炎蛇
もしあの真っ赤な海に落下すれば即死。
眼下で踊るマグマが嫌でも目に入って、樹流徒はプレッシャーを感じた。相手がベリアルほど強大な悪魔であればこそのプレッシャーと言える。ただでさえ苦戦を強いられている相手に地上戦を封じられた状態で立ち向かわなければいけないのだ。天井知らずの緊張感が全身を駆け巡った。
心の中で「落ち着け、落ち着け」と繰り返し唱えて己を冷静に戻そうと試みるが、それによって本当に人の心が落ち着く例を樹流徒は知らない。むしろ鼓動は速くなる一方だった。
「まさか臆病風に吹かれたわけじゃないだろうな? もし興ざめするような戦いでもしてみろ。そのときはオマエを楽に死なせないからな」
樹流徒の心音を確かめたような台詞を吐いて、ベリアルは周囲に四つの特大火炎砲が発生させる。
炎の玉はバラバラの方向へ飛んで樹流徒を包囲した。はじめから直撃狙いは捨て、破裂させた炎を確実に当てようという算段なのだろう。対戦相手の樹流徒からしてみればこれ以上無く嫌な攻撃法だった。
特大火炎砲が爆発して周囲に炎の雨を降らせる。戦場ほぼ全てを埋め尽くすほどの攻撃である。避けようがなかった。
樹流徒は炎の破片を浴びながら戦場の隅まで逃れる。魔空間の壁面を蹴りつけて足下に光を発生させた。床ではなく壁を利用してオセの能力を使ったのである。
壁面に発生した光を樹流徒が踏むと、ベリアルの足下から先の尖った岩が飛び出した。しかしこの能力は戦車を破壊するため二度もベリアルに見られている。既に奇襲攻撃としての性能は失われていた。
軽く後方へ跳躍して、ベリアルはいとも簡単に岩の先端を回避する。オセの能力は二度と命中しないと考えたほうが良いだろう。他にこれといって有効な攻撃法方が無い樹流徒にはまたひとつ痛い展開だった。
もっとも、樹流徒が本当に辛い戦いを強いられるのはこれからだった。
ベリアルの背後に浮かんでいた炎の時計が針を一周させたとき、遂にその効果を発揮したからだ。
時計の中から忽然と針が消えてなくなる。それにより時計はただの輪になった。炎の輪はベリアルの背中を離れ、遥か頭上まで浮かび上がったところでピタリと停止する。
輪が大きく広がり、その内側に漆黒の空間が生まれた。ほとんど間をおかず闇の奥から低い唸り声が響いてくる。炎の輪を通過して何かが現れようとしているようだ。
果たして鬼が出るか蛇が出るか。どちらにせよそれをみすみす見逃す必要はなかった。敵が姿を現す前に、樹流徒は輪の中心を狙って氷の矢を放つ。
「そんなことをしても無意味だ」
ベリアルは平然と樹流徒の攻撃を見送った。
六本の矢が次々と闇の奥を突く。返ってきたのは断末魔の叫びではなく、怒声とも取れる凶暴な鳴き声だった。
樹流徒の先制攻撃も虚しく、凶暴な声の主が炎の輪を通り抜けて姿を現す。
それは褐色の竜だった。全身のバランスは長細く竜と言うよりむしろ“羽の生えた蛇”と呼んだ方が良いかもしれない。鬼が出るか蛇が出るか、の答えは後者だった。しかもとびきり大物の蛇。
竜もとい羽の生えた大蛇は全身の鱗から炎を燃え上がらせていた。頭上で揺れる炎が消えたかと思えば、背中から新たな炎が起きる。羽の先端でくすぶっていた炎が消えれば、代わりに尾が赤く染まる。その様子は、間断なく火柱を上げる炎海の海面と非常に良く似ていた。
炎を纏う大蛇は口をいっぱいに広げる。その奥に待ち受ける闇は人間を軽く丸呑みにできる大きさがあった。
想像を超えた怪物の出現に、樹流徒は一瞬だけ蛇に睨まれたカエルの状態になる。
彼を我に返らせたのはベリアルの殺気だった。不意を突いて魔王が放った炎の槍を樹流徒はとっさに回避する。
その動きを追って褐色の大蛇が飛び出した。前方の空気を押し潰すような力強さと速さで樹流徒に迫る。開きっぱなしの大きな口はまさに死の入り口だった。その深さを見るに、飲み込まれれば脱出は叶わないと断言できる。
樹流徒は大蛇の口内めがけて電撃を放ちながら宙を滑って横に逃れた。
青い雷を飲み込みながら大蛇は構わず突っ込む。樹流徒を食い損ねると勢い余って頭から壁に追突した。衝撃で肌を刺激するほどの大音が発生し、樹流徒の耳朶を打った。
