不思議な出会い
舗装された狭い道が弓なりに伸びている。両脇は緩やかな勾配の土手になっており、生え放題の雑草に覆われていた。片側から川の流れを見下ろす事ができ、それを辿った先には大きな橋が架かっている。反対側には落ち着きのある古い町並みが見えた。空は広くてへんに電線が目立つ。同じ都市の中だというのに中心部とは対照的な風景だ。ただ、市内ののどかな光景も今となっては全く雰囲気が変わってしまった。その原因を語る必要は無いだろう。
樹流徒は土手道を走りながら、つい先日まで平和だった故郷の姿を遠い昔の存在のように感じていた。
この辺りに足を運んだことは余り無いが、幼い頃に土手から夕日を眺めたことがある。その光景は今でもおぼろげながら記憶にあった。しかし、今の町に当時の面影は欠片も残っていない。
あと少し走り続ければ道の突き当りに辿り着く。そこで道が三方向に分かれており、内一つが林道に繋がっていた。
その道は蛇のように激しく曲がりくねっており、落ち葉や草むらが側溝を隠している。地元のドライバーたちからは少々危険な場所として知られている場所だった。道路脇には野生動物の飛び出し注意を促す看板や標識が設置されている。
摩蘇神社はそんな林道の奥、人目を避けるかのようにひっそりと佇んでいた。
目的地はもう目の前だ。行く手を塞ぐ障害物もほとんど無い。
樹流徒は走る速度を上げた。もう少しでマモンという悪魔に捕まっている人に会える。青年の胸の内はどちからといえば恐怖よりも期待の方のが大きかった。
ところが次の刹那、期待は一気に緊張へと傾く。
樹流徒の耳に突然足音が飛び込んできた。人間の足音ではない。馬だ。大地を蹴る馬の足音が風に乗って急速に近付いてくる。
樹流徒は咄嗟に土手を降り、草むらに体を伏せて身を隠した。
間もなく、青年の前方を巨大な影が横切る。人間の上半身と馬の下半身を併せ持った悪魔だった。
異形の生物は軽快な足音と共に土手を駆け下りて、霧の彼方へ消えてゆく。
樹流徒はその背中を見送ったあと、素早く立ち上がった。そして全身にくっ付いた草を軽く払う。
悪魔と遭遇するのもこれで何度目だろう。と、ここに来るまでの道程を振り返った。
実は、現世に帰還してから今までのあいだに、樹流徒は幾度となく悪魔の姿を目撃していた。その中には例の小人型悪魔や、火炎弾を吐き出す巨人の悪魔もいたが、まだ見たこともない姿を持った者たちも含まれていた。例えば獣の頭と人間の胴体を持った悪魔や、複数の動物を混ぜ合わせたような異形の生物、それに一見すると人間とそっくりな姿をしている者がいた。やはり、魔界から現世に訪れる者が増えているのかも知れない。
樹流徒はなるべく悪魔との接触を避けた。前方に異形の影を見かけたら物陰に隠れ、道を迂回するなどして、上手くやり過ごしながら移動してきたのである。
そうした理由は、当然ながら己の身を守るためだった。悪魔と出会えば戦闘になる。実際、樹流徒は襲撃を受けた。いくら彼が敵との遭遇を避けようとしても、全ての悪魔を誤魔化せたわけではない。中には樹流徒の存在を補足して襲い掛かってくる者もいた。そうした凶暴な敵に見付からないようにするため、樹流徒が身を隠そうとするのは当然のことだった。
ただ、樹流徒が悪魔との接触を避けたのにはもうひとつ理由がある。それは、彼が戦いという行為そのものを嫌ったことだった。樹流徒は、できれば悪魔の命を奪いたくなかった。積極的に人を襲い食らう悪魔に対しては断固立ち向かわなければいけないが、それ以外の悪魔と無駄な争いをする必要はないと考えていた。
悪魔の全てが人類の敵ではない。はじめは樹流徒の命を狙ったバルバトスも今や協力者みたいなものだし、現世の文化に興味を持つアンドラスという悪魔もいた。それに、人間に対して全く無関心な悪魔もいる。樹流徒と遭遇した悪魔たちの中には彼を無視して通り過ぎていった者もいた。
そのような悪魔たちとの出会いが、樹流徒の中でまだ曖昧だった悪魔像を徐々に形作っていった。意外と、魔界の住人には話せば分かり合える者が多いかも知れない。樹流徒はそう思い始めていた。
結界に近付けば近付くほど霧は濃くなり、視界は悪くなる。
一帯がまるで雲の中に隠れたような景色に変わった頃、樹流徒はようやく摩蘇神社の前にたどり着いていた。悪魔との接触を避けながら移動したため多少時間は掛かったが、代わりに大した怪我も無くここまで来られた。悪魔と戦っていたらもっと時間を浪費していたかも知れないのだから、これで良かったと考えるべきかも知れない。
道路と神社の敷地を仕切る鳥居をくぐると、雨風に晒されながら幾春秋を経た石段がずっと続いていた。最上部が霞がかっているため階段の長さははっきりと分からないが、樹流徒の目算で少なくとも五十段程度ある。それを上り切った先に社があった。
樹流徒は一度立ち止まり、顔を上げる。軽い深呼吸をしてから石段に足をかけた。
石段は一段一段が高くて幅が狭いため、足場は余り良くない。両脇には金属製の手すりが設置されいるが、全体的に錆びつきが酷く褐色に染まっていた。
手すりの更に外側には木々が立ち並び、来客を出迎えるようにお辞儀をしている。年中生い茂った葉が上空から照らされ地に薄い影を落としていた。
こんな変わり果てた世界の中にあっても、神社は普段と変わらぬ神秘性を保っている。むしろ周囲の静けさがそれをより一層引き立てていた。
靴裏が石段の肌を擦る微かな音だけが耳に届く。樹流徒は自然と気が引き締まった。
と、そのとき。
樹流徒は突然何者かの視線を感じた。はっとして顔を見上げると、石段の先、薄くかかった霧の向こうに不鮮明な影をひとつ見つける。人か、それとも悪魔か。それなりの大きさを持った何かが、いつの間にかそこに立っていた。
もしかするとマモンか?
