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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
208/359

悪徳のススメ



 太陽と化したベリアルが放つ輝きは強く激しかった。樹流徒は目を開けていられない。加えて予想だにしない敵の攻撃に思わず全身の動きを止めてしまった。

 それに引き換え大蛇は光の影響を全く受けていないようだ。狂い輝く空間の中でもしっかり見開いた両目で樹流徒の姿を捉え、そちらめがけて頭から突っ込んだ。


 敵の奇襲により視界を塞がれた樹流徒は、しかしすぐに危険を予測して横に逃れる。空間を満たす(まばゆ)い光に乗じて敵の攻撃が飛んで来るのは明白だったからだ。

 お陰で直撃こそ受けずに済んだものの、完全には回避できない。全身を硬直させていた時間が仇となってしまった。正面から迫る大蛇の頭部が樹流徒の脚に接触する。傍目には軽く触れた程度の接触だったが、大蛇の大きさと突進速度を考えれば無傷で済むはずがなかった。樹流徒の体内を凄まじい衝撃が襲う。脚がもげたと錯覚するほどの激痛が彼の脳髄を刺激した。


 ベリアルの全身からほとばしる白光が電球のスイッチを切り替えたかのようにぱっと消える。

 大蛇の突進を受けた樹流徒は飛行能力を使用する集中力を維持できず、マグマの海を目指して頭からまっ逆さまに落下した。落ちれば死は免れない。勝利の瞬間を見届けようとするベリアルの期待に満ちた瞳が樹流徒の軌道を追った。その間、一秒にも満たなかっただろう。

 そのわずかな時のあいだ傍観者と化したのがベリアルの過ちだった。あとわずかでマグマの海に飛び込もうとしていた樹流徒の目がカッと見開く。彼は体を宙に停止させ、更に素早く体勢を立て直しながら自身の周囲に三つの青白い光を浮かべた。


「なかなかしぶといヤツだ。だが、そうでなくてはな」

 嬉しさと驚きと若干の苛立ちをないまぜにしたような声と共に、ベリアルは炎の槍を生み出した。

 樹流徒は相手の機先を制して、自身の周囲に輝く三つの輝きを膨張させた。即座に反応したベリアルは槍を掲げていた手を止める。逆の手を前に突き出して真紅の防壁を出現させた。


 全てを凍りつかせる冷気の光が一斉に解き放たれる。負けじとベリアルも防壁を三枚重ねてガードを強固にした。これだけ分厚い守りならばベリアルに対する正面からの攻撃は一切通らないだろう。厳重なこの守りがベリアルの中にある危機感を表していた。この魔王は樹流徒が何か仕掛けてくると承知しているのだ。


 ベリアルの想像通り、樹流徒は最後の勝負を仕掛けていた。同時に放たれた三つの白い光は、内二つがベリアルに向けられたものだったが、もう一つは大蛇の顔面を狙ったものだった。

 光の柱が大蛇の目に直撃する。光を浴びた部分を中心に皮膚が凍りつくと、大蛇は炎を纏った巨躯を荒波の如く暴れさせた。しかしこの程度で大蛇は死なない。ダメージすら無いだろう。それは樹流徒も分かっていた。敵を殺傷する効果など期待していない。少しのあいだ大蛇の動きを封じられればそれだけで良かった。


 一方、ベリアルに向かって放たれた二つの光は真紅の防壁に突き刺さる。冷気と防壁の熱が反応してベリアルの前方に大量の煙が発生した。これと全く同じ現象はつい先ほど起きたし、坑道の中で牛頭悪魔モロクと戦ったときにも起きた。

 まさにこの大量の煙こそが樹流徒の狙いだった。ベリアルが張った真紅の防壁に冷気の光をぶつけ煙幕を張る。その隙にベリアルに接近して側面ないしは背後を突く策である。およそ上策とは呼べない戦法と樹流徒は自覚しているが、正面からの攻撃を封じられている以上これくらいしか勝つ道が無い。


