旅人たち(中編)
一度会話が途切れると、しばらくのあいだ交わす言葉も無く、樹流徒たちは釣りに没頭した。
その甲斐も無く釣果はさっぱりだった。二人がかりで海に糸を垂らしているにもかかわらず、海水を汲んだバケツの中は未だ空っぽのままである。
樹流徒とメフィストフェレスの竿にはそれぞれ一回ずつ強い当たりがきた。しかし樹流徒は釣り針を海藻に引っ掛けただけ。メフィストフェレスの釣り針に食いついたのは恐らく魚だったが、物凄い力で糸を引っ張られて釣り針もろとも餌を持っていかれてしまった。あとは互いに小さな当たりが何度かあったが、ただの勘違いだったり、すでに餌を食われた後だったりと、いずれも散々な結果だった。
気持ちの良い潮風。穏やかな波。温かな日差し。そして何より一匹も魚が釣れないことが、竿を握り締める樹流徒の両手に惰気をまとわりつかせる。その惰気は段々と全身に伝わって、樹流徒は眠気も無いのに欠伸が出そうになった。決して退屈なわけではない。ただ、余りの陽気にぼんやりした心地になった。
そこへいくとメフィストフェレスは瞬きひとつせずにジッと竿先の動きに集中している。もしかすると釣りをしているように見えて実は頭の中で詩でも創作しているのかもしれないが、何か一つの作業に夢中になっていることには変わりなかった。
メフィストフェレスの集中力に樹流徒は感心する。自分ももう少し釣りに集中しよう、という気持ちになってきた。「目の前の出来事に集中するのは大切だ」と、以前現世で出会った老人の悪魔フルカスが言っていたのを思い出す。
と、まさに樹流徒が集中力を取り戻した途端である。彼の竿に二度目となる強い当たりがきた。
糸が物凄い勢いで沈む。竿の先端がしなって急な弧を描いた。かなりの大物が食いついたのかもしれない。久しぶりの手応えに樹流徒は思わず少年のようにはしゃぎそうになった。
その興奮はすぐに冷める。どうも糸の動きがおかしい。魚が食いついたにしては抵抗する動きが全く無いのだ。
「どうやらまた海藻でも引っ掛けてしまったみたいだ」
背後の悪魔に報告しながら、樹流徒は竿を軽く跳ね上げる。魔人の腕力で強く引っぱると簡単に糸が切れてしまうので手加減しなければいけない。
海の底から釣り針が上昇してくる。やはり魚以外の何かを釣り上げてしまったようだ。海面に浮かび上がったシルエットは微動だにしなかった。
樹流徒は竿を持ち上げて、針に引っかかった物体を手元に引き寄せる。
それを見たとき我が目を疑った。予想通り釣れたのは魚ではなかったが、しかし海藻でもなかった。
意外なものが釣れた。チキンである。しかも普通の鶏ではない。羽を全てむしられ血や内臓も綺麗に取り除かれている。まるで調理前の下ごしらえを完了したような状態のチキンだった。いくら魔界でもそんなものが釣れるとは思わなかった樹流徒はメフィストフェレスを呼んだ。
「魔界の海では鶏肉が釣れるんだな」
その声に振り返った悪魔は、樹流徒が釣った物を見て愉快そうに笑った。
「おや。何とも妙なものが釣れたじゃないか。もしかすると新種の魚かもしれないよ」
そのような冗談を言う。やはり魔界の海とはいえ樹流徒が釣り上げた物は普通ではないようだ。
「しかしなぜ海にチキンが?」
樹流徒は釣り糸の先端についているものを凝視する。
「誰かが誤って海に食べ物を落としたんじゃないかな」
「確かにそうとしか考えられない」
二人して勝手に結論付けようとしていると……
――違う。そいつはオレの食い物だ。
樹流徒の眼下から高い水飛沫が舞い上がり、潰れた怒鳴り声と共に異形の者が海中から飛び出す。
赤いグリフォンの羽を持つ男だった。人間で言えば齢は二十前後に見える。緑がかった黒髪は水に塗れて肩の上まで垂れていた。全身の肌は紫色。服は身につけていないが、尖った両耳に黄金色のイヤリングが三つずつ連なっている。
「オレの飯を返せ」