樹流徒はすぐさま悪魔の爪を指先から伸ばして戦闘態勢を取る。霧の向こうに出現した影の動向を窺った。
謎の影は微動だにしない。物みたいに静止している。
相手もこちらを警戒しているのか?
ならば、と樹流徒は全身を緊張させながら、思い切って自ら動く。
一歩一歩慎重に石段を踏みしめ、互いの距離を縮めてゆいった。そのたびに、霧に隠された相手の姿が徐々にはっきりしてきた。
果たしてそこにいたのは意外な存在だった。
樹流徒と同い年くらいの少女である。病的に白い肌をしており髪は肩口の辺りまで伸ている。紺色のチュニックにブーツといういでたちで直立不動の構えを取っていた。服装も含め、外見は完全に人間である。悪魔には見えなかった。
少女は樹流徒の存在を無視してずっと遠くの空を眺めている。かといって虚脱状態に陥っている様子ではなかった。どちらかといえば花鳥風月を愛でる詩人のような雰囲気で静かに佇んでいる。
市民の生き残りか? それにしては様子が妙だ。
樹流徒は訝しみ、寸刻少女に目を奪われていたが、すぐ我に返って悪魔の爪を解除する。石段を駆け上がって少女に接近した。両者は石段を3つ挟んで向かい合う。
間近で見た少女は余計に青白かった。肌と黒髪のコントラストが映える。唇も熟れた林檎のように赤い。それでいて眉ひとつ動かさないので、精巧な人形もしくは生きたまま死んでいる人のようだった。
「君も生き残りか? それとも、もしかしてマモンに捕まっている人間って君の事か?」
樹流徒はやや早口で尋ねる。喋り終えてから息をのんだ。
すると、生死不明さを漂わせていた少女が、青年の声に反応して、初めて動きを見せる。静かに首を振って樹流徒の問いかけを否定した。
市民の生き残りでもなければ、マモンに捕まっている人間でもない。じゃあ、この子は一体何者なんだ?
樹流徒がますます相手の素性を怪しく思っていると
「この土地……なんだか面白いことになっているね」
少女が初めて声を発した。見た目に似合わず、小さくも堂々とした声で言って、隠微な笑みを作る。
「面白いって何だ」
樹流徒は微妙に顔をしかめた。しかしすぐに気を取り直して彼女に尋ねる。
「君はよその土地から来たのか?」
「……」
少女は答えない。どこか年齢不相応な怪しくも美しい笑みを浮かべたまま
「君も面白い。その体は人だけど人ではない」
と、樹流徒に向かって言った。なんだか話が噛み合っていない。
そして彼女は言い終えるなり、緩やかな足取りで石段を下り始めた。樹流徒の横を静かに通り過ぎる。
「待て。お前は誰だ?」
樹流徒は急いで背後を振り返り、声を掛けた。
呼び止められた少女も振り向く。生気のない表情に浮かぶ漆黒の瞳が樹流徒の顔を真っ直ぐに見つめた。
しかし、それだけだった。少女は沈黙を守ったまま再び青年に背を向けて遠ざかってゆく。
樹流徒は動かなかった。少女の背中が遠ざかって行くのを、ただ黙過する。
せっかく生存者と出会えたのだ。彼女を追いかけたほうが良いのではないか。樹流徒は頭の中では理解していたが、不思議とそれを実行に移す気にはなれなかった。