 ベリアルの正面に舞い上がった白煙が広がり始めると樹流徒はすぐに飛び出した。煙の中に己の姿を忍ばせてベリアルに迫る。白煙の奥を透視する特殊な目でも持っていない限りベリアルから樹流徒の姿は見えていはずである。

 ただ、逆に樹流徒のほうからも相手の姿は全く見えていない。ゆえに防壁の向こうでベリアルが不穏な笑みを浮かべていることなど、樹流徒は気付きようがなかった。もっとも、仮に気付いていたとしても彼はこの一か八かの勝負を降りることはできない。


 白煙の中から飛び出した樹流徒は音も無くベリアルの背後に回り込む。もしこちらの策を看破されたらという恐怖が、瞬間瞬間を気の遠くなるほど長く感じさせた。人が走馬灯を見るときはこのような感覚に陥るのだろうか。だとすれば縁起でもなかった。

 ベリアルの瞳は真紅の防壁をまっすぐ前を睨んでいる。背後に回り込む樹流徒の影に気付いた気配は無い。あとは樹流徒が敵の背後から忍び寄り、起死回生の一撃を見舞うだけ。狙うはベリアルの首――


 そう思われた直後だった。突然ベリアルが炎の槍を生み出しながら素早く身を翻す。口元に至上の喜びを湛え、生物とは思えない速さで腕をしならせ、手に持った槍を背後の樹流徒めがけて投擲した。

 この魔王は樹流徒の策を読んでいた。だから樹流徒が背後に回り込んでも気付いていないフリをしていたのだ。そして樹流徒が近付いたところへ一撃見舞ってやろうと、反撃のタイミングを虎視眈々と狙っていたに違いない。

 ベリアルの目論見は見事に成功した。真っ赤な閃光が樹流徒の腹部を貫く。急所こそ外れたが、樹流徒にとって問題なのは傷の深さではない。攻撃に失敗したことだった。同じ作戦は二度と使えない。ベリアルに反撃する手立てはもう何も残っていない。今回の攻撃を防いだ時点でベリアルの勝利は確定したのだった。


 ただし……それはあくまでベリアルが本当に樹流徒の攻撃を防ぎきればの話である。

 炎の槍で見事なカウンター攻撃を見舞った魔王は一瞬だけ「してやったり」という顔をした。本当に一瞬だった。勝ち誇ったベリアルの表情はすぐ驚愕に歪む。

 大きく見開かれた魔王の目の先で、炎の槍に貫かれた樹流徒の姿がまるで幻のように忽然と消えた。いや「まるで」ではなく、ベリアルが攻撃を命中させたのは樹流徒の幻だったのだ。


 幻――その正体は、魔王ベルフェゴールが使用した、自分のダミーを生み出す能力だった。その分身能力を樹流徒は使ったのである。

 煙幕を張って敵の背後に回りこむだけの奇襲戦法は多分ベリアルに通じない。確実に見破られる。樹流徒は最初からそう踏んでいた。ベリアルはこちらの策を読んでくる。ならば更にその裏をかかなければいけない、と。


 そこで樹流徒は分身能力を利用する策を思いついた。樹流徒本人ではなく、ダミーをベリアルの背後に回りこませたのである。白煙に視界を奪われていたベリアルはその動きに気付けなかった。

 本物の樹流徒は待機していた。ダミーが相手の背後に回りこんでいる最中、ずっと息を殺してベリアルの真正面で停止、敵が動くのを待っていた。

 煙に乗じて樹流徒が奇襲をしかけてくると踏んでいたベリアルは、背後に回りこんできたダミーに反応して身を翻しカウンターの一撃を見舞った。すなわち、ベリアルの正面で待ち構えている本物の樹徒徒に対して自ら背を向けた格好になる。

 樹流徒にとっては危険な賭けだった。背後に回りこませたのがダミーだとベリアルに気付かれる恐れもさることながら、ベリアルがダミーの存在に全く気付かない危険性もあったのだから。