水中から飛び出したその悪魔は羽を広げて宙に浮き、真っ赤な目を尖らせて樹流徒を見下ろす。
いきなりの出来事に樹流徒が反応に窮していると
「おや。君は“フォカロル”じゃないか。久しぶりだね」
赤いシルクハットをさっと持ち上げてメフィストフェレスが挨拶をする。
「あっ。オマエ、メフィストフェレスか」
フォカロルと呼ばれた悪魔は目を丸くした。かと思えば「もう一人のヤツは誰だ?」と胡乱な目で樹流徒を見る。怒ったり驚いたり訝しんだりと表情の変化が激しい悪魔だ。
「彼はソーマ。旅人らしい」
樹流徒に代わってメフィストフェレスが答える。
「ふうん。知らない名前だが、まあいい。それよりソーマとかいうオマエ。オマエが手に持っている物をオレに返せ」
「このチキンのことか?」
樹流徒は釣り糸にぶら下がっている物体を前に突き出す。
「ああ。それだ。今から食べようと思っていたのに、いきなり上から降ってきた釣り針に盗まれたんだ」
その釣り針というのは、樹流徒の竿の針に違いない。しかし盗まれたとは随分人聞きの悪い言い方である。釣りをしている最中に海の生物から文句を言われる場所など、宇宙広しと言えども魔界くらいなものだろう。
樹流徒は釣り針からチキンを外して、それをフォカロルに向かって軽く放り投げた。フォカロルは片手でキャッチする。
「まさかこの辺りの海底で食事をしている者がいるとは思わなかったのでね」
続いてメフィストフェレスが落ち着いた口調で弁明すると、フォカロルは明らかにむっとした。
「自宅で飯を食って何が悪い」
そう言って手足をジタバタさせる。
「自宅?」
船上の二人は顔を見合わせた。
「ここに君の家があるというのかね?」
メフィストフェレスが尋ねると
「そうだ。オレは昨日ここに引っ越してきたばかりなんだよ。ホラ、あそこを良く見てみろ。オレの家があるだろう」
フォカロルは海底を指差す。
そう言われても船の上からでは何も見えない。確認のため樹流徒は海に飛び込んだ。
すると確かにフォカロルが指差した方向には小さな家があった。だだし屋根も無ければ壁も無い。大きな石を集めて積み上げただけの、家と言うよりは墓か祭壇みたいな建造物である。だがフォカロルにとっては家なのだろう。
「なぜ、こんな人気の無いへんぴな場所に引っ越してきた?」
メフィストフェレスの問いに、フォカロルは憮然とした顔で答える。
「誰もいないからココに来たんだよ。オレは五百年以上ずっと賑やかな町で暮らしてきたからな。いい加減静かな場所が恋しくなってきたんだよ」
「なるほど。それは知らなかった。失敬したね」
メフィストフェレスが謝ると、それでフォカロルの怒りは収まったらしく、彼の表情からすっと険が消えた。
「まあ、こんな場所にオレが住んでるなんてまだ誰も知らないから仕方ないな。でも、次からはオレの家の近くでは釣りを控えてくれよ。じゃあな」
真っ白な歯を見せて笑うと、フォカロルは海中に飛び込んだ。
わずかに遅れて樹流徒が水面から顔を出す。そのときにはもうメフィストフェレスは何事も無かったように穏やかな眼差しを海原に向けていた。
潮の流れに乗って小船は泳ぎ続ける。
フォカロルとひと悶着あったのとは無関係に、樹流徒たちは一旦釣竿を置いて休憩を取ることにした。物が散乱した船上を適当に片付けて、二人が足を伸ばして座れるだけのスペースをなんとか確保する。
腰を下ろすと自然と雑談が始まった。樹流徒が貪欲地獄からここまで旅をしてきたという話や、メフィストフェレスが魔界を旅しながら作った詩がもうすぐ百篇を超えるという話。後で釣りを再開したら最低一匹は魚を釣ろうという約束みたいなものや、他にもとりとめもない話を色々交わした。「ムウがどんな町か知りたい」と樹流徒が言ったの対し「いや。到着してからの楽しみに取っておいたほうが良い。そのほうが初めて見る景色は感動できる」とメフィストフェレスが返すやり取りもあった。
