壁である。闇の空間が水面のように揺れ、樹流徒の前に立ち塞がっていた。悪魔倶楽部の扉を開いた時に現れるものと非常に良く似ている。
樹流徒は警戒しつつも、思い切って手を伸ばした。彼の腕は目の前の闇を簡単に抜け、その向こう側へ飛び出す。とりあえず先に進むことはできるらしい。
この黒い壁を通り抜けた先にはきっと尋常でない光景が待っているはずだ。そう樹流徒は予見した。
鬼が出るか蛇がでるか。今更引き返すつもりなど毛ほどもないが、それなりの覚悟は必要だ。
樹流徒は短い時間その場に立ち止まる。決意を固めると一気に中へ飛び込んだ。
果たして彼の予感は正しかった。樹流徒の眼前に現れたのは、本来そこにあるはずの本殿内部ではない。ずっと遠くまで伸びる長い長い木板の廊下だった。
廊下は一本道で幅が狭い。煤にまみれたみたいく汚れた白い壁が、両脇を固めている。
壁には窓らしき物が一切ついておらず、下界の光は遮られていた。その代わり5メートル程度の間隔でロウソクを乗せたこま蜀台が取り付けられている。
無風の中、小さな炎が真っ直ぐ立っていた。他に明かりは無いため辺りは薄暗い。
まるで怪談の一幕にでも出てきそうな場所だ。悪魔よりも霊や妖怪などが似合いそうな雰囲気である。
いよいよ何かが起こりそうだった。樹流徒は予め悪魔の爪を発動して臨戦態勢に入る。
慎重に歩を進めると、その度に床が軋んで音を鳴らした。他の音は全く無い。樹流徒は、自分の息遣いと心音だけを異様にはっきりと感じ取れた。
彼は警戒を怠らないように気を張ったまま移動を続ける。
それから少し経っても、特に異変は起こらなかった。今のところ悪魔の襲撃を受けることもなければ、危険な罠が張ってあるわけでもない。どこまで伸びているのか見当もつかない一本道を、ひたすらに歩いてきた。
樹流徒は、この建物内に踏み込んで初めて後ろを振り返ってみる。遥か後方まで下がった出口はすっかり見えなくなっていた。
この場所に踏み込んでからひたすら単調な景色が続いている。集中力と緊張を持続するのが難しい。
微かな不安も覚えた。樹流徒は、なんだかずっと同じ場所を歩かされているような錯覚に陥り始めていた。
だが、彼の不安は杞憂に終わった。
しばらく先に進んでいると、突如前方に分かれ道が現れたのである。
道は正面と左右の三方向に分かれていた。いずれの道も先は長い直線になっており、突き当りが見えない。
樹流徒はようやく景色が変わったことに安堵しつつ、どの道を進むべきかの三択を迫られた。
考えても、どの道を行くのが正解か分からない。ならば直感で選ぶしかなかった。樹流徒は迷わず左へ曲がる。
再び真っ直ぐな廊下を行く。樹流徒は足早に先へ進んだ。余りに危険が迫ってくる気配が無いので、つい警戒心も緩んだ。
やがて前方に分かれ道が見えてくる。先程と同様、三方向に分岐していた。
樹流徒は立ち止まる。今度はすぐ進路の選択をせず慎重になった。
彼は十字路の真ん中に立って考える。
もしここが単なる巨大迷路ならばいわゆる右(左)手の法則が使えるかも知れない。真っ先に思い浮かんだのはそれだった。
右(左)手の法則というのは“壁に右(左)手をつきながら進めばいつか必ず出口に到達できる”というものだ。が、しかしこの常識外れの空間でそれが通じるとは限らないのが問題だった。
かといって、ほかに良いアイデアを持ち合わせているわけでもない。勘のみを頼って闇雲に進むよりかは幾分マシだと結論付けて、樹流徒は法則に従ってみる事にした。
ひとつ前の分かれ道では左に曲がっため、今回も必然的に左の道を選ぶことになる。
次は目新しい場所に出ることができるだろうか?