 もしベリアルが背後のダミーに気付かなければ、後ろを振り返ることもない。攻撃能力を持たないダミーはただベリアルの背後を素通りして、樹流徒本体はベリアルの正面に停止したまま何もせずに終っていた。作戦が完全に裏目に出る結果になっていた。今回の策は、ベリアルが背後に回り込んだダミーの存在に気付き、かつそのダミーを樹流徒本体だと勘違いしてくれなければ成立しなかったのだ。


 結果として樹流徒の読みは当たった。ベリアルは振り返った。そしてダミーを攻撃した。

「首狩りめ!」

 「してやったり」という顔から一転「してやられた」という顔をして、全てのカラクリを理解したベリアルが振り返る。そのときにはもう背後から迫っていた本物の樹流徒が腕をなぎ払い爪の腹をベリアルの首に食い込ませていた。


 樹流徒の全身に輝く極小文字の赤いラインが点滅する。魔人の全身に爆発的な力が漲った。首狩りの異名に相応しい一撃がベリアルの頭部と胴体を切り離す。魔王の傷口から青い血があふれ出した。


 通常の悪魔相手ならばそれで決着はついていたが、今回の敵は並ではない。恐るべきことにマグマの海に落下したベリアルの首はまだ生きていた。そればかりか放っておいても死ぬ気配は無い。真っ赤な海面に浮かんだまま、怒りと屈辱に満ちた目でじっと樹流徒を()め上げている。


 この機を逃したら間違いなくベリアルは復活してくる。そう樹流徒は確信した。頭部を凍らされた大蛇はすでに回復しており、今すぐにでも樹流徒の背後から襲い掛かりそうな雰囲気だった。その状況からしても樹流徒はベリアルとの決着を急がなければいけない。

 手元に出現させた氷の鎌を握り締め、樹流徒は今度こそとどめの一撃をベリアルに見舞おうとする。両腕を振り上げ、肩にあらん限りの膂力(りょりょく)を込めた。ギロチンのように冷たく光る氷の刃が、すでに首を切り落とされているベリアルの頭部めがけて滑り落ちる――


「待て!」

 それをベリアルの大声が制した。途中まで振り下ろしていた樹流徒の腕がピタリと止まる。

 合わせるように大蛇も全身の動きを固めた。ベリアルの意思がそうさせたのか、いまの状況で樹流徒を攻撃すればベリアルまで巻き込んでしまうという大蛇自身の判断か。

 樹流徒にトドメの一撃を思い留まらせた魔王は、悔しそうな表情を勝気な笑みに変える。

「どうだキルト? このオレと取引をしないか?」

 などと言い出した。

「取引?」

「そうだ。この勝負を中断しろ。そうすればオマエに魔界血管を通らせてやる。安全に(・・・)な」

 窮地に立たされているにもかかわらずベリアルは命令口調だった。まるで「見逃してやる」とでも言わんばかりの言い草である。これではどちらが優位な立場にいるのか分からない。「オレはあくまで取引を持ちかけているのであって決して命乞いをしているわけではない」という魔王の底意がひしひしと感じられた。


 ただ、ベリアルの強気な態度はあながちただの虚勢とは言い切れなかった。なにしろ、仮に樹流徒がベリアルにトドメをさしたところで戦いは終わらない。魔空間の外には樹流徒に対し殺意を抱きながらもベリアルの命令で手を出せない者たちが待ち構えているからだ。ベリアルが敗れたと知れば悪魔たちは一斉に樹流徒を襲うだろう。そしてもうひとつ、大蛇の存在もある。召喚者のベリアルが死んだからといって必ずしも大蛇との戦闘が終わる保障など無い。

 だからベリアルは強気の取引を持ちかけているのだ。ベリアルの意思ないしは命令さえあれば悪魔も大蛇も樹流徒に襲い掛かることは無い。ベリアルの命を見逃せば、樹流徒はこれ以上の戦闘をせず安全に下の階層へ行けるというわけである。