その残響が消えるよりも早く大蛇が振り返る。口の中に放り込まれた電撃の影響も壁に激突した痛みもまるで感じていないようだ。褐色の鱗の中で輝く紺碧の瞳はすでに樹流徒の動きを追っていた。
樹流徒は大蛇の動きに注意を払いつつ、ベリアルへの対応もなおざりにはできない。魔王に隙を見せれば忽ち死に直結する。大蛇とベリアル双方の動きに常に気をつけなければいけなかった。
樹流徒が別々の敵に注意力を裂かねばならないこの状況を突いて、ベリアルが新しい動きを見せる。右手を左肩にくっけるように引くと、その手を素早く横に振り払った。
払われた手から切れ味良さそうな三日月状の赤い光が飛び出す。光はさながらフリスビーかブーメランのように高速回転しながら宙を疾走した。直線的ではなくやや弧を描く軌道で飛ぶのである。それは大蛇から距離を置くため動き出そうとした樹流徒の眼前を通り過ぎて行った。
ベリアルの攻撃に退路を防がれた樹流徒は反射的に動きを止める。そこを大蛇の尻尾が襲った。ビルにも劣らぬ太い体が上下に揺れながら高速で突っ込んでくる。
回避できない。そう直感的に判断した樹流徒は急いで魔法壁を張った。更には壁の内側でガードを固める。魔法壁を破壊された場合に備えての防御だた。その事態を樹流徒に覚悟させるほどの迫力が大蛇の攻撃にはある。
大蛇が放った尻尾の一振りは、ただの見掛け倒しではなかった。恐るべき衝撃が魔法壁を粉砕して中にいる樹流徒を弾き飛ばす。
樹流徒は背中から壁面に叩きつけられた。魔法壁で衝撃を和らげていなければ全身の骨が砕けていたかもしれない。ただし、そんな想像をしてゾッとする暇は樹流徒に与えられなかった。追加ダメージを狙ってベリアルが炎の槍を投擲してきたのだ。
樹流徒は真上に逃れて赤い閃光を避ける。まだ安心できない。今度は大蛇の頭部が真正面から突っ込んでくる。
ベリアルと大蛇の息の合った波状攻撃を前に樹流徒は逃げ回るしか無かった。折角戦車を破壊して二対一の数的不利な構図を破ったというのに、大蛇の出現により元に戻ってしまった。いや、元より厳しい状況に追い込まれた。戦車よりも大蛇のほうが遥かに手強い。これでは反撃もままならなかった。
次、樹流徒の元にようやく逆襲の機会が訪れたのは、偶然にも樹流徒とベリアルの中間に大蛇が位置していたとき。そのときベリアルは炎の槍を構えていたが、そのまま樹流徒を狙って投擲したら大蛇を誤射してしまう。ベリアルは攻撃を中断した。
期せずして生まれた敵の隙を樹流徒は見逃さない。彼は周囲に3つの青白い光を浮かべる。それぞれの光は出現するなりすぐに膨張し輝きを増した。
あらゆるものを凍りつかせる光の柱が3本連なって大蛇を襲う。光に飲み込まれた大蛇の顔が分厚い氷に覆われた。
これには多少焦ったか、大蛇は全身を暴れされた。体を壁に打ちつけたあと頭からマグマの海に突っ込む。
その光景をベリアルは鷹揚な態度で静観していた。頭部を凍らされたくらいで大蛇は死なないと考えているのか。でなければ大蛇の安否などどちらでも良いと思っているのだろう。ベリアルが狼狽すればその隙を突こうと樹流徒は考えていたが、ただの胸算用に終った。
氷を溶かしたマグマの海から大量の白煙が上がる。その発生源である大蛇の頭部が海面からぬっと姿を現した。何かしらダメージを負っている様子は無い。
ベリアル一体だけでも相手にするのは苦しいというのに、大蛇も下手をすればベリアルに匹敵するほど厄介な敵だった。最悪の展開に樹流徒はいよいよ追い詰められた気分になるが、まだ微かな希望は残していた。
唯一この状況を何とかする方法があるとすれば、先にベリアルを仕留めることだろう。ベリアルを倒せば魔空間が消えるし、マグマの海も消えるはずだ。それに、もし大蛇を召喚したベリアルがいなくなれば、大蛇も一緒に消えるかもしれない。無論憶測でしかないが、その可能性にすがるしかなかった。
樹流徒はすぐに意を決した。大蛇は後回しにする。まずはベリアルを先に倒す。
ベリアルは攻守ともに強力な能力を持っている。そんな相手を、大蛇の攻撃をやり過ごしながら倒すのは容易ではない。