メフィストフェレスは詩人をしているだけあって次から次へと口から言葉が溢れる弁舌家でもあった。そのため日常の会話では聞き手に回ることの多い樹流徒は本来のポジションで話をすることができ、楽しく会話ができた。
また、メフィストフェレスは魔界を旅していると言うだけあって見聞が広い悪魔だった。樹流徒の手に輝く指輪に目を留めると「それはヌトの町で手に入れんじゃないか?」と即座に当ててみせた。
憤怒地獄に存在する鍛冶の町ヌトにおいて、樹流徒は成り行き上グザファンという悪魔から指輪を購入した。指輪にはエメラルドよりも深い緑色に輝く小さな宝石がついている。メフィストフェレスの薀蓄によると、この宝石には不思議な性質があり特定の毒物に近づけるとその毒の種類に応じて宝石が様々な色に変わるのだという。ちなみにこの不思議な宝石はそれほど希少価値が無く、指輪の値段は樹流徒がグザファンに支払った代金よりもずっと安いはずだという。
話の種が尽きて何も喋る事が無くなると、二人はどちからともなく別々の行動を始めた。樹流徒はただ海を眺めたり、船の縁から手を伸ばして海水に指を浸すくらいしかやることがない。メフィストフェレスは荷物の中から文庫本サイズの本を取り出して読書を始めた。
どのくらいそうしていたか分からない。こんなにゆったりと時間が流れるのを、樹流徒は生まれて初めて感じた。それは癒しであると同時に若干の焦りでもあった。こんなにのんびりしていても良いのだろうか? 早くムウに着きたい、という思いが、視界に映る穏やかな景色と一緒に樹流徒の脳内を駆け巡ってゆく。
未だ目の及ぶ範囲には空と海しかない。メフィストフェレスと出会った場所からは大分離れているはずなのに、あれからずっと同じ場所にいるような錯覚に襲われた。「三日でムウに着く」というメフィストフェレスの言葉は信じているが、目的地に向かって着実に近付いているという実感が湧いてこない。そのことが、本来穏やかでのんびりしたこの時間を焦りに変えているらしかった。
自分でも気付かないうちに樹流徒は浮かない顔をしていた。
それに気付いてか、気付かずか、本のページを何百回とめくり続けていたメフィストフェレスの指がぴたりと止まる。本の文字を追っていた瞳が樹流徒の横顔を捉えた。
「そろそろ釣りを再開しないかね?」
言って、そっと本を閉じる。
樹流徒ははっと我に返って、自分が酷い表情をしていたことに気付いた。
「そうだな。今度は絶対に一匹釣り上げよう」
少し無理に微笑して立ち上がった。
二人は再び釣竿を構えて船の両側に立った。
「そうだ。どうせだったらどちらが先に魚を釣り上げるか勝負しないか? そちらのほうが面白い」
釣り糸を垂らしてすぐ、メフィストフェレスがそのような提案をする。
「いいな。そうしよう」
樹流徒は迷わず誘いに乗った。
こうして始まった勝負は、ややもすれば言った傍から決着がついてしまいがちだが、二時間が経ち、三時間が経ち……両者の釣竿が魚を釣り上げそうな気配は一向に無かった。釣れるどころか餌を食われる回数すら少ない。
「この辺りの魚たちはいつの間にかすっかり贅沢になってしまったようだ。前に私が釣りをしたときはあんなに沢山食いついた餌に今日は見向きもしない」
メフィストフェレスは冗談っぽく不満を漏らして樹流徒に笑いかけた。
「でも、絶対一匹は釣ろう」
真剣な表情で水面を見つめながら樹流徒は返事をする。数時間前の焦りはどこへやら、今はもうすっかり釣りに夢中になっていた。メフィストフェレスが持ちかけた勝負のおかけで、樹流徒の負けず嫌いな一面に火がついてしまったのである。こうなると彼の集中力は並外れたものになる。
船の先端が指し示す方角には小さな島が見えていた。海と空以外の景色が見えたのは何時間ぶりだろうか。にもかかわらずその存在に気付かずに樹流徒は釣りに没頭していた。