 樹流徒は相手がどういう取引を持ちかけているのかすぐに理解したし、それに対する答えを考える余地は無かった。ベリアルはバベル計画の参加者ではない。樹流徒にとって復讐の対象ではなく、殺さずに済むならばそれに越したことはなかった。そもそもできることなら戦うことすらしたくない相手だ。

 魔界血管で待ち伏せしている悪魔たちに対しても同じ事が言える。たとえ彼らが自分や人間を憎んでいたり、首狩りの賞金目当てで命を狙ってくる輩だったとしても、樹流徒はできれば彼らを殺したくなかった。ベリアルの提案を断る理由がない。

「分かった。戦いはここで終わりだ」

 樹流徒は取引に応じた。手中に収まっていた氷の鎌を投げ捨てる。

「それでいい。賢明な判断だ」

 マグマの海に浮かぶベリアルの顔は、視線の高さとは裏腹に上から目線でものを言った。


 こうして戦いは幕を閉じた……かに思われた。


 ベリアルの胴体が歩き出す。多少足下がおぼつかないが、頭部を失った状態で正確に樹流徒たちの元へ近寄ってくる。その姿は不気味というほかなかったし、呆れた生命力だった。

 魔王の体は樹流徒たちの元にたどり着くと、マグマに浮かぶ頭部に手を伸ばし、黄金の髪を掴んで拾い上げた。そして頭を首の上に乗せる。

「このまま放っておけば勝手に治る」

 と、ベリアルは笑った。言ったそばからすでに首の皮が繋がり始めている。凄まじい自己修復能力に樹流徒は驚かされた。

 が、本当に驚かされたのは直後。樹流徒の視界に信じがたいものが映る。魔王の笑みが、目が、凶暴性を蘇らせてゆのだ。

「ベリアル……まさか」

 嫌な予感が確信に変わるよりも早く、魔王が炎の槍を生み出し、強烈な殺気を放った。その殺気は紛れも無く樹流徒に対して向けられたものだった。


 裏切りである。取引を持ちかけてきたベリアルが、舌の根も乾かぬうちに約束を違えた。

 ベリアルが素早く腕を引いて拳を突き出す。完全な不意打ちだった。身体的にも精神的にも樹流徒は敵の攻撃をやり過ごせる状態ではない。一驚を喫した樹流徒の横っ面にベリアルの拳が叩きつけられた。更に後方へ吹き飛んだ樹流徒めがけて真紅の閃光が走る。


 樹流徒は態勢を立て直しつつ魔法壁で攻撃を防ぎ、何とか危機を脱した。

「どういうつもりだ?」

 半ば憤り、半ば困惑して説明を求めると、ベリアルははんと鼻を鳴らす。

「甘いな。あんな取引なんぞを真に受けるような間抜けが……そんなことで命の奪い合いに勝てると思っているのか?」

 悪びれる様子も無く言い放った。かといって居直っている風でもない。この魔王は相手を騙すことが何でもない行為だと思っているのかもしれない。だとすれば樹流徒にとってかなり相性の悪い相手である。


 ――なあ。オマエのために忠告しといてやるよ。甘さを捨てろ。そうしねェといずれ命を落とすぞ。

 前にメイジから言われた言葉が樹流徒の脳裏を駆けた。まさに今の状況を予期していたかのような忠告だったが、今更思い出してもどうにもならない。


 甘い。確かにそうかもしれなかった。樹流徒はモロクとの戦いでも最後に裏切られて不意打ち攻撃を仕掛けられた。悪魔の中にもそういうことをしてくる者がいると知っていたのだ。ベリアルも裏切るかも知れない、と樹流徒は想像できなくもなかった。それでも相手の言葉を信じた彼は、ベリアルから見れば甘いのだろう。