ただ、幸いにも樹流徒はすでにベリアル攻略の手段をたった一つだけ思い付いていた。あとはそれをやれるかどうか。チャンスは一度きり。目論見が外れればベリアルを仕留めるどころか、逆にこちらの命が危うくなる博打である。
こういう一か八かの勝負を樹流徒は今までに何度か経験しているが、決して慣れるものではなかった。慣れるどころか、敵が強ければ強いほど実行するのが恐ろしくなる。魔王ベルフェゴールとの戦いでも樹流徒は結果的に賭けに勝ったが、代償として瀕死の重傷を負ってしまった。そのあと命を落としてもおかしく無い状況だったのだ。運が悪ければ間違いなく死んでいた。
そんな生死を賭けた博打をまたやろうというのだから、樹流徒は綱渡りどころか目に見えないほど細いワイヤーの上を歩く心地だった。
ベリアルの特大火炎砲が空中で爆ぜる。火の破片が樹流徒の体に降り注ぎ彼の皮膚を焼いた。即死に至るダメージではないが、いつまでも耐えられるものでもなかった。
防御を固めた樹流徒めがけて大蛇が口を広げる。喉の奥がカッと光った。それを見て、ほとんど反射的に樹流徒は動く。死に物狂いになって急上昇した。
大蛇の口内から赤い光の柱が発射される。この世の何もかも全てを焼き尽くすような閃光が魔空間の壁さえも破壊しかねない勢いで樹流徒を襲った。
機敏な反応で回避を始めていた樹流徒は、大蛇が遠距離攻撃を持っているとは知らず多少不意を突かれたものの何とか被弾を免れた。
相手が単体ならばここで一息つけたのだろう。ただ、大蛇の攻撃を回避し終えたときにはもう樹流徒は別の方向から飛来するもうひとつの閃光に対応しなければいけなかった。ベリアルが投じた炎の槍である。
槍の速さに多少は目が慣れたのか、樹流徒は落ち着いて横に滑る。逃れた先に大蛇の頭が突っ込んできたので、直前までいた位置に引き返して回避した。
大蛇とベリアルの連携攻撃が絶え間なく樹流徒を襲う。その隙を縫って反撃に出るのは難しい。言い換えれば、このあと樹流徒がベリアルに攻撃を仕掛けられる回数は限られているのだった。そう考えるとベリアルという敵は樹流徒が一発勝負を仕掛けるにはある意味うってつけの相手かもしれない。
ベリアルの周囲に発生した四つの巨大な炎の玉が飛び出して樹流徒を包囲する。ベリアルの魔空間はそれほど広くない。ゆえに特大火炎砲とは相性が良かった。広範囲に飛び散る炎の欠片は空間中を満たし獲物を確実に捉える。
降り注ぐ炎の雨の中を樹流徒は飛び回った。体のあちこちに攻撃を浴びる。身に纏っているローブはすでにボロボロで使い物にならなくなっていた。それでも決して動きを止めない。止まれば忽ち大蛇から攻撃の的にされてしまうからだ。
やっと炎の破片が消えたかと思えば、すぐさま大蛇の尻尾が襲ってくる。
樹流徒は思い切り高度を下げて危うくマグマの海に接触しそうな高さを滑空した。それによりかろうじて大蛇の尻尾の下をかいくぐる。そのときベリアルが放った三日月状の光が背後から迫ってきたので、今度は急上昇してやり過ごした。
防戦一方の苦しい展開だが、耐え続ければきっと反撃の機会は巡ってくるはずだ。その数少ないチャンスを絶対モノにしてみせる。
絶望に抗いながら勝利を信じる樹流徒は、苦しげな表情をしながらも両目の内には強い光を灯し続けていた。
その光に警戒心を刺激されたのか
「良い面構えだ。勝負を捨ててないヤツの目……。首狩りめ。さては何か狙っているな?」
ベリアルは、樹流徒が一か八かの賭けに出ようとしている気配を感じ取っていた。
魔王と大蛇の息の合った連続攻撃は続く。樹流徒はひたすら耐えて反撃のチャンスを信じて待つ。苦しくなればなるほど、体が傷付けば傷付くほど、命を賭ける覚悟が固まっていった。足下を支える見えないワイヤーが一筋の光明に変わってゆくような感覚だった。
ただ、恐るべきはその小さな光すらも飲み込む魔王の力である。しぶとく逃げ回る樹流徒に対し若干の苛立ちを覚えたのか、それとも樹流徒が勝負に出る前にこちから仕掛けてやろうと考えたのか、ベリアルが動く。
この魔王はまだほかにも能力を隠し持っていた。全身からまばゆい強烈な光を放ち空間の隅々までを白一色で覆い尽くしたのだ。