雨
気がつけば辺りはすっかり暗くなっていた。
宿屋を出てからどのくらい歩き続けただろうか。夢中になって情報収集をしている内、樹流徒はいつの間にかムウの町が薄い闇に包まれていることに気付いた。しっかりと目を凝らさなければ、肉眼では遠くを歩く悪魔の表情が見えない。夕方を飛び越して、もう間もなく夜になると言っても良いほどの暗さだった。
急な闇の訪れは、天候が原因だった。町の頭上に暗雲が立ち込め、まだ水平線に足を浸したばかりの太陽を隠している。
――もうじき嵐が来ます。
水色髪の少女から聞いた言葉を樹流徒は思い出した。そういえば町を吹き付ける風が強くなっている。空を覆いつくす雲は今にも泣き出しそうな気配だった。
通行人の数が減っている。外が暗くなった影響か、あるいは嵐の接近がそうさせるのか、ムウの住人たちが家に帰り始めたようだ。その証拠に家々の窓から漏れるランプの明かりが少しずつ数を増やしている。ムウを訪れた旅人も今頃は嵐の到来を察知して宿屋に避難しているかもしれない。
結局メフィストフェレスの居場所は分からないまま、樹流徒は一旦宿へ引き返すことにした。本当に嵐が来るのだとしたら、危険を回避するため一時的に建物の中へ避難したほうが賢明だろう。それに樹流徒は今日一日中ほとんど歩きっぱなしで、どれだけ少なめに見積もっても百以上の悪魔に声を掛けている。吹きすさぶ嵐の中で情報収集をするだけの体力はあったとしても、気力は残っていなかった。
宿に戻る途中、ウセレム被害があった場所に立ち寄ってみると、そこでは未だに復旧作業が続けられていた。ただ、カイムの姿はどこにも見当たらない。作業をしている悪魔に彼の居場所を尋ねてみると、カイムはもう大分前に自宅へ帰ったらしい。カイムの自宅は町の南東にあり、復旧作業の現場からはかなり近いという情報もついでに教えてもらった。
樹流徒が宿に到着すると、フロントには手持ち無沙汰な様子のウトゥックが立っていた。
「やあ、お帰り」
のっぺらぼうの悪魔ウトゥックは、昼間と変わらない元気な声で樹流徒を迎える。家庭的な温かい雰囲気に樹流徒の心は幾分和んだ。
「捜査は順調かい? 探偵さん」
そう言ってウトゥックは笑った。
「探偵?」
ウトゥックの口から飛び出した思いも寄らない単語を、樹流徒は鸚鵡返しに唱える。
だがなるほど。人探しに、町を騒がしている事件の捜査……言われてみれば樹流徒がしていることは探偵かもしれなかった。
「残念ながらまるで手掛かりなしだ」
樹流徒はやや冴えない表情をする。できることなら本物の探偵に救いを求めたいくらいだった。
ウトゥックは「そうか」と少し残念そうに返事をしてから
「ウセレムのヤツ、ホントにどうしちゃったんだろうね。もし誰かに操られてるんだとしたら許せないな」
と、初めて暗い声を発した。いるかどうかも分からない犯人への怒りを露わにする。
町の住人は皆ウセレムが好きだった、とカイムは言っていた。ウトゥックの怒りを見て、樹流徒はそれを実感した。自分に何が出来るか分からないが、できるならばこの事件を解決したい。そんな気持ちが強くなった。海沿いの道路で出会った少女の件もある。ウセレムの親友だという彼女のためにも、騒動を解決しなければいけない。
少しすると空からぽつぽつと雨粒が降り出した。客室に入った樹流徒は窓に張り付いて外の様子を眺める。雨なんてものを見たのは実に数ヶ月ぶりだった。雪国出身の人が久しぶりに故郷へ帰って白銀に包まれた景色を見るとこんな気持ちになるのかもしれない。
雨脚はすぐに激しくなり、風も強い唸り声を上げ始めた。海辺の少女が予言した通り嵐が来たのである。樹流徒は体をベッドに横たえ、目を閉じて、外の音に耳を済ませた。そのまましばらくのあいだじっとしていた。
無数の雨が窓を叩く。窓は絶えずガタガタと震える。部屋には時計が無いので今が何時か分からなかった。そもそも魔界に時刻というものがあるのか分からない。基本、時間に追われることなく日々を送っている悪魔には、細かな時の流れなどどうでも良いことなのかもしれない。太陽が昇れば朝。月が出れば夜。また太陽が昇れば新しい一日。そのくらい大雑把な感覚で良いのだ。
時計が無いから、樹流徒がベッドの上で目を閉じ続けていた時間も、正確には分からなかった。