「勝者ってのは常に非情だ。それとも現世では違うのか?」

 勝ち誇った笑みを浮かべてベリアルは樹流徒に近付く。

 絶体絶命の窮地に樹流徒は立たされた。煙幕と分身能力を利用した攻撃はもう二度と通用しない。ベリアルを倒す手段はもう残っていない。


 絶望と恐怖で、ただでさえ常人よりも青ずんだ魔人の皮膚が一層青ざめる。最早樹流徒の中にあるのは玉砕の覚悟のみだった。敵を倒すことも、逃げられもしれないこの状況。万に一ひとつもない勝ち目を抱いて突っ込む以外、出来ることはない。

 しばらく大人しくしていた炎の大蛇が、樹流徒の背後で蠢き始める。最後の攻撃を急かすように、これ以上絶望することも覚悟を固めることも許さぬように、じりじりと樹流徒に迫る。


 万に一つの勝ち目は無くても、億に一つの勝ち目はあるかもしれない。そんな実質存在しない可能性を信じて樹流徒は最後の攻撃を仕掛けるべく身構えた。もう後先のことは考えられない。考えれば己の死がちらついて絶望で指先一本まで動かせなくなる。樹流徒は顎が砕けそうなほど奥歯を噛み、ほとばしる雷の如き眼光で敵を睨んだ。


 が、妙なことが起こる。覚悟を決めて悲壮な争気を纏った樹流徒とは対照的に、ベリアルが全身に(みなぎ)らせていた殺気を急に鎮めたのである。

「もういい。やめだ。やめ」

 一方的にそう言って、魔王は手に持っていた炎の槍を消した。それだけではない。ベリアルがいっぱいに開いた掌を頭上に手をかざすと、その動きに反応して空間の床を満たしていたマグマの海が沈み始めた。赤く燃えるドロドロした水がスポンジに吸われる如き早さで地面に溶け跡形も無く消えてしまう。

 樹流徒の背後でも変化が起こった。大蛇が背中を丸めて顔と尻尾をくっつけて輪を描く。全身に激しい炎を纏って忽ち巨大な炎の輪へと姿を変えたかと思えば、こちらも跡形も無く姿を消した。


「どういうつもりだ?」

 樹流徒は怪訝な顔をした。約束を破ったかと思えば今度は勝手に戦いを止めたベリアルの意図がまるで汲めない。二転三転する魔王の態度に困惑の色を隠せなかった。今、ベリアルはほぼ確実に勝利を掴んでいる。戦いを止める理由が樹流徒には分からなかった。

 その疑問にベリアルはさもどうでもよさげに答える。

「こんな勝ちかたをしても面白くもなんともない。だからやめだ」

 そう答えてから、間髪入れずベリアルは樹流徒に向かって指を突きつけた。

「だが忘れるなよ。例えどんな手を使おうと最後まで生き残ったヤツが勝ちなんだ。オレはこうして生きている。だからオレは決してオマエには負けてねえ。あのときオレにトドメを刺さなかったお前が甘かったんだ」

 樹流徒に反論を許さない剣幕で吼えた。恐ろしくプライドが高くて負けず嫌いな悪魔だ。樹流徒も負けず嫌いな一面は持っているがベリアルほどではなかった。

 樹流徒の口から微かに震える吐息が漏れる。命拾いしたことによる安堵の吐息か、それともベリアルの卑怯な手口に対して容易に余憤が収まらず漏れた嘆息か。それは樹流徒自身にもよく分からなかった。

 ひとつ確かなことがあるとすれば、結果論に過ぎないとはいえ樹流徒は相手を殺さずに自分もキッチリ生き残った事実のみだった。過程はどうあれ、樹流徒にとって理想的な形で決着がついたのである。