少し波が強くなってきた。ぐらぐらと揺れる船を揺りかごにしてメフィストフェレスは時折釣竿を握ったまま静かに目を閉じていた。
何も起こらないまま太陽が半分海に隠れて、やがて完全に沈む。
辺りはすっかり暗くなって、風が少し肌寒い。夜空には太陽の代わりに真っ青な星が昇っていた。それは月よりも大きく、月よりも一層寂しげな光で世界を照らしている。
負けず嫌いをこじらせた樹流徒はまだ船の縁にジッと立っていた。仮にメフィストフェレスが「もうやめようか」と声をかけても無駄である。餌はまだ沢山余っていた。このまま魚が釣れなければ、樹流徒はムウに到着するまでずっと竿を振り続けていたかもしれない。
かたやメフィストフェレスはといえば一応まだ竿は握っているが、すっかり作詩に没頭しているらしい。その証拠に彼はもう随分長い時間釣り糸を海に垂らしたままだった。餌がついているかどうかの確認もしていない。釣り勝負を提案したのはメフィストフェレスだが、彼は結果にはこだわっていないようだった。
すると、ここでやっと勝負に終止符が打たれる。
星の光を反射した黒い水面が小さく爆ぜた。
「来た」
初めての確かな手応えに樹流徒は声を上げる。
海面と繋がった釣り糸が激しく動き回っていた。魚が食いついたようだ。
多くの釣り人にとって釣りの醍醐味といえば、釣糸を引っ張って抵抗する魚の感触を楽しむことだろう。ただ、今の樹流徒にそれを楽しむ余裕は無かった。
釣糸が切れないようにじっくりと竿を持ち上げてゆく。暗い水面に銀色の物体が浮かび上がった。樹流徒は天に向かって垂直に竿を掲げる。海中から飛び出した魚が釣糸に吊るされて宙を舞い、樹流徒の手元にやって来た。
釣れたのは真ん丸な瞳とヌルヌルした体が特徴的なメダイと思しき魚だった。大きさは十五センチ未満。小腹を満たせるほど大きくもなければ、笑いの種にできるほど小さくもない、そんなサイズのメダイだ。しかし、たとえ金魚程度の大きさしかない魚だろうと、仮に食えない魚だろうと、樹流徒の満足度は変わらない。釣れたことには違いなかった。
「おや。勝負は君の勝ちだね。おめでとう」
メフィストフェレスは頬を緩ませる。そして何時間も放置してあった釣竿を持ち上げた。
糸の先には魚と思しき銀色の物体がくっついていたが、メフィストフェレスは爪を使って竿先から糸をぷつりと切って、釣り針に引っかかっているものと一緒に海へ流してしまった。船の反対側にいる樹流徒がその事実に気付くことはない。
樹流徒は人生で初めて自力で釣った魚を釣り針から外す。
「貸してごらん。私が調理してあげよう」
メフィストフェレスが手を差し出した。
樹流徒は魚を預けようとしたが、ふと思い留まる。
「この魚。まだ成長するのか?」
メフィストフェレスに尋ねた。
「大なり小なり成長するだろう。その魚は最長で一メートル近くまで大きくなるからね」
「そうか……」
樹流徒は幼い頃を思い出した。そういえば海釣りに行ったとき、祖父は釣れた魚がまだ小さければ必ず海に戻していた。家に持ち帰るのはある程度成長しきった魚のみ。釣果の有無には関係なく必ずそうしていた。
その行為が釣り人の常識なのかどうか、普段釣りをしない樹流徒には分からない。ただ、祖父に倣って今回は釣り上げた魚を海に帰すことにした。
魚が死んでしまう前にそっと海へ投げ込む。生還を果たした魚は勢い良く水底へ逃げて行った。
樹流徒の背後からやや声量を抑えた声がする。
「“首狩りキルトはニンゲンの中でも特に残忍極まりない性格をしている。”君の手配書にはそう書かれていたよ。でも、やはり実際本人に会ってみなければ分からないものだね」
「……」
樹流徒は少し険しい表情で振り返る。
今、メフィストフェレスは確かに樹流徒のことを“首狩り”と呼んだ。一体いつから気付いていたのか? 何かの拍子に思い出したのか、それとも実は初めから知っていて隠していたのだろうか?