風が窓を殴りつけるのもこれで何十回目かという頃。ようやく目を開けた樹流徒は、ベッドの上で天井を眺めつつ、昼間と違って部屋の中が真っ暗だなどと思っていた。
すると折りよく部屋のドアがノックされて、火が点いたロウソクを手に持ったウトゥックが入ってきた。ウトゥックはロウソクの火を使って部屋中のランプに光を灯してゆく。忽ち一室が温かな雰囲気に包まれた。
「食事が出来たんだ。一緒に食べようよ」
全てのランプに火を灯し終えると、ウトゥックは樹流徒を夕食に誘う。
その誘いに乗って、樹流徒はウトゥックと共に階下へ向かった。
ロビーのテーブルには既に二人分の食事が用意してあった。海藻サラダ、魚の塩焼き、海老と貝がたっぷり入ったグラタン……海上都市らしく海の幸をふんだんに使った料理が並んでいる。一緒に白ワインも置かれていた。
一階には×印の紙が貼られた扉が全部で四つある。その内左から二番目をウトゥックは指差して
「厨房を貸してあげるから手を洗っておいでよ」
と言った。
勧められるまま左から二番目の扉を開けると、その奥はウトゥックが言った通り厨房になっていた。広い部屋の真ん中に金属製の調理台があって、奥には水が貯蔵された大きな樽が三つも並んでいる。樽の横には一つだけ小さな窓がついており、今はきっちりと閉じられていた。
樹流徒は樽に貯蔵された真水を使って手や顔を洗わせてもらった。海に四方を囲まれた人工都市のムウでは、海水はいくらでも手に入るが、真水は少しだけ貴重な資源らしい。ほとんど機械技術とは無縁な魔界に、海水を淡水に変える装置などあるはずもなく、ムウの住人が真水を手に入れるためには多少の努力が必要だという。「だから水の代用として海水や雨水を使うことはしょっちゅうなんだ。つい先週も水が切れたからお客さんのスープに海水を入れちゃったよ。そのお客さんは“美味しい”と絶賛してくれたけどね」と、ウトゥックは笑いながら説明していた。
手を洗い終えた樹流徒は、席についてウトゥックと向かい合って食事をする。
憤怒地獄で出会った発明家の悪魔クロセルは食事中ほとんど無言だったが、ウトゥックは逆だった。彼は、料理に一度も手を付けない内から喋り出す。
「ソーマはどこから来たんだい? 上層から? それとも下層から?」
いきなり質問が飛んできたので、樹流徒は即答できなかった。ワインの代わりに所望した水で軽く喉を湿らせてから、ゆっくり答える。
「上だ。貪欲地獄から来た」
「へえ。貪欲地獄のどの辺りに住んでいるんだい?」
好奇心が旺盛なのか、ウトゥックはすぐに次の質問をする。
矢継ぎ早に色々聞かれるのは、樹流徒としては余り好ましくなかった。質問に答えているあいだにボロが出てしまい、自分の正体を怪しまれる恐れがあるからだ。まだこの町で正体をバレるわけにはいかない。
「悪いが自分のことを語るのは得意じゃない。俺のことより、ウトゥックはどうなんだ? お前はずっとこの町に住んでいるのか?」
樹流徒は相手の質問をかわしつつ、聞き手に回った。
ウトゥックは特に不満そうな様子もなく、逆に嬉しそうに樹流徒の問いに応じる。
「私がムウに来たのは一万年くらい前だよ。この町は最高だ。景色は美しいし、魚は美味しいし、何より陽気な住人が多い」
「一万年も……。そんなに長くこの町に住んでいるのか」
「いやぁ。長く住んでるなんてとんでもない。カイムみたく町作りを進めてきたメンバーに比べれば、私なんてまだまだ新参者さ」
一万年も住んでいるのに新参者扱いされる町などムウくらいなものではないだろうか。
「ところで急に話は変わるが、お前はメフィストフェレスという悪魔を知っているか?」
樹流徒はウトゥックにもそれを尋ねてみる。
のっぺらぼうの悪魔は深く頷いた。
「ああ、知ってるよ。逆に彼を知らない悪魔なんてこの世にいるのかい?」
「直接会ったことは?」
「あるよ。彼、この宿に泊まったこともあるからね」
「そうなのか。実は、そのメフィストフェレスが友人と会うためムウに来ているんだが、彼の居場所に心当たりは無いか?」
話の種に……くらいのつもりで、樹流徒は尋ねていた。朝からずっと宿のフロントに立っていたであろうウトゥックが、偶然メフィストフェレスを見かけたとは思えない。それにウトゥックが都合よくメフィストフェレスの友人を知っている可能性も期待していなかった。「知らない」という回答が返って来て当前だと思っていた。