「喜べ。さっきの取引に応じてやるよ。安全に下の階層へ行かせてやる」

 ベリアルは邪悪かつ陽気な笑みを浮かる。ついさっきまで殺気を放っていた魔王とはまるで別人だ。

 樹流徒は冗談でも喜べなかった。

「俺を先へ進ませてもいいのか?」

 と尋ねる。ベリアルはベルゼブブから樹流徒を足止めするように頼まれている。その依頼を勝手に破棄しても良いのか? という素朴な疑問を相手に投げかける。

「いいんだよ。約束なんてモンは破るためにあるんだ」

 この上なく悪徳な台詞がベリアルから返ってきた。

 同意しかねる言葉だったが樹流徒は口を結んだ。先へ進ませてくれるというのだから苦言を返す気にまではなれなかった。


 樹流徒たちを囲う黒い壁が色を失い、空間の輪郭を描く線がぼんやりとして段々と消えてゆく。ベリアルの魔空間が崩壊して、辺りが元の景色を取り戻した。

 勝負の結末を見届けようと集まっていたのだろう。樹流徒たちの周囲には未だ数百の悪魔たちが待機していた。彼らは一斉にどよめく。

 ――魔空間が消えた。戦いが終わったぞ。

 ――見ろ。両方とも生きてるぞ。

 ――どういうことだ?

 騒々しい声はすぐに疑問の波と化して広がってゆく。

「オマエら黙れ。そしてさっさと道を開けろ。これから首狩りを下の階層に行かせる。手を出したヤツは殺す。魔界血管にいる連中にもそう伝えておけ」

 ドスの利いた声でベリアルが叫ぶと、大半の悪魔たちは不満顔や不審顔でざわめいたが、やがて口を閉ざし、命じられたまま樹流徒に魔界血管への通り道を開く。ある悪魔は樹流徒への攻撃禁止令を魔界血管内の者たちに伝えるために階段を駆け上り、宙に浮かぶ巨大なリングを通り抜けて行った。


 ベリアルは身を屈めて樹流徒の耳元でこう囁く。

「さっきはオマエに甘いなんて言ったが、こうしてオマエを生かして先へ進ませてやるオレも十分甘いのかもしれないな」

 冗談のつもりで言ったのか、本気なのか、樹流徒は微苦笑を返すしかできなかった。

「ホレ。さっさと行けよ」

 ベリアルは大きな掌で樹流徒の背中を叩く。

「ああ……そうだな」

 相手の腕の力に押し出されて樹流徒は魔界血管に向かって歩き出した。殺気を放つ悪魔たちの間を通り抜けてゆく。

 にやにやと薄い笑みを浮かべて、ベリアルは遠ざかる樹流徒の背中をジッと見ていた。


 赤い光の渦の向こうに樹流徒の姿が消えたあとも、少しのあいだベリアルはその場でじっとしていた。笑みを浮かべていた顔はすっかり気だるそうになっていたが、目には力強い憎悪の炎がくすぶっている。

 戦闘が終わり、ベリアルが樹流徒への攻撃禁止令を出したため、悪魔たちがこの空間に留まる理由はなくなった。今まで停滞していた異形の波は各々の目的地に向かってぞろぞろと流れ始める。


 悪魔たちの数が落ち着き始めた頃、思い出したようにベリアルの形相が激しく変化した。気だるそうに弛んでいた頬の筋肉が凝固し、憤怒地獄の魔王に相応しい顔つきになった。

 ベリアルはズンズンと足音を鳴らして壁際まで歩み寄り、震える息を吐く。呼吸が段々と荒くなり、うむむと低い唸りを上げて、肩を震わせる。そして抑えきれなくなった怒りが爆発した。

「このオレがニンゲンに……。畜生!」

 激しい怒号と共に魔王は拳を振るう。壁面に埋め込まれた鉱石を殴りつけバラバラに砕いた。

 付近に居合わせた悪魔たちがびっくりした様子でそちらを見る。

 周りの目などお構い無しに、ベリアルは何度も何度も拳を振るった。怒りを壁に叩きつける。

「今日の屈辱は忘れねえ。絶対忘れねェからな、首狩りキルト!」

 猛る雄叫びが地下を飛び出して火口まで届きそうだった。ついさっき樹流徒に対して「自分は負けていない」と豪語したベリアルだが、本心は違うらしい。魔王の咆哮はしばらくのあいだ周囲の悪魔たちを怯えさせた。




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