樹流徒は余り驚かなかった。メフィストフェレスがいつ首狩りの噂や手配書に描かれた自分の顔を思い出してもおかしくない。
「いつから俺の正体に気付いていた?」
「昼間だよ。君はフォカロルの食べ物を釣り上げたときにこう言ったね? “魔界の海では鶏肉が釣れるんだな”と。“魔界では”なんて台詞は魔界の外から来た者しか言わない。その違和感に気付いたとき、首狩りの存在を思い出したんだよ」
「そうか……。失言だったな」
それでも首狩りキルトと知った上で今まで攻撃をしてこなかったのは、メフィストフェレスに敵意が無いからだろうか。
それについては樹流徒が尋ねるまでもなく本人が教えてくれた。
「言っておくが、私は君の命にも懸賞金にも興味は無い。昔はともかく、今の私はただの詩人であり旅人だからね」
俗世から離れた詩人あるいは旅人であるがゆえに、樹流徒の命や、カネよりももっと別の物に価値を見出した……という意味だろうか。その別の物が一体何なのか樹流徒には分からなかったし、メフィストフェレス本人も語ろうとはしなかった。
釣り勝負に決着がついたので、二人は道具を片付け始める。
メフィストフェレスはリュックの中に餌入れをしまう代わりに別の物を取り出した。それはかなり使い古された灰色のローブだった。顔を隠せるフードつきのローブである。それを樹流徒に手渡した。
「ムウに到着したらそれを着るといい。少しは正体を誤魔化せるだろう」
「貰っても良いのか?」
「君の正体を知った今でも、私が君を気に入ったことに変わりはない。それは出会いの記念か、友情の証とでも思ってくれれば良いよ」
「そうか……。ありがとう」
心から礼を言って、樹流徒は丁寧にローブを折り畳む。
そのあいだにメフィストフェレスはリュックの中からもうひとつ別の物を取り出した。
今度は何が出てくるかと思えば、バイオリンだった。魚の餌とバイオリンが一緒に入っているなんて少しおかしな話だが、そこは現世と魔界の違いだろう。
「この楽器はずっと昔に魔壕で手に入れた物だ。今では私の大切な旅の道連れでもある。多少雑に扱っても傷一つつかない、旅人にとっては魅力的な名器だよ」
そのように説明してからメフィストフェレスはバイオリンを奏で始める。
春の川辺を連想させるゆったりとした優しい音色が、樹流徒たちを包む夜の景色に不思議と合っていた。
樹流徒は静かに瞼を下ろしてバイオリンが奏でる美しい旋律に耳を傾ける。魚を釣り上げたときに感じた興奮の余韻が、穏やかな気分に変わっていった。とても心地が良い。心に溜まった疲れが全てどこかへ流されてゆくようだった。
その旋律に魅せられたのは樹流徒だけではなかったようである。やがて優しい音色に誘われて謎の影が水面からひょっこりと頭を覗かせた。
それはどこからともなく現れたイルカだった。しかも一頭や二頭ではない。十頭以上のイルカが一塊になって姿を現し、揃ってつぶらな瞳をメフィストフェレスに向ける。
イルカたちの群れは船と並んで泳ぐ。泳ぎながら、あるイルカはバイオリンの音に合わせてキュウキュウと声を発して歌い、別のあるイルカは海面からジャンプして宙に水飛沫を舞わせる。水の玉は青い星の光を映してキラキラと輝いていた。
この時間が終わってしまうのが少し惜しいと感じるほど樹流徒は夢心地になった。奏者の腕が良いのか。魔界の楽器が成せる技なのか、メフィストフェレスの演奏には聞き手の心を惹き込む不思議な魔力があった。
それでも何事にも必ず終わりはやってくる。このバイオリンの音もいつかは止む。
そんなことは初めから分かっているが、残念なのはその終わり方だった。まだ明らかに曲の途中であるにもかかわらず、演奏が止む。
途端にイルカたちは幻から目を覚ましたように一斉に逃げ出した。
「無粋な連中が来たようだね……」
今までの温厚さが信じられないほど冷たい声音でメフィストフェレスが言う。
彼も、イルカたちも気付いたのだろう。海の中から放たれる複数の殺気に。
樹流徒も気付いていた。船を取り囲むように複数の方向から何者たちかが迫ってくる。
その者たちはおよそ隠すつもりもないであろう極めて原始的な殺気を海の中で漲らせていた。