それだけに、ウトゥックが次に放った言葉は樹流徒を驚かせた。
「メフィストフェレスの友人? ああ、それならアモンのことじゃないかな? 余り知られてないみたいだけど、あの二人すごく仲が良いんだってね」
それを聞いて、フォークに伸ばしかけた樹流徒の手がぴたりと止まる。
灯台下暗し、とはまさにこのことだった。町中を探し回っても見付からなかった貴重な情報が、こんなすぐ近くに転がっているとは想像していなかった。ちょっとした運命の悪戯と言っても良いだろう。しかも驚くべきことにメフィストフェレスの友人があのアモンである。これは一体何の因果だろうか。
思わぬところから重要な情報を得られた嬉しさと、昼間の情報収集は何だったのかという徒労感、そしてメフィストフェレスの友人がアモンだっという驚き。それらが入り混じった複雑な気分で樹流徒は尋ねる。
「その話、本当なのか?」
「間違いないよ。何しろメフィストフェレス本人から聞いた話だからね」
ウトゥックは断言した。
だとすれば、樹流徒が昼前にアモンの家を訪ねたとき、アモンの後ろにはメフィストフェレスがいた可能性が高い。とんだすれ違いだった。
――ボクは忙しいんだ。昼寝とか、お客さんの相手とか、昼寝とか、ご飯食べたりとか、あと昼寝とかしなきゃいけないんだ。
最後にアモンが言い放った台詞が樹流徒の脳内で再生される。「お客さんの相手」の「お客さん」とはもしかしてメフィストフェレスのことだったのかもしれない。
食事が済んだらもう一度アモンの家に行ってみよう。宿からアモンの家までは距離が近い。走れば十分とかからず到着できる。
そう考えたが、樹流徒はすぐに思い直した。外はもう暗いし、酷い嵐だ。それに良く考えてみれば、無理矢理アモンの家に押しかけて、メフィストフェレスとアモンの再会に水を差す結果になってしまうかもしれない。すでにそれを一度昼間にやってしまった恐れがあるのだ。あらゆる面から考えて、アモン宅への訪問は日を改めるべきだと感じた。
「明日、アモンの家に行ってみる」
そう言って、樹流徒は今度こそテーブル上で寝ているフォークを掴んだ。
美味しい料理に舌鼓を打った樹流徒は、そのあと少しのあいだウトゥックと会話を続けてからニ階に戻った。階段の途中から廊下にかけて完全な闇が続いていたが、客室の扉を開けると、ドアの隙間から漏れてきたランプの明かりが樹流徒の頬と足下を優しく照らした。
部屋に入った樹流徒は真っ先に壁際に立って外の様子を窺った。嵐の中を傘も差さずに出歩いている悪魔が一名。ほかにも軒先で談笑している者の姿も二名見える。暴風吹き荒れる中全身びしょ濡れになりながらのんびり散歩したり朗らかに笑い合っている彼らの姿はなかなかシュールだった。それでもやはり、晴れていた昼間と比べて通行人の数は極端に少ない。混雑していた海岸沿いの道ですら、今はほとんど誰も歩いていないだろう。雨の日に外出を控えたくなる心理は現世と魔界共通なのかもしれなかった。
ムウの住人同様、樹流徒もこの天候では外に出ようと思わなかった。それにメフィストフェレスがアモンの家にいるかどうかを確かめるまでは、新しい情報を集める気にもなれない。
今日の活動はここまでにして、夜が明けるのを待とう。そう決めた樹流徒は、またベッドに転がって仮眠を取り始めた。できれば熟睡してしまいたかったが、いつウセレムが現われるか分からないので仮眠に留めておく。
静かに瞼を閉じながら、樹流徒の意識は目を開けているときよりも強く働いた。自分の鼓動と雨の音がいやに大きく聞こえた。
次に彼が目を開いたのは、もう真夜中と思われる頃だった。
目覚めたきっかけは鼓膜に触れた異音。雨と、窓が揺れる音に紛れて聞こえてきた微かな声らしきものだった。
初めはただの空耳かと思ったが、目を閉じたまま聴覚に意識を集中するとやはり異音が聞こえる。その正体が悲鳴だと今度ははっきり分かった。しかもその悲鳴は樹流徒が耳を澄ましている内に数を増やす。恐怖という名の熱が物凄い勢いで町中に伝播してゆくのが分かった。
ムウの住人たちに悲鳴を上げさせるほどの事態。そのようなものはひとつしか考えられなかった。
ウセレムが襲来したのだ。