樹流徒は五割の期待と四割の警戒、そして一割の不安を胸に足を前に進めた。
さほど間を置かぬ内に、彼の心は失望十割に取って代わった。今度も全く同じ分かれ道が現れたのである。
樹流徒は左手の法則に従って道を進む。
しかし、その次も、その次も……。
何回分かれ道を選択しても、新たな景色が一向に現れなかった。行き止まりすらない。
樹流徒は、再び同じ場所を歩き回らされているような錯覚に陥った。先に進んでも現れるのは十字路ばかりだ。今となっては自分の現在位置すら分からず、方向感覚も完全に狂ってしまった。
それでもなお左手の法則に従って先へ行くと、次も三択の分かれ道に差し掛かったので、青年の不安は徐々に強い疑念へと変わってくる。
疑念で済んでいる内はまだいいかも知れないが、こんなことを繰り返していたらいずれ発狂してしまう。
そろそろ何か手を打たなければと思っていると、今度も同じ分岐が現れる。
樹流徒は立ち止まった。
少しのあいだ考えて、今いる場所に目印を残すのはどうだろうか……と思い付いた。そうすれば、再びこの場を通りかかった時に気付くことができる。些か捻りのない手段かもしれないが、やってみて損は無いはずだ。
樹流徒は腰を落とす。爪で思い切り床を引っかいた。傷をつけて目印にしようと考えた。
が、床には小さな傷跡ひとつ残らない。見た目や肌触りはタダの木板なのに恐ろしく硬い。再度挑戦しても同様の結果が返ってきた。
ならば、と壁や柱で同じことを試してみたが、こちらも変わらぬ結果に終わった。
樹流徒は辺りを見回す。ほかに使えそうなものといえば、壁に設置されているロウソクがあった。ロウソクのひとつだけ火を消すしておけば、目印にできそうだ。
樹流徒は、ロウソクの火に向かってふっと息を吹きかける。ところが、強い風を受けた火は消えるどころか微動だにしなかった。
何度か思い切り息を吹いても効果は無い。まるでテレビのモニター越しに映る火を吹き消そうとしているかのようだった。
樹流徒は不審に思って、よくよくロウソクの体を見れば、そこには蝋が垂れていなかった。火が灯っているにもかかわらずロウソクは全く溶けていない。
樹流徒は人差し指をそっと火に近づけてみる。全く温度を感じなかった。
壁や床だけでなくロウソクまで……この空間に存在しているものは皆本物ではない。
こま蜀台からロウソクを引き抜こうとしても、恐ろしい力で蜀台にくっついており梃子でも動いてくれそうになかった。蜀台自体もしっかりと壁に固定されている。
悪魔の爪を使ってロウソクを切りつけも、キンと硬いモノ同士がぶつかる音がして樹流徒の指先がじんとしただけだった。
この空間にあるものを利用して目印を残す事は出来そうにない。
樹流徒はそう判断して、仕方なく自分の持ち物を置いてゆくことにした。制服の袖を破って、床の隅に残しておく。
こうして、取り敢えず目印ができた。樹流徒は改めて分かれ道を左へ曲がった。
ややあって、樹流徒はまたも分かれ道を前に立ち止まっていた。
ただ、今回は今までと少しだけ状況が違う。青年の眼下には非常に見覚えのある布の切れ端が落ちていた。先程目印として残してきた制服の袖の切れ端である。
どうやら元の場所に戻ってきてしまったらしい。同じ場所を歩き回っているような気がしたのは錯覚ではなかった。こうなると最初の分岐点から全く先に進めていない可能性がある。
一体この空間はどうなっているのか? どの道を行ったらいいんだ?
樹流徒は黙考する。
まさか、出入り口の扉をくぐった瞬間、迷路内のどこかに飛ばされてしまったのだろうか。スタート地点が迷路の中に存在する場合、右(左)手の法則を使うことで延々と同じ場所を回ってしまう場合がある。
或いは、分かれ道が現れた時、三つの内正しい道を選択しなければ元の場所に戻されてしまうという特殊な仕掛けが働いているのかも知れない。
どちらにせよ、この空間に侵入者をワープさせる仕掛けが働いているのは間違いなさそうだった。
とても信じられない話だが。そうとでも考えなければ、元の場所に戻ってきてしまったことに説明が付かない。
少なくとも左手の法則が使えなくなったことだけは間違いない。
今度は左以外の道を進んでみるしかない。樹流徒は眼前の分かれ道を右折した。
その道もずっと遠くまでまっすぐ伸びている。今まで通ってきた道と全く同じ景色が連続していた。
また元の場所に戻されてしまうのだろうか?
樹流徒は焦りを募らせる。
異変が起きたのはその直後だった。
――ギィィィ
青年の心臓が弱く跳ねた。聞き覚えのある奇声が前方から聞こえてくる。
咄嗟に身構えた。薄闇に目を凝らすと、小さな影が縦に並んで向かってくるのが分かった。
影の正体は小人型悪魔だった。それも三体もいる。先頭の悪魔は羽を広げ空中から迫り、大分離れて残りの二体が床を駆けてきた。